その日まで 5

 ――俺は誰と交代するんだ?

 ピッチでは、横浜ブラウのペナルティエリア内で、両選手たちがボールを奪い合っている。

 愛は体をほぐしながら、早巳の指示を待った。選手交代は、ボールがラインを割って、試合がストップした時に行われる。

 早巳はテクニカルエリア内に立ち、腕を組んで試合を見ている。その表情は、ひどく不満そうである。

 センターバックの更下が、頭でボールをクリアした。ボールはゴールラインの外へ出る。


「磯崎」


 早巳は振り返らずに愛を呼んだ。


「はい」


 愛はビブスを脱いで、早巳の横に駆け寄る。


「里堂と交代だ。動きが良くない。体調を崩している可能性がある」

「はい」


 第四審判が選手交代ボードを掲げる。背番号二と七。


「ハーフタイムで説明したとおり、ゴールを奪われないようにしろ」

「……はい」


 里堂が息を切らしながら歩いてきた。顔中に流れる汗をぬぐいながら、愛を一瞥する。

 愛も唇を引き結んで見上げた。

 二人は無言のまま、手を交わしてすれ違う。

 愛はピッチに入った。そこから見る懐かしい光景に、足が震えるのを感じた。

 ――ようやく立てた……

 目にも眩しい緑の芝。鮮やかな白いライン。四方に広がる果てしない応援。劇場のようなフィールド。

 大きく息を吸って、ひとつ吐いた。

 愛がピッチに入ると、スタジアムの一角から、大歓声が沸いた。応援にきた横浜ブラウのサポーターたちだ。

 その声援に後押しされるように、愛はペナルティエリアへ走った。コーレ大阪のコーナーキックから試合は再開される。

 ゴールを守る仲間に、愛も加わる。絶好の得点チャンスに、コーレ大阪の選手たちも上がってきて、ペナルティエリア内は赤と青のユニフォームがひしめき合う。

 ホイッスルが鳴った。

 コーナーエリアから、コーレ大阪の選手が強くボールを蹴る。

 ゴール前で一斉に動く。

 ボールは急カーブでペナルティエリア内に落ちていき、キーパーの羽織が素早くパンチングする。そのこぼれ玉を更下が拾い、サイドの竜斗に回した。

 竜斗は素早くサイドからカウンターを仕掛ける。

 コーレ大阪の選手たちが急いで自陣へ戻るが、竜斗の足は速い。

 愛も即座に追いかけた。

 風を切って走りながら、視界が緑で染まるのがわかった。数ヶ月前までは、何の疑いもなく自分がいて当然だと思っていた世界。

 ――俺は、走っている……

 その世界を動き回るフィールドプレイヤーたちと、見えてきた白いゴールポスト。

 ――俺はピッチを走っているんだ……

 その風を感じながら、愛は言い知れない感動に襲われた。

 ――ゴールを狙うぞ。

 横からコーレ大阪の選手が駆け寄ってきたが、愛は振り切って走った。

 竜斗は相手のペナルティエリア付近まで駆け上がり、ゴール前を視野に入れる。その時、竜斗よりも速くゴール前に上がってきた青いユニフォームが見えた。


「……さすが、愛ちゃんだね」


 竜斗はニタッと笑った。

 誰よりも俊足で、ゴールの嗅覚が鋭かった元横浜ブラウのエースストライカーへ、試合復帰を祝うように精密なクロスをあげる。

 愛は考えるよりも先に体が動いた。ユース時代から練習し、試合では何度も得点を挙げていた竜斗のクロスである。どうすればよいのか体がわかっていた。

 自然に、足があがる。

 体が重力から解放されたように宙に浮き、回転する。

 落ちてきたボールに合わせて、足で蹴った。

 オーバーヘッドキック。

 背中から地面に落ちる。

 耳に入ったのは、サポーターの叫び。

 愛はゴールを振り返った。

 ボールは、真正面でキーパーに両手でキャッチされていた。


「……くそっ」


 愛は悔しそうに吐き出す。

 キーパーはすぐにセンターバックへボールを投げる。受け取った選手は、中盤へ向けてロングパスを送った。

 攻守が切り替わる。

 愛はすぐに立ち上がり、ボールを追った。

 ボールはパスをされながら、横浜ブラウのゴールへ向かう。中盤の選手が自らシュートを放った。

