第60話 魔術師臨戦
「……おい、本当に、大丈夫だと、思うかっ?」
「本人が大丈夫だっつってたんだし、大丈夫じゃねぇの? っつか、いまさら言ってもしょーがねーだろ、それ」
「だからっ、そういう、問題じゃ、なくてだなっ」
さっきよりもさらに進む速度を増したヒュノに、正直まともについていけず、ぜぇはぁと息を荒げながら告げた質問に、あっさり冷たい返事をされて、ネーツェは鼻白む。本当に、これだから天才って奴らは。
自分の少し後ろで走っているロワは、自分よりもさらに、ついていくのにいっぱいいっぱい、というのを絵に描いたような様子だった。今にも死にそうなほど顔色が悪く、まともな呼吸もおぼつかない状態で、下手をしなくとも今にもぶっ倒れそうなほどだ。
そんなロワにネーツェはやむを得ず、走りながら何度も体力賦活やら体力回復やらの術式を、短く小さな詠唱で発動させ、ロワの体力を回復する。はっきり言ってこんな術式でちまちま延命措置をするより、とっとと休んで普通に体力を回復するのが一番いいに決まっているのだが、現状そんな選択をする余裕はどこにもないことを、ネーツェは誰よりよく理解していた。
ジルディンと別れて進むこと、数
そうしなければカティフの死の危険性を少しでも減らすという意味でも、自分たちの命を護るという意味でも、依頼を達成するために努力するという意味でも、自分たちの目論見が破局を迎えることは疑いようがなかっただろう。だがそれでも、あのどうしようもない阿呆天才児を一人残して、自分たちだけで先に進んでいるこの現状を、素直によしとできるほど、ネーツェは人の心を捨てていなかった。どうしても『自分は仲間を見捨ててきてしまった』と、重苦しい罪悪感が胃の腑に沈む。
だからついつい言葉にもそういう気持ちが漏れてしまうのだが、ヒュノはそんな言葉に、まともに取り合うことすらしようとはしない。今も自分たちの戦闘で、湧いて出る邪鬼の眷属どもを一瞬も休まず斬り捨てて、自分たちの進む穴を開けてくれているのだから、そんな余裕もないだろうし取り合うことを求めること自体論外だ、というのはネーツェ自身理解している、つもりではあるのだが。
どうしても、この期に及んで、雑念が次々湧いてきてしまう。『もう数
それだけこの状況が負担であり、そして衝撃でもあったということなのだろう、という程度の自己の心情の客観視は、さすがに今でもできている。だがそれでも、自己の心の制御にはとても至れない。精神は千々に乱れ、魂魄すら混濁した気分になってしまいそうなほどだ。逃避欲や恐怖心を抑えつけることはできているけれども、その分周囲への攻撃性が自分でも嫌になるほど高まっている。
そして、自分の心をそこまでぐちゃぐちゃにしてしまっている衝動の根本が、『ジルディンが数回しか教わっていないという伝達術をあっさり完璧に発動させた』という事実にあることが、自分でも嫌になるほどの小物ぶりだと、自分自身思えてしかたないのだった。
「ネテ、道」
「わかってるっ! 次の曲がり角を曲がったらっ、ひたすら右にっ、曲がること十一回っ、それから左っ、に曲がること七回っ! 螺旋を描く、坂道からっ、それと隣り合うっ、螺旋の坂道を登ってっ、いく形だっ!」
「あいよ」
言って足を速めるヒュノに、ネーツェもひたすらに息を整えながらついていく。感情は暴走して今にもはち切れそうだったが、それを外には出さないようにできるくらいの理性の持ち合わせはあった。歯を食いしばりながら、少しでも早くことを終わらせるために、ただ前へ、前へ――
二つの螺旋の坂道を登り終え、長い直線を走りぬき、幾度も幾度も行ったり来たりをくり返さねばならない折り重なった通路を通り抜け。次々現れ出る邪鬼の眷属たちを、通るのに必要な分、こちらに被害が出ずにすむぐらいには、きっちりヒュノが殺しきり。
