その日まで 4

『あんなへぼい奴より頑張っているのに、うちのエースストライカーにチャンスも与えないって、サイテーだよな。俺、はっきり言って、あの監督嫌いだ。横浜ブラウは、てめえのクラブじゃねえ。俺たちのクラブだ』


 言葉の激しさに、愛は一瞬立ち止まりかけた。純一郎のクラブに対する強い想いは、たとえサッカーをやめざるを得なくなっても揺るがない。


『しょせん里堂なんて、あの監督に手招きされてやって来ただけだ。また別のクラブから手招きされたら、知らん顔して行くんだぜ。しょせん、他人事なんだ』

「……純」


 怪我のためにサッカー選手になる夢を断念した純一郎。その苦しさを目の当たりにした愛は、自分の今の境遇を心配してくれる親友に対して、その想いを深く噛みしめるように言った。


「ありがとう……俺、もっと頑張るよ」





 一週間後、横浜ブラウはコーレ大阪と試合だった。大阪にあるスタジアムへ向かったチームは、試合開始前にドレッシングルームに集まり、そこで早巳が先発メンバーを発表した。


「羽織、更下、富樫、加狩……」


 早巳はいつも通りの抑揚のない口調で、メンバーを読みあげてゆく。


「……東、里堂」


 十一人の名前を言い終えると、次に今日の試合の戦術を説明していった。


「コーレ大阪は攻撃的なチームで、今日もツートップでくるだろう。我々は守備に重点をおいて、カウンターを狙う……」


 選手たちは早巳の話に集中している。愛も真剣に聞きながらも、少しだけがっかりした気持ちを苦く味わっていた。メンバーは先週と変わらなかった。

 ――俺も馬鹿だよな。

 ちょっとだけ期待してしまった自分に、恥ずかしくなった。

 ――頑張ろう。

 やがて、時間になった。

 ドレッシングルームを出て、両チームの先発選手たちは専用通路に並ぶ。愛は他の控えのメンバーと一緒に、ピッチに立つ選手たちが入場する光景をベンチから見守った。

 スタジアムの観客席は、コーレ大阪の真っ赤なシンボルカラーで埋め尽くされていた。だが一角だけ、対照的な真っ青な色で染まっていた。横浜ブラウのアウェーのユニフォームの色だ。

 サポーターはコーレ大阪の歌を大合唱している。その熱気は灰色の傘を広げたような空模様にも負けずに、スタジアムを覆っている。ビブスを着た愛は、アウェーの洗礼を全身で感じながらベンチに座った。その目の先で、審判が試合開始のホイッスルを吹いた。

 コーレ大阪はJ1でも屈指の強豪クラブである。横浜ブラウとも優勝争いをした歴史があり、低迷を続ける横浜ブラウとは対照的に、今期も優勝争いに絡んでいる。そのモチベーションの違いを見せつけるように、試合開始から激しい攻撃を仕掛けてきた。

 横浜ブラウのディフェンス陣は、まだ寝起きたばかりのような動作をしていたが、コーレ大阪のツートップが素早くドリブルで切り込んで行き、迷わずシュートした。キーパーの羽織がうまくキャッチしたが、彼らが自分たちの試合をやるという強い意志をもっているのは明らかだった。

 スタジアムはゴールが決まったわけでもないに、歓声が沸いている。それを耳にしながら、愛は嫌な予感がした。コーレ大阪の一方的な試合になりそうな気配を嗅ぎ取ったのだ。

 ――まだ、始まったばかりだ。

 自分の予感を振り払って、仲間を信じた。

 だが、コーレ大阪は甘くはなかった。

 横浜ブラウがモタモタしている間に、ディフェンスラインを上げ、中盤を押し上げてきた。コンパクトにパスを回し、ツートップにボールを供給する。チームの攻撃スタイルをつくりあげ、貪欲にシュートを狙った。

 横浜ブラウは中盤の選手も含めて守備に下がる。早巳の指示通り、カウンターでゴールを狙おうとするが、相手のゴールポストまで届かない。

 試合は前半半ばを過ぎて、コーレ大阪の攻撃に必死に耐える横浜ブラウという様相になった。 

 ベンチから眺めながら、愛は自分が苛々しているのに気がついた。どうして、もっとラインをあげていかないのか。一方的に攻められている。確かに相手チームは攻撃的だが、ゴールポストを守るだけでは試合には勝てない。

