その日まで 1

 白と黒のユニフォームが散らばるピッチは、重たい曇り空の下、冷たい風に嬲られていた。

 中盤から攻撃を仕掛ける横浜ブラウは、パスを繋いでサイドから切り込んでいこうとする。だが相手ゴール前に出来た黒い壁は、易々と突破を許さない。一点をリードする東京ユナイテッドは、後半二十分を経過して、そのままリードを死守する作戦に出ている。

 横浜ブラウのホームスタジアムは、選手と同じユニフォームに身を包んだサポーターで溢れかえっていた。白く彩られた観客席は、一瞬雪景色であるかのような錯覚を覚える。だが、その隅の一点は黒く塗りつぶされ、周囲の大声援とは明らかに違う歓声が巻き起こっていた。

 負けているにもかかわらず、熱い声援を絶やさないサポーターたちが、何度目かの叫び声をあげる。

 攻撃へあがってきた横浜のサイドバックの選手が、相手ゴール前へ鋭いクロスをあげた。そこへ走りこんできたのは、ゴールを狙い続けているフォワードの選手である。軌道を描いてきたボールに合わせるようにジャンプをした。しかしそのすぐ背後で、東京ユナイテッドの選手も飛びあがり、紙一重の差でヘディングをしてクリアする。

 ボールは、崩れるようにタッチラインを出た。

 ホーム全体が期待の叫びから失望のため息に包まれる。これで得点のチャンスを潰されたのは何回目か、そのため息の長さがサポーターの苛立ちを表している。逆に、片隅にいる東京ユナイテッドのサポーターたちは、アウェーへ乗り込んだかいがあったと言うように、狭い観客席で飛び跳ねている。

 二つのサポーターの対照的な光景は、ベンチにも及んでいた。

 東京ユナイテッドのベンチは緊張感に覆われているが、悲壮さは感じられなかった。監督もコーチも控え選手たちも、ピッチに立っている選手たちと同様に目の前の試合に集中している。それは試合に勝っているだけではなく、ここ最近のリーグ戦で連勝している自信と余裕の表れであるのかもしれなかった。

 ホームである横浜ブラウのベンチは、同じ緊張感が漂ってはいても、どこか諦めにも似た空気が生まれ、もう試合に負けたかのような沈んだ雰囲気になっていた。ベンチに居並ぶ関係者たちは、声も出さない。置物のように座っている控え選手たちも、どんよりとした空模様みたいな表情で試合を眺めている。

 しかし横浜ブラウのサポーターたちは諦めていない。応援する声は、肌を切るような風を圧倒するほどに熱い。

 その奮い立つような大声援を耳にしながら、ベンチに座る愛は、眼前の試合を睨みつけていた。

 背番号七の赤いビブスを着ている愛は、地面を踏みつけるようにしてベンチの端に腰を下ろし、両手を膝の上で握りしめていた。チームが決定打を逃すたびに、履いている青いスパイクシューズの底は、悔しそうに小さく土を蹴る。

 試合中、二人の控え選手がビブスを脱いで、ピッチに立った。交代した選手たちが代わりにビブスを着て座っている。交代要員は三人まで。あと一人、交代できる。

 愛は息を荒くし、歯を食いしばって、ベンチからピッチに駆け出したい衝動と闘っていた。武田早巳はやみ監督は指示を出す気配がない。もうメンバーを変えるつもりはないのだろう。

 終了間際、スタジアム中がどよめいた。再びサイドバックの選手が切り込み、今度はペナルティエリア内で自らシュートを放った。

 しかし、相手ディフェンダーの体に当たり、転がったボールはキーパーが両手でキャッチする。

 最後の足掻きのようなシュートが防がれた時、サポーターの声は初めて空しくスタジアムに散った。

 そして、試合は終了した。




 一‐〇と表示された電光掲示板を睨みつけながら、愛はようやくベンチから立ちあがった。サポーターの一部がブーイングをする中で、他の控え選手たちはもう席を立ち、監督やコーチたちもドレッシングルームへ戻っている。試合に出た選手たちも、サポーターへ挨拶しながら、専用通路へ向かっていた。

