その日まで 2
「いいですよ」
愛は向き直った。西里と名乗った雑誌記者は、着慣らした感じのダークの背広姿で、背中を若干丸めている。癖のある前髪が目元までかかり、その奥から些細なことも見逃さないと言いたげな目が覗いている。
どこかで会った覚えがあった。すぐにわかった。帰国の記者会見で、自分へ質問してきた記者の一人だ。
「調子はどうですか?」
「悪くはないです」
愛は無難な返事をした。
「なら、率直に聞きますが、クラブへ復帰してから、一度も試合に出場できない状況を、どう思っていますか?」
西里は肉食獣を思わせるような口調で質問した。
愛はできるだけ冷静に考えて返答した。
「――正直、苦しいですが、モチベーションを落とさないように気をつけています」
「しかし、武田監督は里堂選手がゴールを決められなくても、交代させる気はないようです。それをどう思いますか?」
「監督には監督の考えがあるので、自分はいつでも試合に出られるように、万全の体調で臨むだけです」
テンプレートの答えだった。何度も同じ質問を受けて、その度に口から出ている台詞。
しかしマスコミや出版界に属する者だけが身につける傲慢な牙を剥き出しにしていた西里の攻撃は、容赦なかった。
「けれど、磯崎選手の調子が良くても、武田監督には起用する考えがないようです。それはずばり、貴方と監督の間には不和があるからでしょうか?」
「……それはありません」
愛は西里が言わせたい言葉を口から出さないように細心の注意を払った。この雑誌記者は、明らかに何かを狙っている。狙っていることを、言わせようとしている。
「自分は監督を支持しています。それは、何があっても変わりません」
はっきりと断言すると、西里の前髪に隠れた目が、獲物を外したハンターのように少しだけ失望の色を見せた。
「それでは、失礼します」
愛は礼儀正しく頭を下げて、身をひるがえした。背後で面白くなさそうにペン先でメモ帳を叩く音がしたが、気にしないでドレッシングルームへ向かった。
イギリスから帰国してすぐに開いた記者会見が頭をよぎった。その時に、西里が臆面もなく質問した内容も。
――つまり磯崎選手は、プレミアリーグでは全く通用しなかったということですね?
愛はぐっと唇を噛んだ。熱くなった手のひらでドアノブを鷲掴みにすると、苛立ちをぶつけるように強くドアを内側へ開けた。
日本へ帰国した愛を待っていたのは、激しいバッシングだった。
自分のエージェントである寺下寛之が事前に警告していたとおり、新聞、雑誌、テレビなどで報道されたのは、自分がノーザンプールFCを解雇されて、他に行き場がなく元のクラブチームへ戻ってくるという、非常にネガティブな内容だった。その時に必ず持ち出されたのは、ハイリーとの試合でチームメイトに掴みかかった事件であり、これが愛の評判を決定的に落とした。帰国時に横浜ブラウのクラブハウスで開いた記者会見では、一人一人の記者たちが、まるで神からお墨付きをもらった正義の裁判官であるかのように、全く配慮のかけらもない質問を浴びせた。
――今回の突然の解雇をどう思われますか?
――チームメイトには全く受け入れられなかったそうですが、やはり移籍自体がスポンサーの関係がらみだったからですか?
――どうして、試合中にチームメイトといがみ合いになったのか、きちんと説明してもらえますか?
――夢の海外リーグ移籍で、このような結果になってしまった今のお気持ちは?
――Jリーグでは横浜ブラウしかオファーを出さなかったそうですが、それをどう思われますか?
