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「随分と英語が上手だから、驚いただけだよ。語学教室に通ったのかい?」


 彼は頬を赤らめて、口を噤んだ。どうやら日本人にも、皮肉が通じるようだ。


「それに、話しかけてくれるとは思わなかった。私は君に嫌われていたようだからね。今日はフル出場したから、機嫌でもいいのかい?」


 彼の顔が強張ったが、私は無視した。


「日本人は礼儀正しい民族と聞いている。引き分けた試合の後で、精神的にも疲れている時に、しかもドレッシングルームで、チームメイトに抗議をしてくるとは思わなかったよ。君のその礼儀正しさに敬意を表して、質問に答えてあげよう」


 黒い瞳が射るように睨んでくる。私はその目に向かって矢を放った。


「それは、君が下手糞だからだ」


 私の声は辛辣を越えて冷ややかだった。


「どうして、ボールを回してくれなかったかだって? 君はペレのつもりかい? いったい自分を何だと思っているんだ」


 ピエールでもないのに。


「それとも何かい? 君にボールを渡していたら、必ず得点を決めていたのかい? 合宿では外してばかりだったのに。私に意見をする暇があったら、少しは練習でシュートを決めたまえ。まずはそれからだろう」


 彼は血の気が引いたように、青ざめていた。それは怒りからなのか、恥ずかしさからなのか、それとも別の感情からなのか、アジア人の精神構造など知らない私にはわからない。だが、それがどうしたというのだ。彼の聞きたいことを、私は親切に教えただけだ。


「今度は理解できたかい?」


 次の瞬間、彼は私に背を向けると、ドレッシングルームを飛び出した。

 ドアが彼の全身を呑み込み、派手な音を立てて閉まった。小さな足音が駆けだし、どこかへ消えてゆく。

 私は大きく息をついた。身体が重くて仕方がない。だが再びベンチに座ろうとして、周囲の異常に気がついた。凍りついたかのような静寂。

 チームメイトが全員、私を見ていた。


「……ヴィクトール」


 エヴァレットと目があうと、まるで引き寄せられるかのように、チームメイトをかきわけて近づいてきた。


「君は……何てことを言うんだ!」


 私の肩に手をおき、絞りだすような口調で非難する。


「なぜあんなことを言ったんだ! 君はあの子を傷つけたんだぞ!」


 エヴァレットの柔らかなオリーブグリーンの瞳が、怒りで染まっている。彼のそのような感情の爆発を目の当たりにするのは初めてだった。


「ヴィク、お前らしくないぞ。何があった」


 ゲイリーも険しい表情で近づいてくる。私は首を横に振った。何もあるわけがない。あったとすれば、珍しく話しかけられたことだけだ。


「ヴィク!」

「怒鳴るなよ、ゲイリー」


 ベンチに座っていたギルが、シューズを履き替えながら言った。


「別にヴィクが言ったことは、嘘じゃないだろう? みんなが思っていることさ。それを正直に教えてやっただけだ」


 ギルは靴を履くと、私へ向かってウィンクをした


「ブラーヴォ」


 私は目を背けた。苦い味が舌に広がった。


「なに言っているんだ、ギル!」


 ゲイリーが猛然と言い返す。


「あの日本人が言ったことは本当だろうが! お前らの誰かがきちんとパスを出してやれば、ゴールを決めていたかもしれねえんだぞ! そうすれば、俺たちは勝っていたんだ! あいつはチャンスのときは、ディフェンダーのマークも外して、いつでもシュートを狙える体勢をつくっていたんだ! なのにてめえら、目ン玉ケツにでもつけていたのか!」


 ギルは脱いだシューズを足下に放り投げると、踵を蹴って立ちあがった。


「俺たちを馬鹿にする気か! 全くシュートも決まらない奴にボールを渡してどうなるんだ! お前の足りない脳みそでもそれぐらいわかるだろう!」

「足りないのはてめえらだ! チームの中で一番練習していたのは誰だ! あいつだろうが! 合宿じゃめちゃくちゃだったが、それ以外じゃ、ちゃんとゴールを決めていたんだぞ! ここにいる誰よりも熱心に練習していただろうが!」


 ゲイリーは私を睨んできた。私は顔を背けた。友人の憤りをまともに受けとめられなかった。


「二人とも、やめるんだ!」


 エヴァレットが割って入る。だがゲイリーもギルも譲らない。

 ふと、誰かの強い視線を感じた。

 顔をあげると、ドア付近にいるレインが視界に入った。自分のロッカーに手をかけた格好で、私を見ている。そういえば試合直前に、初の先発出場を果たす彼を励ましていた。自分は控えに回ったのに、遠い東の果てから来た相手のことを思いやっていた。

 レインは私と目があうと、それが合図のように、強張った表情に決意を滲ませた。


「オレ、アイを探してくる!」


 そう叫ぶと、ドレッシングルームを駆け出した。

 私はその場に立ち竦んだ。まるで拒絶するように向けられた背中が、鋭く胸に突き刺さった。

 喧騒を聞きつけて、コーチやクラブ関係者も慌しく入ってきた。軍隊の教官のような厳しさで、バスに乗れと命令をする。ロビンソンフィジカルコーチなどは、プロレスラーのような体格に物を言わせて、罵りあうゲイリーとギルを無理やり引き剥がした。

 みんな悪態をつきながら、荷物を背負って次々とドレッシングルームを出てゆく。明日のタブロイド紙の一面を飾るのは、間違いなくこの騒動だ。

 だが、私は命令に従わなかった。


「私は残ります。監督にはそう言ってください」


 ヒルダー助監督は私の頑固ぶりに天井を仰いだが、しぶしぶ出て行った。

 やがて全員が出て行き、再びドレッシングルームは静かになった。私は一人、ベンチに腰かけ、固く閉じられたドアを見守った。壁時計の針の音が、刻々と過ぎてゆく時間を否応なしに伝えてくれる。

 しばらくして――それほど時間は経過していないと思うが、ドアの取っ手が乱暴に回り、外側へ開いた。入ってきたのは、赤毛のレインだった。

 レインは私に気がつくなり、大っぴらに眉を顰めて、怒りの火を表情に灯した。荒い鼻息を落とし、まるで室内には誰もいないかのように手荒く荷物をまとめ、もう一つ、この部屋を飛び出て行った彼の荷物も一緒に背負うと、脇目もふらずドレッシングルームを後にした。


「アイが見つからない」


 ただ一言、吐き捨てて。

 再びドアは激しく閉じられた。私はまた一人になった。

 時を刻む音だけが、室内に響いている。窓辺の光は、黄昏の色合いを濃くしている。夕暮れの影がその手を伸ばし、徐々に侵蝕してくる。

 私はその空気にもたれるように目を瞑った。まるで牢屋の獄に入れられた罪人のような気分だった。このままベンチに座っていたら、時に熔かされ、跡形もなく消えているかもしれない。

 ため息とともに、ベンチに寄りかかった。とても疲れている――

 ドアの取っ手がゆっくりと回った。私は背を起こした。澱んでいた空気が、取っ手と一緒に廻り始める。現れたのは、バーン監督だった。

 私は立ちあがろうとした。しかし監督は首を振り、私の隣に腰を下ろした。


「もうみんな、バスに乗って行ってしまったよ」

「しかし……」


 言いかけて、口をつぐんだ。監督がスタジアムに残った理由は、消えた選手のためだ。


「申しわけありません」

「謝る相手が違う、ヴィクトール」


 監督は責める風でもなく、淡々としていた。おそらく事のなりゆきはエヴァレットから聞いたのだろう。ひどく惨めだった。


「私は君を信頼している」


 監督は私の方を振り向いて、はっきりと言い切った。


「チームの柱としても、一人の人間としても、君は欠かすことのできない存在だ」

「ありがとうございます」


 しかし心のなかでは汚い泥が溜まってゆくような思いだった。私はけして高尚な人間ではない。

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