そんな道行が、唐突に止まった。目の前にあるのは、扉だ。それも普通に開け閉めできる程度の大きさではなく、高さは三
「これ、は……」
呟いたネーツェの前で、ヒュノが軽く肩をすくめた。
「ただの勘なんだけどよ。俺、この扉、開けられそうな気がしねぇんだよな」
「………なん、だと?」
「なんか、術法だか能力だか、そーいう代物が妙なことしてねぇか? 視てみてくんね?」
「ちょ、ちょっと待ってろ!」
息を整えながら、慌てて調査術式を発動させる。足を止めた自分たちのため、激しく動いて攻撃範囲を広げ、次々現れ出る邪鬼の眷族を薙ぎ払い続けるヒュノを背景に、魔力の流れ、術式の影響、そういったものを妨害術式を警戒しながら読み取り――思わず絶句した。妨害術式は施されていない。むしろ読み取ってほしいのではないかと思うほどだ。だがこれは、読み取ったとしても、本当に、どうしようも。
「……この扉が閉ざされているのは確かだ。比較的平易だが、閉門施錠術式がかかってる。開けること自体は、僕でもさして難しくない」
「ふぅん。……で、なんか裏があんだよな?」
「ああ……開錠の術式はいくつか種類があるが、この扉は、そのどの術式でも開かないようにできている。当然斥候が使うような鍵開けの技術も通用しない。開けるために必要なのは、簡単な魔力制御だ。この扉の中の魔力回路に自身の魔力を通して、一本の魔力の線を描けばいいだけだ。……だけど」
「だけど?」
「……この扉は、魔力回路に魔力を、『通し続ける』ことが必要なんだ。そうしなければ開かないようにできている。魔力を通し続け、『開け』と命じ続けなけりゃならない。そして、内側からはその魔力回路に魔力が届かないようにもできているんだよ」
「そ、れ、って……」
ようやく少し穏やかになってきた呼吸の下から問いかけるロワに、ネーツェは心中の行き場のない感情を叩きつけるように言い放つ。
「ああ。つまり少なくとも、ここで一人は残って魔力を通し続けなけりゃ、奥に行ったとしても閉じ込められて出てこれない、そういう仕組みになってるんだよ。一人は確実にここで脱落せざるをえない、そういう罠ってわけだ。……そして、僕はその罠を解除できない。ジルと違ってな」
「なんでジルが出てくんだ?」
ヒュノのこの期に及んで飄々とした問いに、ネーツェは思わずカッとなって怒鳴り散らす。
「ジルだったら、その精妙な魔力制御で、魔力回路に魔力が『通し続けられている』と錯覚するだけの、強烈な残滓が残り続ける魔力を通すことができるからだよ! 僕と違ってな! この扉の存在はあいつも知ってただろうが、それでもさして気にしなかったんだ、自分なら問題なく開けられるから! どうせあいつは僕たちでも開けられるだろう、なんぞと簡単に楽観的に考えてたんだろうよ、そうでなきゃ一人で勝手に呪いの対処に残ったりしないだろうからな! だけど僕じゃ、僕の実力じゃ、天地がひっくり返ったってそんな高度な技術は駆使できないんだっ!」
怒りをまき散らし、苛立ちを叩きつけ、苦痛で腹の底を斬り裂かれているような気分で、ネーツェは絶叫する。自分ではできない。どうしたって届かない。自分では本物の天才のようには、絶対に絶対にいかないのだ。
何度も何度もそう言っているのに、天才どもは当然のように、自分ができるからと簡単に後始末を任せてくる。買いかぶるな。押しつけるな。僕の力は、本当に、お前たちには、及ばないんだ。
胃の腑がねじ切れるような腹立たしさと悔しさに、拳を振るわせながらそう叫ぶ――と。
「なら、それは、俺の役目だな」
ようやっと呼吸を整え終えたロワに、あっさりとそう告げらて、思わず愕然とした。
「は……? ロワ、お前、なに言って……」
「? ここで、一人、脱落することになるんだろ? だったら、その役目は俺しかいないじゃないか。俺とネテを比べれば、ネテが奥に行った方がいいに決まってるんだから。『小さな奇跡』をそのために使えば、二人が戻ってくるまで生き延びるくらいのことは、たとえ俺でもできると思う。素人でも、邪鬼を殴り倒せるくらいの力がもたらされるというからには、そのくらいのことはできるはず」
「っ……だからって!」
「……そうだな。頼んだぜ、ロワ」
「うん」
軽くうなずいて進み出るロワと扉の間に、ネーツェは勢い込んで割り込んだ。顔を真っ赤にして、自分自身けたたましいとすら感じながら、喚くように怒鳴り散らす。
「却下だ却下! パーティの知恵袋たる魔術師の端くれとして、それは断固却下せざるをえないっ!」
「えっ……どうして」
「その一! 魔力制御の不安! 確かに簡単な魔力制御ではあるが、それでも奥に入った奴らが戻るまで絶えず続けなくてはならない以上、世間一般で腕利きと言われる程度には魔力制御に熟達している必要はあるんだ! 加護を与えられていない以上、駆け出し冒険者の域を出ない能力しか持ち合わせていないと考えられるロワに任せるのは、あまりに不安が勝ちすぎる!」
「っ……」
「その二! 生存の不安! 『奇跡の力を使えば生き延びられる』と言うが、神々から与えられた奇跡は基本的に、『ひとつの行為』に対して与えられるものだと僕は考える! 一瞬、一発、一撃、そういった行為にこそ最大の効果が発揮させられるはずだ! 『生き延びる』という、幾多の行為の積み重ねによる結果を導くために使うのは、むしろ最大の悪手である、と考えざるをえない! それともそれを否定する情報でもあるのか、ロワ!?」
「ひ、否定は、できないかもしれないけど……」
「その三! 今後の戦いの趨勢にどちらが有利か! 確かにできることの多さで言えば、僕はロワにはるかに勝っているだろう! だが、この先に残っているのは、部屋がひとつかふたつ程度! つまり扉を開ければ即、邪鬼・汪との戦いということも考えられる段階だ! つまり、僕の使う魔術師の支援術式を、扉を開ける前にありったけかけておく、という戦術が成立しうる! そこまでやったあとに僕にできることなんて、ほとんど残っていない! せいぜいが残り少ない魔力で攻撃呪文をいくつか飛ばす程度! それならたとえ発動率が低くとも、英霊召喚術式という鬼札を持っているロワを行かせた方がいい! 僕はそう考える!」
「そっ……れ、は」
「どうだ、どう思う、ロワ!」
「ど、どうって……」
「どう思う、ヒュノ!」
「……お前らに任せる。どっちもそれなりに得があんだから、どっちがやりたいかだろ」
「そうか、ならばはっきり言うが、僕は断固として扉を開ける役をやりたい! お前はどうだ、ロワ!」
「だ、けど……っ、…………。わかったよ、ネテに任せる」
「………感謝する」
ふーっ、と深々息をつく。いくぶん無理を通しているのは自分でもよくわかっていたが、それでもネーツェはこの役を、ロワに任せるわけにはいかなかったのだ。
ロワの言う、『小さな奇跡』というものに関しては、ネーツェもある程度の知識を有していた。曲がりなりにもロヴァナケトゥルゥガの智の学院で学んでいたのだ、大陸各地の神話くらいは頭に入っている。殿を務めたり、門を護りきったり、そういう類の行いを、神に与えられた奇跡によってやり通した人間がどうなるか、くらいはネーツェでも知っているのだ。
その者たちは、例外なく、その命を天に捧げる結果に終わっている。大陸中の神話で、ただのひとつも例外なく。それを実際にやろうとするのは、自殺行為とほぼ同義ということだ。
さすがにそれを見過ごすわけにはいかない。目の前で仲間が自殺行為に身を投じるのを放置するほど、自分は人間をやめていない。それなら自分が実力でもってこの門を守り抜き、ヒュノたちが戻ってくるのを待つ方がましだ。
それに、ジルディンから伝達された情報によれば、邪鬼・汪が鎮座しているのはこの扉のすぐ向こうの大部屋だったのは、間違いのない事実だ。そのまた奥にもうひとつ部屋があったから、今ではそちらに移動しているかもしれないとは思うが、どちらにしろ転移が使えない以上、扉を開けたほぼ直後に決戦、ということになるだろう。ネーツェが(半ばその場の勢いで)口にした戦術が成立しうるのも、そのあとネーツェにできることがほぼなくなるのもまた事実なのだ。
他に手はない、と一度だけ深呼吸をして、ネーツェは扉に向き直った。魔力回路のもう見えている道に魔力を通すくらいの作業なら、術式の発動と並行して進めるくらいのことはできる。背後でヒュノが幾度も邪鬼の眷属たちを薙ぎ払っている気配を感じながら、扉に手を触れた。
魔力を通す。急がず、揺れず震えず、力強く。できる限り道に魔力が残るように。無駄な魔力が漏れないように。精神をそうひたすらに集中させるべく、唸りながら歯を食いしばる――と、ふいに、背中に、誰かの手が触れた。
え、なんだ、と一瞬困惑が精神を揺らしたかと思うや、体の震えが止まる。いやこれは体の震えが止まるというよりは世界の動きが止まったと言うべき、などと走る思考をよそに、声がした。
『ネテ』
『………ロワ!? え、なんだお前これって……心話か!?』
『うん。最初に英霊召喚術式を発動させようと唸ってた時に、全員に同調術式はかけてたから、その名残を使って心話ができないかと思って。実際、さっきジルにはできたし』
『そ、そう、なのか……え、もしかしてジルが突然空中に飛び出して術式使い始めたのって、お前の差し金か!?』
『いやそんなわけないだろ。俺だってびっくりしたよ。ジルだってそんなこと考えてる素振り全然見せなかったし。ただまぁ、あの状況だとジルが動いてくれなけりゃ、俺たち全滅だったというか、少なくともカティを残して全員この要塞から退場することになってたと思うけど』
『ぬ、む、む……』
意識の中で、歯ぎしりして唸り声を上げる。自分の中に渦巻く激情を、そうでもしなければ消化しきれなかったからだが、ロワが続けて告げた言葉に、思わずその激情を一瞬忘れた。
『だから、今回も、それと同じことをしようと思って』
『………はっ?』
『ジルにやったのと同じことを、今回もできないかなって思って。ネテの中の鬱屈やらなんやらを、うまく受け止めてやれないかなって』
『は……? は!? はぁぁぁ!? お前なに言ってんだなに抜かしてくれちゃってんだ!? ジルと同じことが俺にできるわけないだろうが!?』
『そうだな。それは普通にそう思う』
『あのクソ天才野郎どもと僕は違う! 同じことをやれと言われてもできないんだ! うろ覚えの術式をあっさり発動させたり、ぶっつけで高難度の術式を成功させてみせたりなんてのはなっ!』
『そうだな。そう思う』
『だから……同じことをしろ、なんて、言われても。僕には、どうしようも……』
『そうだな。俺も、本当にそう思うよ』
『…………』
激情をぶつけてしまったあと、ネーツェは自分の中のその憤激が、みるみる冷めていくのを感じていた。ロワにそんなことを言ってどうするというのか。ネーツェが自分で言っていたことなのに。『はたから見れば僕たちもさして変わらなくはあるんだろう』と。パーティ内でただ一人加護を受け取っていないロワこそが、誰より悔しさと憤ろしさを抱いて然るべきであることを、自分は理解しているはずなのに。
『……すまなかった。僕が言っていいことじゃ、なかったな』
『そんなこともないんじゃないか? 誰が言ってもいい、というか誰だって当たり前に抱く気持ちだろ、そんなのは』
『だけど……。……こんなことを真正面から言う方が無礼だということを承知で言うぞ。女神の加護を受けている人間が、恵まれている人間が、受けていない人間、恵みを与えられていない人間に、愚痴と弱音を吐き散らすなんてのは、噴飯ものなんて段階じゃないだろう。お前は、お前こそが、誰より怒りを抱いてしかるべきじゃないのか?』
『でも、俺の立場だって他の人から見たら妬まれてしかるべきって、言えなくもないだろ?』
『……へっ?』
『俺みたいに、別に俺自身になにかすごい能力があるわけでもないのに、しょっちゅう女神さまたちと会って話ができる、なんて他の人から見たらそれこそ噴飯ものじゃないか? ルタジュレナさんだってそういう態度だったし』
『あ……あ~~、そ、そう、か……』
思わずあっけに取られてしまった。確かにそうかもしれない、いやその通りではあるのだが、どれだけすごい人だろうと、単に会って話ができるという立場を羨むという発想がネーツェにはなかったのだ。
『いやでもそれとこれとは……僕にはジルと並ぶだけの機会というか、天与はあるわけだし……』
『与えられてるっていう視点からなら、才能のあるなしも大きな違いではあるんだろ?』
『ぬっ……』
『どんな人生を送ってきた奴だって、どんな恵まれた環境にいる奴だって、愚痴を言いたくなる時はある。これが俺の本音なのは、わかるだろ? 心話なんだから』
それは、わかる。理解できてしまう。心と心が繋がっているから、否応なしに伝わってきてしまう。
『今は、俺よりもネテの方が精神状態が安定していてもらわないと困るわけだから。心話が途切れるまでくらいなら、愚痴のぶつけどころくらいにはなるよってこと。一緒に依頼を果たすパーティメンバーとして、当たり前の協力だろ、そのくらい』
――そのくらいしなければ、申し訳なさといたたまれなさで、とても立っていられない。
伝わってくる。その気持ちも伝わってきてしまう。ロワはそれを理解しているのだろうか、自覚しているのだろうか。たぶん自覚しているだろう。今ロワを必死に急かしているのは、英霊召喚術式を、今こそそれがなにより必要な時なのに、まるで発動させることができなかった罪悪感だということを、自覚した上で丸裸になっているのだ。
自分の心を少しでも楽にするために。少しでも依頼を果たす役に立ちたいという、そうでなければ合わせる顔がないという、見栄と意地による心慰のために。そういう心の屈託も、すべてネーツェに伝わってしまうことを、承知の上で。
ネーツェは、苦笑の形に意識を緩めた。ネーツェの有する知識の中では、こんな時に返せる反応がそれくらいしかなかったのだ。
『お前も……なんていうか、難儀な奴だよな』
そんな想いに、ロワも苦笑の形をした反応を返す。
『お互い様だろ』
『そうだな。お互い様だ』
自分の中の妬み、嫉み、憎しみ、恨み。見栄、傲慢、自惚れ、気位。そういうものが身勝手な感情だと、相手にそんな想いに対する反応を求める方こそ思い上がりだという、当たり前の事実を理解し合っている者同士として、苦笑を交わす。それくらいしか、自分たちにできることはないのだから。そんな想いをせめてもの慰めとして、幾度も自己嫌悪に陥りながらも、やると決めたことをやるしかないのだから。そうでなくては、自分たちは本当に、どこにも進めなくなってしまうのだから――
――そしてその瞬間、世界の動きが再始動した。
『………よしっ!』
心の中で気合を入れて、魔力制御を再開する。魔力回路に一本の線を通す。気分が乗っているのが自分でもわかった。調子がいいと自覚できる。ジルディンには、あのクソ天才児にはとうてい及ばない程度であろうとも、ここでこの役目が果たせるのはネーツェしかいないのだ。そういう気分になれる時は、まず間違いなく揺らぎなく、魔力は徹る。
