第56話 私の友達をよろしく

 今度こそ全力でぶんぶか首を左右に振りまくる。心の底から本気で否定のメッセージを送りまくるしかない。神々の世界の屋台骨が傾くというのも困るが、自分の知っている女神さまが貯金を自分たちのために使い果たす、というのもまた別方向に困りまくる。


 自分たちのためにそんな神音かねを使ってもらうのは申し訳ない、という遠慮の気持ちももちろんあるし、これからまた何度も出会うことになるだろう(だってウィペギュロクに対しての調査は進んでも、自分がなんで神々の世界に突然迷い込んだりしたのか、という事実の調査はまるで進展が見られないのだから、これらは別件の問題なのだろうし)相手が、自分たちのために破産したという状況を、間近で見せられるのは罪悪感に耐えられそうにない、というのもある。


 そもそもロワはいまだに、エベクレナたちが働いて貯めた神音かねを消費して、自分たちに加護を与えてくれる、という仕組みを、完全に受け容れられてはいないのだ。こんなに優しい女神さまたちが、日々苦労して稼いだ神音かねを貢がれるなんて、申し訳ないし気が引けるしなにかが間違っていると思う。


 それに――それは、ひどく、悲しいと、ロワにはやはり、思えてしまうのだ。


「っ……とにかく! そこまでしなくていいですから! 真面目に、本当に! 自分で働いて貯めた神音かねは、自分のために使いましょうよ! 他人のために浪費するんじゃなく! ね!?」


「この上なく自分のためですが? だって推しが本気で生きるか死ぬかの状況、それも大陸の命運がもしかしたらかかってるかも? みたいなシチュなんですよ? そんな状況で推しを死なせるとか推し活女子の名折れですよ! 自分が加神音かきぃんすれば推しの命が助かるかもしれない状況で、後先とか考えてる余裕ありませんよ。自分の加神音かきぃんが足りなかったせいで推したちが死んじゃった、とかいうオチになったら、真面目に心が死にますからね!」


「いやいやいや、それでも貯金カラにするとか、正気の沙汰じゃ……!」


「それに忘れてません? 私たち神の眷族は、どれだけ飢えようが渇こうが死にはしないんですよ! お風呂に入らなくても、不潔感が強まってテンションが下がるくらいで、体臭が強くなったりしませんし! 今こそその特性を活かす時! 食費も水道光熱費もギリギリのギリまで削って加神音かきぃんする覚悟くらい、とうに完了してますから!」


「いやいやいやいやいやいやいや!」


 断固として退かないエベクレナに気圧されながらも、ロワも必死に退くまいと食らいつく。ロワからすればそんな展開は言語道断、自分たちなんぞのためにこの優しい人がそんな状況に追い込まれるまで神音かねを貢がれるなんぞ、台所で油虫を素足で踏みつけるより拒否感を覚える展開なのだ。


 この優しい人にそんな真似はしてほしくない。―――のように、――たちのように、命を削って、自分たちを護るような真似は。


『………っ』


 一瞬脳裏にちらりとよぎった情景を首を振ってかき消し、再度エベクレナと向き合って反論しようとするロワに、しばらく黙っていたアーケイジュミンの方から、くすくすと笑い混じりの声がかかった。


「そんなに心配しなくていいよぉ? とりあえず、これからしばらくは仲間内みんなで有給取って、君たちの今回の顛末を見届けよう、って話になってるから。あ、もちろんこれも上からのお達しなんで、あたしら的には損になること微塵もないから心配しないでね?」


「ぇっ……」


「あ、そうそう、そうなんですよ! これからしばらくは正念場だって、全員わかってますからね! みんなで一緒に、気合と気迫を込めまくって、的確な加神音かきぃんを試みる予定なんです!」


「だから、君たちに生き延びてもらうためにも、的確なタイミングで加神音かきぃんしなくちゃなんないから、うかつな加神音かきぃんは自重するよう、みんなで監視し合う予定だから。君たちへの加神音かきぃんも、『このタイミングで加神音かきぃんしないと大陸がピンチ!』的な状況に追い込まれた時とか、そういう状況をひっくり返せる可能性がある時とかに限って加神音かきぃんしてく予定だから。心配しないで?」


