空の瞳に映る影

「狂気の沙汰だ!」


 噛みつくようにビセンテ・フェルナンデスは叫んだ。クライアントの自宅を訪ねて、まだ十分も経過してはいない。その前には、名門サッカークラブ「レアル・エル・ブランコ」の会長との会談を終えていた。クラブのゲートを愛車のアウディで出て行く頃には、あらゆる手段を講じても、自分の雇い主の決断を覆そうと決意していた


「今がどういう状況かわかっているのか!」

「お前よりはわかっている」


 ガブリエル・グレンデスは鬱陶しそうに応じた。手に取った下着や着替えを、海外遠征へ向かう際にいつも使っているスーツケースに仕舞う。


「わかっていないのは君だ!」


 ビセンテは息荒く言い返した。


「いいか、君が所属しているレアル・エル・ブランコは、リーグ戦の真っ只中だ。永遠なる敵カタルーニャとデッドヒートを繰り広げている。チャンピオンズリーグもグループリーグが始まった。つまり、君はまだ地球の反対側まで旅行できるほど暇ではないということだ。本当にわかっているのなら、自分の決断を今すぐ修正すべきだ」

「その必要ない」


 ガブリエルは最後に本を入れた。スペイン語で書かれた現代小説「アルゼンティーナ」である。生まれ育った故郷の光と影が、鮮明に痛烈に描かれている。


「修正する必要はない。私はアルゼンチン人だ。その代表チームに召集されて、断る理由はない」


 本のタイトルを指の先で触れた。ざらついていた。


「断れとは言ってはいない。修正しろと言っているんだ。今度の親善試合は、君が行くまでもない相手だ」


 ビセンテは言葉を切った。ガブリエルがスーツケースを閉じて、こちらを振り返った。国民からセレステ空の色と呼ばれる瞳が、冷ややかさに見返していた。


「お前はもう忘れているだろうが、国の代表選手に選ばれることは、何よりも名誉なことだ。それは誰が相手であろうと変わりはない」


 ビセンテもやり返した


「忘れてはいない。なぜなら私もアルゼンチン人だからだ。そして、君と同じくサッカー選手で、ワールドカップで闘ったこともあるからだ。私の経歴を侮辱するのはやめてもらおう」

「そこまで思い出したのなら、もう言うことはないはずだ」


 ガブリエルは口の応酬に終止符を打った。それは自分の決断を曲げないという意思表示でもあった。

 ビセンテは盛大なため息と一緒に、苛立たしそうに大きく両手を振り下ろした。


「いいか。今回の召集を、ヨーロッパの連中が何て言っているのか知っているか? 新聞には理不尽な召集と書いているんだ! 今度の親善試合の目的は金だと、はっきりと書いているんだぞ! 私だってそう思う! そうでなければ、あんな小学生がするサッカーチーム相手に、ヨーロッパで活躍している我がアルゼンチンの選手たちが、何時間ものフライトをかけて向かわなければならない理由はない。いいか、協会は資金が欲しいんだ! そのために親善試合をするんだ! それに君がつき合う義理はないと言っているんだ!」

「――私も、お前の間違いを修正しよう」


 ガブリエルは自分の代理人の口が閉じるのを待って、低く反論した。


「まず日本は、小学生がするサッカーチームではない」


 その抑制された声音に、ビセンテはガブリエルが怒りを押し殺しているのだとわかった。


「そして、アルゼンチンサッカー協会は、資金のために親善試合は組まない。シーズンオフに興行遠征するヨーロッパのサッカークラブとは違う」

「……それは、クラブの会長の前では言うんじゃないぞ」


 ビセンテは渇いた唇を舐めた。どうも説得は失敗に終わったようだと察した。だが、世界でもトップクラスの選手であるガブリエル・グレンデスの代理人として、すごすごと尻尾を丸めて立ち去るわけにはいかなかった。


「アギレーラ会長は反対している」


 正攻法でいくことにした。


「ディアス監督もだ。君とピエール・ブリアンのツートップで、チームは試合に勝っているんだ。今期、カタルーニャを下してリーグ制覇できる可能性は高い。クラブのサポーターもそう思っている。それなのに、地球の裏側まで行って、コンディションを崩したらどうするんだ? リーグの得点王争いでも、君がトップを走っているんだぞ? 私は君のエージェントとしても、友人としても、心から心配しているんだ。そこをわかって欲しい」

「コンディションは崩さない。私はプロのサッカー選手だ」


 ガブリエルはビセンテの想いを打ち砕くように、続けて言った。


「プロのサッカー選手で、祖国アルゼンチンを代表するエースストライカーだ。その誇りと名誉をまだ譲るつもりはない」

「……」


 ビセンテはまた唇を舐めた。渇いているのは、もうどうにもならないと悟った。





 赤ワイン色のアウディが自宅のガレージから出て行ったのを見届けて、ガブリエルは格子状の窓を離れた。

 ビセンテとは、自分がアルゼンチン一部リーグであるプリメーラ・ディビシオンで試合に出場していた頃からの長いつき合いである。とても面倒見のいい男で、他のアルゼンチン選手の代理人もやっている。サッカー選手にとって代理人はとても重要な存在で、特に自分たちのように海外から移籍してきた者にとっては、クラブとの交渉やマスコミ対応その他で、代理人にやってもらわなければならないことがたくさんある。ビセンテの美点は誠実なことだ。間違っても、選手の知らないところで悪知恵を働かす権力者ではない。

