いつまでも、待っている
視線の先にゴールが見える。
その前には、ゴールポストの番人が立ちはだかり、人口の壁をつくりあげようとするチームメイトたちへ、手振りで指示を出している。荒くれのプレーを我々に披露してくれた彼らは、鎮痛剤を打たれたかのように大人しくなって、揃って横並びに整列している。まるで、これから始まるオベラでも鑑賞しようとするかのように。
だが、彼らの前でアイーダのアリアが歌われるわけではない。審判の笛を合図に行われるのは、フリーキックだ。
ロウバーとの試合で、前半終了間際に、相手ゴールに近いエリアで倒されてしまった。我々は直接フリーキックを与えられ、倒された私がその位置に立ち、審判のホイッスルを待っている。相手チームの数名がゴール前に並んで、私のフリーキックを防ごうとしている。
私の目指す白いネットは、そう遠くはない。たとえどのような壁が立ち塞がったとしても、それを飛び越えてゆくだろう、優雅でいて強力に。
「打てるか? ヴィク」
近寄ってきたのはギルだ。相変わらず声に毒がある。味方のチームメイトをナーバスにさせることに関しては、ナンバーワンの男だ。
「もちろん、順調だ。そこで見学していてくれたまえ」
私は冷静に命令した。毒にうちのめされる初心な新人ではない。
ギルは鼻で笑って、後方に下がった。それでいい。
審判が走ってきて指示を出す。私は指定された位置に、ボールを置いた。
再び、眼前を確かめる。ちょうど正面の位置だ。赤いユニフォームを着たチームメイトたちも、散らばっている。
私は微笑した。ボールの軌道が見えた。
審判がホイッスルを鳴らす。
私は助走して、利き足でボールを蹴った。
ボールは私の予想を裏切らずに、ひとすじの弾丸のように、優美な曲線を描いて飛んでゆく。
彼らの頭上を遥かに越えて、キーパーすら置き去りにし――
ゴールは決まった。
「よくやったぜ、ヴィク」
サポーターの大拍手を受けながら、ハーフタイムにドレッシングルームへ向かう私の肩を背後から叩いたのは、チームメイトのゲイリーだ。
「最近調子がいいな。フリーキックは百発百中だ。お前の得点ゴールの賭けは、いい感じだぜ?」
「それは、君の貰う配当金が増えたということかな?」
「そうだ」
ゲイリーが笑いながら手を叩く。全く、チームメイトのゴールを賭けにするとは、良い度胸だ。ロッカー内で、賭け事の好きなイングランド人たちで行っているのだろう。しかも、おそらくその賭けの主催者は、このノーザンプールが誇るエースストライカーに違いない。
「いずれ、君には天罰が下るだろう」
あとで教会に行き、神へ祈りを捧げなくては。
ゲイリーは一応怖がる素振りを見せたが、すぐに飽きたようだ。
「それにしてもだ。本当に、最近のお前は安定しているな。何かいいことでもあったのか?」
「――君のインチキ英語を聞き取れるようになったからかな? 残念なことだ」
「お前も、インチキ英語を喋れるようになってきたからな」
ゲイリーがやり返してくる。だがその顔つきは、私の様子を探るようだ。
「さては、恋人でもできたのか?」
「シャーロック・ホームズを演じたければ、他の人間をあたることだ」
私はゲイリーへ冷たく言い捨てて、トイレへ向かった。背後で苦笑いが聞こえたが、振り返る必要はない。
トイレの洗面台で、手を洗った。目の前の鏡に映る自分は、変わらない。
冷たい水が、肌に滲む。
その刺すような感触は、私の感情をも刺すようだ。
……彼は元気だろうか?
数日前に、衛星放送で観戦した試合が、まだ瞼に焼きついている。
遥か東の島国で行われているリーグ戦。その試合の後半途中に、彼は登場した。
試合開始からピッチに立てなかった状況が、彼の苦しい環境を物語っている。だが、その姿は私と別れた時と同様に、精悍で力強かった。
試合は、〇対〇だった。どちらが先に得点を奪うか、その激しい攻防戦は退屈だった前半戦とは違い、非常に攻撃的だった。
彼は走っていた。ゴール前で、中盤で、シュートを狙って走り続けていた。サッカーは、走る競技だ。それを見る者たちにわからせるような、見事な走りだった。
だが、ボールが彼へ繋がらない。中盤の選手は、明らかに彼の速さへついていけないのだ。
私は怒りを感じた。私ならば、その中途半端にパスされたボールを、決定的な位置で彼へ渡す。そして、彼はシュートを打つだろう。それはゴールとなったはずだ。
結局、試合は引き分けで終わった。彼はシュートを何本か打ったが、全て外れた。愚かなパスを、それでもシュートへと持っていった彼の上手さに、チームメイトたちは感謝状を贈るべきだ。
試合終了後、テレビに彼だけが一瞬映った。悔しそうで、苦しそうな表情。引き分けになったのは、自分のせいだと責めているような様子。私はたまらなくなった。彼をこの腕で抱きしめたかった。君は良くやった。だから、自分を責めてはいけないと。
しかし、すぐに現実は非情な事実を告げる。私の腕は彼を抱きしめることも、私の声が彼に聞こえることもないのだ。
テレビを消した。しばらく、目を瞑って彼の姿に沈んだ。
……彼も、闘っている。
目を開いた。鏡に映っているのは自分。ここは自分の部屋ではなく、スタジアムのトイレだ。
手を濡らす冷たい水の感触が、私を記憶から覚まさせてくれた。
ドレッシングルームへ行かなければ。
監督が後半戦の闘い方を、指示しているはずだ。
蛇口を締めて、手の水滴を振り払い、トイレを出た。
私も、君と同じく、ピッチで闘っているよ。
だから……諦めてはいけない。挫けてはいけない。
私は、待っている。
君が約束を守ってくれることを。
私と再び出会う時がくることを。
――アイ……
私は、いつまでも待っている――
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