第三章 逃非行
今日はゴミ出しのある日だった。
いつもより早起きしてお化粧を終えて、家を出る。
すると。
「やあ、来夢」
そこにはなぜかあまえちゃんが微笑をたたえて立っていた。
「え、なんで……?」
まだ時刻は七時半。そんな時間に人の家の前でにこやかな笑みを浮かべている彼女は、そのあまりの清涼感ゆえにより不気味だった。
「なぜって、私が君と会うのに理由なんていらないだろう?」
「……」
端的に言って、こわい。
ボクは彼女の王子様のような甘いマスクに恐怖を覚えた。
「ごめん、ちょっと朝はいそがしいから」
逃げるように急いでごみ捨てを終わらせ、家のドアをバタンと閉める。
「もう、いない……、よね……?」
家の中に入ったボクは、恐る恐るインターホンのカメラで外を眺めた。
そこにあまえちゃんの姿はない。
ということは、もう、どこかへ行ったのだろうか。
目的は果たしたということか。
しかし、するとボクに一目会うためだけに、朝早くから彼女はあんなところにつっ立っていたということになる。意味がわからない。
だけど、それ以外の可能性はボクには想像もつかなかった。
「あまえちゃん……」
ボクは何もかもおかしくなってしまった幼馴染に、どう対処すればいいんだろう。
「わかんないよ」
だってもう、きみのことなんて、ずっと忘れて暮らしてたのに。
いまさら好きだなんて言われても。困るよ。
あの時は、全然そんなこと、素振りだって見せなかったくせに。
「いってきまーす」
「いってらっしゃーい」
その三時間くらいあと。お姉ちゃんを送り出す際には、あまえちゃんは現れなかった。
やっぱりもういないのかな。なんてモヤモヤした不安を抱えながら、最近滞りつつあったVtuber活動の為の動画作成に勤しむ。
そしてそれが丁度一段落して、ちょっと遅めのお昼でも食べようかなーなんて思った頃に、それは鳴った。
ピンポーン。
インターホン。嫌な予感。
無視したい。無視したい。居留守をしたい。
ボクはすぐそうやって、いつものように臭いものに蓋をしたがってしまう。
でも、散々決別しようとして儀礼的な裏切りを重ね、お姉ちゃんに矯正までしてもらったはずの感情が、想いが、記憶が、まだ不確かにボクの中で揺らめいてしまう。
「もう、なんなんだよ……」
自分でももう自分がわからないままに、ボクはインターホンの前に立った。
的中する虫の知らせ。
そこにはやはり、男装と言っても過言ではないバトラー風の出で立ちをしたあまえちゃんが映っていた。
無視したい。無視したい。居留守をしたい。
またボクの頭の中にはそんな情けない欲求が浮かぶ。
逃げ出したい。なかったことにしたい。
だけど、画面の向こうのあまえちゃんは、もう一度チャイムを鳴らすこともなく、五分だって十分だってじっとレンズの前で直立していた。
なんなんだよ。なんなんだよ。こわい、こわいよ。
だってその目は、なぜかボクなんかのことを信用している目だ。
きっと今はボクがトイレか何かで手が離せなくて、もう少ししたら出てくるだろう、そんなことを確信している目なんだ。
どうして? やめてよ。そんな目をボクに向けていいのは、お姉ちゃんだけなのに。
「――っ!」
モニター越しに、目があった。キリッとしたあまえちゃんの目が、まっすぐにボクを見つめている。そんな、そんなわけないのに。そんな、あっちからはこっちのことなんてみえるわけもないのに。そんなこと頭ではわかっているのに。
――来夢。
なんだか、そう呼ばれたような錯覚さえ覚えた。
その声は、昔のあまえちゃんの声だった。
「ぅぅ……。うぐっ、ぅぅっ!」
うわああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!
ボクはもうどうしようもなくなって、玄関まで走った。
ガチャ。
思い切り扉を開ける、
すると。
「やあ。ごはんを作りに来たのだけど、どうかな?」
「……え? ごはん? なんで?」
いきなりの申し出に固まってしまう。
やめて、もうこないで。ボクとかかわらないで。そう言おうと決めていた数々の言葉が、彼女のきらきらとした笑顔に打ち消されていく。
「だってもうお昼時だろう? なのにどうやら君はまだ何も食べていないようだったから」
「それは、そうだけど……」
どうして、それを。
きみが、しってるの?
「じゃあ、お邪魔するよ。キッチンはあそこでいいのかな?」
「あ、うん」
「カルボナーラでいいかい? 好きだったよね?」
「う、うん」
驚く程自然に他人の家に入り込んでてきぱきと料理を始めるあまえちゃんを、ボクは呆然と眺めることしかできなかった。
湯気を立てる白いソースのかかったパスタ。
ボクはそれを見て気分が悪くなったのをひた隠しにして、ただ黙々と口に入れた。
「どうかな? 口に合うだろうか?」
あまえちゃんは両手でほおずえをついて、何が楽しいのか幸せそうな目でボクをうっとりと見つめている。
「うん、おいしい」
それは料理に慣れているボク目線で見ても、中々にいい仕上がりだった。
しかも、彼女の言った通り、この料理はボクの好物。
とても美味しい。
だけどなんだか、喜ぶのは舌だけで、お腹はそれを歓迎していないような収まりの悪さがあって。
ボクはそれを表に出さずにいられたのだろうか。自信はない。
ただ、彼女はやたら上機嫌だった。
「そうかい? 嬉しいな。おかわりもあるからね」
「あまえちゃんは食べないの?」
「私はいいんだ。これは、君の為に作ったものだから。それに、君の食べる姿を見ているだけで、私はお腹いっぱいだよ」
「そっか」
そのあと、あまえちゃんは食器の後片付けまでしっかりやって、勉強の邪魔になるといけないからと、そそくさと退出した。
ただ、
「夕食も何かつくりに来ようか?」
と、帰り際にそう言い出したときは肝が冷えた。
夕ごはんはお姉ちゃんと一緒に食べるからと説明すると、すんなり引き下がったけど。
そんなことが、数日続いた。
とはいえ、ゴミ出しや買い出しなんて毎日してなんかいない。
だからそうして外出すること自体数少ないのに、その希少な外出をする為に扉を開けると、そこには決まってあまえちゃんのにこやかな顔が待っていて。
昼ごはんなんかはなぜか彼女が毎日つくることになっていた。
ボクはそれを不気味に感じると同時に、けれどどこか受け入れていたりもして。
彼女がキッチンに立ってお昼を作る間に、Vtuberの『あらいむ』として運営しているツイッターアカウントでリプ返しのような雑務をするのが日課になっていた。リビングのソファーに寝っ転がってスマホ片手に。
ありがたいことにボクが中の人をやってるキャラクターのアカウントには二万人ものフォロワーがいて、その中の何割かはボクが呟くといいねやリツイートだけじゃなくてコメントをくれたりする。
いいねなんて四桁を超えることもままあるし、コメントもたまーに百件以上来たりする。その全部に返事をするのは引きこもりのボクといえど中々大変。けれど、そういうファンの人との距離の近さというのは人気を得る為には重要なことだ。それに、他の何をするでもなくボクの動画を見るという至極非生産的なことに時間を割いてくれた奇特な人達へ、投稿主であるボクがお礼を込めて時間を使うのは当然のことでしょ?
