その日まで 6
その夜、自宅のマンションへ帰った愛は、シャワーを浴びて、シャツと短パンに着替えたあと、軽い食事をとって、ベッドへ入った。
真新しい板目調の天井を眺めながら、何を考えるでもなく、横になっていた。身体はたっぷりと疲れている。それが自覚できるぐらいに、全身が重たい。頭のてっぺんから爪の先まで、ベッドの中へ沈んでいきそうである。だが、意識は冴え冴えとしていた。
――ストレッチしないとな……
毎夜自分に課しているトレーニングだが、普段はどれだけ疲れていようと苦にもならないのに、今夜はどうにも億劫である。
やる気がでない原因はわかっている。意識を切り替えなくてはと思いつつも、体に力が入らない。
――駄目だな。
愛は自分の気持ちを持て余すように寝返りを打った。
不意に、かすかな物音が耳をかすめた。
最初は気にしなかったが、少したって、それが携帯のメール音だと気がついた。音は聞こえなくなったが、渋る体に鞭を打って起きあがると、リビングへ向かう。テーブルに置きっぱなしだった青いメタリックの携帯は、赤く光り、メールの受信を知らせてくれていた。
送ってきたのは亜梨沙だった。
愛はリビングを出ながら、やったね! との題名のメール文を読む。今日の試合に途中出場したことを家族みんなで喜んでいる様子が、小さな携帯画面いっぱいに書かれていた。
お兄ちゃん、これからだよ!
次は、ゼッタイゴールできるよ!
握りこぶしをつくって、フレーフレーと熱く応援する妹の姿が浮かんでくる。
「……ゴールか……」
画面から溢れ出るくらいに喜んでいるメールとは対照的に、愛は自嘲気味に呟いた。ゴールはどこにあるんだろうな、亜梨沙。そのゴールポストが全く見えないんだ、俺は――
静かに携帯を閉じると、リビングの隅に置いてあるパソコンに向かった。せっかくなので、パソコンのメールも見ることにした。
デスクの前に座り、電源を押して起動させた。パスワードを打ち、画面を表示させる。ネットを接続し、電子メールをクリックした。受信メールが何十通もある。ここしばらく放置していたので、愛はうんざりしながらも、一つ一つ開いていった。その殆どが迷惑メールかどうでもいいメールだったが、マウスを機械的に動かしていった愛の手が、ある一通で止まった。
送信者‐Rain‐。
「……レイン?」
愛の脳裏に、誰よりも早く自分に手を差し伸べてくれた明るく元気な若者が、息を吹き返す。
日付は一ヶ月前である。そういえばパソコンのメールアドレスを交換していたんだと気がついて、急いで開いた。英文で、Dear Aiから始まっていた。
久しぶりだね!
そっちは元気!? 俺は、髪の色さえ決まれば元気だよ!
日本はどう? やっぱり自分の国が一番かな? でも、イングランドも思ったよりは悪くなかっただろう? 天気とうちのクラブ以外はさ。
アイは元のクラブに戻ったんだよね。確か、yokohamaだったかな? 間違っていたら、正しく教えてくれ。イングランドじゃ、日本のリーグの試合は中継してくれないけれど、アイが活躍しているのは、髪の色が決まらない俺にもわかるよ。
アイは最高のストライカーだ。
あの試合で決めたシュートは、ナンバーワンだったと、今でも俺は思っている。
「……」
愛は信じられないように、そのメールを読む。レイン・クロールは名門サッカークラブ「ノーザンプールFC」の下部組織出身で、プレミアリーグとイングランドを代表する若きストライカーである。世界的にも名の知れたワールドプレイヤーで、愛とはほぼ同い年だ。ノーザンプールにいた頃は、そのオープンで素直な性格に随分と助けられた。不本意な形でクラブを去ることになっても、自分を忘れずにいてくれたのが、すごく嬉しかった。
うちのクラブは相変わらずだよ。ゲイリーのおっさんはうるさくて、ギルは皮肉ばっかり言っている。毎日、よく続くよ。ギルのサイド突破するドリブルより凄いよ。
そうだ、ヴィクが……
その名前に、愛は一瞬固まった。マウスを掴む手が、妙に汗ばむ。
……ヴィクが、アイのことを心配していたよ。元気だろうかって。
うちのクラブを出て行った選手はたくさんいるけれど、あのヴィクが個人的に心配するなんて、初めて見た。お前は保護者かって、ゲイリーのおっさんが笑っていたけれど、きっとヴィクはアイに会いたいんだ。アイはヴィクにすごいインパクトを与えたんだよ。
アイが素晴らしい選手であることを、ヴィクはわかっているんだ。もちろん、俺も同じだよ。
アイは、それを誇って欲しい。
迷う時があっても、自分を信じるんだ。
自分を信じて、前へ進むんだ。
俺のことも、ちょっと忘れないでいてくれると嬉しいな。
また、メールするよ!
