その日まで 3

 両手に頭をのせて、またぼんやりと天井を眺める。ここのマンションは、寺下が探してくれたものだ。以前暮らしていた馴染みあるマンションではなく、住む場所を変えて再出発をしたかった。住み心地は悪くはない。

 愛は疲れたように目を閉じた。毎夜、ストレッチをしてから就寝している。体のメンテナンスは重要なので、たとえ控えベンチで座る日々が続こうとも、いつでもピッチに立てるようにしておかなければならない。今夜もやろうと思ってはいるのだが、どうも体がだるい。試合には出場していないのに、肉体の疲労は変わらない気がする。

 ――自分の気持ちの問題だな。

 閉じた瞼に、試合後のドレッシングルームでのミーティングが浮かんでくる。

 早巳は選手たちを叱った。それは声を震わせて、感情をぶつける類ではなく、あくまでミスを指摘する冷静沈着なものだった。だが愛には、なぜか他人事のような態度に見えた。自分が試合に起用されないからそう感じるのだろうと思ったが、どうも胸に引っかかった。

 前監督の相楽一平は、喜怒哀楽がはっきりしていた。試合に勝てば大喜びし、負ければ激怒した。子供のように感情を面に出しすぎると、一部の選手たちからは嫌がられたが、とてもエネルギッシュな監督だった。愛が一時期スランプに陥って、全くゴールが決まらなかった時には、力強く励ましてくれた。


「自信をもて。うちのエースストライカーはお前なんだ」


 愛は目を見開くと、寝返りを打った。同じ言葉を、今日の試合後のドレッシングルームで聞かされた。


「お前がエースストライカーだ」


 早巳はみんながいる前で、里堂へそう言った。

 部屋の隅にいた愛は、その瞬間何かで刺されたような痛みを感じた。その痛みは、他のチームに在籍していた里堂を引っ張ってきたのは早巳自身だという事実を、改めて突きつけるものだった。

 ――俺の時も、そうだったんだろうか。

 初めて知る苦い気持ちが、心の隙間を這ってゆく。

 相楽が励ましてくれた時、チームには他のストライカーもいた。

 今のチームにも、自分がいて、別のフォワードの選手もいる。

 にもかかわらず、全員の前で、エースストライカーは里堂だと断言した早巳。

 相楽は二人っきりの時に、自分へ言ってくれた。

 ――どちらが正しいかじゃない。

 自分がクラブでエースとして君臨していた頃の、控えのフォワードだったチームメイトの顔が浮かんだ。全員、他のクラブへ移籍してしまっていた。

 ――みんな、こういう気持ちだったんだろうか……

 蚊帳の外に置かれたストライカー。

 愛は背を向けるように寝返りを打って、また目を閉じた。もう少し経ったら、軽く食事をしてストレッチをしとうと思った。その後でシャワーを浴びるか風呂に入る。そして、寝よう。そうすれば、疲れも癒され、変な考えもおさまるに違いない。

 だが、静まり返った寝室は、抉るように苦い思いを深めてゆく。

 ――君は一人じゃない。

 ふいに、懐かしい声が囁いてきた。

 愛は堪えるようにぎゅっと瞑る。

 ……ヴィクトールさん……




 翌日は休日だったが、愛はクラブハウスにいた。簡単なランニングをして、体を調整した後、シャワーを浴びて、ドレッシングルームで私服に着替えた。薄手のジャケットに腕を通していると、リュックの中からジリジリジリンと昔の黒電話のうるさい音が聞こえてきた。ファスナーを開けて、鳴っている携帯を取り出す。表示された相手の名前を見て、笑顔が出た。


「……もしもし?」

『愛! 元気か!』


 草木純一郎の明るい声が、耳いっぱいに広がる。


「俺は元気だよ。純も元気そうだね」

『まあな!』 


 純一郎はクラブのユース時代からの仲間である。途中、アルゼンチンへサッカー留学をしたが、夢破れて帰国。その後怪我も負い、クラブをやめてしまった。今はサッカー雑誌のライターをしている。 