そういうわけで、空き時間はこうしてお返事やファンアートのいいね、リツイート、エゴサーチにあてている。また、こうしてあたかも芸能人やアイドルとして仕事をしているかのような気分に浸ることで、お姉ちゃんのヒモとしてニート生活をしている自責の念から逃れているのだ。
なんであれ、なにかをしているってのは大事なこと。それがどんなくだらないことだったとしても、なにもしないよりは自分が生きていてもいいのかなという気分にしてくれる。
そんなことを考えながら【すごーい(*゚▽゚*)】【大変だね!!!】【ありがてぃんてぃん(^O^)】【すき!!!!!!!!】【おちんちんらんど開園】【ダメです】【性自認が足りない(人差し指を立てる絵文字×10)】みたいな他愛もないリプをファンの方たちに返していると――見つけた。
『あらいむのナニ』というやべえ名前のボクのファンのアカウントを。
このアカウントは、いわゆるボクの「トップヲタ」てやつで、ボクのどんな投稿にも毎回いいねリツイートコメントの三種の神器的リアクションをしてくれている。あとその速度が大抵すごい早い。加えて、ラジオ企画でおたよりを募集したり質問箱を開設したりすると、これまた毎回反応してくれる。
例えば、今日は。
【いまエッチなゲームやってるんだけど、お姉ちゃんと幼馴染、どっちのルートに行くべきかな~???】という、ボクが朝にしたくっだらないつぶやきに、【オレーーー!!!!】という迫真のファンメをくれている。
「くふっ」
コミュニケーション能力の欠如を著しく感じさせる文面だけど、おもしろいし、ボクのことを好きでいてくれてるんだなあっていうあったかさが伝わってくるので、嫌いじゃない。
そんな画面の向こうの彼(彼女?)に向けて、ボクは【オマエーーーーー!!!!】と返信しておいた。
さて、そうこうする間にあまえちゃんは調理と配膳を終えてボクににこやかなスマイル向けた。
「ごはんだよ、来夢」
「はーい」
もういい加減あまえちゃんに見られながらのランチにも慣れた。
お姉ちゃんのために作るご飯ならまだしも、自分のためだけに作るご飯というのはどうも気が進まないから、それを誰かに作ってもらえるってのは単純にありがたい。
しかもそれが凛々しいイケメンっ娘だというのだから。
何も不満はない。
むしろただでさえロリかわなのにドSなお姉ちゃんのヒモという最高のポジションにいるのにこれ以上素晴らしいオプションがついてしまっていいのかと天罰に怯えるくらいだ。
けれど。当然。
――あまえちゃん、大学はいいのかな? 食材のお金は?
そんな疑問は浮かぶ。
見返りを求められない奉仕というのは、不思議と人を不安にさせる。
その裏に潜む含意を予期させるから。
であればこの場合、彼女がボクに昼食を作ることを通して叶えたい本当の願いとは?
――それはもちろん来夢、君と結婚するためさ。
一週間くらい前に聞いたそのセリフ。途端それが脳裏に響き渡った。
怖くて聞けなかったその単語の真意。ボクはまた向き合うことから逃げている。いつものように。引き伸ばせるのなら、いくらでも引き伸ばそうとしている。
だけどもやもやとした心の中ではいつだって、ボクは法廷に立っていた。
結婚?
何を言っているのか。ボクが、きみと?
そんなこと、出来るわけもないのに。到底不可能なのに。
だって、ボクはお姉ちゃんのモノなんだ。
それを、なんで今になって。
付き合う対象としてすら見てなかったくせに、いまさら。
いまさら、なにを……。
「どうしたんだい、来夢? 今日の料理は美味しくなかったかな?」
あまえちゃんのよく通る声がボクを頭の中から引きずり出した。
けれど、もそもそと口と手だけを動かしながら、実際には舌ではなく考え事にだけ意識を集中させていたボクに、味なんてわかるわけもない。
そして。
それでも正直にそのことを吐露しないのは、しないんじゃなくてきっと、出来ないんだろう。
ボクは急いで口の中にあったものの残滓を舌先にのせた。
逃げるのには耐えられても、嘘をつくのには耐えられないから。
「そんなことないよ、あまえちゃん」
「嘘をつかないでくれ。だって今の君のその顔は、ひどく曇っている」
「うそだと思うならあまえちゃんも食べてみればいいじゃん。ほら、おいしいよ」
ボクは一口大に切り取ったハンバーグをスプーンに乗せてあまえちゃんの方へ差し出した。
「い、いいのかい?」
彼女は珍しく、例の独特でよく通る声を詰まらせた。
「そもそもがあまえちゃんがつくったハンバーグなんだから、遠慮することはないでしょ」
「しかし、その……。君が愛しすぎて辛い……」
急遽胸を抑えて天を仰ぐあまえちゃん。ロミオとジュリエットみたい。
「はあ?」
「いや、いいんだ。とにかく、今日という日を来年から祝日にしよう」
「えー、なんでー?」
今のどこに祝う要素があったの?