 愛も群青色のベンチコートに腕を通しながら、後を追った。前を歩いていた加狩竜斗かがりりゅうとの背中に追いつく。試合で左のサイドバックを守っていた選手は、背後の気配に気がつくと、ひょいと振り返った。


「……何だ、すげー、悔しそうな顔しているな」

「……お前は悔しくないのかよ」


 愛が唸るように言うと、竜斗はげらげらと笑った。


「そりゃ、悔しいに決まっているさ。試合に負けたんだから。控えのお前のつらが一番悔しそうだから、おかしいんだよ」


 ちょうど竜斗の脇を、里堂りどう司が通り過ぎた。ちらっと冷たい視線を投げてゆく。里堂は横浜ブラウのエースストライカーである。しかし今日の試合ではシュートを一つも決められなかった。


「何だかな、試合に負けたってのに、平然としてられるのが一番おかしいのかもな」


 まるで前を行く里堂に聞こえるように、竜斗は額の汗を手の甲でぬぐいながら声をあげて言う。

 愛は肩を並べると、竜斗の口を非難するように眉を上げた。


「誰だって、試合に負けたら悔しいに決まっているだろう?お前はいつも余計なことを言うから、悪く思われるんだぞ」

「だってさ、今日で四連敗だぜ、愛ちゃん。しかもノーゴール真っ最中。どうすりゃいいのさ」


 愛は何も言えずに黙った。竜斗の言うとおり、横浜ブラウは目下試合に負け続けている。今日も含めて、四連敗目。しかもゴールなしである。


「ふつーだったら、選手を交代させるよな。フォワードあたりとか」


 サイドバックから何度も得点のチャンスをつくっている竜斗だが、他人事のような口調である。


「だけど、うちの監督の頭の中には、あいつ意外にストライカーがいないみたいだぜ。どう考えても、里堂の奴は不調なのにさ。試合に出続けて調子が戻ればいいが、そう簡単にはいきそうにない気配だし。このままいけば、あいつ日本代表からも外されるぞ」


 里堂と竜斗は現在の日本代表メンバーに呼ばれている。横浜ブラウからはこの二人だけだ。


「うちには、日本代表に選ばれたもう一人のストライカーがいるっていうのに。元だけど」


 竜斗は歩調をゆるめると、試合中走り続けて汗が光る顔をわずかに傾けて、愛を振り返った。


「その元代表が、試合に負け続けて、チームで一番悔しそうな顔で控えベンチで座っているっていうのに、うちの監督は透明人間に見えるらしい。どーなってんだ?」

「……竜斗」


 まるでパンク歌手のような派手な色をした髪と、サイドバック職人のようなプレースタイル、そして飄々とした口調は、愛がイギリスから帰国しても変わってはいなかった。横浜ブラウのユース時代から一緒にサッカーをしていた仲間であり親友は、愛がクラブへ戻ってきた時、全く変わらずに歓迎してくれた一人だった。


「……監督には、監督の考えがあるんだ」


 愛は自分自身に言い聞かせた。


「考えね。それって、どういう考えなんだろうって話なんだけど」


 竜斗は軽い調子で言う。だが愛には、どこか腹立たしい匂いが感じられた。

 ドレッシングルームへ戻る途中で、記者たちの囲み取材が行われていた。試合に出た横浜ブラウの選手たちが、それぞれ取材を受けている。竜斗にも早速何人かの記者が突進してきたので、愛は離れて先にドレッシングルームへ入ろうとした。


「磯崎選手」


 突然、横から声がかかった。


「私は、雑誌記者の西里と言いますが、取材に応じてもらえますか?」


 愛は声がした方を振り返った。一人の中年男性が、ペンとメモ帳を手に立っていた。

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