「っ……」


「えぇぇ……? この状況でそんなこと考えてる余裕あります? 推しがマジでガチでお亡くなりになるかもしれないのに……?」


「推しに加神音かきぃんが必要だからこそ、あたしらが破産するようなことはあっちゃならないでしょうが。第一、あたしらの財力には限界があるんだよ? 神次元しんじげん全体からすれば、数千、数万分の一ってくらいの限度額しかないんだよ? 的確にタイミング見極めて加神音かきぃんしないと、それこそ推しを死なせる羽目にもなりかねないでしょうが」


「そ、それは……そうですが」


「でしょ? だったらむやみやたらな加神音かきぃんは控えなきゃ。いざという時にがつっと加神音かきぃんできるようにしとかないと、いざという時の確変状態や、神雷しんらい状態に対応できないかもしれないじゃん。……まぁあたしらがちゃんと的確なタイミングで加神音かきぃんできるかっていうとわりと心もとないけど、そこはゾっさんとか経験豊富な人たちのアドバイスを受けるとしてさ。ど?」


「うーん……まぁ、確かに……そうですねぇ……」


 うんうん唸りながらも一応納得してエベクレナをうなずかせたアーケイジュミンに、ロワはこっそり拍手を送る。一度うなずかせたのみならず、これからのち、少なくとも今回の一件が片付くまでは、他の女神の方にエベクレナを監督してもらえることが確定したのがありがたい。


 そんなロワの気持ちをよそに、アーケイジュミンはこちらの方に水晶の窓の前面を向けて、にっこり笑ってみせた。


「ごめんねぇ、ロワくん。君はあたしらからすれば、基本面倒を看るべき相手なのに、気苦労ばっかりかけて」


「いえ……大したことじゃないですよ。むしろ気苦労をかけてもらえるだけありがたいと思ってます」


「そーいう風に言えるってとこがじゅーぶん大したことだと思うなー、あたし。その年で。人間ができてる。立派立派」


「でっしょぉぉ!? ロワくんのそーいうとこが私しみじみいい子だなー、って思っちゃうんですよね! 単純に天然にいい子ってだけでなく、その裏にちらほらとほの暗い半生が垣間見えるところがまた、そんな人生を送りながらもいい子であり続けようとする一途さ込みで健気さの塊! と思わざるをえないというか! 誰にも知られないところで一人汚れた自分の手を見つめて寂しげに自嘲の笑みを浮かべちゃったりするとこがもう、誰かこの子を幸せにしてやって! と思わずにはいられないというか!」


「いやあんた、そんなとこ見れないでしょうがよ、プライバシーフィルターにがっつり仕事させてんだから。相手が誰かに見られたりしたくないとこは見れないんでしょ?」


「私の妄想による補完ですがなにか? 私的にロワくんはそれ系のことをしてる子なんですって絶対!」


 ロワは奇妙な半笑いを浮かべてしまいそうな顔を隠すためうつむいた。いやうつむいたところで隠せるわけはないのだが。自分の感想や感情含め、女神さまたちには一から十までお見通しなわけだが。せめて今後その類のことをするのは控えようと、こっそり心に決めた。


「あ、え、な、ちょ!? まっ待ってくださいちょっと待っ、いやあのこれあくまで私の妄想なので! 自分勝手な思い込みなので! この部屋では嘘もごまかしもできないから、あと勢いで口にしちゃっただけなので! 気にしないでくださいというか私なんぞの妄想のためにロワくんが行動を変えるようなことをしないでくださいと伏してお願いしたいのですが! 私の失言のために推しが可愛いことするのをやめちゃうとか、推し活やってる者としては死に値する大罪ッ……! そもそもこんな風に間近にお話すること自体が不遜な過ちといえばそうなんですが、どうかっ、どうかそれだけはっ……! 私なんぞのために世界からかけがえのないものを失わせることだけはっ………!! アジュさんも言ってましたけど、ロワくんが見られたくないなーって思ってたら私マジ見えないようになってるんで、どうか、どうかそれだけはっ………!!!」