「愛し合う者同士というのは、アニバーサリーを大切にするものだよ」
「そ、そうだね」
確かにボクもお姉ちゃんに初めてを奪われた日はその年以降も毎年すごいこと(婉曲表現)になってはいるよ?
でも、別にあまえちゃんとボクはそういう関係じゃないし、今日もただご飯食べてるだけなんだけど……。処女貫通とかしてないし。なにがアニバ?
悩むボクをおいてけぼりのまま、あまえちゃんのイケボが耳朶を叩く。
「じゃあ、いただくよ、来夢?」
「ど、どうぞ」
やけに神妙な顔つきでぐいっとこちらへ顔を近づけてきたあまえちゃんの迫力に負けて、思わず差し出していたスプーンを引っ込めそうになった。
しかし。
ぱくっ。
それよりも早くあまえちゃんはボクのスプーンに噛み付いて。
「もぐもぐ」
彼女は横長の目を閉じて、そんな大した量を口に入れたわけでもないのに中々の時間、そのハンバーグを幸せそうに堪能していた。
「うっ。こ、これが、来夢の口腔上皮細胞の混じった肉塊の味なんだね。美味しいよ、嗚呼、なんと甘美なる味わい。罪深すぎる……」
死ぬ程カッコイイ顔をしているのにその形のいい口先から滅茶苦茶気持ちの悪い感想が飛び出てきてボクは泣きたくなった。
いつだったかボクが飲みかけのペットボトルを持っていると無垢な声で「一口ちょーだーい」とかおねだりしてきて飲み終わるとただ「おいしーねー」なんて笑顔で言っていたかつての純粋な彼女はどこへ行ってしまったのか。
昔はその間接キスをボクだけが気にしてて、彼女はなんとも感じていなかったのに。それがどうしてこうなったのだろう。
ちなみに、ボクは当時そのペットボトルを自分の部屋にずうっと保管していたんだけど、当然のごとく母親に撤去されたよね。勝手に。
と、過去の記憶に浸って今を儚むなんて老害めいたことをしていると。
「しかし、ということはだよ? もしかして……」
また王子様系な感じに戻ったあまえちゃんは、スマホをボクの顔に突きつけた。
「私が料理をしてしまうと、『#あらいむごはん』の更新が出来ないという憂いを感じていたのかい? さっきの悲壮な顔つきは、そういうことなのかな?」
「あー……」
別にそういうわけではないのだけど。
あれは基本ちゃんとした料理をしている夕飯の時にしか上げないし。
というか。
今ので思い出した。
なんであまえちゃん、ボクがVtuberやってること――というか、もはやなんでボクが『あらいむ』だって知ってるんだ?
結婚云々はさておき、これは聞いておかないと。
「てか、なんであまえちゃん、ボクがあらいむだって知ってるの?」
「私と来夢は赤い糸で繋がれているからね。それくらい一瞬でわかるのさ」
なにそれこわい。
でもちょっと本当にそう感じさせる凄みみたいなのが彼女から出てて、より一層こわい。
「え、ボクにはそんなの見えないけど?」
「私には見えるよ。ほら、いまもこうして二人は繋がっている。一つになっている……」
「そっかー」
あまえちゃん、どうしてこんなやべえやつになってしまったんだ……。
この世を憂うボク。
そうして厭世に身を窶し神殺しさえ夢想してしまうボクは、しかし結局話を逸らす程度のことしかできない矮小な敗北者でしかない。
「でもさー、あまえちゃんてVtuberに興味なさそうなタイプじゃん?」
基本的にこの界隈はヴァーチャルなユーチューバーなだけあって二次元的――即ちオタク的な面が強いから、そういうのに疎そうなパンピーのあまえちゃんには縁遠そうなのに。
「そうだね。だから、初めは大学の知人に勧められたんだよ。この動画面白いよ、ってね」
「なるほどー」
大学生って本当に暇なんだな~。
「そして私はまるで興味がなかったはずのVtuberという次元に足を踏み入れ、あらいむ、君を知ったんだ。嗚呼、これを運命と言わずしてなんというのか!」
偶然?
