第61話 剣士顕正

 開いた扉の向こうの部屋へ飛び込んで、周囲を見回す。周囲に気配らしい気配は残されていなかった。しいて言うなら、強い力の名残のようなものが感じられなくもない、という程度だ。本来ならこの部屋はさぞ強力な結界やら罠やらで満たされていたんだろうと思うが、英雄たちのおかげで、今のところそれがこちらに牙をむいてくる様子はない。


 つまり邪鬼・汪がいるとしたら、これまでの要塞の意匠とは明らかに違う、この部屋のぎんぎらの装飾に隠れるように、部屋の奥に小さく設置されている、扉の向こうということになるのだろう。周囲の気配を警戒しつつも、ヒュノはだっと奥へ駆け出す――やいなや、足を止めた。


 自分の後ろにいるロワのさらに背後、さっき通ってきたばかりの扉が急に閉まった。いや閉まったというか唐突に壁ができた。つまりなにか妙な力の働きがあった、ということになる。


 それよりもなによりも、ヒュノの感覚は、部屋の中央に、強烈な気配が生じているのを捉えていた。なにもなかったはずの空間から、ずるり、ずるりと引きずられるように、こちら側へとんでもない代物が滲み出てくる。


 ヒュノは剣を構え、襲撃に備えた。どんな代物が出てくるにしろ、自分にできることも期待されていることも、ただ敵を斬り伏せることだけなのだ。ヒュノとしては、せいぜい気合を入れてそれをやっつける以外にない。それ以外のことをしたいとも思わない。


 ただ、一刀。一閃。一撃。それに全霊を込めるのみ。そんないつもと変わらぬ心地で見つめる視線の先で、それはこの世に現れ出た。


「っ……!」


『ヴッ……ノッ……モッ……』


「ひ……」


『ヴノォォオォァアァアッ!! ヴンノォアアァオォモッ!!』


 これまでに幾度も会敵したものと変わらぬ、触手を伸ばした肉の塊。邪神の眷族だ。だが、それが今までの相手と違っているのは、周りにまき散らす強烈な腐臭だった。


 肉が腐っているようには見えないのに、周囲の空気そのものが腐っていくような気がするほど、強烈な腐臭を纏っているそれは、腐臭を少しでも部屋中に広げんとするかのごとく、大仰に身を震わせこちらに突進してきた。ヒュノはまだ毒されていない空気を大きく吸い込んだのち、それを迎撃せんと剣を構え直す――


 ――その次の瞬間、世界が止まった。気配も空気の流れも肉体の反射運動でさえも、もろもろすべてが一時固まり、動きを止める。以前にも体感した、心話を行っている状態に陥っている、と実感し、ヒュノは低くロワに告げた。


『これはわざとか? それともたまたまか?』


『……たまたま、でもあるけど、心話を通じさせたいとも思ってたよ。聞いてくれ。目の前にいる敵の腐臭――よどんだ空気は、万物を腐らせる』


『は?』


『今俺は、必死に霊魂の領域に近づこうとしてるから、敵の纏ってる空気の霊的な性質が見えたんだ。まともに吸い込めば肺が腐るし、剣で打ち合えば剣が腐るだろう。今のお前は、ネテから防護術式やら魔力付与術式やらかけてもらってるから、すぐにってわけじゃないだろうと思うけど……いつまでも打ち合ってたら、それでもたぶんまずいと思う』


『……なるほど、な。まぁ邪鬼・汪を護る最後の番人って役どころなわけだから、あっさり倒されるような奴は出してこねぇだろうと思ってたけどよ』


 そう呟いて、思わず嘆息する。厄介なことになった。ただでさえ強力な邪神の眷族の体に、相当高度な技の冴えが与えられているというのに、こちらが実力をまともに発揮できないような手も打たれたわけか。なにも考えずに戦えば長引くが、長引けばこちらが負ける仕掛けになっている、と。


『……それでも勝てる、って思うんだな?』


『ん? ああ。勝てねぇって気がしねぇから、たぶん勝てるだろ。厄介だとは思うけどよ』


『そう、か。……俺にできることって、なにかあるか?』


『んー、そーだな……』


 数瞬ヒュノは考え込んで、うんとうなずいて告げる。


『ロワ。お前、俺らの戦いうまく避けて、奥の扉開けて先に行ってくれ』


『……はっ?』


『んで、うまいこと邪鬼・汪をなんとかしてくれ。頼んだぜ』


『え? いやいやいやいや、え!? ちょ、それって、えぇ!? お前……本気で言ってるのか!?』


『冗談で言ってるように聞こえたか?』


『…………。お前は、俺が、邪鬼・汪をなんとかできるって思ってるのか?』


『や、そこらへんはわかんねぇよ。邪鬼・汪がどんな奴かって、自分の目で見たわけじゃねーし。向こうの部屋に入ったとたん即死、って可能性もそれなりにあんじゃね?』


『………えー………』


『けど、それって俺が一緒に行ってもおんなじだろーしさ。罠を見極める目ってことなら、俺よりもお前の方がありそうだし。なんとかできねぇかもしんねぇけど、なんとかできる可能性もそれなりにあんだろ。だから任せた。なんとかしてくれ。できなかったらできなかった時のことだから、なんとか生き残って突破口教えてくれ』


『………そう、か。わかった……やってみるよ。俺がこの部屋に残ってても、お前の戦いの邪魔になるだけだっていうのは、確かだしな』


 あ、それも伝わったのか、とヒュノは軽く肩をすくめる。実際、ヒュノを一人で奥の部屋に向かわせるのは、『ロワを護りながらこの邪神の眷族と戦うのがしんどいから』というのが一番の理由ではあるのだ。周囲の空気が次々汚染されていってしまうとなると、防護術式をかけてもらっていないロワを守り通せる未来はちょっと見えてこない。


『ま、そーいうこった。頼んだぜ』


『ああ……。あのさ、ヒュノ』


『ん?』


『お前、俺に、なにか言いたいこととかないか?』


『はい?』


 ヒュノはきょとんとして、思わず首を傾げてしまった。


『え、なに? 言いたいことって、なんで?』


『今回も……というか、もしかしたら俺たちがパーティを組んでからずっと、かもしれないけど。ヒュノにはいつも、最前線で切った張ったする役っていうか……難敵を力業でなんとかさせちゃう役目を押しつけっぱなしだろ。それができるからって理由で。そういう力があって、他に選択の余地がないからって理由で』


『はぁ……まぁ、そーだな』


『それで……嫌な気持ちとか、屈託っていうか、投げ出したい気持ちとか、不満とか苛立ちとか、あったら聞いときたいなって思って。なにもできないかもしれないけど、なにかできるかもしれないし。最低でも気持ちのぶつけどころにはなれるから。言いたくない気持ちでも、ぶつけた方がすっきりすることもあるかと思って。どう、かな』


『んー………』


 ヒュノは数瞬、自分にしてはそれなりに深く考え込んでから、きっぱりと答えを告げる。


『いや、ねーわ。わざわざ気ぃ使ってもらって悪ぃけど、まるっきりねーよ、そんなん』


『そ、そっか』


『ああ。ぶっちゃけ最前線の切った張ったってのは俺の得意だし、そーいう経験積めるってのは望むところだし。後衛だの周りの監督だのに回されるよかよっぽどいいぜ。だからそーいう気とか使わねーでくれよな、本気で』


『……そっか。わかった。だけど、誰かにぶつけたい気持ちがあったりしたら、まず俺にぶつけてくれていいからな。英霊召喚術式は、英霊とも英霊を降ろす先の相手とも、心魂を同調させることが重要だから、そうしてくれないと役目が果たせないし』


『あいよ。で、この心話状態っていつまで続くんだ? ぶっちゃけ、何度も何度もこの状態に入るようだったら、調子崩れんだけど』


 思うところをずけずけと言い放つヒュノに、ロワはなぜか、ふふっと柔らかく笑って答えた。


『双方の求めるところがずれてたら、すぐに解除されると思うよ。想うところは同じでも、行動する時だと両方が――』


 その言葉の途中で、世界は動きを取り戻す。体は呼吸を再開し、空気がこれまでと同じように流れ始め、今にも襲いかかろうとしていた邪神の眷族は双腕を振り上げる。


 その中で、ヒュノは一気に前へと踏み込んだ。一瞬の呼吸で全身に力を取り入れられるだけ取り入れてから、その状態で身体の働き――呼吸に伴う生体反応を一時的に停止。魔力の付与された愛剣を振るい、一刀のもとに敵の体を斬り裂くべく、全身で突っ込む。


 邪神の眷族は、おもむろに背中から生やした触手を使ってそれを受けた。同時に腹からも触手を生やし、剣を受け止めた一瞬の隙を狙って、ヒュノの腕を撃ち抜かんとする。


 だが、ヒュノはそれに伴う意識の揺らぎを突いた。邪神の眷族というのは、まともな技を与えられている連中は、多かれ少なかれ人としての意識に近いものを持っている。というか、もともと人であった奴らであるはずだ。英霊がかつて神々が加護を与えた連中の行きつく果てであるのなら、邪神の眷族は邪神が加護を与えた連中の行きつく果て、というか人としての技術やそれに伴う意識を縁り憑かされた代物であるのかもしれない。


 だからこそ人としての優れた技を持ち――だからこそ、人としての意識の隙ができる。


 体の動きを一気に加速する。たとえ向こうがこちらの能力を、かけられた術式込みで完全に看破していたとしても、目の前の動きに緩急をつけられれば、人ならばほとんどが意識がつられる。その加速が術式によって得られる通常の枠を超えた加速ならなおのことだ。


 こちらの攻撃を受け止めた触手から剣を滑らせる。そのままの勢いで流れるように返し、斬り返しへと転じる。ネーツェの強力な魔術で力を与えられ、加速された自分の身体は、一瞬ならばそれくらいの速さは得られると、身体から受け取る感覚で理解していた。


 一閃。邪神の眷族の脚部を、攻撃がくると意識すらしていないところを刈る。


 二閃。体の位置を移動させつつ、腹から伸びた触手を、不意を討ったと確信して伸ばす手を斬り落とす。


 三閃。そうして開いた身体の中心、邪神の眷族の〝核〟までの道を、全身の力を一突きに込め、貫き通す。


 一瞬に三度、剣閃がひらめいたのち、邪神の眷族はびくん、と大きく体を震わせてから塵に還った。素早く飛び退って、小さく呼吸を再開する――も、ヒュノは戦闘態勢を解いてはいない。


 あっけなさすぎるというのもあるが、なにより周囲の空気に漂う腐臭が消えない。周囲の空気を汚染しきるまで隠れ潜むという腹か。そうなるとだいぶ厄介な話になるが――


 素早く回転を始めるヒュノの思考を、ロワの叫びが一瞬遮る。息せき切って、慌てふためいた口調で、必死の声を叩きつけてくる。


「ヒュノ! 扉が開かない!」


「……はぁ?」


「開かないんだ! 押しても引いても開かない! 鍵がかかってるとは思うんだけど、それだけじゃなくて、扉を強固にしたり結界として使ったりみたいなこともしてるみたいな感じで……! もともとこの扉は結界の一部だったんだろうから、その効果の一部を無理やり引き出してるんだろうと思うけど……!」


「はぁ……? いや、今俺にんなこと言われてもさ……」


 眉を寄せながらちらりと扉の方を向いて、はっとした。ロワの後ろで、影が立ち上ろうとしている。天井の術式による光源からの光で、ロワの足元にわだかまっていた影が、後方に大きく伸びて立ち上がり、異形の化け物の姿を形作ろうとしているのだ。


 その影にはロワを一撃で死に至らしめるだけの力があることを、ヒュノは影が漂わせる殺気から悟った。ロワは扉を開けようとするのに必死で、まるでそれに気づかない。さっきの言葉も、その作業に必死になるあまり漏れ出てしまった台詞なのだろう。振り向いたとしても、ロワがなにか反応する前に、この影はロワの命を奪うはずだ。


 一瞬刻ルテンにも満たぬ間に、いくつもの思考が交錯する。自分が斬るか? 影なんていう形のないものをどうやって? 自分の剣はまだその域には至っていない。そもそも間合いが遠い、一足では術式の補助込みでも届かない。ロワをかばう? かばったところで、防御策を講じていなければどちらもそのまま死ぬだけだ。その程度のことはあの影ならたぶんたやすい。そしてそもそも間合いが遠いのだ、そんな余裕があるわけはない。ロワに呼びかける? 呼びかけて反応して、こちらを振り向いて、その間に影はロワをあっさり殺せるだろう。そしてたぶん、ロワがどんなに素早く反応したとしても、この影にロワは勝てない。


 一瞬の思考の混乱。だが混濁には至らない。心身が、心魂が、ひとつの行為を為すべく統一される。いつものように、それしかできないがゆえに。どれだけ相手が強かろうと、自分の力が足りなかろうと、どれだけ不利な状況が揃っていようと。


 ―――斬る。それのみ。


『女神エベクレナ』


 剣を振るうその刹那にも足りない一時に、思考が走る。思考は光ほどにも速い、というネーツェの言葉通りに、数多の思考が幾重にもひらめく。


『俺に力を貸してくれ。俺が誓いを果たすために。隣にいる尊敬できる奴のために俺の剣は振るわれる。だから、俺はまだ、なくしたくないんだ。隣にいる奴に生きていてほしいんだ。だから、どうか、頼む。女神エベクレナ。この願いを聞き届けてくれ。今の俺にはまるで至れていない、最高と呼べる一刀を俺に振るわせてくれ。断つべきものを断ち、活かすべきものを活かす剣を。この奇跡を与えてくれるなら、俺は』