「いや、別に俺のそんなことやってるとこなんて、可愛くもないしかけがえなくもないと思うんですけど……」


「くぅゥゥッ!! 推しは自分の可愛いところを理解しておられないッ! いえだからこその推し、だからこその輝ける星と言ったらそうなんですけど! でもこれはガチでマジで伏してお願い申し上げたくっ……! 推し活する者が世界から推しの可愛さを奪い取るとか、割腹するしかない事態なんですよ! どうか! どうかぁぁぁっ!!」


「いや……はぁ……その、はい、わかりました………」


 本気で土下座して雲の床にぐりぐり頭を擦りつけながら絶叫するエベクレナに、それ以外なんとも返事しようがないので、ロワは了解の意を示した。普通に考えてエベクレナさまが目を据え髪を振り乱して土下座しながら頭を擦りつけたりする方が、よほど可愛らしさの損失になると思うのだが、この人はそこらへんを一体どう考えているのだろうか。


 心底安堵した顔になり、よっこらしょと体を起こすエベクレナの前でそんなことを考えていると、アーケイジュミンがにやっと笑って、ロワの耳元にまで水晶の窓を近づけて、囁いてきた。


「いや、まぁエベっちゃんのそこらへんの心境についてはまた今度詳しく話すとしてさ。あたしの言いたかったのは、そういうとこなんだよね」


「……はい?」


「女神さまって認識してる相手に、あくまで真正面から対等に、そして優しい視点で接してくれるとこ。普通の人次元にんじげんの子たちには絶対できないことだし、求めちゃいけないことだけど、君はそれが普通にできる。あたしら神次元しんじげんの人間にだってそうそうできないことなんだよ? 対等なのに優しい視点、なんてさ。それができる人次元にんじげんのエベっちゃんの推しなんて存在、どれだけ得難いかって話よ」


「はぁ……それはまぁ、珍しくはあるんでしょうけど……」


「あ、こーいう言い方じゃわかんない? んーじゃーそーだねぇ、つまりこーいうことかな? 総合的には」


 笑って水晶の窓を真正面へと移動させてから、アーケイジュミンは真剣な表情になり、きっぱりはっきり、真摯で誠実な口調で、たぶん思うところを正直に告げてきた。


「エベっちゃんをよろしくね。いろんな意味でめんどくさい子だけど、どうか最後まで見捨てずに、幸せにしてやって」


「えっ……」


「ちょ……ちょ、ちょ、ちょぉぉ―――っ!!! なっなっなっなに抜かしこいてくれてんですかアジュさんッ!!? なんでそーなるんですなに考えてんですか、私の失敗ひたすらに拝み倒して許してもらった状況でんなクソ迷惑な爆弾ぶっこむとか正気なんですか!?」


「え、爆弾ってなにが? ロワくんはエベっちゃんの推しなんだから、幸せにしてくれる相手っしょ? エベっちゃんみたいなめんどくさい相手と、これからも何度もおしゃべりしなきゃならない相手なんだから、友達として見捨てないであげてね、どうか愛されてあげてねってお願いしても全然おかしくなくない?」


「ほほぅ、そりゃまた殊勝なお言葉ですね。それが本音、なんですか? 正直な気持ちとして今ここで、誰はばかることなく宣言できます?」


「……いやまぁ、そういう理屈を建前に、ちょっとばかしそっち系を匂わせたいな~っていうのが本音なんだけどね実際? ごめんなさい」


「ごめんなさい。で済むことじゃないでしょうがァァァ!! アジュさんあんた、推しにとっての私の地位を下げるのもいい加減にしてくださいよ!? 今回もまた嫌ってくらい醜態見せまくって、推しの御心の中に本来あらざるべき染みを残してしまったってのに、またそっち系で嫌な思いさせるとか、もはや私という存在の生存そのものが推しにご迷惑をおかけしてしまう勢いじゃないですか! 私のことそんなにこの世から抹消したいんですか!?」