「でもなんでボクがあらいむだってわかったの?」
「声とエピソード、それに加えて名前に「らいむ」と入っている。特定できない方がおかしくないかい?」
「たしかに……。ん、いやでもボク、全然地声でしゃべってないしなー」
お姉ちゃん仕込みのボイトレの成果を遺憾なく発揮して、普段からまったく違和感のない女の子ボイスを発せるようになったボク。そのパーフェクト両声類なボクが、あらいむとして声をあてるに際しては更にデフォルメされたかわいい声を出しているのだ。そんな加工に加工を重ねプリクラのフォトショ仕立てSNOW風味的なレベルで原型を留めていないボクの声を、いくらボクと十数年の歳月を共にしていたからといって、果たしてそれが実は荒城来夢の声だ――なんて、あまえちゃんは見抜けるのだろうか。
いやー、無理だと思うけどなー。
「そうだね。私もまさかあらいむちゃんが来夢だとは思いもしなかったよ。けどなぜか、あらいむちゃんの声を聞いていると、ふと懐かしい気分になったんだ。しかもその懐かしさは、大学入学以降ずっと感じていた私の無聊、空虚さを埋めてくれた。そして、なぜだろうと思いながら君の動画を見続けているうちに、確信したよ。あらいむちゃんは来夢なんだって」
自分の女声に自信があるボクとしては、それを男だと見破られたというのは中々に不服。
ボクはその原因を消し、よりかわいらしさに磨きをかけるため、あまえちゃんに話の続きを促す。ボクは女になりたいわけではないが、とにかくかわいくありたいのだ。
「ボクの声のどこが不十分だったのかなー?」
「いや、発声は完璧だったんだ。だから私はあらいむちゃんと来夢を中々結びつけることが出来なかった。当時の私は君が女の子として生活してるなんて知りもしなかったらね」
「じゃあ、なんで……?」
「さっきも言ったが、エピソードだよ。来夢」
「エピソード……? え、もしかしてあまえちゃん、ボクのラジオ形式の動画まで聴いてるくらいに重度の変態さんなの?」
ちなみに「変態さん」というのはあくまであらいむのファンのことを指す俗称であって急にボクがあまえちゃんのことを罵しりたいという欲求に駆られ血迷ったわけではないということをお伝えしておきます。
某アイドルコンテンツでユーザーのことをワグナーとかPと呼ぶのと同じノリね。
つまりボクは単に、彼女に「ボクが中の人をやっているキャラクターのファンなのか?」と、そう尋ねたに過ぎないのだと、そう思っておいてください。
すると彼女は。
「当たり前じゃないか。私は、変態だ」
「そ、そっかー」
でも、だからといってこう顔のいい人に面と向かって堂々と「変態だ!」と宣言されてしまうと、なんかこういたたまれないきもちになるね。
さらにそれが青春時代に大好きだった女の子からのモノともなると、なおさら。しかもコレ、突き詰めれば全部ボクのせいなんだよね……(自己嫌悪)。
なーんて、ボクはやるせなくうなだれているんだけど、そんな気配にあまえちゃんは無頓着らしく。追いシャリでも投下するかのような気軽さで、次弾を投じる。
「だから、君のなんてことのない話をするだけのあむらじ(あらいむラジオの略)も毎回聞いているよ?」
ま、まじかー。まさか身内に聞かれてるなんて思ってなかったから恥ずかし……。
って、え、は?
ままままままっってん上天下唯我独尊(意味不明)。
気が触れそうだぁ……。
あうー。
ごめん、ちょっと今ボク重大な失態に気づいちゃったんだけど、発表、いいですか?
あらいむラジオ、略してあむらじは、ボク(あらいむ)のことを知ってもらうためにひたすらボクが一人しゃべりするだけの一時間くらいの動画なんだけど――その中でボク、キャラの話というよりは思いっきり自分の話ししてるんだよね……(白目)。
あらいむちゃんはふたなりVtuberだからチンコの生えた女の子(年齢不詳)なんだけど、ボク自身かわいいものが好きだから、あらいむは基本的に同性愛者っていう設定なんだ。
そしてそれをいいことに、ボクはあらいむちゃんとしてお話する時も、ボク自身の過去の恋愛遍歴をほとんどそのまま話しているわけで。
この手のアレでは王道(?)な恋愛トークは人気だから、そんなでも意外と結構みんなの反応も良くて。
上機嫌になったボクはまあまあ赤裸々にぺらぺらとやってしまったような。
しかもその中でボク、たしか……。
「もちろん、君が積年の想いを衆人聴取の下で解き放った、あの伝説の回もね」
いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!
死にたい。
ううっ。「むかしボクにも好きだった女の子がいて~」なんて軽々しく画面の向こうの何千何万の視聴者に話しちゃった数ヶ月前のボクを殴りたい。
Vtuberっていうのは中の人ネタに寛容というかそれ含めてVのモノの魅力だからーなんて考えて妥協してガンガン自分語りしてたツケが、こんなところで……。
たしかにアレを当事者の一人であるあまえちゃんが聴いたらそりゃどう考えてもこれは自分のことだって思うし、中の人がボクだってわかるよ。
ということは、だからあまえちゃんはボクが自分のことを今でも好きでいると思っていたのか……(因果応報)。
うわー、もう全てが最悪だ。何も考えたくない。今すぐお姉ちゃんにこのどうしようもない穴を掘ってもらいたい。
無。無になりたひ。
「あ、あれが伝説の回って呼ばれてるのは生放送だったのにお姉ちゃんが乱入しちゃっていろいろやばいことになったからなんだけど……」
ボクは話を逸らしたくて話題の舵を切る。
だけど、彼女はこちらにイケメンフェイスを向けながら嬉々として語り始めた。
「でもまさか、私が夏祭りに誘った時、来夢がそんなにドキドキしてるとは知らなかったよ。あの時は本当にすまなかった、他の女友達も呼んだりして」
や、やめろおおおおおおお!!!!
ボクの話を聞けえええええ!!!
でもラジオは聞かないで欲しかったああああああ!!! おおん!
「う、うん」
黒歴史帳を音読されてるみたいな気分。
そうなんだよね、あの日あまえちゃんからお祭りに誘われたときは、てっきり二人きりでいくものだと勘違いしてボクだけが舞い上がってたんだよなあ。ううっ。
「修学旅行のバスで隣の席になった時も、私が君にもたれかかって眠ってしまったせいで大変だったらしいじゃないか。済まないね、私一人だけ呑気に眠ってしまって。けれど、安心してくれ。私はもう君を一人で寝かしたりなんかしない。次君の前で寝るときは、一緒のベッドで、ね?」
「ひ、ひっ」
修学旅行語り回は生放送だけでアーカイブにしてないのになんで聞いてんだよこの子。
なんなの? ガチでただのあらいむオタクじゃん。変態さんじゃん。
こんな訓練された変態さん――それこそあの『あらいむのナニ』さん並のファンがいてくれるのは嬉しいけど、それが身内だなんて、勘弁して……。
ほんと、ほんとしんどひ。
けれど、死体蹴りは終わらない。
むしろボクの恥じらいを照れだと好意的に解釈したのかなんなのかは不明だけど、あまえちゃんのトークは加速していく。
「他にも、体操着貸してなんて無茶なお願いをしてしまったことも、君の匂いが好きだなんて倒錯的なことを言ってしまったことも、間接キスを頻繁にしていたことも、毎日人目もはばからず廊下で抱きついたり……」
うひゃあ……。
てか、ボク、そんなことまで言ってたの? へ、言ったけそれ?