『今、部屋か?』

「いや、クラブハウスにいるけど」


 愛は携帯を耳にあてながら、もう片方の手でリュックを取り、左肩で背負った。


『今日は休みのはずだろう? 無理するなよ』

「無理してないよ。体がなまらない程度に走っただけだから」


 すると、電話の向こうから、荒い鼻息が聞こえてきた。


『あいつの取材って、最低だよな!』

「……誰のこと?」

『西里だよ、に・し・ざ・と!』


 わざと区切って吠える。


『何だあいつ! 昨日お前を囲み取材したんだろ?! わざとお前を怒らせて、本音をゲロさせてやろうとしたけどできなかったって、へらへら笑いながら喋っていたぜ! ぶん殴ってやろうかと思った!』

「……まさか、やってないだろうな?」


 ちょっぴり心配になって尋ねると、さらに激しい鼻息が飛んできた。


『あいにくな! 俺も口だけ男だから!』

「そんなことないよ」


 愛は純一郎の怒りっぷりに苦笑しながらも、自分のためなのが嬉しかった。竜斗と共に、変わらない親友だ。


「あの記者って、純のとこの人だっけ?」

『違う! 今朝たまたまうちの編集長に会いに来て喋っていったんだよ! ジローさん、塩まいとけって言ったから、ちゃんとまいといてやったぜ!』

「そんなもったいないことするなって」


 純一郎が電話してきた理由がわかった。自分を心配してくれたのだ。


「俺は大丈夫だから、安心しろって。そんなやわじゃないよ」

『ま、わかっているけどさ』


 電話越しでも愛の普段どおりの様子がわかったのか、安心したように口調が落ち着いた。


『くだらねえ電話して悪かったな』

「そんなことないよ。俺も久々に純の声が聞けて嬉しいし」


 愛はドアの取っ手を回して、ドレッシングルームを出る。


「それに……」


 言いかけた言葉をとめた。通路に、早巳と二人のコーチがいた。

 早巳は紺とグレーの背広姿で、コーチたちはクラブ専用のトレーナーを着ていた。頭を寄せ合って何か話している様子だったが、愛に気がつくと、コーチたちは手を振った。愛も会釈を返す。だが早巳は投げるように一瞥だけすると、踵を返して離れていった。コーチたちも急いで後を追った。


『……おい、愛、どうした』


 携帯からの呼びかけに、我に返る。


「ああ、ごめん……何でもない……」


 視界から消えた姿に、少しの間その場に立ち尽くした。


『大丈夫か?』

「――大丈夫、何でもなかった」


 愛は静かにドアを閉めて、監督やコーチたちが消えた方向とは反対の通路を歩き始める。正面玄関へは回り道になるが、早くクラブハウスを出ようと思った。


『……なあ、愛』


 純一郎は深くは聞かずに、話を変えた。


『昨日さ、うちの奴が、お前んとこの監督の囲み取材をしたんだけど』


 愛は思わず周囲に視線をはしらせた。周りには誰もいない。


『ここずっと負けっぱなしじゃんか。サポーターもキレ始めているし、おっかないクラブの会長も、怒りが爆発する寸前のようだぜ。そいつが言うには、監督の話を聞きながら、どうもプレッシャーを受けているような感じがしたってさ。喋っている内容は、冷静そのものだったけど、そいつの予想じゃ、次の試合は先発メンバーを変えるかもしれないって』

「……へえ」


 愛は何気なく相槌を打った。純一郎が二人の会話を記事にすることは絶対にないと断言できるが、愛の脳裏には昨日の早巳の一言が突き刺さっている。


『俺が何を言いたいのか、わかるだろう? 愛』


 相手の反応が鈍いので、少しだけ早口になる。


『あんな奴から、レギュラーの座を奪い取るチャンスかもしれないんだぜ? ユース出身のお前が、不調のチームを救わなくてどうするんだよ。俺が監督だったら、とっくに試合に出している』

「――ありがとう、俺も頑張るよ」

『お前はとっくに頑張っている』 


 愛は携帯を耳にあてたまま沈黙した。

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