第59話 神官飛翔

 は、は、は、は。ひぃっ、ひぃっ、ひぃっ、ひぃっ。


 懸命に走る自分たちから発せられる二種の呼吸音に、違和感というか疑問を覚えながら、ジルディンは魔力を練っていた。走りながら魔力を練って、移動しながら発動できるようになったのは、あの性格の悪いおばさんたちのせいなのだが、さすがにこの状況で好き嫌いを言う気はない。ヒュノが処理しきれなくなった時に、術式で襲ってくる眷属どもを薙ぎ払うのは自分の方がいいだろう、ぐらいの推測はジルディンにだってできるのだ。


 ヒュノからすれば相当にこちらを気遣っているらしい速度で移動しているとはいっても、いつ術式の発動を要求されてもいいように魔力を練り続けているので、ジルディンとしては正直『そろそろ休憩しねー?』とか言いたかった。自分たちの後ろで、カティフが一人囮になっていることを理解していなければ、たぶん実際言っていたと思う。


 だがさすがにこの状況で、カティフもヒュノもネーツェも、一生懸命戦っている中でさすがにそんなことは言えない。というか言っていたらたぶん殴られている。ジルディンといえどそのくらいの状況は読めるのだ。だから魔力を半ば使い果たした状態からさほど時間が経たないうちに、まだ周囲の空気から魔力を取り込み終えられていないのに、そこそこ頑張ってヒュノのあとについて走らされても、文句を言わずに健気に自分なりの役割を果たしている。


 ただ、その中で気になっているのが、ロワのことだった。


 ロワはさっきからずっと、自分たちよりはるかに激しく息を荒げながら、体力が尽きる限界寸前、死ぬ気で気力を振り絞ってます、という顔で自分たちのあとについてきている。それがなんというか、違和感と疑問を覚えずにはいられなかったのだ。


 ロワは出会ってからこの方、ジルディンよりはるかに体力がある奴だった。前衛を担う一人なのだから当たり前といえば当たり前なのだろうが、習った鍛生術を地道に練習しつつ毎日訓練をくり返していたし、もともと野外生活にも慣れているようで、移動の時に体力を使い果たして音を上げる、なんてところは一度も見たことがない。


 それが、今回はこれとは。別に走る以外になにかやっているわけでもないのに。ジルディンとネーツェが以前と体力面で変わったところなんて、性格の悪いおばさんたちに鍛生術を教えられて、そのための(きっつい)訓練を(強制的に)やらされた程度だ。訓練期間なんて二巡刻アユンにも満たないはず(密度が濃かったという自覚はあるが)。ロワがずっと続けてきた訓練の長さとは比べるべくもない。


 それなのに、今実際にロワは、気息奄々と、もう半死半生とすら言いたくなるくらいに疲労感を表しながら、自分たちについてきている。それがどうにも違和感というか、不思議でならなかったのだ。


「ジル。道案内」


「あ、うんごめん! こっからしばらく左! 左側の壁に沿ってずーっと進んで!」


「了解」


 言って走り出すヒュノの背中には、微塵の疲労感もうかがえないのに。変だなぁ妙だなぁ、とジルディンはひたすらに戸惑いながら、ヒュノのあとについて走った。


 と、先頭を走るヒュノの足が突然緩みだす。疲労感というほどのものは感じ取れないものの、ジルディンは驚き慌てて、足の進みは緩んでも剣はまるで遅滞なく、ちぎっては投げという勢いで敵を斬り倒し続けるヒュノに問いかけた。


「え、なに、なんかあったわけ?」


「ああ。この先、しばらく左なんだったな? 左側の壁に沿ってずーっと進む、って」


「う、うん、そうだけど……?」


「その道、床がねぇぞ」


『………へっ?』


「だから、床がない。空気の流れがそんな感じだ。普通にゃ絶対進めねぇ、っつーか壁とか伝っても無理なんじゃねぇかな。床がない場所が少なくとも百ソネータは続いてて、そこには外のクッソ高ぇ場所からの風が吹き込みまくってるわけだから。まー普通に、ちょっとした嵐くらいの風力はあんだろ、これ」


「え、なっ……な、なんで!?」


「いやだから邪鬼・汪の防衛策なんだろ? 元からそういう構造なのかどうかは知らねぇけどさ。だから少し足緩めるから、その間に打開策考えてくれ」


「だ、かいさく、って……」


 思わず呟いたジルディンの言葉に応えもせず、ヒュノは自分で言った通りに足の進みを緩め、その代わりに振り回す剣の範囲を広げ(自分たちの前を進んでいるのに、意味わからないぐらいの軽業じみた動きで、自分たちの背後の敵を倒したりしているのだ)つつ前へ進むヒュノの後ろで、自分たち――というかジルディンとネーツェは、ヒュノの後ろを小走りで進みつつ、顔色を変えて話し合った。ロワは今にも倒れ込みそうなほど息が荒く体もふらついていて、どう見てもまともに話し合いに参加できなさそうだったからだ。


「打開策……っつっても、なんかある?」


「方策自体ならいくらでもあるだろう。僕だって飛行術式くらいは使えるし、お前の風操術だって、人を浮かせる風を吹かせる術式は、片手に余るほどあるはずだ」


「いや、そりゃそーなんだけどさー。フツーに考えて、そこって罠なわけだろ? だからフツーに考えたらそーいうフツーに術式かけて飛んでっても、途中で解除されるとか無効化されるとかみたいなことになんねー?」


「珍しく真っ当なことを言うじゃないか、その通りだ。だから僕たちはその罠をどうくぐり抜けるかを考え出さなきゃならないってことだよ」


「え、や、でも、人があれこれ考えて作った罠を、その場であれこれ考えて無効化するのって、フツーに考えて無理じゃねー?」


「ああ、まったく珍しく頭がまともに働いてるみたいじゃないか、嬉しくないが。その通りだよ。お前の言ってることはこの上なく正論だ。だがここは無理を通さなくちゃならない場面なんだよ。残された時間はそれほど多くないし、囮になってくれてるカティだっていつまでもつかわからない。そんな状況で普通無理だなんだと言ってられるわけがないだろうが! いいからとっととなにか案をひねり出せ、僕も必死に考えてるんだから!」


「えぇー……!? えー……いやでも、んなこと言われたってさ……」


 困るというかまいるというか、そんな難問自分の手に負えるわけがない、と投げ出したい気分が倍増しになるような言い草だと思うのだが、横から見ても実際ネーツェには余裕がない。ぎりぎりまで思い詰めてる感じが満載で、今にも叫び声が漏れ出しそうだ。そこになにか口出しして怒られるのも嫌だなぁと思ったジルディンは、とりあえず視線をずらして、自分たちの後ろを走っているロワに話しかけた。今にも倒れそうなのは確かだが、さっきよりは少し息も落ち着いてきたし、この状況下では役に立つのならそれこそ親でも使いたい。


「ロワは? なんか案ないの?」


「―――ッひゅッ、ひゅゥーっ、はぁーッ、ひゅっはァーッ、ひゅーっ、ひっ、ひゅーっ………あ………」


「馬鹿かお前は知ってたけど大馬鹿か! 今にも倒れそうな奴相手にそんな難問ぶつけてどうする、お前には人の心というものの持ち合わせがないのかっ!」


「え、だってさぁ、ロワってもともと俺らより体力ずっとあったじゃん? この仕事初めてからの訓練だって、ずっと一緒にやってたしさ。それなのにいきなり俺らより体力なくなってるって、おかしくね?」


「阿呆かお前は心底からの低能か! 僕たちは女神の加護を受けていて、ロワはそうじゃないだろう! それは訓練による能力の向上にも、というかそういう分野にこそ甚大な効果を発揮するんだよ! 訓練効率の桁が努力やらなんやらじゃ埋めようがないほど圧倒的に違うんだ、鍛生術の腕前そのものもそれを体力向上に活かす技術も、僕たちはすでにロワをはるかに引き離してる! その上で大陸の中でも有数の英雄たちに密度の濃い特訓をされまくったんだ、体力が普通の前衛くらいにしかないロワより、ずっと上になるに決まってるだろう!」


「えっ……いやだって……えーなにそれ、おかしくね!? いやだってそれ、なんていうかさぁ……不公平じゃん! ロワの方がずっと真面目に、長い間地道に訓練してたのに!」


 ジルディンが正直な気持ちを心のままにぶつけると、ネーツェはぎっ、と半ば殺気すら籠った視線でこちらを睨みつけ、言い放つ。


「そうだよ、不公平なんだよこの上なくな。天与の差っていうのはそういうものなんだ。他者から与えられた環境や、生まれつき有している才能と同じくな。言っておくが、今お前が感じている納得のいかなさの数倍、数十倍、数百倍ってくらいの悔しさや憤ろしさを、お前は周りから抱かれてるんだぞ。たとえ女神の加護がなかったとしても、お前の魔力制御の才能はそれだけ他者から抜きん出てるんだからな。その上同じ女神から恩寵だけじゃなく加護まで与えられてるんだぞ、当たり前の神官から見たらお前の恵まれようは、殺意すら抱かれるほどのものだろうさ。まぁはたから見れば僕たちもさして変わらなくはあるんだろうが」


「え……」


「少しは自覚したか? なら作戦立案を進めろ! 言っとくが僕だってこの状況でこんなことを言うのは死ぬほど不本意なんだからなこのクソ馬鹿たれ! 恵まれてるってことを理解したんなら、それに値するだけのことを為してみろクソたわけ!」


「……………」


 ぽかん、と思わず口を開けるジルディンに、心底からの怒りと苛立ちのこもった言葉を叩きつけるや、ネーツェはすぐに視線を前に逸らして足早に歩を進めていってしまう。ジルディンも慌ててそのあとに続くが、なんだかだんだん猛烈に腹が立ってきた。理不尽なことを言われたという気がすごくする。苛立つしムカつくし納得いかない。なんで自分がそんなことを言われなくてはならないのか。


 今からでも言い返してやろうかとも思ったが、自分のすぐ後ろで、半死半生というくらいに息を荒げながら必死に足を動かしているロワの様子をうかがうと、さすがにその勢いも失せてしまう。さっきロワの目の前であんな言い争いをしたあとで、またその言い争いを蒸し返すというのは、なんだか嫌だなとジルディンも思うのだ。


 けれど、それでも、腹の底のムカつきは消えなかった。納得いかない、そんなことを言われる筋合いはないとしか思えない。なんとか反論してやりたくてたまらない。


 だからといってどうしたらいいかという案が湧いて出てくるわけもなく、ジルディンはむかむかしながら足を進めるしかなかったのだが。






 最終的に採択されたのは、壁歩きの術式だった。一般的な魔術の中でも有名かつ難易度が低い部類の概念操作術式なんだそうだ。壁を地面とみなして歩けるようにする、という効果を重力操作やら推力操作やらで扱おうとすると、費用対効果に合わなさすぎる高難易度の魔力操作や術式構成を行わなくてはならないのだが、概念操作術式は『大陸中の人類の概念の方向性を総計し、数・量的に高い概念ほど付与しやすくなる』という特質があるとかなんとかで、他の術法でもよくある術式である壁歩きはそこそこ簡単な部類らしい。概念操作術式なんだからもちろんそれ相応の難易度はある、だそうだがジルディンはそこまで詳しく聞く気はなかった。


 進むことしばし、自分たちの肌にもはっきり風の流れが、それも相当強烈な風の流れが感じられるようになってきた頃、ネーツェは素早くその術式を発動させた。すぐに効果が切れる術式ではないので、なにが出てきても対応する余裕がそれなりにある今のうちに使っておきたいんだとか。


 なぜ壁歩きかというと、飛行術式よりも難易度が低く、かけ直しが容易で、浮遊術式よりも速度と対応力が持てる術式だから、という理由らしい。途中で術式の効果が切れても、ヒュノだったら数瞬刻ルテン、場合によっては数十瞬刻ルテン壁を走り続けられるかもしれない、というヒュノの発言も大きかっただろうが。


 まぁ術式のかけ直しができなかった場合には、ヒュノだけは先に行けても他の三人は全員あの世行きか、少なくともこの要塞からはご退場、ということになるのだから、ジルディンとしてはそんな展開ごめんだ。自分なりに風操術でもなんでも使って、時間稼ぎでもなんでもしてやるつもりだった。


 術式をかけてもらってから、さらに進むことしばし。ヒュノが突き進み穴を開ける敵の陣容が、薄くなってきたというか数が少なくなってきたな、と思った頃、その場所に続く道へ出た。


 視線の届く限り、少なくともこの先数百ソネータ近くは、直線通路になっている。そしてその真ん中あたり、だいたい百ソネータほどが、いきなり外壁になっていた。


 普通に続いていたはずの通路の、床と外壁側の壁がいきなりきれいになくなっているのだ。そして百ソネータ進むとまた普通の通路に戻る。手抜きというかなんというか、気流の調整について手を加えている様子がまるでなく、その開いた穴からはすさまじい勢いで目も明けられないほどの暴風が吹きつけてくるし、気温そのものも震えるほど低い。最初に飛び込んだ時開いていた窓穴からはまるで風が吹き込んでこなかったのだから、これは意図的なものなのだろう。


 つまりぜってー罠あるってことだよな、と思いつつ、一瞬足を止めて、ちらりと後ろに視線を向けてきたヒュノに、三人揃ってうなずく。ネーツェの立てた作戦は、さすがに聞いたのがついさっきのことなので、しっかり頭に入っていた。


 ヒュノが素早く剣を腰の鞘に収め、ひょいとロワを担ぎ上げた。さすがの膂力というか、革鎧とはいえ鎧を身につけた前衛職相手に余裕の俵かつぎだ。

 同時にネーツェがあらかじめ詠唱を唱え終え、発動待機させていた身体強化術式で、全員の足の速さを上げる。この術式は身体強化術式の中では難易度が低い上、魔力をつぎ込めばつぎ込むほど効果が上がるのだ。全力で魔力を込めて、三人の移動速度を一気に倍以上まで上げていった。


 さらに同時に、ジルディンは思いきり浄化の風を吹かせる。自分たちの周囲、これから通る通路、暴風吹き荒れる外壁部分とその周囲、その向こうにある通路までの空間を、全力で浄化し、そこにいた邪鬼の眷属たちをまるごと消し飛ばして、同時に風の流れを支配した。


 要するに、やれることはできる限りやっておく、という作戦だった。走るのが遅いロワをヒュノが担いで移動し、そうすると敵殲滅に手が割けなくなるので全力の浄化の風であらかじめ周囲の敵を一掃、術式で機動力を上げて対応力を地味に上げつつ、できる限り一瞬で外壁部分を走り抜ける、という。浄化の風を吹かせた上でそれを維持することなら全力で走りながらでもできるし、吹き荒れる暴風で移動速度が落ちるということも避けられる。


 それに対策のいちいちが無効化されたとしても、風の流れを支配しておけば、落下を遅らせることもできるから、自分たちの身体能力で挽回できるかもしれない。だいぶ希望的観測に偏ってはいるが、こんな状況でそれに頼らない作戦なんて立てようがないだろう。


 そんな感慨から抜け出る暇もなく、自分たちはロワをかついだヒュノを先頭にして走り出す。それをネーツェが追い、ネーツェよりいくぶん身体能力の高いジルディンが最後尾で状況を見極め、支援できるなら支援する形だ。ぶっちゃけ自信はないが、カティフがいない以上自分以外にできる奴がいない。


 カティ大丈夫かな、一人で英霊の手助けもなしで、という考えがちらりと浮かんだが、それをなんとかするためにもまずは自分たちが助からなけりゃならないだろう。きっと無理やり顔を上げ、必死に足を進めた。


 ヒュノはロワをかついだまま、流れるような動きで走る場所を床から壁へと変えていく。自分たちもそのあとを追う。ヒュノと比べれば若干ぎこちない動きではあったが、術式はきちんとその働きを発揮してくれていた。抵抗感や不安定さはまるでなく、自分の意識する〝下〟があっさり床から壁に変わる。


 外壁部分に出る。だがジルディンの風操術で支配された風の流れは、たとえ高高度の大気の中でも自分たちの邪魔はしなかった。自分たちはみるみるうちに百ソネータの半ばを駆け抜け、たものの。


「っ……!」


 周囲に、じんわりと黒い染みがにじんできていた。邪鬼の眷属たちの再出現だ。ネーツェの作戦でも、たとえジルディンの浄化の風で、風が行き渡る限りの敵をすべて殲滅したとしても、おそらく壁を渡りきる前に再出現が始まる計算になると言っていた。


 だがだからといってここで足を止めてしまうと、本命の罠に対処する余裕が失われる。だからここはあえて敵を殲滅するよりも前進を優先したい、ということだった。ヒュノとしては『別に肩にロワを抱えてても剣は振れる』ということだったので、まずい状況になった時には頼ることになっていたが、それでも基本的には前進優先だ。少しでも早く向こう側の通路にたどり着かなければ、と懸命に足を進める――


 と、唐突に、足がずるっと滑った。


 えっなんだこれこんな時に足滑るとか馬鹿か俺!? と一瞬脳裏に呆れたような思念が走るも、その一瞬の間に『違う』という否定の思念もひらめく。単純に足が滑ったとかいうんじゃない、今一瞬確かに、ジルディンの感覚は魔力の流れを感じた。


 そして一瞬が過ぎるやジルディンはずるっと滑った勢いのままに壁に思いきり激突する。反射的に受け身は取ったが、それでもやっぱり痛いは痛い。だが当然そんなことを言っている余裕はない、と立ち上がりかけて、ついた手すらもがずるうりと滑るのに気づき、仰天した。


 半ば反射的に視線を前に向け、ネーツェも同時に尻から壁に転倒したこと、転びはしなかったがヒュノも体勢を崩したこと、そして同時にヒュノの足もずるうりと下へ――本来自分たちが〝下〟と認識する方向へずれていくのを見て取って、確信した。


 これは呪術だ。邪神たちから伝えられたという、他者に不幸を呼ぶための邪術のひとつ。


 もちろんその内容は種々雑多、千変万化で、簡単に術式の特定ができるものじゃないが、これはジルディンにもわかる。この一帯に呪いが――通る者に『不幸を呼ぶ』という、単純にして基本の術式が付与されているのだ。


 空を飛んでも、壁を走っても、瞬間転移を行ったとしても関係ない。この場所を『通る』だけで呪いは発動する。そしてこの術式は単純で基本の代物だからこそ、『怨念とつぎ込んだ代償が大きいほど効果が激増する』という、呪術の基本法則がもっとも強く現れる術式として知られている。だからこそどれだけ強い権力、暴力、財力を持つ者だろうと、神と呪いだけは畏れるのだ。怨念と代償をつぎ込みさえすれば、大したことのない術者でもすさまじい効果が得られるのだから。


 そしてこの術式は、相当とんでもない怨念と代償をつぎ込んだ代物らしかった。ここを通る自分たちの、ありとあらゆる状態を、本来ならありえざる、というくらいの可能性すら引っ張ってきて、不幸な展開へと導き、破局へと突っ走っらせていく。


 足が滑ったのは呪術で不運と不注意を気づかぬうちに招き寄せられたせいだし、手が滑ったのは壁歩きの術式が解けかけているせいだ。魔力の流れがぶつかり合い、力が飽和して術式の働きが数瞬止まる、というめったにない、通常ならばありえない事態を呪いが招き寄せたのだ。それはとんでもない魔力をつぎ込みまくっただろう呪いの術式に加え、ジルディンの浄化の風もその手伝いをさせられているだろう。呪いで可能性がゆがめられ、不幸が雪だるま式に膨れ上がっていくのだ。


 わずか数瞬の術式の停止。だがそれはこの状況下では最悪の結果を招き寄せる。そしてかけ直しも困難だろう。たとえ一瞬でかけ直せる術式でも、この呪いの前ではわずかな失敗の可能性を引き寄せられて、まず間違いなく暴発する。向こう側の通路まではまだ遠い、術式がなくてはヒュノはともかくネーツェは絶対にたどり着けないし、ヒュノも体勢が崩れた状態でどこまで行けることか。


 このままでは落ちる、この要塞から脱落して、カティフを一人残した状態で放り出されてしまう――そこまでの思考を、一瞬刻ルテンにも足りていない刹那、言葉にしないまま感得して、さらに刹那の間神経に迷いを走らせる。この状況に対応できるとしたら自分しかいない。呪術が不幸を招き寄せるとしても、自分たちの技術がなくなってしまうわけではない。呪術の強度を上回るほどに精緻な魔力制御で術式を使えば、発動はできるはずだ。だが他のどの術法より制御と発動の難易度が高い魔術は、この状況で使うには相性が悪すぎる。つまり自分がなんとかするしかないわけ、だが。


 それでも、ジルディンは刹那に満たない間の、言葉にならない、神経に走る信号の中で迷う。呪術の強度をなんとなく感じ取り、なんとなくの感覚で、『自分が術式を使ったとしても分が悪い』と悟ったのだ。人の体重を支えられるだけの風を風操術で吹かせるのはそれなりに大変だ、相当に強烈な風を吹かせなくてはならないし、身体に損傷が起きないよう加減もいる。


 それをここまで強力な呪術の影響下でしてのけねばならない。浄化の風を維持しながら。さもなければ高高度の暴風であっという間に自分たちは吹き飛ばされてしまう。しかも、もう数瞬で新たな邪鬼の眷属たちも現出してしまうのだ。そいつらに対抗するための風も吹かせる必要がある。


 そんな、これまでの人生でも随一というくらいに高難易度の魔力制御を、呪いの影響下からやってのけねばならない――その状況をなんとなく理解して、ここは自分がなんとかするしかないのに、他に選択の余地はないのに、刹那の間迷ってしまったのだ。


 迷いは遅れを生み、遅れは焦りを生じさせる。とにかく風を吹かせなければ、と必死に顔を上げて風操術を発動させようとして――


 時間が止まった。周囲の物体の動きが、ほぼ完全に停止した。驚き一瞬呆然とするジルディンの脳裏に、音の形を取らない、けれど聞き慣れているように感じる声が響く。


『……ジル』


『え! え、え、ロワ!?』


 その声ならぬ声を発したのはロワであり、音なき声というのは思念であり、現在自分はロワと心話状態――心魂を同調させ、刹那にも満たないうちに幾多の思念と想念を交換する、前に自分が英霊を憑けてもらった時に至った状態にいるのだ、と答えながら理解する。同時に疑問が湧き出てきて、思わず叫んでしまっていた。


『え、おま、なんでいきなり術式とか使ってんの!? もーだいじょぶなのか、まともに息とかできてんのか!?』


『……まともにできてるかどうかは、正直怪しいけど。これは、さっき俺が必死で英霊召喚術式を発動させようとしてた時に使った術式の名残だから、別に負担にはならないよ』


『え、ど、どゆこと?』


『同調術式っていうのは、使った直後だけじゃなく、しばらくあとを引くんだ。お互いの心魂の調子を整えて、波長を合わせる術式なんだから当たり前だけど。心話状態っていうのは、同調が深い段階まで至ったあとに、どちらかの強い意志とか、なにかのはずみとかで、心と心が一瞬繋がる事象にすぎないんだよ。だから術式が切れた後でも、心話状態に至るのは普通にあり得る。……俺はさっき、せめて誰か一人にでも英霊を降ろせないか、って片っ端から同調を試みてたから、俺以外の面子同士でも波長が近くなって心話状態に至るってことがあるかもしれないくらいで』


『な、なるほ、ど? えっと、つまりそれって……なんか俺に用、ってこと?』


『用っていうか。さっき呪術が、それもとんでもなく強力な術式が発動した、っていうのはなんとなくわかったから。そういう時にパーティ全体を援護する役目だったジルが、大変な思いをしてるかもしれないって思って。……せめて俺でも、話し相手くらいにはなれないかって、駄目でもともとって感じで心話状態になれないか試してみただけだよ。……正直自分でも、あっさりうまくいって驚いてるけど』


『ふ、ふーん……? え、話し相手って、わざわざ俺に?』


『……お前、難しい状況前にすると、物怖じするし腰砕けになるから。励ますくらいはできないかなって思って』


『うぐ……』


 読まれている。というか、性格を理解されていると言うべきか。悔しいしムカつきもするが、事実だし実際さっき今にもくじけそうな気分になっていたわけだから、まったくもって反論のしようがない。


 そして、少しばかりほっとするような気持ちも混じっていた。いや、むしろ感心、感嘆と言うべきか。


 ジルディンとしては、ロワの方こそくじけてしまったのではと危ぶんでいたのだ。自分の無力さに打ちのめされ、もうどうでもいいやーとかもう自分じゃどうしようもないやーとか思ってしまってるんじゃないか、みたいな。


 だってジルディンだったら絶対阿呆らしくなる。真面目にやる気なんてこれっぱかしもなくなってしまう。自分以外の仲間に『神からの加護』というとんでもない幸運――与えられる側の意思でも、能力でも、志でもなく、人間にはまるで読み取れない理由で与えられる天からの恵みがもたらされて、自分にはなにも与えられない、というのは、やってられねぇと思うのが当たり前なのではないか(ジルディンがその可能性に気づいたのは、さっきネーツェに怒鳴られてからなのだが)。


 それなのに、ロワには、前衛職なのに後衛に体力で負けるとか、英霊召喚術式を発動できないとか、投げ出したくなる事態はいくつもあったのに、拗ねずに自分にできることをしようとしている。それには素直に感心するし、偉いじゃんと普通に思う。


 というか、本来だったら妬み嫉みをぶつけてきてもおかしくない状況じゃなかろうか。それを自覚したのもジルディンはついさっきなのだが。それなのにジルディンはこれまで一度もロワからそういう想いをぶつけられたことはない、どころかその気配すら感じていない。それはなんというか、なんと言えばいいのかよくわからないが、すごく、すごいことのような気がしてきたのだ。


 そんな想いが伝わったのか、ロワは苦笑しているような響きの思念を返してきた。


『……別にそんな大したことじゃない。単純に俺は、自分の分ってものを知ってるだけだよ』


『分?』


『自分は愚かで、弱く、大きなことを成せる力なんてまるでない、って自覚、というか。自分なんかじゃどう頑張ったって、業績らしい業績なんて残せるわけがない、みたいな。それがわかってるのに他の奴をひがむとか、思い上がりにもほどがあるだろ? 他の人がいくら恵まれてたって、豊かな才能や充実した環境があったって、俺が羨んでいい類のものじゃなくないか? 俺がそんなものを与えられてたとしても、そういうものを十全に活かした人生を送れてたとは、どうしたって思えないんだから。実際に今自分の人生で、まともな働きのできてない奴が、与えてもらうことばかり求めるとか、身の程知らずにもほどがあるし、見苦しい上に鬱陶しいし、ねだられる側にも迷惑だろう?』


『いやロワちゃんと働いてんじゃん! 英霊召喚術式なかったら俺ら死んでるし、そもそも召霊術いろんな時にめっちゃ便利だし! 前衛としてだってそこそこぐらいの働きしてんのに、まともな働きできないとかどの口で言ってんだよ!』


 思わず全力で突っ込んでしまうと、ロワは一瞬ぽかんとして、それからわずかに笑んだ気配をこちらに送ってくる。


『うん、まぁ……そうなんだよな。俺は愚かで弱くて見苦しい奴だけど、それでもまるでできないことがないわけじゃない。少しは役に立つ時もあるんだ。俺にしかできないことなんてまるでなかったとしても、俺がいたら少しは状況がマシになるよう働きかけることはできる。……だから、俺はできる限り、お前らについていくつもりだよ。少なくとも今回の一件の間は』


『え、ついてくって、どこに?』


『……とりあえず今は、邪鬼・汪のいる、現在の目標地点に、かな。俺にはなにもできない可能性だってもちろん高い。でも、なにかができる可能性もそれなりにある、んだ。俺がついていくことで、足を引っ張っちゃって全体が損をする可能性も高いけど、得をする可能性もあるし、それが万一の時に起死回生の一手になるっていう展開もそこそこありえる。だから、俺はできる限り、前へ進むみんなと一緒に行く』


『え、うん……』


『だけど、それが負担になるって思うんだったらいつでも捨てていいんだ。その時に受け身がとれるくらいの力は、ちゃんと残してるから』


『へっ……』


 呟くような思念と一緒に、ロワの笑顔が脳裏に映る。それはいつもと同じ、普段いつも淡々としているロワの印象をまるで違えない、穏やかでやわらかで、我をまるで感じさせないくらい優しいもので――


 それを受け取ったとたん、心話状態は解除され、世界は元通りの忙しない躍動を取り戻していた。


 ジルディンは小さく息を吸い込んで、外壁を蹴る。勢いよく宙へと飛び出して、支えるものを自分から放り出す。慌てたようにこちらを振り向きかけていたロワの表情が、驚愕と衝撃に歪むのがちらりと見えた。


 だがそれにかまう間もなく、自分の体は重力の洗礼を受け、急激な勢いで下へと――


 落ちてはいかなかった。背中の翼を小刻みに動かしながら、風に乗り宙に留まって、空を飛んでいる。


 ジルディンは翼人で、背中に翼が生えているが、その翼で空が飛べるわけではない。獣人の牙や耳や尻尾、竜人の鱗や翼や尻尾と同じで、人の体に付与された部位は、基本的には適切な術法を使わなければ、その部位を持つ獣や魔物のような、人の体にない力を発揮することはできないのだ。


 つまり逆に言えば、適切な術法を使うのならば、そういった部位は術法の大きな助けになってくれる。ジルディンが今使ったのは飛翔術。空を自由に飛び回るための術法だ。


 それ以外の用途がまるでない術法なので、ある程度代用が効く術法を学んでいる者ならば、わざわざ飛翔術を学んだりはしないという、不遇な術法のひとつなのだが(風操術だろうが魔術だろうが召霊術だろうが、使いようによってはある程度宙を舞うことはできるのだ)、翼人の翼はそれと非常に相性がよく、初心者が最初に学ぶ簡単な術式でさえ自由自在に空を翔けられるようになるだけの、触媒にして術補助具にして飛行制御装置となってくれる。


 ――まともに術式を使えさえするならば。


『俺飛翔術って教えてもらったの、たった一回なんだもんな……!』


 冷や汗をかきつつ、懸命に翼を動かして、並行して全力で魔力制御を行いながら、ジルディンは奥歯を噛み締める。ゾシュキーヌレフはゾシュキア信仰の一大勢力地のひとつ、翼人も多く住まう地域で、飛翔術も使える人間は多い(船旅で、ある程度の距離を飛行できる人間がいるのは非常に便利だ)。


 だが怠け者で、それなりに悪戯坊主で、懸命にこちらを教え育てようとしてくれた神官たちから逃げ回ることばかり考えていたジルディンに、飛翔術をまともに教え込もうとする者はいなかった。ジルディン自身も向こうが教えようとしないってんなら別にいいやー、とあえて学ぶつもりはなかったのだ。


 けれど今ジルディンは、一度だけ、それも簡単にしか教えてくれなかった飛翔術の記憶を必死になって思い出しながら、懸命に翼で宙を舞っている。ぼんやりとしか思い出せない、というかまともに記憶できていない授業を、無理やり想起して足りないところは勘で補填し、術式を懸命に組み上げている。


 なぜならば。


「―――〝祈浄風〟っ!」


 周囲の空間に、清らかな風が吹く。ありとあらゆるものを浄化し、正しい在り方へと導く、聖なる風だ。それは今にも湧き出そうとしてきた邪鬼の眷属たちを一瞬で塵に返し、周囲の風の流れを支配して――発動した〝呪い〟も清浄へ導く。


『こ、の、お………!』


 覚悟はしていたが、全身の力をこそげ取るような抵抗感に、ジルディンは奥歯を食いしばって対抗する。『この場所を通った者を不幸にする』という呪いは、ジルディンにも効いているしそこを通る風にも効いているのだ。邪鬼の眷属どもを塵にするくらいは(自分たちにとってこの邪鬼の眷族は指先ひとつで心臓をくりぬけるぐらいに脆いので)たやすいが、呪いそのものを浄化しようとするのはまるで話が違う。


 魔力制御を疎外し、暴発を誘発し、状況すべてを悪化させようとする呪いを、全霊の力を込めて、自身の魔力制御の才を全力で投入し、力ずくでねじ伏せようとし――ながら、ジルディンは同時並行して、もうひとつの風を走らせた。


「〝翔風〟っ……!」


 飛翔術と併用した、他者を飛翔させる風。相性のいい術法・術式同士を併用して発動させるのは、うまく組み合わせれば効果と術強度をいちじるしく上げられる。


 これを発動させるために、ジルディンはあらかじめ自分自身で空を飛び、飛翔術のコツを学んでおかなければならなかった。穴だらけでも、構成が無茶苦茶でも、少なくともこの一瞬だけは使い物になる程度に、飛翔術の精髄を会得しなければならなかったのだ。


 ……せいぜいが数瞬刻ルテンという時間で術法のコツを会得するとか、なに言ってんだ正気じゃないこれだから天才さまは、とかいろいろ言われそうなのはわかっているが、まぁそれはいつものことだから気にしないことにして。


 ジルディンの吹かせた飛翔の風は、きちんと仲間たちを向こう側の通路まで運んでくれた。生まれて初めてジルディンは、自分が翼人だったことに感謝する。聞いていた通り、翼人の翼は飛翔術の、この上ない触媒で術補助具で飛行制御装置だった。自分の飛行姿勢制御に気を使わなくても翼が勝手にある程度平衡を取ってくれるし、飛翔術の発動そのものの難易度も大幅に下げ、安定度を増してくれる。呪いがかかっていようと、大した問題にはならない程度には。


 まばたきするよりも早いだろう、一瞬刻ルテンにも満たない間に会得した飛翔術を完璧に制御し、ジルディンは軽やかに空を翔けながら、仲間たちを無事向こう側の通路まで送り届けることができた。着地するや慌ててこちらを向いてくる仲間たちに、大声できっぱりはっきりと告げる。


「俺、ここに残る!」


「………はぁ!? なに言ってんだ突然お前、ここに残ってなにする気だなにができるというんだ!?」


「そこの呪い、相当厄介だからさ! ここで浄化し続けないと、この先に行っても俺たちの動き邪魔してくるし!」


「……はっ?」


「ああ、さっき足滑ったの、呪いだったのか。自分で足滑らせた感覚はあったのに、なんか不自然な気がしたと思ったら」


「い、いや、だが、だからといって……お前ひとりでここに残って、なんとかできる保証はあるのか! 次々湧き出てくる邪鬼の眷族にはどう対応する!」


「そこはたぶん、浄化の風吹かせっぱなしにしとくから大丈夫だろ! それにこの場所なら、風の流れをうまくつかめば、この要塞全体に浄化の風吹かせられるし! カティにも、そっちにも、援護ができるだろ!?」


「だ、だがっ……そうだ、邪鬼・汪の居場所は! お前しか正確な位置は知らないんだぞ!?」


「あ、そっか。じゃ、送るわ!」


「は!? おく……っ、!?」


「届いた!? 俺伝達術ってほとんど習ってねーから、あんま自信ねーけど!」


「お……っ、お、お、おま……」


「ネテ。話してる余裕ねぇぞ。眷属どもがまた出てくる」


「………っっっくそっ、わかった先に行く! だが死ぬんじゃないぞ! やってる途中で面倒くさくなって諦めるなんて真似したら殺すからな!」


「ま、気をつけろよな。……行くぞ」


「ぅんっ……ジルっ、無事、で……!」


 まだ荒い呼吸の下からそれだけ言って、肩から降ろしてくれたヒュノのあとを追って走り出すロワに、小さく心の中だけで呟く。


『……頑張れよ』


 他の奴らはたぶん言わなくても頑張るし、頑張ってもらわなくちゃ困るので、心の中だけでも言わないでおく。ジルディンは、この一瞬だけは、ロワにだけ応援の想いを告げたかったのだ。