え、記憶にないんだけど。なんなのボク、酩酊生放送でもした?
でも全部、言ったかどうかはともかく経験したことは確かなので、それを体験させてくれたご本人から一つ一つおさらいされるこの羞恥プレイは絶対的に地獄だった。
ボクは滝のように二人の淡い思い出を羅列する機械と化したあまえちゃんを止めるべく、声をかける。これ以上はボクの精神に甚大な悪影響をもたらすので。
「わ、わかったよ。あまえちゃんがボクのあむらじをよーく聞き込んでる重症の変態さんだっていうことはわかったから、もうそれ、やめて。は、恥ずかしすぎる……」
「そうかい? ならこれだけは言わせてくれ。無意識にとはいえ、思わせぶりな態度ばかりとってすまなかった。だけど、安心して欲しい。これからの私は、そんな愚行は二度と犯さない。だって、これから私が君にするのは、全て君への愛故の行動だから。君に向ける尽く全ては、愛情表現だ。そう思って欲しい。大好きだよ、来夢」
「ひゃー……」
たすけて。
もう、頭が沸騰しそうだよお。
あまえちゃんが帰って一人になったボクは、考える。
一人でいるとどうも自分の中にあるいろんなものに敏感になって、気づいてしまう。
理由のないと思っていた好意に、動機付け――それもボクが直接の元凶で――がされたとなると、話は変わってくる。そんな当たり前の事実に。
つまり。
ボクは二年ぶりに現れた幼馴染に突然告白されて付き纏われて、正直な話不気味さすら覚えていたのだけれど。
実際のところ、そうではなくて。
彼女からしたらボクの思いの丈を先に聞いていたのだ。『あらいむ』というガワを通して。間接的にではあるけれど。
だから、彼女の中ではおそらく。
ボクたちは相思相愛なんだ。
もうボクはきみへの想いをとっくになくしているというのに。
人の想いというのは、どうしてこうもすれ違うのだろう。
だけどその違いを指摘したら、どうなってしまうんだろう。
思考はどこまでも深い底へと沈んでいく。
けれど結局。
ボクは今日も、向き合うことから逃げている。
そしてそれを、お姉ちゃんだけは許してくれると、安直にそう思っていた。
「おかえりー、お姉ちゃ……」
帰宅したお姉ちゃんをいつものように迎えるボク。
けれどハイヒールを脱ぐお姉ちゃんの表情は、いつもと違っていた。
「来夢ちゃん。やるしにしてもね、もっとうまくやってくれないかしら」
「ふぇ、なにを?」
「わかってるくせに。また、とぼけて」
向けられるげんなりとした顔。
しかし次の瞬間、その表情は包丁のように鋭くボクを貫いた。
「くさい。臭うの。女の、メスの香りが」
お姉ちゃんはそう言いながらボクの鼻を思い切り握りつぶした。
「役に立たない鼻なら、潰しちゃえば?」
そしてそのまま、頭突きをしてボクを押し倒す。
ゴン!!!
思い切りフローリングに後頭部を叩きつけられる。
「ぐっ!」
いつもと違って加減の無い危険な暴力に、ボクは一瞬クラッとしてしまった。
しかしお姉ちゃんはお構いなしに。
「それにね、これ」
彼女はボクの上に跨りそう言うと、フローリングを小さな手で攫った。
そうしてこちらへと向けられた右手の人差し指と親指の間には、あまえちゃんのものとしか思えない毛髪が挟み込まれていた。
「なによこの金髪? おかしいわよね、金色の髪した人なんてこの家にいないはずなのに。あのさあ来夢ちゃん、お姉ちゃんの髪の色知ってる? 黒。それに、あなたもその頭、自分で染めたのに何色だったか忘れちゃったのかしら。教えてあげましょうか? それ、ピンクアッシュって言うのよ」
ボクは彼女に髪を撫でられながら、弁明を……。
「か、勝手に他の人と会ってごめん、でも」
けれどお姉ちゃんは、ぱっとボクの上から離れた。
「そ。じゃあわかったら二度とこんな雑な掃除しかしていないふざけた状態であたしを出迎えたりしないで頂戴。いいわね」
お姉ちゃんは一切の感情が剥奪された声を突き付けてボクの横を通り過ぎた。
真っ白になって立ち尽くすボク。
すると、
「ああそうだ、忘れてた。コレ、買ってきてあげたわよ」
そんな声と共にボクの足元へストンと何かが投げ捨てられた。
ぼんやりとした頭でそれを拾う。
「消臭剤。他の女連れ込んでるならソレ撒くくらいの気遣いはしておいて欲しいものね。ここ数日、黙っておいてあげてはいたけれど、匂いすぎて気が狂いそうだったもの」
無感情なお姉ちゃんの声は、とっても怖かった。
だって彼女は暴力とともにボクを冷たい声で嬲る時だって、きちんと愛情を込めてくれていて。
なのに。
今のお姉ちゃんの言葉には、そういうボクへの愛というものの一切が欠落している。
「お姉ちゃん。ごめんなさい。でも、あまえちゃんは女とかじゃなくて。ただ、ほんとにただの、友達で……」
しどろもどろの陳述。
それを、お姉ちゃんはゴミを見るような目ですら見てくれない。
「はあ……、わからないかしら。あなたがどう思っているかじゃないの。相手がどう思っているかなの。だってそうじゃない? ただの友達は香水なんかつけて毎日家に上がり込んできたりなんかしないでしょう? 違う?」
「……」
そうだ、ボクだってわかっている。
ボクがどう思っていようが、あまえちゃんはボクに対して確実に好意を抱いている。恋愛の対象、あるいは性愛の対象として。
だからお姉ちゃんのその強力な瞳は、有無を言わすことなくボクをじいと見つめる。
「ね?」
「……うん」
頷く以外の選択は用意されていなかった。
「だったらそういうことよね。別にいいわよ? 来夢がそうしたいのなら。あたしにバレないように出来るのなら」
なっ……!?
「そんなの無理だよ! お姉ちゃんに隠し事なんで出来るわけないもん!」
これまで一度だって言われたことのない自由を認める発言に、ボクは叫んだ。だってそれは、ボクがお姉ちゃんから見捨てられたと同じことだから。束縛がなくなったら、ボクとお姉ちゃんを繋ぐ鎖さえ雲散霧消してしまうから。
精一杯の嘆願にも似た叫び。それは虚しく空気を揺らした。
そして感じる一瞬の静寂。
その刹那を縫って、慟哭が家中に響いた。
「――じゃあ。じゃあなんであなたは! あたしに黙って他の女と毎日会ってんのよ!!」
ありのままの、うまれたままの感情の発露。
おそらくお姉ちゃんが言葉としては久しくぶつけていなかった生の感情が、ボクの心に直接、なんの障害もなしに一直線で叩きつけられる。
胸が痛い。
でもきっとその度合いは、目の前の小さな女の子の方が上なんだ。
「あたしにバレるとわかっていて、どうして他の女と会えるの? ねえ、あたしあなたの言ってることもしてることも、全然理解できないのだけれど! 一体なんなの! 浮気して彼氏の気を引こうとするアバズレ女にでもなったつもり? 意味がわからない。死んだら? この人格破綻者。あたしはそういう輩が一番嫌いなの。殺してやりたくなる……」
お姉ちゃんは怒涛の勢いでそこまでまくし立てると、はあはあと息をつく。ボクの方をキィと睨みつけたまま。
いつもならボクの頬や首筋を痛めつけているはずの両手を、ぷるぷると握りしめて。
ボクはその細い手首が、十指が、愛おしい。焦がれてたまらない。
だから、ねだる。
「ちがうんだ、ちがうんだよお姉ちゃん。ボクはほら、臆病で、お姉ちゃんがいないとどうしようもないゴミクズだから……。だから、叱ってよお姉ちゃん。ボクがもうお姉ちゃん以外のこと、なんにも考えられなくなるように……」
けれど彼女は、
「ねえ、あたしの話聞いてた? あなたって本当に馬鹿になったのね。今あなたが言ってること、さっきあたしが大嫌いって言った奴と同じよ」
ボクのことを苛めてくれない。いたぶってくれない。
気が狂いそうだった。
「そう、だから、だから叱ってよお姉ちゃん。ボクはお仕置きされるべきことをしたんだもん。ね? そうでしょ? ね、そうだって言ってよ……」
ボクは禁じ手としてお姉ちゃんの体に縋った。直にその小さな体躯に触れて。
女王様の女体に手で触れること、それは最大の罪過、タブー。
なのに、彼女はそれを罰しなかった。
それどころか、その手を払おうとさえしてくれない。
「あたしはあなたのことが好きだから女王様でいてあげてる。でも、その価値がないようなクズ未満の輩には、そんなことをする理由も意欲もない。今のあなたは、あたしの調教を受けるにすら値しないわ。残念ね」
お姉ちゃんが恵んで下さっていた生きる理由、その直々の否定。
ボクは絶望して、その場に崩れ落ちた。
「まだ昔の幻影抱いてマス掻いてた初日の方が愛おしかったわ、来夢ちゃん」
再びボクを置き去りにして歩き始めるお姉ちゃん。
その背中に、ボクは子供みたいに問いかける。
「じゃあ、お姉ちゃんはボクにどうして欲しいの? あまえちゃんに、きみのことなんて好きでもなんでもないって言えばいいの?」
「さあ? それくらい自分で考えなさいな」
彼女は振り返ってすらくれない。背中越しに、無表情の声がボクを突き放す。
いつの間にかボクは、泣いていた。
「無理だよ……。ボクはもう自分でなんて、なに一つできないよ……。教えてよ、お姉ちゃん。ボクがどうすればいいのか、教えてよ。ボクの人生を、ちゃんと支配してよ」
「あたしだって! あたしだってわからないわよ!!! そんなの!!!」
「二人で一緒に過去を全部捨ててここに来たのに。あなただけ今更昔の女と会って。欲情して。毎日あたしのいない家でよろしくやって。あたしにはあなただけなのに、あなたはそうじゃなかったなんて。ハハ、他の女でも良かったんだ、来夢は。あはっ、理解できる? 気が狂いそうなの、お姉ちゃん。ねえ、どうすればいいと思う? ねえそうよね、どうしたらいいのかわからないのは、あなたなんかじゃなくて、どう考えたってこっちの方だもんねえ?」
「……」
普段本心を隠してボクのために女王様を演じてくれているお姉ちゃんの素顔、けれどそれは本当はとても繊細で脆くて、ボクはもうなにも言うことが出来なかった。
こんなクズにただ戒めの罰が欲しい、そんな祈りを請う。切に、ただそれのみを。
そして、お姉ちゃんはこんな時だってボクの醜い心を読んだのだろう。
「たぶんあたし、今あなたと地下室に入ったら…………殺してしまうわ」
だからお姉ちゃんはさっきからずっと、拳を固くしていたのか。肩をいからせて。
でも、ボクは。それでも――
「それでも、いいよ。それでお姉ちゃんがボクを許してくれるなら。お姉ちゃんが満足できるなら……」
だってボクはお姉ちゃんが、お姉ちゃんが大好きなんだから。誰よりも。この世で一番。
けれど――。
「あたしが! あたしが嫌なの!!! 来夢のいない世界なんて、考えられないの! なのに!!!」
今まで聞いたこともないような悲痛と弱さが、廊下の壁を揺らした。
「でもあたしは、来夢に幸せに……!!!」
お姉ちゃんはなにかを言いかけて、やめた。そのまま走って自室へと駆け込んでいく。
ボクはその小さな後ろ姿を、ただぼうっと目で追いかけることしか出来なかった。
ここでもボクは、逃げることしかできない。
次の日の朝、ボクは床の上で起きた。
もうお昼だった。
それはすぐにわかった。
なぜならキッチンではあまえちゃんがスーツの上にエプロンを付けて調理していたから。
いい匂いがする。
ボクはきっと考えなきゃいけないことから目を背けたくて、そんなことをしばらく頭に浮かべ続けていた。
けれどそれも長くは続かない。
だってずっと心が痛いんだ。そんな状態でどれだけそこから目を逸らせるだろうか。
起き上がったボクは後ろであまえちゃんがなにか言ったのも無視して玄関へ向かった。
お姉ちゃんのハイヒールが一足ない。その代わりとばかりにあまえちゃんのブーツ。
つまりボクなしでもお姉ちゃんは一人で起きて仕事にいってしまった。
それだけで泣きそうになる。
ガクッと膝をつくと、後ろから抱きかかえられた。
「来夢、やっぱりなにかあったんだね?」
「……あまえちゃんのせいでね」
思わず口をついて出た毒に、自分で驚いてしまう。
嫌味なんて、これまで全然言ったこともなかったのに。
「どういうことだい?」
「それよりあまえちゃん、なんで家にいるの?」
おかしな話だ、ボクはさっきまでずっと馬鹿みたいにここで寝てたのに。誰が彼女をこの家に招き入れるというのか。同居人はお姉ちゃんしかいないのに。
「私が君と同じ時間を過ごすのに理由なんていらないだろう?」
「そうかな。理由があった方がロマンチックな気がするけど」
「なるほど。さすがはマイハニー。これは一本取られたね」
「で、なんでいるの?」
自然と口調がいつもよりつよくなってしまう。どうも今日のボクは機嫌が悪いらしい。
……当たり前か。
「君に美味しいお昼を食べてもらうため……じゃ、だめかい?」
「それはあまえちゃんの我が家への侵入方法次第かな」
「? 侵入というのは適切な単語ではないよ? この場合は来訪や訪問がふさわ……」
「じゃあボクが鍵を開けてもいないのにどうやってお家に入ったわけ?」
「鍵なら持っているし、そもそも空いていたが……?」
「え、なんで?」
「毒姉が締めずに出て行ったからね。おそらくは私が入れるように」
ボクが聞きたかったのはそっちではなくて前者についてだったんだけど。
でも後者のそれも十分に聞き捨てならない話だった。
あのしっかりもののお姉ちゃんが鍵を締めずに出て行くなんて無用心なことをしただって? 信じられない。
でも、それは単なる不注意なのは確かだ。
だってお姉ちゃんがわざわざあまえちゃんとボクの接触を助長させるようなことするわけないし。
しかしそれは、それだけボクのこの曖昧な態度がお姉ちゃんを追い詰めているということで。あの優秀なお姉ちゃんに鍵の締め忘れなんてつまらない凡ミスをさせてしまくくらいに。
ボクはますます目の前のあまえちゃんに憎しみを抱いてしまう。
それが完全な責任転嫁に過ぎないと知りながら。むしろ、それ故になおさら。
「やはり昨日、なにかあったのかな? 今日の来夢は、どこか元気がない」
全部おまえのせいだ。そう言えたらどんなに楽だろう。
それでもボクは言えないのだ。
お姉ちゃんにあんな思いをさせておきながら、あそこまで言われながら。なお。
その理由がわかっているからこそ、嫌になる。
まだボクは彼女にどこか、古い面影を見ているんだ。
だから。
どこか遠くへ行きたい。
過去を置き去りにするほどの遠くへ。
目の前に倒すべき障壁があるのにそんなことを考えてしまう。最低な自分。
「大丈夫かい? 顔色が悪いよ?」
どこまでも清純なあまえちゃんに返す言葉を失ったボクは、また。
逃げる。
逃げる、ことにした。
立ち上がって走り出す。
玄関の扉に突進して外へ出る。
あまり好きではない外へ、大好きだったはずの家から。
出る。
走る。
「来夢!?」
そんな声がした気がした。
けれど後ろ髪は引かれない。
むしろそこから遠ざかりたいのだ。
何も考えたくないんだから。
どうして適当に生きているだけで幸せになれないんだろう。
受身で生きてちゃどうしていけないの?
自分から何かをしなくちゃ幸せにはなれないなんて変じゃないか。
出てくるのはクズの思考ばかり。姉のヒモ、それさえも全うできないクズ未満のナニカは、どこまでも落ちていく。
うなだれながら無計画に走り続けると、何度も罵声やクラクションを飛ばされた。
久々の社会の空気はボクに厳しくて、至極まともにボクを叱ってくれる。
ザーッ。
気づけば雨さえ降り出して、ボクの四肢を猛烈に叩く。
秋空の豪雨は毒のように体温を奪った。
でも、クズにすらなりそこねたボクには、そんな苦境が心地よく。なんだか自分にふさわしい扱われ方をされているような気がして。
少し立ち止まって灰色の空を見上げる。目に水が入り込んできた。
世界はボクに涙を、悲劇を望むのだろうか?
