第49話 戦士暴走

 カティフと仲間たちが出会った時というのは、カティフがゾシュキーヌレフの冒険者ギルドにやってきてから、半転刻ビジンほどの時間が過ぎた頃になる。


 ゾシュキーヌレフにやってくる前も、やってきてからしばらく時間が経ったのちも。カティフは、冒険者ギルドを訪れることは一度もなかった。自分が冒険者になるという発想自体が、まるで思い浮かばなかったのだ。


 生まれてからほとんどの時間をフィネッカンの前線区域で過ごしてきたカティフにとって、冒険者というのは、ときおりやってきて狩場を荒らす、迷惑なよそ者だった。戦を常態とするフィネッカンの国家体制は、(少なくとも建前上は)民の護り手たるを誇りとする軍部が支配的な力を持つため、冒険者という職種そのものと馴染まない。なので、冒険者ギルドの支部も小さく、属する冒険者の数もごく少なく、基本的にはよその支部で魔物の討伐依頼を請けて、フィネッカン近在の魔物生息地帯で目的の魔物を狩ろうとしている連中ばかりだ。


 フィネッカンにおいては、魔物を狩り、街の内外の安全を確保するのも国府、というかその命を受けた騎士団や兵隊の仕事であり、それ以外の人間は基本的には、魔物を狩ることを許されてはいない。魔物の生態を正しく理解し、安全な狩り方で狩らなければ、魔物の暴走で街が襲われる可能性もあるのだ。だからよそからやってきて狩場を荒らす、冒険者という連中は信用できないし、冒険者ギルドという一大組織を敵に回すわけにはいかないので来訪を受け容れているけれども、本来ならば追い出してしかるべき、というように教えられる。


 実際には真っ当な冒険者は、魔物討伐依頼の際には魔物の情報をできる限り集めるよう教え込まれているので、魔物の暴走を引き起こす恐れはほぼなく、むしろ騎士団や兵隊に指示が行き届かなかったせいで暴走を引き起こす例の方が多いそうなのだが。フィネッカンを出奔しながらも、フィネッカンの教育というか、世界の捉え方から抜け出せていなかったカティフは、冒険者になる道など、まるで頭に浮かばなかったのだ。


 だがゾシュキーヌレフで物乞いをしている中で、『まともに働く気力体力があるなら、冒険者になった方がマシな飯を食える』という助言を何度も受けた。ゾシュキーヌレフにおいては、冒険者は広く使われている生活の下請け業者であると同時に、裸一貫から成り上がるためのもっとも手っ取り早い手段なのだ。


 冒険者になるための授業も受けられる、授業料は正式に冒険者になってからの後払いでいい、ギルドに冒険者候補としての登録をするだけでもギルドと契約しているあちこちの業者での働き口を優先して紹介してもらえる、とあれこれおいしい条件を教え込まれ、半信半疑ながらも、もっとマシな飯が食えるなら、という想いだけで、物乞い生活の中でも、一応まだ使えるぐらいには手入れを続けていた武器防具を身に着け、冒険者ギルドを訪れ――三節刻テシンの間ギルドの教育を受けたのち登録試験に合格し、一応は一人前の冒険者としての資格を手に入れることができた。


 が、しかし。カティフはそののち、冒険者として働くということが、なかなか始められなかった。一般的な冒険者同様、パーティメンバーを募集しているパーティに片っ端から申し込んで、面接を受けまくったのだが、カティフはどんな面接にも、一度も合格したことがない。


 その理由は多々あるが、一番大きな理由としては、カティフの見る目が無駄に厳しいせいだったろうと思う。カティフはどの冒険者パーティにも、命を預けられるだけの、この人たちになら命を預けてもいいと思えるだけの信頼度を求めた。強さでも、こちらに向ける優しさでも、パーティ内に絶世の美女がいるとかでもなんでもかまわないから、『命を預けてもいい』『命を預けるだけの価値がある』と思わせてくれるだけの『なにか』を、無意識に求めていたのだ。


 はっきり意識していたわけではないが、それは当然ながら、フィネッカンでの従者隊の生活が尾を引いていたせいではあったのだろう。属する集団からよってたかっていいように扱われ、評価されることも労わられることもない、なんて仕打ちはもうたくさんだった。生まれた街を遠く離れたこんな場所までやってきて、またひたすらに誰かを見上げ続けさせられるなんて、絶対にごめんだったのだ。