 ――シュートを決めないと。

 サッカーは得点を挙げたチームが勝つのだ。

 竜斗が隙をついてサイドを駆けあがるが、ゴール付近にいる里堂にはマークがついている。里堂はそのマークに手こずり、ボールをカットされる。

 愛はピッチに飛び出したくなる衝動に、何度も襲われた。このままでは勝てない。

 ――試合に出たい。

 そして、シュートを決めたい。

 けれど、ビブスを着た自分ではどうにも出来ない。

 何とか相手のゴールを防いでいるチームの力になれないのが、不甲斐無かった。

 悔しい気持ちを目一杯抱えたまま、前半は終了した。





「よくやった」


 ハーフタイム、ドレッシングルームへ戻った選手たちへ、早巳はそう告げた。


「相手に得点を与えなかった。それが重要だ。この状態で、後半戦も戦う」


 試合に出ていた選手たちは、タオルで汗を拭き、ペットボトルを口にしている。その疲れた表情は、相手の攻撃がどれほど凄かったかを物語っている。


「コーレ大阪は一点でも得点を与えてしまうと、その勢いにのってさらに点を奪っていくチームだ。我々はとにかくゴールを守る」


 早巳は後半戦の戦い方を説明した。それを聞きながら、監督は引き分けを狙っているのかと愛は思った。確かにリーグ成績でいけば、負けるよりは引き分けの方がいい。コーレ大阪のように、勢いづかせればさらに攻撃力が増してゆくチームが相手なら、それも戦い方の一つだ。

 ――けれど、俺は勝ちたい。

 ストライカーとしての意地が小さく疼いた。ゴールを決めて、勝ちたい――


「監督」


 早巳が一通り指示し終えると、竜斗がひょいと手を上げた。


「前半、里堂へのマークがきつくて、ボールが繋がらなかったんですけど、もしかして、里堂どっか怪我しているんじゃないんですか?」


 少し離れた場所にいる里堂を、大きく振り返る。

 全員の視線が、同じ方向に走った。

 里堂は突然何を言われたのかわからないというように、呆気にとられた顔をする。


「里堂、怪我をしたのか?」

「……いえ、していません。大丈夫です」


 早巳の問いかけに、里堂は即座に否定する。


「加狩、どういうことだ?」

「いつもの里堂だったら、あんなマークぐらい交わせるはずだから、どこか調子が悪いんじゃないか心配したんです」


 竜斗は沈黙が流れた妙な空気を無視する。


「俺は大丈夫だ」


 里堂は竜斗へ念を押すように言った。その目つきは、どこか刺すように険しい。


「選手は交代しない」


 少しの間、里堂の様子を確かめるように観察していたが、早巳はそう打ち切った。

 ほどなくハーフタイムが終わり、選手たちはドレッシングルームを出てゆく。


「――どうして、あんなこと言ったんだ?」


 愛は首を回しながら歩いてゆく竜斗と肩を並べると、前方にいる里堂には聞こえないように、小声で訊いた。


「怪我なんかしていないだろう」

「だってさ、愛ちゃん。あいつ前向いていないんだぜ? ストライカーが前を向いてなくて、ゴールを奪えるのかよって」


 竜斗はのんびりとした口調で、きついことをさらりと言うと、愛を振り返らずにピッチ上の自分のポジションへと戻ってゆく。

 愛は小さくなってゆく背番号九の数字を見つめながら、ベンチのはじに腰をおろした。顎を下げて、着ているビブスを見下ろす。

 ――ストライカーが前を向いてなくて……

 ビブスに隠されたユニフォーム。

 愛は赤いビブスの胸元を掴むと、やるせないように力をこめた。

 やがて、後半戦が始まった。

 両チームとも、ハーフタイムに監督からどう指示を受けたかわかるような戦い方だった。

 コーレ大阪は攻め、横浜ブラウは守る。

 前半戦と変化のない試合内容だが、満員のスタジアムにはコーレ大阪を応援する声だけが響いていた。

 愛はひたすら我慢して、睨むように試合を見ていた。

 やがて、後半戦も半ばに差しかかろうとする頃。

 コーチの長橋が小走りに近づいてきた。


「磯崎、アップを始めてくれ」


 とっさに、愛は言われた言葉の意味が掴めなかった。


「……アップ、ですか?」


 聞き返しながら、ピッチから目を引きはがす。


「そうだ、交代だ」


 長橋コーチはその目に頷いてみせる。

 愛は信じられないように驚いた。けれど、急いで立ちあがった。


「わかりました」


 アップエリア内で、ウォーミングアップを始めた。

 ――試合に出られる。

 軽くランニングをしながら、気分が高揚してきた。いつでも試合に出場できるように準備はしていたものの、気持ちは難しかった。気を抜けば後退していきそうになる感情を、無理やり引き止めていたというのが正直なところだった。

 ――ようやく、試合に出られる……

 最後にピッチに立ったのはいつだっただろうと、ふと考えた。

 ――あの時だ……俺がゴールを決めた……

 真っ赤なスタジアム。

 サポーターの歌声。

 ワールドクラスのサッカープレイヤーたち。

 見えてくるゴールポスト。

 絶妙にパスされたボール。


 ――打つんだ、アイ!


 そう叫んだ世界最高峰のミッドフィルダー……


「……」


 愛は唇に手をやった。あの暗闇での感触を思い出した。

 だがすぐに、想いを振り払うように手の甲でぬぐうと、目の前に意識を戻した。

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