 実際には聞こえようのない形で。だって、面と向かって応援の言葉を吐くとか、普通に恥ずかしくてやってられない。


 ――あの一瞬。ロワが笑顔を伝えてきた刹那。ジルディンは、もしかすると生まれて初めて、『こいつを助けてやりたい』なんてことを思った。


 ジルディンは、自分が恵まれていることを知っている。孤児とはいえ、裕福な都市国家で、食うに困らない神殿付きの孤児院で育てられ、豊かな才能を持って生まれた上に、女神から恩寵を受けて英才教育を施された。その上今では女神さまの加護なんてものまで与えられている身だ。その人生を、客観的に見て恵まれていないとは、さすがのジルディンでも言えはしない。


 だが、だからといって、周囲から妬み嫉みを受けるのが当然とは思えないし、恵まれた分の働きをしろと言われても素直に従う気にはなれない。別に俺が選んで恵まれた生まれにしてもらったわけじゃねーもん、と思ってしまう。『恵まれない』相手からすれば噴飯ものの言い草であろうとも、それがジルディンの正直な気持ちだった。


 物心ついた時から恵まれていたから、『恵まれた人間』の生き方しか知らない。『恵まれていない人間』から妬まれ羨まれ、憎まれるのも目の敵にされるのも、理不尽だとしか思えない。向こうにとってその想いがどれだけ切実で抱いて当然のものだったとしても、ジルディンからすればそれに反抗する怒りや納得のいかなさも抱いて当然の感情だ。そんな屈託を、反抗心を、ジルディンはずっと抱いてきた。


 ただ、あの瞬間は、そういう屈託を抜きにして、素直に『こいつを助けてやりたい』と思ったのだ。仲間だからというのもむろん一因だし、一生懸命頑張っているから助けてやりたい、という単純な親切心もあるだろう。だがそれよりも、自分のずっと抱いてきた屈託を、あの時ロワは、ひょいと外してくれた気がしたのだ。


 天が定めた理不尽な運命によって、周りに置いていかれても、自分より下だった相手に追い抜かれても。めげず腐らず、自分にできることをしようとする、そんな当たり前といえば当たり前の覚悟。けれどそれを言葉ではなく、自分の人生で体現している奴を、ジルディンは初めて間近で見た。


 すごいなとも思ったし偉いなとも思ったが、それ以上になんとなく気が抜けてすっきりした気分になった。自分がつまらないことにこだわっているような気がして、ぐちゃぐちゃした気持ちを放り出していいような気持ちを抱いた。それが錯覚だとしても、ジルディンは本当にせいせいした気分になって――それから、『こいつを助けてやりたい』と思ったのだ。


 他の恩着せがましい奴らに言われても絶対助けてやりたくないけど、こいつなら助けてやってもいいな。助けてやりたいな。力になってやっても悪い気はしないな。一生懸命頑張って、役に立ってやってもいいな。こいつのためじゃなく、自分のために。自分が、こんな奴の力になってやれるなら、気分がいいな、嬉しいなと思うから。


 だからジルディンは、壁を蹴って空へと飛び出した。あの一瞬で頭の中にひらめいた、自分がどう動けば一番いいかという悟りと共に。


 ――ジルディンはこういうあれこれを、頭の中で言葉にして考えたわけではまったくない。作戦も頭でいちいち考えたわけではない。一瞬でそんなことができるわけがない。ただ心の中に走った衝動のままに、頭と心が自分の向かうべき道筋を感得し、その勢いのままにやってみて、成功してしまっただけだ。


 そういうところがたぶん他の奴らに嫌われるんだろうな、ということはなんとなく理解しているが、今はそういうのはどうでもいいかという気分になっていたので、ジルディンは呼吸を整えつつ集中を深める。空中で小刻みにはばたくジルディンの周りから、浄化の風が逆巻き、呪いをより精緻に巧みにほどいていく。周囲から滲み出る邪鬼の眷族を、次々塵と化しながら。


 このまま浄化の風を要塞全域にまで広げ、もう一度要塞内を浄化し直すつもりだった。そうすればこの呪いの浄化の難易度がさらに下がる。カティフにとってもヒュノたちにとっても助けになるはずだ。


 そんな思考がちらりと一瞬脳裏にひらめいたのとほぼ同時に、外壁の呪いの仕掛けられていた部分が、ふいにがたがたがたっ、と揺れ出した。


「へっ……」


 思わずぽかん、とするジルディンの前で、がたがたがたがたっ、と嵐の中の看板のような勢いで揺れ動きまくった外壁の一部は、唐突にばきん、と割れて、内から外へ開いた。その奥からずるぅりと、軟体動物にも似た肉の塊が滑り出てきて、思わずごくりと息を呑む。


「邪神の、眷属……」


 なるほど、こんな代物を触媒に使えば、それは呪いも強力になるわけだ。邪神の眷族一体を犠牲にして呪いを構築したわけだから、呪術という術法の性質からも、強力にならないわけがない。


『ン゛ィ゛ァ゛ア゛ァ゛ァ゛ァ゛ア゛―――ッ゛!!』


 そんなことを一瞬呆然と考えてしまったジルディンの視線の先で、邪神の眷族は歪んだ音程の絶叫を放つや、空中へと勢いよく滑り出て、震えながら動き出した。

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