「いやぁ、まぁでも、ぶっちゃけまんざらではなさそうっていうか、幸せにしてあげてねくらいの言葉だったら普通に受け容れてくれそう、って踏んだから言った台詞ではあるんだよ? あたし的には建前の理屈も間違いなく本音のひとつではあるし?」


「ぅぐっ、そ、そーいうちょっと可愛いこと言ったって騙されませんからね!? 私はアジュさんの、普段とは違うこーいう状況下だからって、推しご本人様に推してる側のそーいう欲求に当たり前のように応えさせようとする、思い上がった根性がよろしくないと言っているわけで……!」


「? 思い上がってるって、なんでですか?」


「そりゃもちろんってぇぇえ!? え、なんでここで話に入ってきちゃうんですか!?」


「いや、だって話してる内容、俺についてなんですよね? 俺にみなさんの期待通りに振る舞ってほしいって思うことが、なんで思い上がってるってことになるんですか?」


 聞いていてどうしても気になったことを真正面からそう質問すると、アーケイジュミンの姿が浮かんでいる水晶の窓をわしづかみしてくってかかっていたエベクレナは、「うぅぅ……」とあからさまに勢いを減じながら、うろたえつつも説明する。


「えっと、その、ですね。だって、ですね。ええと……私がロワくんに向ける気持ちっていうのは、その……一方的、なものでしょう?」


「一方的というと?」


「うぅぅ……なんなんですかこの、推しご本人様に向ける推し欲について説明しなきゃならないという罰ゲームにもほどがある状況! アジュさんこの貸しは絶対に取り立てさせてもらいますからね!」


「あはは、うんうん。ちゃんと取り立ててもらうから、とりあえず今はロワくんにちゃんと答えてあげたら?」


「ぬぎー! ……ぇえと、ですね。なんというか、対等ではないというか……私たち神の眷族は、神次元しんじげんから人次元にんじげんを見て、あなたたちのように目を惹きつけてくれた相手に加護を与えてる、わけですよね。つまり最初からその、視点が対等じゃないんです。安全地帯から好きな時に好きなように相手の人生をのぞき込んで、勝手に楽しんでるわけです。そんな関係しか結べない存在が、普通の人間関係みたいに、真っ当というか、正しい人と人との関わり合い、的な感情を相手に要求するのって、あまりに不遜というか、驕り高ぶった迷惑行為じゃないですか? ……いや客観的な視点で自分の行為振り返ってみると、私人格のある相手に対してあまりにクッソ失礼なことしでかしてませんか!? これもう私真面目に自分処すしかないのでは………!?」


「落ち着こうエベっちゃん、その辺の話はもうやったから。ロワくん本人に見ててくれて嬉しいよって言われてるから」


「いやそれ微妙にニュアンス違いますよね、台詞改変捏造レベルですよね! そもそも推し活の概念をあえてあまり理解しないでもらってる相手の言葉を都合よく解釈するとか、迷惑行為にもほどがあるでしょうが!」


「いや、でもアーケイジュミンさまの言ってることは、別に間違ってないと思いますよ」


「えっ……」


「俺からすれば、俺たちなんかをわざわざ目に留めて、目をかけて、いろいろ気にしてくれてるってだけで、めちゃくちゃありがたいと思ってますし。迷惑だなんて、一度も思ったことないですし。それに視点が対等じゃないってことですけど、そりゃ女神さまとただの人間ですから対等な関係になりえないのは当たり前ですよね? それでも俺たちは、こうしてすぐ間近、手の届く場所で向かい合って話してる。これって、それなりに真っ当で、正しい関わり合い方だと思うんですが。どうでしょう」