その時も元気だと、俺も幸せだね。
最後に綴られていた言葉は、また会おう、だった。
愛はしばらくその英語のメール文から目を離さなかった。噛み締めるように、何度も何度も繰り返し読む。
「……自分を信じるんだ……」
その一文をゆっくりと口に出して読んだ。
「……前へ、進むんだ……」
まるでレインが自分のしょげ返った肩を叩いてくれているような気がする。
気持ちが、ひどく熱くなった。
愛はパソコンチェアーから勢いよく立ちあがった。デスクと反対側に置いてあるテレビへ向かい、ビデオデッキを操作する。中に入ったままのビデオテープを再生させ、テレビをつけた。
画面に満員のサッカースタジアムが映った。赤いユニフォームを着て大熱唱するサポーターの声が、ブラウン管から飛び出てくる。
数日前に録画したプレミアリーグの試合である。ノーザンプール対ユーズで、途中まで見ていた。
愛は画面の前に座り込んで、続きを見る。
試合は後半戦で、〇対〇である。ピッチでは、白熱した攻防が展開されている。
ノーザンプールの選手が相手ゴールに迫っている。イングランドが誇るエースストライカー、ゲイリー・エドワーズだ。
そのゲイリーが相手ディフェンダーに倒された。審判がファウルをとる。ノーザンプールへフリーキックを与えた。
位置は、相手ペナルティエリア前である。スタジアムが期待にわき立つ中で、審判の指定した場所に立ったのは、黒髪の男性である。
ノーザンプールの司令官、ヴィクトール・ヴュレルだ。
愛は食い入るように見つめる。ゴール前で、ユーズの選手たちが壁をつくる。ヴィクトールはそれを落ち着き払った様子で眺めている。
審判がホイッスルを鳴らした。
カメラはヴィクトールの姿をクローズアップする。
ヴィクトールは冷徹にゴールだけを見据えていた。その表情には微塵の恐れもない。
強靭な肉体が、躍動する。
ボールは弾丸のような速さで飛んでゆく。
壁となった選手たちが行く手を阻もうとしたが、まるで承知しているというかのように、間をすりぬけてゆく。最後の砦であるキーパーが右に飛んだ。だが、ボールはゆるやかに下降し、右下の隅へと突き刺さった。
スタジアムが、歓喜で爆発する。
一点をあげたヴィクトールは、まるで入って当然のように平然としていた。その冷静な得点者に真っ先に抱きついたのは、レインだ。プラチナブロンドの髪で、笑顔全開で喜んでいる。ゲイリーもきた。キャプテンのアンディ・エヴァレットやニース・スターン、ギルフォード・レイリーもいる。
愛は画面に映るその顔ぶれに懐かしさを覚えた。数ヶ月前までは、自分もチーム一人として彼らとそこにいた。けれど、今は録画したビデオの前で座って見ている。
「……元気そうだな、レイン」
飛び跳ねているレインに、愛は安心したように笑う。
カメラがまた、センターサークルへ戻るヴィクトールを映した。
愛は無意識にその姿を目で追った。ノーザンプールへ移籍する前は、雑誌かテレビでしか見ることができなかった比類なきトッププレイヤー。いつかは一緒に試合に出られたらと願い、そのパスを受けてゴールを決めたいと思った憧れの選手。
――君を待っている。
揺るぎない声が、今でも鮮明に甦る。
――私は、ずっと待っている。このクラブで、再び君と共に闘える日がくることを。
愛は何かが溢れ出すのを堪えるように、画面をじっと凝視する。
――俺も、あなたに聞きたいことがあるんです。
ピッチでは、颯爽とボールを奪うと、華麗にドリブルをしてゆく。
――どうして、あなたは俺にキスをしたんですか。
あの停電した夜、触れられた唇は、ずっと答えを求めている。
「……ヴィクトールさん」
だが、聞こえてくるのはサポーターの歓声だけだ。
愛はビデオを消さずに、その場を離れた。ドアは開けっぱなしにして、寝室へ戻る。そこで床に腰を下ろし、両足開くと、ストレッチを始めた。
――落ち込んでいる暇なんてないんだ。
リビングからは、試合の音だけが聞こえる。
愛は息を吐きながら、体をぎりぎりまで前に倒し、起きあがる。それを繰り返し続ける。
――もう一度、あのピッチに立つんだ。
そして、約束を果たすんだ。
愛は深呼吸をして、今度は床に伸ばした足へ向けて、上半身を倒す。
それまでは、答えを望んではいけないと思った。
翌日、クラブの練習は休みだったが、愛は練習場に姿を見せた。クラブハウスでコーチたちと談笑した後、グラウンドを軽くランニングする。
その姿からは、迷いが吹っ切れていた。
愛は、前だけを見つめていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます