第36話 ニンギョウが生まれるまで①



「お姉ちゃん、働きすぎだよ……このままだと、体壊しちゃうよ」


 弟が不安に満ちた表情で私の顔を見上げている。

 何度も見た光景だけれども、弟が心配するのは常に私のことについてだけ……帰るべき家と頼るべき両親をなくし、暗闇しか待ち受けていないこの先のことについてなんて、心配されたことがない。

 家族のために親身になれる。それが彼の長所であり美徳であるのだと感心しながら、できるだけの笑顔を取り繕って私は答える。


「大丈夫! お姉ちゃんは丈夫だからね。それと、今夜も戻れないから……ご飯は置いとくから、好きに食べて」


 雨風をしのげる場所として、帝都の隅にある荒屋……あまりにも古すぎて、所有者すら存在を忘れてしまったのではないかと疑いたくなるほど貧相な……家とも呼べないもの。

 そこが、私と弟の帰る場所になっていた。


「それじゃあ……行ってくるね」


 未だに不安げな顔を浮かべる弟に後ろ髪を引かれる思いで、私は金を稼ぎに出た。

 今夜は酒場で接客の仕事をした後、歓楽街の場末な娼館で体を売る。


 今となっては落ちぶれ、貴族の名も剥奪された我が身だが、一応は元貴族だ。一般教養は幼い内から学んでおり、人付き合いを円滑に行うためのコミュニケーション術も身に着けている。

 接客は勿論、コツさえ掴んでしまえば娼館で男を喜ばすのもそう難しいことじゃない。心を殺せば、見知らぬ男に抱かれるという未だ消えぬ嫌悪感も忘れられる。



 私はセリア=オルフェニカ。

 オルフェニカ家の元貴族にして、敵対派閥の貴族に騙され両親と家を失った、酷く可哀想で愚かな女。

 今日も街の隅で日銭を稼ぐ。




「ぐふっ! 今日も気持ちよかったよ。いつか身請けしてあげるからね。ぐふふっ!」

「……」


 明らかに太った、万人が満場一致で醜男と断じるような男が、汚らしい笑い声を発しながら帰っていく。

 最近この娼館を使い始めた客で、初めて相手をした私のことが相当に気に入ったようで何度も訪れ続けている。

 金を大量にあしらった腕時計と着けるなど身なりはいいのだが、こんな格安娼館を使うところに意地の悪さが表れている。

 ……自分がここに金を落とさなければ、娼婦達は生きていけない。自分の金が女達を生かしているのだと、女達を管理しているようだと悦に浸るために訪れているのだろう。


 おまけに、かなり下手だ。

 まるで自分のことしか考えていない行為で、客を喜ばさなければならないこちら側としても面倒なのだ。

 そのくせ私の演技を、自分の技で鳴かせているのだと勘違いして……まぁその方が満足して早く帰ってくれるので、良いことではあるのだが。



 男が娼館を出たことを窓から確認して、ようやっと片付けを始められる。

 汚れたシーツを職員に渡し、部屋の掃除を軽く……その時、ベッド脇のタンスの上にキラリと光る何かを見つけた。


「これは……」


 結婚指輪だった。あの醜男が来る前には無かったので、恐らくあの男の物だろう。私は指輪を観察した。

 希少な素材を用いている。意匠を凝らした模様は職人の手間暇を感じさせる。指輪の内側には、見知らぬ男女の名前が二つ掘られていた。


 つまりあの男は、嫁がいながらも娼館の常連となっていたのだ。


「……っ」


 言葉にできない、胸の奥から取り出せない……そんな嫌悪感が湧き上がった。


「ッ……幾らで、売れるかな」


 私は、私のものでない指輪をそっと、鞄の中に仕舞った。



 かいた汗と、男の体液を拭き取りながら窓の外を見上げる。

 優美な星と典麗な満月が、夜空によく映える。眩しい光が飛び交う繁華街から外れた場所であるからか、まだ貴族だった頃には見られなかった景色を眺められる。

 それが今の惨めな私の現状と対照的で、直ぐに窓から目をそらしてしまった。


 両親をなくし家から追い出されたあの日から、私は満月が嫌いになった。

 欠けてしまった自分は体を売ってまでも生きているのに、それは完璧な形で、空にのんびりと浮かんでいる。下界の汚さをまるで知らずに生きているように。


「……」




 定時が過ぎ娼館を後にした私は、その足で闇市の質屋へ向かった。男が忘れていった指輪を売り飛ばすためだ。

 ……だが、大した値段で売れなかった。少し期待していた分、落胆が大きい。


 しかり理由は分かる。結婚指輪を売りに行くのは、未練を断つためか、盗品を金に変えるための二択だ。顔を隠して売りに行った私は後者であると、店主は判断したのだろう。

 だから少ない代金を提示した。売り物であるから。後ろめたい事情があることを察したから。私が優位になれない立場であると知って。


「……」




 更に質屋を後にした私は、弟の待っている荒屋に向けて足を進める。

 早く帰らなければ。弟を養わなければならないのだから――

















 ポタリ、と間抜けな音を皮切りに雨が降り始めた。

 傘を持っているはずもない私の全身は、呆気なくずぶ濡れになる。


 いつからか、歩む足を止めてしまった。流れていた景色が制止している。



「っ……!」



 踏みしめていた地面がせり上がってきたかと勘違いしてしまう勢いで、私は地に崩れ落ちる。

 今まで耐えてきたものが、唐突に崩れてしまった。



「あ……あっ、あああぁ……あああぁァァァ!!」



 情けなく、恥も外聞もなく、泣きわめいた。

 雨が降ってくれて助かった……いや、そんなことはない。どうせ誰も私なんか見てくれていないのだから。

 幼子のように泣いたところで、無意味なのだから。



「……もう、嫌だ」



 夢見た初体験は、好きな人と、胸いっぱいの幸せを抱えてしたかったのに。

 貴族でありながら平民と平等に接し誇り高く在ろうとした両親に憧れ、様々なことを学んでいきたかったのに。

 弟の笑顔を守るため、強い姉であろうとしたのに。

 日常のちょっとした幸福を、大切にしたかったのに。



 全部、崩れた。

 もう全部全部、いらない。嫌い。大嫌い。

 眠たい。寝たい。……寝よっか。 

 寝て起きたら、大丈夫だよね。解決してるよね。

 もう体も寒くないし、雨と地面は冷たくないし。ここで寝よう。

 どうせ既に汚れた穢らわしい体なんだから、今更泥で汚れたって問題ない。

 あー、お金濡れちゃってる。……でもいっか、一週間休まず体を売り続ければ貯まる金額だし。

 私は壊れちゃうかもだけど、もう壊れちゃってるし。

 気持ちよくなくても、いつか快楽に身を落とせるときが来るかもしれないし。















『……見つけた。丁度いい素体だ』


 瞳を閉じてから、どれだけの時間が経ったのだろう。まだ雨は降り続けている。

 聞き慣れない声が耳に入り、目が覚めた。

 瞼をそっと開ければ、人影がぼうっと目に映る。三人……いや五人か。


『随分と汚れているが、研究には問題ないだろう』

『ドクターが判断する話だ』

『まだ生きている。素体の条件は十分に満たしている』

『ではこの女を回収する』

『支払いは【イビル・クロウ】に――』


 声からして男だろう。

 男達は私の体を布でくるみ、馬車に連れ込んだ。


 抵抗する力がなかった。その気もなかった。



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