 そして、その刹那に走った雑念でしかない想いに、奇跡は力を貸してくれた。


「――――ッ!!!」


 一閃。遠い間合いの、自分ではどうやっても届かない距離にいる、自分の腕ではいまだ斬れない姿をした敵。それを、自分に与えられた奇跡は、一撃で、斬り捨てた。


「……………」


 思わず、瞬間、呆然とする。なんだ今のは、なんだったんだありゃ、なんで俺があんな一撃を放てたんだ、と突然の不条理に困惑する。


 だが、すぐに気づく。つまり、あれが、自分に与えられた分の『小さな奇跡』だったわけか。神に与えられた奇跡でもって、自分はあれだけの一撃を放つことができてしまったわけだ。奇跡というものはそれほどのものなわけだ。


『こりゃ、確かに、神さまってのは崇められるわけだよなぁ……』


 そんなのんきな想いが落ちてくる。神の敬虔な信者である奴らには噴飯ものかもしれないが、ヒュノにとって神とはこれまで、たとえ加護を与えられていても、それくらい縁遠いものだった。


 だが、これは、なんというか、頭の悪い自分なりに、考えなくてはいけないことなのだと骨身にしみた。神の一柱がどういうわけか自分に目をかけてくれている、その理由とそれに対してどう応えるかを、どう生きるかを決めなくてはならないと心底思ったのだ。


「……っ? 扉が……切れてる!? え、なんだこれ、ヒュノがやったのか!?」


「……おー、ついでになー……」


 この状況でそんなことに反応するとはのんきな奴、と自分のことを棚に上げて苦笑する。自分の一刀は、距離を超え、力を隔てる壁を超え、断つべきものを断ったのだ。あの影ごと扉と、その向こうにある邪なものを斬った感触が、ヒュノの腕にはいまだ残っている。


「そ、そっか! じゃあ、俺、行ってくる! ……ありがとうっ!」


「……おー」


『……頑張れよ』


 気のない返事をしながら、心の中だけでそんなことを思う。ロワも別に自分に励まされたくはないだろうと思ったのだが、心の中でぐらいならそんなことを考えてもよかろうと勝手に考え定めたのだ。


 自分の剣を振るう理由。父を亡くしてから、剣を振るう先も、剣の向かう先も見えなくなっていた自分には、そんなものがあると考えることすらできなかった代物だ。


 そんな御大層なものがあんな奴に繋がっていたという顛末は、ヒュノにとっても思いもかけなかったことには違いないが、同時にめったにない幸運という気もしていた。


 敵を斬ること、それ以外のことを考えもしてこなかった、それが当たり前だった自分の人生に、ああやって人を気遣う奴が紛れ込んできたこと。敵と斬り合ってばかりでは辛いのじゃないかなどと無駄な気をまわして、辛い気持ちがあるなら自分にぶつけてくれと見当違いもはなはだしい言葉を投げかけてくる奴が隣にいること。命を助けられたことを理解していなくとも、自分にありがとうと言ってくる奴が仲間だということ。


 そいつのために、そいつらのために、自分は剣を振るうと決めた。そう決められたことが心地いい。あいつらのために剣を振るえるのが、悪くないと素直に想える。ああいう奴のためにだったら、自分が剣を振るった先に、そう悪くない結末が待っているかもしれないと、信じることすらできる気がするのだ。


 ――だから、ヒュノは、ロワがこちらをまともに振り向くことなく、奥の部屋へ飛び込んでいったことに感謝した。


「ご……ッ、げっ、ほ、ォッ……!」


 喉の奥から湧いてきた血を、咳と共に吐き捨てる。自分にかけられた守護の術式が護れる範囲を、周囲の空気に満たされた毒の量が超えてしまったのだろう。


 ロワの飛び込んだ扉があった場所に、入り口同様の幕が張られる。今の自分では斬り裂けるかどうか正直心もとない。逃げ場はない、というわけだ。


 そんな中、ずるぅり、ずるぅりと、周囲の空間からいくつもの肉の塊が現れ出る。影の方は発生の源まで丸ごと斬ったが、腐臭の方はそこまではできなかったわけだ。さらに加えて、腐臭とも影とも性質が違う肉の塊もまぎれるようにして出てくる気配がある。


 客観的に見て、勝ちの目は少なかろう。だが、ヒュノは気にせず、むしろにやりと笑みを浮かべた。


 自分の進む道、至る先はすでに示されている。自分が剣を振るったのちに、ややこしいことを片付けてくれるだろう仲間も戦っている。なのにためらう理由はどこにもない。負ければ死ぬだけ、あるいは魂を穢されて、永遠の苦しみを味わうだけ。だからせいぜい気合を入れて、斬るべきものを斬り捨てるのみだ。自分の剣の結末は、たぶんあいつらがマシな方向へ導いてくれるだろう。


 そんなことをちらりと考えて、ヒュノは手近な敵に斬りかかる一歩を踏み込んだ。

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