 視線をそらさず真っ向から告げた言葉に、エベクレナはあからさまにうろたえた。へどもどしつつ、きょろきょろ視線をさまよわせつつ、必死に言葉を返そうとする。


「いや、でもですね? そもそも概念的にステージの違う存在同士というか? そりゃ形の上では私の方が格上なのかもしれませんけど、魂の輝き的なものが私とは桁違いというか? そういう相手にその、そういう風なことを言われるのは死ぬほど申し訳なく……いや一ファンに対してもこんなことが言えちゃう私の推しマジ魂的カッコよさの塊と燃え上がるものはあるんですけどね!?」


「は、はぁ……?」


「ぶっちゃけ視界内に入っただけで緊張しまくるというか、認識される時点で申し訳ないというか、隣に立ってる自分何様ぞ? と冷静になって考えちゃうと自分に立てなくなるまでボディブロー決めたくなるというか! いや本当私あなた様にそういうこと言ってもらえるほどの存在じゃないんですぅと土下座するしかないというか!」


「……なにが言いたいのか、正直あんまりよくわからないんですけど……」


 じっと目線がやや上のエベクレナを見つめ、できるだけ声を揺らさず、真面目に真摯に言葉を告げる。


「俺は、あなたが好きですけど。そういう気持ちだけじゃ、隣に立って話をするのに、足りないんでしょうか」


 いやもちろん相手は女神なのだから、本来なら足りないというかお話にならないぐらいだし、隣に立つことが許されるはずもないのだが、今こうして自分たちが会って話をしているのは、それが許可されるほどの非常時だからなのだ。申し訳ないとか考える必要はない、というかエベクレナのそういうなぜか自分をロワより下の方に据えようとする気持ちはロワには意味不明なことこの上ないので、できれば是正したかった。


 だがロワとしても、『自分はエベクレナより下の階級の存在である』という、たいていの人からすれば客観的な事実であろう思考が、エベクレナには好まれないのは理解している。なので、客観的な事実というのはこの際置いておいて、お互いにちょっと譲り合わないかと提案したかったのだ。


 自分はエベクレナに深く感謝をしているし、人格的にも好感を持っている。エベクレナもたぶん、なにせ女神さまなので人間の自分には完全には理解しえないものなのだろうけれど、自分に好感を持ってくれているだろう。


 だから、普通の人間関係のように、お互いに相手のことが好き、というか好感を持っているというだけで、会って話し合うことが許されるというか、それが当たり前だという関係を、築けるものなら築きたかった。お互いがそう思えるよう、心がけようとするだけでもだいぶ違うだろう。


 そのくらいのことをしなければ、いつまでたっても話が進まないというか進歩しないし、自分には理解できない理由があろうとも、エベクレナが、この優しい女神が自分のことをやたら卑下しようとするのは、ロワとしては正直忍びない。


 そういう想いを込めてじっとエベクレナを見つめる――と、エベクレナはぱかっと口を開けた。呆然、愕然を絵に描いたような顔で、ぽかんとロワを見つめ返すことしばし。カッと目を見開き、周囲の空気を嵐のようによじれさせるほどの気迫で、腹の底から声を出して、きっぱりはっきり言い放つ。


「無理!!!」


 とたん、ロワの足元がずぼっと抜ける。瞬時に視界がはるか下へとすっ飛んで、雲を抜け空へと落ち、彼方の大地へと飛び落ちて――






 ――そして目を開けるや、二筋の冷たい視線が真正面からぶつけられていることに気がついた。


「あ……の」


「………チッ」


「ほら、言わないことじゃない。意識が戻らないのは単に、神々との交信を行っているからだ、と説明しただろう? それなら心身に悪影響が出るわけもない。精密検査なんてする必要はないと、私が言った通りじゃないか」


 そしてその視線はすぐにそらされて、舌打ちと説教だけが漏れ聞こえてくる。自分が人界に戻ってきたことは理解していたが、いきなりそんな扱いを受ける理由が理解できず、数瞬呆然としてから、はっと我に返って声を上げた。


「あ……のっ」


「なにも言う必要はないわ。あなたがまたも神々からの御言葉を受け取っていたことも、相当に深い段階まで神々の意識と同調していたことも、ずっと見ていたのだからとうにわかってる。あなたは私が酔狂であなたの観察を続けているとでも思っていたの?」


「え……いや、あのですね」


「悪いがあとにしてくれないか。術式が大詰めなんだ。君の仲間が、君の意識が戻らないと騒ぎ立てなければ、もう半短刻ナキャンは時間を短縮できたと思うけれどね。まぁ、君の怪我は仲間が慌てるのも無理はないほど重かったから、今回はあえて責め立てることはしないけれど」


「え……あ」


 その時ようやく身を起こして、冷たい視線と言葉をぶつけてきた二人――ルタジュレナとシクセジリューアムの背後に仲間たちが所在なげに立っているのが目に入る。心配させてしまったのか、と(どういう反応が正解なのか思いつかなかったので)とりあえずぺこりと頭を下げると、安堵にゆるんだ苦笑が返ってきた。


 その間にもシクセジリューアムとルタジュレナは、怒濤の勢いで次から次へと複雑な術式を展開していく。魔力の流れから『なんとなく複雑そう』というのはわかるものの、それがどれくらい複雑な代物なのかはロワなどではとても読みきれない、くらいに複雑な術式をいくつもいくつも展開し、ロワにはほとんど認識できないほど複雑怪奇な魔力回路を組み上げているのだ。


 タスレクとグェレーテは、仲間たちのさらに後ろで周囲を警戒している。いやだけどこんなややこしい術式でいったいなにを、と考えた矢先、空が暗くなったことに気がついた。


 反射的に上を見上げ、ロワは思わずぽかんと口をあえて硬直する。そこにあったのは、城だった。


 石造りの、ごく一般的な、数階層が折り重なってできている城砦。そんなせいぜいが五、六ソネータ程度の高さしかないはずの代物が、形はそのままに、大きさだけを異常なほどに過大にしたように見える代物が、空に浮いている。


 その城は、光は遮っているようなのに、ロワの目には半ば透けて見え、上部の形もある程度見て取ることができた。だがそれでも全体像については、半ば以上なんとなくの印象でしかないだろう。


 なにせ大きさが異常だ。山が空に浮いているようというか、見渡す限りひたすらに、空のはるか彼方まで、えんえんと巨大な半透明の砦が浮いて光を遮っているように見えるのだ。なんだこれと一瞬呆然としてから、はっと我に返り、ようやく状況を理解する。


「あの……上にある、あれが、邪鬼・汪の本拠地……なんですよね?」


「それ以外のなんだと? まぁ、君たちの仕事は、いちいち遅れ気味ではあったからね……一気呵成に空間形成極点を破壊する、という作戦目標をあっさり忘れて、怪我の治療にばかりかかずらっている姿を見た時は、正直怒りで目の前が真っ赤になりそうだったよ」


「ぬぐっ……」


「だから作戦が失敗するものと思い込むのもわからなくもないが、ね。失敗はもちろんきっちりと自覚して今後に活かしてもらわなくては困るが、それはそれとして、自分たちの為した成果は正当に評価したまえよ。私たちがきっちり準備した甲斐もあって、邪鬼・汪の作った異空間を引きずり出すことはできたんだ。作戦としては、まぁ成功したと言っていいだろう」


「っ……」


「当然ながら、ここで終わりにしてもらっては困るけれどね。あなたたちには、これから邪鬼・汪の首を取ってもらわなくてはならないのよ? せいぜい気張ってもらいたいものね」


「は、はい……」


 力ないロワの返事にふんっと鼻を鳴らし、ルタジュレナは新たな呪文を唱えだした。とたん、全員の――英雄たちのみならず、自分も含めた仲間たち全員の体が、ふわっと突然宙に浮く。


『!?』


「〝流〟」


 さらに唱えられた呪文を言いきるや、ロワたちの体は川に流される小石のように、すさまじい速度で高空の城砦へと突っ込んでいった。あまりの速さに息ができなくなりそうだったが、それよりも早く自分たちは城砦の窓から中へと投げ込まれ、壁や床に激突する寸前で唐突に動きが止まり、布団かなにかで受け止められたかのように、ふんわりと着地させられる。