 その選手思いのビセンテを敢えて失望させても、ガブリエルは自分の意思を貫く決意をしていた。

 白いソファーと透明なテーブルの間を横切り、棚にある電話の受話器を取った。強烈な太陽の光がふりそそぐスペインの昼下がりは、いつもシェスタをしている。十代の頃に首都マドリードへやってきて、スペイン随一の名門クラブ「レアル・エル・ブランコ」に入団して以降、自然と習慣になったものだ。試合のある日など、シェスタをしないとプレーに影響がでる。しかし今は、それよりも大切な用件があった。

 ガブリエルは番号を押した。ビセンテが来なければ、電話をかける予定だったのである。二週間後に行われるアルゼンチンと日本との親善試合に、代表選手として日本へ行くことが決定してから、ずっと頭から離れなかった。それは、自分の枯れた心を深く熱くした。そして、心を決めた。

 コールに耳を傾けながら、相手との時差を考えた。携帯の番号を押したので、自宅の電話番号が表示されるだろう。相手には悪いが、急いでいた。自分からだと分かれば取ってくれるに違いないと思いながら、待った。

 ちょっとの間、単調な曲が耳元で鳴っていたが、カチッという音のあとで、眠たそうな男の声が聞こえてきた。


『……ああ、質問だが、そちらは太陽の光をたっぷりと浴びているのかね?』


 ガブリエルは、相手が出てくれたことに小さく安堵した。


「ええ、これからシェスタをしようと思っています」

『……そうかそうか。お前も眠たいだろうな。だが、わしも眠たいぞ。こちらの太陽は、とっくにいびきをかいて寝ているからな』


 ガブリエルの耳に、欠伸のような笑い声がした。


「すみません、伯父さん」

『ふむ、ちゃんと頭は起きているようだな。だが、お前が電話をしてくるのは大変珍しい。何かが起きる前触れだな。まずは挨拶からだ。久しぶりだな、ガブリエル。スペインにはいい加減飽きたかね?』

「いいえ、まだ当分スペインでシェスタをする予定です」


 残念そうな唸り声が聞こえてきた。伯父の願いが、自分の愛するアルゼンチンのクラブチームへ戻ってきて欲しいことなのは、太陽が東から昇ることのように承知している。


『……ふむ、仕方がない……それで、お前がちゃんとシェスタできるように、本題に入ろう。こんな時間に電話をかけてきて、一体どうしたのだね? わしが今思いつくのは、二週間後の親善試合のことだが、ここは日本だから、その日に地震が起きないとは断言できんよ』 

「地震は怖くありません」


 ガブリエルは一度だけ地面が震える体験をしたことがあった。けれども、世界ではそれと同じくらい怖しいことが毎日どこかで起きている。


『それなら、日本へは行きたくないというお願いかな? その気持ちはわからなくもないぞ。わしはちゃんとリーガ・エスパニョーラもチャンピオンズリーグも見ているからな』

「日本へは行きます」


 ガブリエルは断言した。


『ふーむ、それでは何なのかな? とても気になる。おかげで眠気がさよならしていったぞ』 


 日本語で、sayonaraと言われ、ガブリエルは口元で苦く笑った。その言葉の意味は知っている。忘れたことは一度もない。自分宛の全文スペイン語の置き手紙に、最後にそう日本語で綴られていたのだから。


『つまり、わしではないと、出来ないということだな? ガブリエル』

「そうです」


 アルゼンチンの駐日大使ガスパール・グレンデスは、考慮するように間を置いた。


『言ってみたまえ。お前は私たちの誇りだ』


 ガブリエルは肩の力が和らいでいくのを感じた。伯父とは基本的に血は繋がっていない。しかしグレンデス家の誇りと宣言してくれる。実父の一族は知らん顔をしているのに、母の再婚相手の実家は、みな熱くて優しい。その気持ちに甘えるのだと自覚して、口を開いた。


「探して欲しい男がいるんです」


 封印した記憶が痛み出し、無意識に腰のあたりを手で押さえた。


『日本人かね?』

「そうです」


 駐日大使はおどけた。


『大使館は探偵所ではないので、名探偵はおらんぞ。だが、一応聞いておこう。お前が会いたい人の名前は?』


 ガブリエルの腰にあてた手が、そっと胸元を抑える。

 エル、と懐かしい声が自分を呼んだ。

 ガブリエルは苦しくなってきた息共々、禁句にしていた名前を吐き出した。


「……ジュンイチロウ……」


 父譲りの空の色をした瞳が、にわかに薄暗い影を帯びた。それは、怒りのようなどす黒さに変わっていった。


「……ジュンイチロウ・クサキ……」


 それが自分を捨てた男の名前だった。

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