 だから、精神的な見返りを無意識に求めていた。働いた分のなにかを返してくれる保証がほしかったのだ。命を懸けて働いただけの見返りはあると、信じさせてほしかった。


 まぁ今思えば、単に冒険者として同じパーティで働いているだけの相手に、精神的な見返りがどうこうというのを求めるのは無茶な話でしかない、とわかるのだが。現在のカティフだって仲間たちにそんな要求をされたところで、『そんなもん求められても』と困るしかないだろう。


 だが当時のカティフにはその自覚がまるでなく、パーティの面接の際に、無意識に自分の要求ばかりを前面に押し出し、当然の帰結として次々パーティ加入を断られ、結果として死ぬほどみじめな気分を継続させ続けていた。なんだよ冒険者って成り上がれる仕事じゃなかったのかよみんな嘘つきばっかりだ、と僻み恨む気持ちを増大させていた。冒険者ギルドから紹介された日銭仕事をこなしながらも、それまでの人生で戦働き以外の仕事は物乞いしかやったことがなかったため、その手際の悪さを叱られてばかりで、世界で一番自分が愚かでちっぽけで、不当にひどい目に合わされている不幸な人間だ、などという思い込みを膨れ上がらせていた。


 そんな時に、カティフは、現在の仲間たちと出会ったのだ。パーティメンバー募集の紙が貼ってある看板前で、いい加減冒険者としての仕事をしなければ寝床を与えてくれているギルドの人たちの視線が厳しいという理由のために、やむなく選択の余地なく渋々ながらお試しで、冒険者としての初仕事と、それから現在までの冒険者生活をずっと、一緒にこなすことになる相手と。




   *   *   *




「………………」


「………………」


「………………」


「………………………………」


「〝我が祈る声よ………、響き渡れ………、天と地の………、絶えず巡る………〟」


 ロワが踊り狂い始めてから何ユジンが経ったのだろうか。きちんと時間を計ってみればさして時間は経っていないのかもしれないが、少なくとも一ユジンが過ぎていることは間違いない。


 それだけの時間、ロワは呪文を唱えながら怪しい踊りを踊り続けたが、英霊召喚術式が発動する様子は、まるでまったく微塵も少しも見受けられなかった。最初の頃は『まだかよー』的な文句を呟いていた仲間たちも、さすがにロワを気遣ってか、それとも単に文句を言うのにも飽きたのか、さっきからまるで口を開く様子もなく、座り込んだまま黙っている。


 カティフもこの状況で迂闊なことを言う気にはなれず、ひたすら無言の行を貫いていたが、内心ではさすがに焦るものも感じていた。いや確かにひどい失敗をしてほしい、みたいなことは内心言っていたし、それが本音なのも間違いないのだが、いいのだろうかコレ。本当にどれだけやっても発動すらできないというのは、英雄の皆さま方にも怒られる事態じゃないだろうか普通。


 おいおい大丈夫なのかぁ、とおそるおそるロワの様子をうかがうが、ロワは目を閉じて、ひたすら踊り狂いながら呪文を唱えるばかり。汗をだらだら流しながらも、やることを変える様子はない。


 本当にいいのかなぁ、大丈夫かなぁ、などと思いつつも、だからといってなにができるというわけでもなく。まいったな、と内心嘆息しながら、ぼんやりと踊り狂うロワを見つめた。


 今身に着けているのは、シクセジリューアムが用意してくれた儀式用の白い衣だけとはいえ(ロワも術法使いの端くれらしく収納術は使えるので、鎧の着脱自体は一瞬でできる)、当然ながらその顔は汗みずくだ。自分同様、顔に等級をつけるなら、どれだけひいき目に見ても平均は超えない、十把一絡げに扱われてしかるべき地味顔。こういう顔を見ると、やはりどうしても、ロワは自分と同程度の、さして天資の持ち合わせのない人間なのだと実感してしまう。


 実際には英霊召喚術式という、とんでもない隠し玉を持ってはいたのだが。正直そこは気になるところというか、嫉妬の種ではあったものの、こうして本当に術式の発動率が低いのだという事実を理解させられると、カティフの際限のない嫉妬心も、いくぶん萎えてしまう。むしろ、嫉妬していたことに少しばかり罪悪感すら覚えるほどだ。


 カティフはそういう、自分でも嫌になるほど小心で臆病な小物だった。周りの人間の優れたところ、自分より恵まれたところを見せられれば、見る影もなく落ちぶれよと全身全霊で呪詛を送るものの、その相手が本当に落ちぶれ、能力も環境も自分より下であることを示されると、胸がすくと同時に罪悪感を覚えてしまう。妬み憎んで申し訳なかった、と頭を下げたい気持ちが湧いてきてしまう。結局俺は相手にどうしてほしいんだ、と自分でもたびたび呆れるほどだ。


 自分の正直な気持ちをぶちまけてしまえば、自分よりも優れた人間は、視界内に入ってきてほしくないし、自分より本当に階級的に下層に位置する人間には、意識の中に入ってきてほしくない、というのが一番近いのかもしれない。他人を見上げて腹の底に怒りが溜まるのも息苦しいが、他人を見下げるのも心が痛んで、生きているのが苦しくなる。


 これまでの人生で、ほとんどの間、自分が世界の誰より下の階層で苦しんでいると思い込んでいたカティフは、他人を見下げることに慣れていなかったし、慣れたいとも思っていなかった。自分以外の誰かを見下げることは、これまでの自分も同様に見下げることのように感じられてしまうのだ。これまでの自分同様、情けない自分を嘆き、ままならない人生に苦しみもがいている者は、見下げられれば心底からの怒りと憎悪を見下げた者に抱くだろう。そんな想いを抱かせることは、カティフのこれまでの人生に、後足で砂をかける振る舞いのように感じられた。


『結局、俺は、誰かを見上げて、妬んでばっかりってのが合ってるのかな……』


『これまでずっとそうだったもんな……』


『仲間相手ですら、ちっちゃなこといちいち気にして、嫉妬して、引きずりおろそうとしてばっかりで……』


『そんなのごめんだって故郷を飛び出してきたってのに、もうそれから二転刻ビジンは経ってるってのに、俺、全然変われてないもんなぁ……』


 そんな想いが胸の中を去来する。なんだか泣きたい気持ちになって、懸命に踊り狂うロワと、その背後にそれぞれの面持ちで座り込んでいるそれ以外の仲間たちを見比べる。


 嫉妬したいわけじゃないのだ。仲間たち――自分よりも年下の、普段はなんだかんだで面倒を看てやることの方が多い奴らにまで、そんな気持ちを抱きたくない。お互いに命を預け合う、対等でしかるべき相手にまで、上だ下だと細かく順位付けなんてしたいわけがない。


 それなのに、カティフは目を皿のようにして他人の様子をうかがってしまう。自分より少しでも抜きん出れば、自分より少しでも恵まれれば、自分より少しでも与えられれば、その足を全力で引っ張り、貶め、自分のいるところへ引きずりおろしたいと願ってしまう。


 なんで、こんな自分に、女神アーケイジュミンは加護を与えたのだろう。なんで自分なんかが、邪鬼を倒すなんていう大それた仕事に加えられているのだろう。


 どちらについても、自分にはあまりに過分な扱いとしか思えなかった。女神に選ばれるほどの才覚も、志も、至情も自分は持ち合わせていない。邪鬼の征伐という、大陸の平和にすら関わるような大仕事に加わるに足るだけの、実力も、才幹も、大望も自分は有していない。しみったれた戦技の腕にせいぜい頼りながら、ケチな依頼をちまちま果たして、口を糊する程度のことしか、自分にはできないのだ。


 とうにわかりきっていたことを再確認し、心がどんより暗くなる。これから自分は(ロワが成功すれば)邪神の眷族五体と事実上一人で相対しなくてはならないのに、そんな大仕事を果たす前に保持すべき精神状態とはかけ離れた、一人でひたすらうじうじと落ち込んでいたい時の心の在りように近づいていってしまう。


 今回の依頼で、ほとんどの時間、カティフはそんな気持ちを抱きっぱなしだった。仲間たちの示す才能を妬みたくはないのに妬み、恨み、憎み。自分の能力からすればあまりに過分な仕事に怖気づき、惑い、逃げ出したくなり。そしてそんな自分の愚かさ、弱さ、小物さに落ち込む。ずっとそれの繰り返しだった。


 自分だって、できるなら、仲間たちのように、堂々と課された仕事を受け入れ果たす、そういう人間でありたかった。それだけの強さがほしかった。けれど、自分ではできない。無理なのだ。自分の弱さを、愚かさを醜さを、いやというほど思い知ってしまっているカティフには、『できない』と、頭より先に心がうまくいく可能性を、低い勝算に賭けて突撃する蛮勇を拒絶してしまう。そうやってなにもできないままうずくまってしまう自分を、死ぬほど情けないと、こんな自分は嫌だと心底うんざりしているくせに。


 どうすればいいっていうんだ、と泣きたくなりながらうつむく。こんな自分は嫌だ、けれど自分を変えられる強さの持ち合わせはない。誰かを見上げてばかりはうんざりだ、だけど他人を見下げるほどの心の強さもない。強くなって自分に価値があると信じられるようになりたい、その価値に値するだけのものを世界からもぎ取りたい、そのくせ自分にそんなことができると信じることすらできていない。


 そんな自分で自分に愛想を尽かしたくなるほどの、どうしようもない自分に、いったいなにができるというのだ。なにもできず、なにも始められないまま、こうしてうつむいている以外の、なにが―――


『………別に、誰も、カティにそんなたいそうな要求、してないよ』


『っ!?』


 突然心の中に響いた声に、仰天して顔を上げ――ようとして、再び仰天した。頭が上げられない。というか、体が動かない。


 体が麻痺したという感じがするわけでもないのに、指一本まともに動かせない。必死になってあがこうとしても暴れようとしても、まともに身体が反応してくれない。なんなんだこれ、と思わず呆然とする。


 そこに、また、再度声が響いた。


『別に、カティに、すごい大したことしろ、とか言ってないから。単に、できるかどうかやってみろ、って言ってるだけだから。できなかったらできなかったで、別の手を考えてくれるだろうし。邪鬼の征伐って言っても、できることをやれってだけで、それ以上の仕事とか、別に求められてないから』


『っ………けどな! ゾヌのギルドの幹部連中も、英雄さま方も、俺らに『邪鬼を倒せ』って言ってるんだぞ!? それに逆らったら俺らに生きる道なんてねぇだろ!? いったん請けた仕事をどうにもできねぇとか、後ろ指差されまくるだけならまだしも、街中からこぞっていびられるのは当然だろうし、そもそも英雄さま方が生かしちゃおかねぇだろ俺らのこと!』


 いやなんでこの状況でそっちに反論してるんだ、と内心自分で自分におかしいと指摘しつつ、カティフは噛みつくように答える。口もまともに動かせないというのに、声を上げることだけはなぜかできるというこの状態も、おかしいといえばあまりにおかしいのだが。


 ただ、この謎の声の主はロワだ。聞き慣れない『心の声』という代物だろうが、一年も仲間をやっているのだ、まともに聞けばさすがにわかる。お偉い方々の声でなく仲間の声だというなら、少なくとも自分がどんな反応をしようと咎められることはないだろう、と頭が勝手に判断してしまったのかもしれない。


 それでもこの状況の異常性に驚き戸惑い、どんな反応が返ってくるかびくびくしているカティフに、ロワの声はいつも通り、ごく淡々と、あまり力の入っていない声で、カティフの勢い任せの言葉を、ひとつひとつ解いていく。


『いや、幹部の人たちも英雄の皆さんも、少なくとも俺たちだけにどうこうしろ、とは言ってないだろ。むしろ英雄の方々との協調行動が必須、って依頼だろ、これ?』


『そっ、そりゃ……そうだが』


『そりゃ意味なく逆らったら、ジルみたいに絞められるんだろうけどさ。少なくともこれまで話してきた限りじゃ、真っ当な異論反論は受けつけてくれる人たちだと思ったけど?』


『ぐっ……それは、まぁ、そうかもしれないけどよ……』


『まぁこの依頼をちゃんと達成できなかったら後ろ指差されたり街中にいびられたりはするかもしれないけど』


『だっろぉ!?』


『……そもそもその場合、俺たちが先に邪鬼に殺されてる可能性の方が高くないか? 失敗したら大陸規模の危機になるんだろうし、後ろ指だのいびるだのってことやってるだけの余裕も残らないんじゃないかな』


『あっ……』


『それに、もし生き延びられてたとしたら、少なくとも英雄の人たちは俺たちを殺したりしないだろ。だって邪鬼・汪に対抗できる貴重な手段のひとつなんだから、少なくとも、邪鬼征伐が完遂されるまでは生かしておこうって考えるんじゃないか?』


『……っっかもしんないけど! 俺は! そんなとんでもねぇ依頼を請けるってこと自体が嫌なんだよっ!』


 さっきまで死ぬほどの重大事のように感じていたことが、『馬鹿馬鹿しい思い込みだ』と思い知らされた気がして、堪えきれずに心のうちから漏れだす本音を喚き散らす。みっともないということは承知だが、一度堰を切った感情はとどめようがなかった。こんなわけのわからない状況なのだからこの声も本物のロワではないはずだという希望的観測に流されて、勢いのままに言葉を叩きつける。


『嫌って、どうして?』


『っってなぁっ! 邪鬼だぞ、邪鬼! そんなとんでもねぇ代物に、俺らみてぇな最下層の冒険者連れてきてどうしようってんだよ!? どうしようもねぇだろ!? 俺らにゃどう考えたって荷が勝ちすぎてんだろっ!?』


『だから大陸でも有数ってくらいの英雄を、四人も連れてきてるんだろ? 実際、俺たちのやってることって、英雄の人たちの作戦通りのことを、英雄の人たちにおんぶにだっこされながら、かろうじて達成する、みたいなもんじゃないか』


『そりゃっ……そうかもしんねぇけどっ! だからって! っつぅか今回はどうなんだよ!? 俺らに作戦立てろとか無茶なこと言ってさぁっ!』


『いや英雄の人たちも言ってただろ? カティがどういう冒険者になるかって希望に関係するから、カティに作戦を立ててもらおうって考えただけだって。俺たちの立てた作戦もきっちり監修されたし、それに必要な術法具も準備してもらった。紛うことなくおんぶにだっこじゃないか。別に今までと変わってなくないか?』


『そ……だ、だからってなぁっ! そもそも俺にはそんな能力ねぇって言ってんだよっ! 邪神の眷族五体を一人で相手するとか、どんだけすげぇ作戦立ててもらってお膳立てしてもらっても、絶対無理なんだ、俺にはっ!』


『いやそりゃ知ってるけど。だから英霊召喚術式に頼ろうとしてるんだろ? 神々の加護に後押ししてもらって、大陸の一大事だからって理由で世界の理に融通を利かせてもらって、もう亡くなった英雄の霊に力を貸してもらうんだろ? 実際に戦うのはお前かもしれないけど、少なくとも半分以上は召喚する英霊の人にやってもらう、ってくらいの割合にならないか? これもおんぶにだっこ以外の何物でもないと思うけど』


『だっ……なっ……だ、だけどなぁっ!? そ、そもそもおんぶにだっこしてもらったところで、俺には絶対にできっこないって言ってるんだよ! 俺には才能がっ……』


『いやだから、お前の才能がどうだろうと、お前の体を英霊の人に動かしてもらうわけだから、少なくとも今回は関係ないじゃないか。その経験をどう活かすか、どこまで活かせるかってことには才能が関わってくるとは思うけどさ。英雄の人たちも、できなかったらできなかったでかまわない、ってくらいの言い方だっただろ? 戦力の底上げがうまくできれば儲けもの、ぐらいの目論見だったじゃないか』


『ぬっ……ぐっ……』


 そこまで微に入り細に入り、『別にお前期待されてないから』と説明されると、ふつふつと『ふざけんなもっと期待しろ』と怒鳴りたい気持ちが湧き上がってきてしまうのだが。


 この状況でそんなことを喚き散らすのはジルディン並みの馬鹿ですと主張するのも同じだ。さすがにそこまでは落ちぶれたくない。必死に頭を回転させながら、なんとか言い訳がつくような形で反論する。


『だ、だけどな! 失敗していいってもんでもないだろ!? ほぼ否応なしに請けさせられた依頼だって、仕事は仕事なんだから! それも大陸の命運にかかわりかねない依頼なんだから、できる限りいい結果に落ち着かせようとするのが筋ってもんじゃないか!?』


『それはそうかもしれないけど。そんな大きな仕事を、俺たち程度の冒険者がどうこうできる、って考えること自体、もう不遜じゃないか? 俺たちにできるのは、少なくとも今は課されたことを全力で、少しでも望ましい結果に近づけようとあがくくらいがせいぜいだと思うけど』


『ぐぅっ……』


『その上で、英雄の人たちは、作戦の結果の責任を、できる限り取ろうとしてくれてると思う。最下層冒険者でしかない俺たちに、作戦の責任を取らせるのは理不尽だ、っていう、建前扱いされかねない理屈をきちんと重んじて、英雄としての責任を果たそうとしてくれてると思う。だったら俺たちにできるのは、それを受け容れながら、死に物狂いでやるべきことをやるくらいしかないんじゃないか?』


『う、ぅ、だ、けど、なぁっ……!』


 真っ当で誠実な言葉。真正面から向けられるまともな理屈。反論のしようのない正当な言い分。それでもどうしようもない反感は打ち消せずに、必死に言い返す言葉を探そうとする。


 そこに、その声は、あっさりと、そして端的に告げた。


『まぁ、そんなことはカティもわかってるんだろうけど。それでも納得できないっていうんなら、とりあえず言いたいこととかどんな気持ちなのかとかを、全部ぶちまけてみてくれよ』


『………はい?』


 思わずぽかん、と問い返す。なに言ってんだこいつ、としか思えなかった。


 なんで、この状況で、そんな台詞が出てくる?


『別に、おかしなことじゃないだろ? カティは俺が言ったような理屈はわかってる。でも、納得できない気持ちがあるんだろ? だったら俺としては、できる限りその気持ちを聞くしかないじゃないか』


『い、いや、でも、だって』


『恥ずかしいとか言いたくないって気持ちもあるのはわかるけど。納得できない気持ちは、溜め込んでたら腐るだろ? 愚痴るだけ愚痴ってみるのが、一番楽だと思うんだけど』


『いや、その、でもだな。そんなこと他人に言って、その、納得できない気持ちを押しつけるみたいなのは、さすがにその、人として』


『いやそれだいぶ今更だろ? もう既に相当見苦しいとこ見せてるからな、カティ』


『ぬぐっ……』


『第一、カティが精神的に復調してもらわないと、俺たちも仕事が進まないわけだし。こっちの仕事のために、できる限りのことはするからとっとと元気になってくれ、ってだけなんだから、引け目も気後れも感じる必要ないだろ? 話すだけ話してみてくれよ。それでも駄目だったら駄目だったで、なにか方法考えてみるから』


『う、うぅ……』


 そういう風に言われると、単に自分が意固地になっているだけのような気がしてくる。いや、気がしてくるもなにも、客観的にはそれ以外の何物でもないとは思うのだが。それでも自分の中にはどうしても納得したくない感情が溢れていて。自分で自分を責め苛む、罪悪感と自責の念と、腹の底から溢れてくる、自分をこんなどうしようもない奴にした世界への反感とで、体中が針を刺されたように痛んで。


 頭が破裂しそうになるほど悩んで悩んで――えぇいもういいや、と悩みを放り投げた。


 向こうが聞きたいっていうなら聞かせてやればいい。自分のどうしようもなさと、それゆえの苦しみを。そうすれば向こうだって、カティフ・キーンツという男は本当にどうしようもなく駄目な男だというのがわかるだろう。どうせ相手は本物のロワじゃないんだ、後腐れなくぶちまけちまえ。


 ぐるぐる回る、矛盾しきった感情を放り出し、カティフは自分の生い立ちから語り始めた。どうせ話すんなら自分がなんでこんな思いを抱くに至ったか、その過程まで話さないと納得がいかない。


『自分の人生を振り返って思うのは。ずっと、誰かを見上げてばかりの人生だった、ってことだ―――』






『……だから、思ったんだ。うつむいている以外に、俺になにができるっていうんだ、って』


 勢いのままに喋って喋って喋り倒し、最後の一言を言い終えて、顔をうつむかせたまま目の前の中空を睨む。声はどこからともなく聞こえてくるので、そもそもどこを睨めばいいかもわからなくはあるのだが、心情的にはほとんど喧嘩を売っているようなものだった。