 センターバックの富樫翔が動きを読んで防ぎ、前方にいる入江基樹へ繋げる。

 入江は中盤の選手である。自らドリブルしていった。

 だがパスカットされ、逆にドリブルされる。

 愛がそれを止める。

 横からうまくボールを奪い取り、ドリブルしていく。

 愛は速かった。

 敵陣に切り込んでいき、シュートコースを狙う。しかしディフェンダーが壁になった。

 咄嗟に周囲を見回す。入江が後ろから駆けて来た。

 愛はバックパスを送る。

 入江はロングシュートを放った。それはポストバーの上を越えた。

 ボールはゴールキックになる。

 コーレ大阪のキーパーは、ロングボールを放った。中盤を越え、一気に横浜ブラウのペナルティエリアまで伸びる。

 愛は全速力で走った。

 コーレ大阪の攻撃を、自陣に戻った横浜ブラウの選手たちで防ぐ。ごちゃまぜになった赤と青のユニフォームの間を、ボールだけがあてなく回る。

 その群集劇から脱け出したのは、竜斗だった。

 ボールを浚ってタッチライン際を走り、後を追ってきた入江につなぐ。

 コーレ大阪の選手が横からタックルをしてきた。入江はうまく交わせずに、ボールは誰もいない場所へこぼれてゆく。

 それを真っ先に拾ったのは愛だった。

 馴れた足さばきでボールをキープすると、愛はくっと前を向いた。何度もピッチを走ったスパイクシューズの底で芝を強く蹴ると、ボールと共に駆けてゆく。

 ――絶対に勝つぞ。

 ゴールだけを見ていた。




「負けなくて良かった」


 試合後、ドレッシングルームでの早巳の第一声はそれだった。


「後半、危ない場面はあったが、得点を奪われなかった。この難しい試合を引き分けで終われたのは、我々にとって重要なことだ。次につながる一戦だった」


 そう言って全員をねぎらうと、コーチたちを連れて先にドレッシングルームを出ていった。

 選手たちがどこか黙々と帰り支度をする中で、愛もまた自分の荷物を片付けていた。だが頭の中は、今終わった試合のことで熱くなっていた

 ――ゴールを決められなかった。

 悔しい気持ちだけが、全身を駆け巡っている。

 ――チャンスはあったのに、全部外してしまった……

 自分の失敗した場面が、スローモーションで再生される。あの時、またあの時と、ボールがゴールを外れた光景だけが、鮮明に甦ってくる。

 ――俺はチャンスを活かせなかった。

 久しぶりの試合だったのに、と口惜しくなる。

 ――ゴールを決められなかった……俺はストライカーなのに……

 荷物と一緒に溜息も肩で担ぐと、重たくなった足を引きずるように、最後にドレッシングルームを出た。

 その足が、一瞬竦んだように止まる。

 目の前に、早巳がいた。

 通路には他に誰もいない。先にバスへ向かったと思っていた早巳が、ドアの前にいた。

 愛は驚いたが、そんなことを意にかける様子もなく、早巳は壁にもたれていた背を起こした。


「磯崎」


 いつもと変わらない無機質な声が、愛の感情を強張らせる。


「……はい」

「今日はお前の身勝手な動きで、試合に負けるところだった」

「……」


 愛の呼吸が、首を強く絞められたかのように息苦しくなった。


「私はゴールを奪われないようにしろと指示したのに、お前はゴールばかり狙っていた。私の言うとおりにできないのであれば、クラブを辞めてもらっても構わない」

「……」


 愛は反射的に口を開きかけた。違います、監督。俺は勝ちたかったんです。ゴールを決めたかったんです――

 だが、言葉は出なかった。

 早巳は沈黙から顔を背けて、足早に立ち去る。

 愛は信じられない気持ちで、その背中を追った。試合の熱は急速に失せ、頭の中は真っ白になっている。

 やがて、疲れたように歩き出した。

 今は、全員が待つバスへ戻らなければならなかった。

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