「っ……」


「なにを座り込んでいるの、あなたたち。さっさと立って構えなさい。ここからは、あなたたちに前面に立ってもらわなくてはならないのだからね」


「無茶を言うな、ルタ。こいつらと俺たちの体力は違うんだぞ?」


「そうさ。ただでさえこの距離をあの速度で飛んだんだ、疲れないはずもないだろう? まずこの子たちの気つけからしてやらなくちゃ」


「そんな余裕はない、と言いたいところだけど、やむをえないね。これから邪鬼を倒してもらわなくちゃならない以上、こちらとしても支援しないわけにはいかない。――〝四番覚醒しんかく〟」


 言ってシクセジリューアムがぱちりと指を鳴らすと、ロワたちの体は、そうしようと考えてすらいなかったのに、ひょいと立ち上がって武器を構えた。同時に心身も(強制的に)戦う寸前の状態にまで準備が整えられ、戦闘時の昂りと冷たい平常心が、あっという間に心と脳内を満たす。


「……ありがとう、ございます」


「どういたしまして。言っただろう、こちらとしても支援しないわけにはいかないって。これから出てくる魔物たちについては、基本的に全部君たちに対峙してもらわなくてはならないんだから、この程度のことはするさ」


「ま、合計二十四万にものぼる眷属を使い捨てたんだ、どれだけの戦力が残ってるかってのはわからんが。戦いの場は俺たちができる限り整えてやるから、そこらへんは心配するな」


「シリュとルタがしっかり仕事してくれたからね、転移だの空間作成だの、その手の能力を使って逃げられる可能性は、とりあえずあと一長刻クヤン程度は考えなくていい。まぁそういうのがなくても、この本拠地はやたらとだだっ広そうだけど……」


「それについては私がどうとでも対処するわ。風を吹かせて空間を探査すればいいのだもの、やろうと思えばそこの神官くんにだってできることよ」


「え? え、そ、そーなの?」


「だからといって君がでしゃばる必要は微塵もないよ。風による空間探査はそれなりに魔力を喰うからね、邪鬼・汪との決戦のた」


 そこまで言って、唐突に、言葉は途切れた。


「………え?」


 ロワは一瞬ぽかんとして、一度周囲を見回して、またもぽかんと口を開ける。唐突に、突然に、なんの前触れもなく英雄たちは姿を消していた。周囲を見回しても、気配を探っても、英雄たちはただの一人も、自分たちが感じ取れる範囲には、存在の痕跡すらも含めて、きれいさっぱりいなくなっていたのだ。


「………え?」


 呆然ともう一度呟く――やいなや、自分たちの周囲に唐突にいくつもの影が湧き出してくる。自分たちは巨大な窓(扉の類がついていないので風窓なのかもしれない)から砦の中に入り、そこらの巨人でも数十人積み重ねなければ天井まで届かないような巨大な通路で話をしていたのだが、そこを埋め尽くすかと思われるほどの勢いで、次々と湧き出してくるのだ。


 出てきたのは醜い顔貌の小人や巨人や死人、蛇だの牛だの蝙蝠だのをかたどった者ども――邪鬼の眷族。そいつらが次から次へと、尽きる気配もなく現れたかと思うや、その爪や武器を振り上げ、炎を撒き散らし、こちらに襲いかかってこようとする――


「逃げるぞ!」


 叫び声。と同時に腕が引っ張られる。いまだ忘我の状態から抜け出しきれていなかったロワも、慌てて正面へと向き直り、敵の陣容の薄い方目指し駆け出すヒュノと、その後を追う仲間たちに続く。


 けれど、同時に頭の妙に冷静な部分が、こんなことを呟くのを感じていた。


『逃げるって、どこへ?』


 次から次へと敵が湧き出る最中、自分たちを護り導いてくれる英雄たちもいない中で、ロワはそんなことを、何度も繰り返し思わないわけにはいかなかったのだ。

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