25
「君は我がクラブを馬鹿にする気か? いくらチームの中心選手でも許されないぞ」
「そう、私はチームの中心選手だ。あなたに許してもらう必要はない」
スチュアート・エヴァンスが顔色を変えた。生憎、私は目の前の男よりも傲慢だ。
「ヴィクトール、一連の発言は罰則ものだぞ!」
「勝手にするといい」
目の前の男を、侮蔑を滲ませて睨んだ。もう怒りはなかった。残ったのは軽蔑だけだ。
「待つんだ! ヴィクトール!」
ドレッシングルームを出ようとした私を、バーン監督が押し止めようとする。私は礼儀正しく目礼をした。
「あなた方は愚かだ。アイは優秀な選手なのに」
もう一人の男へ言ってやった。
「彼は必ず、世界でも屈指のストライカーになる。それがわからないあなたとクラブは、世界一愚かだ」
「そうかな」
エヴァンスは私の言葉を鼻先で門前払いにした。こんな馬鹿な男だとは思わなかった。
「なぜ、そう断言できる?」
「それはあなたにサッカー選手としての才能がないからだ。そして私は、あなたよりずっと才能があるからだ」
この男がどう思おうが、もう知ったことではない。ドアを開けて、ドレッシングルームを出た。閉める時に、窓側のベンチに座るゲイリーと目があった。ゲイリーは唇を引き結んでいたが、片目を瞑って、膝の上で右手の親指を立てた。私も笑って応えた。
部屋を飛び出た私は、迷わずピッチへ向かった。背後から呼ぶ声が聞こえたが、私を止めることはできない。辺りにはまだ関係者が残っているので、私が歩いていても不自然ではない。誰にも不審がられずに、選手専用の入り口を通った。
スタジアムに人気はなかった。赤で埋め尽くされていた観客席は、その色の痕跡さえなく、無人となっている。旗や横断幕を煌びやかにはためかせ、溢れんばかりにぶつけていた情熱は、みな持ち帰ってしまったようだ。ピッチ上も夕日の影だけが落ちて、緑の芝生を黒く染めている。先程までの激闘が幻であったかのように、ひどく寂しい風景だ。ピッチを吹く西風が、我々の興奮を攫っていったのかもしれない。
私はアイを探した。ここにいるような気がしたのだ。それは間違いではなかった。
入り口横のピッチの外で、アイは壁にもたれて座っていた。壁にはスポンサーの看板が飾られていて、SAGARAと青色で書かれている。日本の有名な電気産業の会社だ。それを背に、赤いユニフォームを着ているアイが座り込んでいる。私の気配に気がつくと、慌てたように立ちあがろうとしたので、首を横に振り、彼の隣に腰をおろした。
「聞いたよ。日本に帰るんだって?」
「……仕方ありません」
アイは膝を折り曲げ、両腕で抱えていた。あの悪夢のPKを思い出した。
「今、このスタジアムにお別れをしていました」
あまりにも淡々としていた。逆に私はやるせない気持ちでいっぱいになった。何故冷静でいられるんだ? クラブに裏切られたというのに。
「追い返されることをしましたから」
アイは笑って言った。
「もう一度出直してきます」
「君のせいじゃない。あれはクラブの……会長とフロントの責任だ」
エヴァンスの薄笑いが甦ってきた。その横っ面を思いきり平手打ちしてやれば良かった。
「クラブが君を陥れたんだ。君を追い出すために、わざとあんな噂を流したんだ」
「今度は、そんな噂なんか足で蹴っ飛ばせるぐらい実力を磨いて戻ってきます」
アイは眩しいぐらいにまっすぐだった。
「次は、ギルさんにもおまけと言われないように」
「君は悔しくないのか!」
私が怒っていた。
「本来だったら、君を守るべき立場のクラブが裏切ったんだぞ! そんな馬鹿なクラブがあっていいものか!」
「でも、俺には憧れのクラブなんです」
「その憧れのクラブが君に何をしたと思っているんだ!」
私は地面に拳をぶつけた。アイの憧れの選手である私は、何をしたんだ?
「俺は負けませんから」
アイは眼前に広がる翳ったピッチを眺めていた。その眼差しは、今日の試合で見せたゴールを狙うストライカーのものだ。
「必ず、戻ってきます。このスタジアムへ」
そして、私の方を向いた。
「ありがとうございます、ヴュレルさん。あの時、俺を庇ってくれて」
「……礼を言われることじゃない」
「でも俺は嬉しかったです。自分は独りじゃないって言ってくれて、本当に嬉しかった。だから今日の試合でゴールを決めることができたんです。ありがとうございました」
アイは腰をあげると、私へ向かって頭まで下げた。
「よしてくれ」
私も立ちあがった。
「私は……君を傷つけたんだ…すまない」
「もういいんです」
アイは泥を拭い去ったように、さっぱりとした顔をしていた。もう彼の中では決着がついたことなのだ。クラブのことも――私のことも。
かたく握っていた拳を解き、私は彼の頬にそっと手を添えた。柔らかく温かかった。
「約束してくれ、必ず戻ってくると」
私の心臓が血を流している。運河の流れのように、その速い鼓動が感じられる。古き血を拭い去り、新しき血が巡り始める。
「私たちと共にまた戦うと、誓ってくれ」
全身から荒々しい激情がこみ上げてくる。それを呑み込んで囁いた。
アイは自分の頬に触れる私の手を見て、力強く頷いた。
「誓います。絶対に戻ってきます」
私は微笑した。彼の頬にキスをしたくなったが、これ以上嫌われたくはなかったので止めた。
「みんなのところへ帰りましょう」
アイは先に立って歩き始める。私はその気丈な背中を見つめた。細くて華奢な体に宿っていたのは、逆境にも負けない熱い魂の持ち主だった。サッカーを愛し、ストライカーとしての誇りを胸に秘める逞しい青年だった。
その頬に触れた手を握りしめた。私も目を逸らし続けてはいけない。
ピッチを出る前に、アイは一度振り返った。私はその隣に並んで、彼の肩を優しく叩いた。
「一緒に行こう」
ドレッシングルームまでは、まだたっぷりと時間がある。
話したいことが、沢山あった。
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