「――〝汝十一度の翠華、我が導きにて潜みし力を沸き立たせよ、胎内の暗晦より光景生む正にして良の力たるべし、一の王と一の帝より剣士へ律法によりて通ぜよ、力〟! 〝汝八度の白剣、剣刃の内より纏い連なれ、戦陣斬り裂く尖刃にして千尋貫く先陣たるべし、一の王と一の帝より剣士へ律法によりて通ぜよ、刃〟! 〝汝六度の紺箭――〟」
魔力を徹しながら幾度も支援術式を発動させる。魔力制御自体は本当に決して難易度は高くないのだ、そのくらいのことはさすがにできる。ネーツェの使える支援術式をありったけかけ終えると、さすがに魔力はごっそりと減ったが、それでもある程度の魔術戦を行えるだけの魔力は、目算通りきっちり残った。
それとほぼ同時に、魔力回路に魔力の線を通し終える。やいなや、ほとんど壁のようにしか見えなかった扉が、ずずずっと音を立てて左右へと滑り、壁の中へと引っ込んでいく。智の学園で使われていた魔力で開く扉に似た挙動で、行く道が解放されるや、ヒュノは疾風よりもなお速く飛び出していき、ロワもその後に続いた。
『……頑張れよ』
思わず心中で呟いてしまってから、いやなにを言ってるんだわざわざ僕に言われなくてもあいつは、あいつらは頑張るだろう、と打ち消す。そもそも頑張らなくてはならないのは自分も同じなのだ、このあとはヒュノが戻ってくるまで、あとからあとから湧いて出る邪鬼の眷族の対処をしながら、魔力回路に魔力を徹し続けなくてはならない。
まぁ、もちろん、それができるだけの目算は立てているのだが。
「ギギャギャギャギャッ! ……ギッ……」
「グゲゲゴグゲェッ! ……ジッ……」
自分の周囲に湧き出る邪鬼の眷属たちが、次々塵に還っていく。さっきヒュノに護られながら術式を発動させまくっていた時に、あらかじめ発動させていた単純な攻性防壁術式――防壁に触れている状態で攻撃しようとしてくる相手に、一定の損害を与えつつ攻撃の勢いを削ぐ結界を張る術式だが、今回はあらかじめそこそこ魔力を注ぎ込んで、その範囲を大きく拡大しておいた。
つまり、自分の周り、接近戦に持ち込める間合いに出現してくる邪鬼の眷属たちは、現れて攻撃しようとする意志を見せたとたんに、攻性防壁に攻撃されることになるわけだ。本来ならせいぜいがある程度の傷をつける、ぐらいの攻撃力しかない防壁でも、相手が邪鬼・汪の加護を受けた眷族ならば、どれだけ湧き出してこようとも自動的に殲滅できる。
遠距離から攻撃しようとしてくるならば、低威力・高速発動の術式によって先んじるくらいはできる。そして先んじることができさえすれば、この要塞の中の眷属どもを打ち倒すのはたやすい。結界やらなにやらをあらかじめ張られているような、術式に対応した敵兵は、この要塞の中では一度も現れていないことくらい、ネーツェも気がついているのだ。
あとはせいぜい警戒しながら、二人の帰りを待っていればいい。さして難しい仕事じゃない、と一人気合を入れ直す――と、突然、扉があった空間に、黄金色の幕が張られた。扉が閉まったのではなく、扉があった場所に視界を塞ぐ壁が新たに作られたのだ。
結界だ、と理解するより早く、ぞわん、ぞわんと、その幕から二体、毒々しい紅に染められた触手をいくつもだらりと垂らした、肉の塊としか言いようのないものが、こぼれるように生まれ出てくる。邪神の眷族だ、と理解して、思わず愕然とした。邪鬼の眷属たち相手なら圧倒的な優勢を保ちえたとしても、邪神の眷族が相手となれば、まるで話は違ってくる。相手は自分たちがこの一件の最初の依頼を請けた時、神雷状態へと至ったヒュノの剣閃でさえも受けきった連中なのだ。それが、二体。
仰天し、動転し、混乱するネーツェの前で、二体の邪神の眷族は、『イイイィィィィッ!!』と、気がふれそうな鳴き声を上げた。
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