――今回の磯崎選手の移籍の失敗で、他の日本人選手の価値が下がったと言われていますが、それについて一言お願いします――
愛はそれらへ、一つ一つ丁寧に答えた。その様子を報道したテレビを見れば、自分がいかに平静だったかよくわかった。しかし自分の記憶は不思議とあやふやで、西里にも会わなければ何を訊かれたのかも思い出せなかった。
表面上でも愛が取り繕えたのは、一つはクラブの会長の応援があったからだった。八重樫雷蔵はクラブのスポンサーを説得して愛の海外移籍を後押しした後見人であり、今回も水面下で愛のクラブ復帰を働きかけていた。元はサッカー選手でもあった会長は、愛にとって誰よりも信頼できる相手だった。
また、横浜ブラウ所属時に仲が良かったチームメイトたちも、愛を温かく迎え入れてくれた。竜斗はもとより、キャプテンの更下吾郎やキーパーの羽織薫らも、挨拶をしにドレッシングルームを訪れた元チームメイトに普通に接してくれて、妙に力が入っていた愛の肩が急速にゆるんだ。
だが一番心強かったのは、何といってもクラブのサポーターたちの歓迎だった。当時ノーザンプール移籍に関しては、サポーターの中でも賛否両論があったのだが、復帰を発表したクラブのホームページには愛を応援するメッセージが多数寄せられた。クラブハウスでそのメッセージを読んだ愛は、目頭が熱くなって、画面からあふれ出てくる頑張れの文字がぼやけてしまった。
しかし、現実は良いことと悪いことで成り立っている。
クラブの監督は、愛の海外移籍のあとで交代していた。武田早巳は三十代後半の若さで、Jリーグ発足時からの名門クラブチームを指揮していた。以前はJ2のチームを率いていた監督ということしか、愛は知らない。だがそのチームがJ1に昇格し、エースストライカーだった愛の穴を埋められずにひどい成績でシーズンを終えた横浜ブラウは、相楽監督を更迭し、昇格させたクラブを辞めていたこの若き監督を抜擢した。この交代劇は様々な論議をよんだが、早巳は就任早々五連勝し、非難を封じた。
愛はクラブハウスで初めて監督と会った。その時味わったのは、素っ気ない態度と無関心な視線だった。自分がクラブへ戻ってくることを、早巳は全く望んでいなかったのだと、漠然とだが思った。それは間違いではなかった。
横浜ブラウへ戻ってきてから、数ヶ月が経っている。
しかし、愛はいまだにピッチに立つことはなかった。
その夜マンションへ帰宅した愛は、背負っていたバックをリビングルームに置くと、寝室のベッドに倒れこんで、しばらくぼうっとしていた。
ジーンズのポケットが振動しているのに気づく。仰向けで寝転んだまま、手を入れて、携帯を引っ張り出した。メールが届いている。妹の亜梨沙からだ。
愛はラインをやりたくないので、今でもメールでやりとりをしている。ただメール自体も苦手なので、アドレスもほんの数人にしか教えていない。もちろん妹の亜梨沙には教えていたが、他の友人たちがメールの苦手な愛に気を使ってあまり送ろうとはしないのと対照的に、妹という気安さからか、まるで暇つぶしのようにメールが送られてくるのだった。
「……今度は何なんだ?」
確かこの前は、母親が料理で塩と砂糖を間違えて、知らずに食べた父親が咳き込んだという何やら夕食時の会話のネタのような内容だった。オチは、お兄ちゃんも気をつけてね! という真剣な一言。愛はしょうがないというように笑った。
その苦笑いが甦って、今度はトマトケチャップとマヨネーズでも間違えたのかなと連想しながら、メール受信のボタンを押す。携帯画面に、可愛い顔文字も入った文章が並んだ。
もう寝てる?
今日ね、抜き打ちテストがあったんだけど、全然書けなかった……
どうしよう!
私、英語苦手なのに。
今、英語の教科書開いているんだ。
疲れたから、メールしちゃった。
おやすみ。
「……ったく」
愛は片手で携帯を持ちながら、力が抜けたように息を洩らした。
「亜梨沙の奴、飽きたな?」
高校生になっても直らない妹の癖は、兄貴は当然知っている。元々勉強は好きではないので、飽きてくると途端に別のことをやりたくなるのだ。そしてそのまま終わる。
左腕を枕にしながら、メールを打ち返した。
こら、ちゃんと勉強しろ。
おやすみ。
送信ボタンを押した。きちんと届いたのを確かめてから、携帯を折り曲げて、脇に置いた。
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