わからない。
ただ、「このまま死んでしまえたら楽だな」そんな思考だけがボクの中でひたすらにとぐろを巻いていた。
あまえちゃんを悲しませたくはない。あまえちゃんに嫌われたくはない。
お姉ちゃんを裏切りたくはない。お姉ちゃんに愛されていたい。
そんなことばかり考えていたのに。
どうしてあまえちゃんのことを嫌いになりかけて、お姉ちゃんからは嫌われてしまったのだろう。どうしてこんなに、胸が痛いんだろう。苦しいのだろう。
なんだかもう、やだよ。なにもかもが、めんどくさいんだよ。
人と関わるのはしんどいことばかり。そんな諦観を思い出す。
もっとも、それだけならよかった。ボクだけが辛くて済むのなら。
ところが、現実は違う。ボクだけでは済んでいない。
そう、ボクと関わったせいで、二人を不幸にしてしまった。
あまえちゃんをこんなクズになびかせた挙句、人格まで代えさせてしまった。
お姉ちゃんにずっと自分のためたくさんの時間とお金を費やさせたのに、それを数日で裏切ってしまった。
二人は素晴らしい人間なのに。全部、ボクのせいで。
だからきっと、ボクとかかわらない方が。二人は。よりより人生を歩めていたはずだ。
ああ、そうだよ。ボクさえ、ボクさえいなければ。
――死んだら?
そう、昨日。お姉ちゃんは確かにそう言った。
もっともだ。
なにせボクは自分では遊びほうけて働かず、お姉ちゃんの稼ぎに頼りきって引きこもるだけの生き恥人間。そのうえ人に悪影響しか与えていない。
どうしてボクは生きているんだろう。
これまではその不安をいつもお姉ちゃんが安らぎに変えてくれていた。
けれど、もう。
その道しるべはない。
なら――。
生きていたって、つらいだけ。死んでしまったって、無になるだけ。
無になる方が、楽ではないか。死こそ最大の逃避ではないか。それは逃げるのしか能がないボクが取るにふさわしき選択ではあるまいか。
一歩を踏み出す。
いま、ボクは生命から一歩。後退したのだろうか。
カーンカーンカーン。
警笛が鳴っている。
人を拒むための柵が、上方より道路を断絶しにかかる。
踏切は己の役目を果たそうとしていた。けたたましい電車の騒音が近付いてくる。
目の前には、危険を知らしめる黄と黒のバー。人間を阻む一本の棒。
けれど、ボクは人間失格コミクズ未満。であるならば、この境界を超えるになんら問題はなくて。たとえば蟻が電車に轢かれたとて誰も咎めないのと同じことで。
カーンカーンカーン。
いつもなら耳障りに感ずるはずのその警告音に引き寄せられるようにして、ボクは。
その列車からの手向けを夢想する。
もう一歩、踏み出した。
とうとう、限界線を超えてしまう。日常の終わり。
振動を感じる。左から、轟音がボクを穿ちにやってくる。
こわい。
ああ、あれだけ贅言御託を並べ立てて決心しておきながら、ボクはまた逃げ出したくなってしまう。いよいよクズの本領発揮といったところだろうか。逃げることからさえ、逃げる。どこまで負け犬なのだろう。
どの口でボクはいまさら死にたくないなどというのだろう。
さっきまであんな悲劇のヒロインを気取っておきながら。
ぱちっ。
世界が黒く染まる。
目を閉じた。恐怖から逃げるためだ。
耳を塞いだ。迫り来る死の予感から逃げるためだ。
ああ、いつになったらボクは遥か彼方まで逃げられるんだろう。
まだか、まだか、まだか。まだ終わらないのか。もうすぐじゃないのか。
ふと、
「来夢―――――――!!!!!」
そんな幻聴が耳を貫いた。
最後の最後でお姉ちゃんじゃなくてあまえちゃんの声を聞くなんて、ボクは本当に最低の裏切り者だなと、そんな考えが頭をよぎる。
刹那。
ボクの体は凄まじい衝撃を受けて吹き飛ばされた。
ガタンゴトン、ガタンゴトン。
……なぜか、まだ電車の音が聞こえる。
「来夢、来夢! なんで! バカ!!」
そして頭上からは、あの端正な声ではなくて、かつての、少女だった頃と同じお転婆な彼女の声がした。
けれどその声は、かつて聞いたことのない必死さでボクをなじっている。
幻聴かな?
だったらどれだけ良かったろうか。これが死後の世界の見せるまやかしなら。
ボクは目を開く。
「あまえ……」
目の前には素顔の幼馴染。
整っていた金髪もメイクも服装も、雨に濡れてぐしゃぐしゃになっている。
体型こそ大人びたけれど、本当の顔つきは全然変わっていない。
かわいい。
今ボクを抱きしめている彼女は、やっぱりボクの大好きだった天羽あまえなんだ。
――こんな時にボクは何を考えているんだろう?
ボクはまた逃げているのかな。考えるべきことから逃げるために。
けれど、彼女はもう。ボクを逃がしてはくれないらしい。
いつの間にかすっかりボクより大きくなってしまった肉体が、ボクの全身を包むように抱きしめた。
「来夢、もう二度とこんなことしないで」
彼女の声は震えていた。
その瞳が濡れているのは、この雨のせいだ――そう思いたくなるくらいに。
「……」
追い詰められたボクは、何も言えない。
だってそうだろう。あんなことをしたあとで、無様にそれを阻止されて。
命の恩人にどんな顔で口を開けばいい?
けれどそんな無気力を、彼女は許してくれない。
「うんって、ねえ、うんって言ってよ! 言ってくれないと、うち……」
まるで小学校の頃、修学旅行の班が一緒じゃないとやだって駄々をこねていた時のようだ。ふと、そんなことを思い出してしまった。
でも、違うんだ。
「ううん、ちがう。『うち』じゃない」
ほら。
線路に突っ立っているボクを命懸けで突き飛ばした王子様はもう、ボクにその幼い顔を向けてはくれない。
降り続く雨を憎いと思った。
なぜなら、その濁流が、彼女の過去を洗い流したかのように感じたから。
「私……、私は、君を死ねなくしてしまうよ?」
あまえちゃんは、濁った目でボクを見た。
雨が降っていて良かった。
そうでなかったら今の彼女の瞳はきっと、あの空のようにひどく曇っていただろうから。
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