 どうだ、聞いたか、思い知ったか、この辛気臭さ、景気の悪さ。思いきりのなさ、情けなさ、愚かさ見苦しさ。こんな想いをどうにかできるというならどうにかしてみろ、と。


 その心情の裏には、どうにかできるなら頼むからどうにかしてくれ、とすがるような、強請るような、情けなく見苦しく醜く身勝手な思考が存在していることは自覚していたため、喧嘩を売りながらも心臓と胃がきりきり痛んではいたのだが。


 ――が。そんな必死の想いで叩きつけたカティフの半生に対する反応は、


『ふぅん……そっか』


 という、ごく淡々とした言葉だった。


『えっ……なに……? え、それだけ?』


『いや、それ以外に言いよう、なくないか? だって、自分なりに必死に生きてきた人生に、誰かが上から目線でああだこうだ言うとか、死ぬほど腹立つだろ? そんなのはさすがにごめんだし……』


『い、いや、それはそうなんだけど。なんていうかこう、びしっとばしっと、俺の人生をひっくり返すみたいな、強烈な一言とか、あるとこじゃ……』


『いやそれはいくらなんでもこっちに期待しすぎだろ。人生なんてそもそも、そんなに簡単にひっくり返るもんじゃないし。ひっくり返ったと思っても、普通それって錯覚だし。結局昨日の続きをちみちみ地道に積み重ねていくしか、普通の人間にはできないし。第一他人に簡単に人生をひっくり返されるとか、嫌じゃないか? 自分なりに必死に頑張ってきた気持ちとか、本当にわかっているわけでもない人に、あっさりそういうのを全部なかったことにされるとかさ』


『そ、そりゃ、そうだが……そうなんだがっ……』


 自分の意気込みを思いっきりすかされた気がして、なんだか死ぬほど恥ずかしくなってきた。いや考えてみたら本気で恥ずかしくないか!? 愚痴を聞いてやると言われたからって、自分の人生を最初っから語り始める奴とか、恥ずかしいとか言ってられる段階超えてないか!?


 うあぁぁなにやってんだ俺ぇぇ! と内心呻き喚く。体が動くなら、頭を抱えてその場にへたり込んでいただろう。今すぐ死にたい消滅したい、と動けないまま感情をひたすらに荒れ狂わせる。


 そこに、やはり淡々とした声音で、続きの言葉が響いた。


『というか……そもそも。俺だって、人のことをどうこう言えるほど立派な人生、送ってないしな』


『へ……』


『俺だってさんざん周りに迷惑かけ倒して、なにも返せないまま一人こうして生き延びて。単純に生きるために冒険者稼業に身を投じて、自分の食い扶持をまともに稼ぐこともできないまま、ひぃひぃ言いながら一年も冒険者を続けて。そんな人生しか送ってない奴が、人の人生にどうこう言えるわけないだろ』


『え、いや、でも……』


『というか、カティは他人に迷惑かけてるわけでもないんだから、むしろ真っ当な生き方してきた方じゃないか? 今日一日の食費にも事欠くような生活しながらも、強盗の類には手を出さずに、むしろそんな選択肢があるなんて考えもしないで、物乞いや残飯あさりで日々をしのいできたんだろ? どん底の生活味わってきた人間の中じゃ、相当立派な心根持ってる方だと思うけど』


『そ、そう……か?』


 褒められていくぶん気力が回復しかけたところで、慌ててその心の動きに待ったをかける。そんなことで元気になってる場合じゃない。自分が言いたいのは、自分がどれだけ最低な人生を送ってきた駄目人間で、これからもまともな人生を送れないだろうということで、今回の仕事のような大きい依頼なんて、どうしたって完遂することなんかできるはずないだろうということで。


『……本当に、本気で、絶対に、断固として今回の仕事をやりたくないって言うんなら、無理してやることはないかな、って思うけど』


『えっ……』


『でも、カティ、実際のところは、今回の仕事、やりたいんだよな?』


『っ……』


 一瞬絶句したカティフに、ロワが喋っているように聞こえる謎の声は、淡々とした調子を変えないまま、真正面からカティフに言葉を投げかけてくる。


『本当の気持ちを正直に言えば、今回の仕事、やりたいんだろ? っていうか、もうものすごく完璧にこなして、英雄の人たちや、ギルドの人たちとか、ゾヌの一般市民的な人たちからも、すごい、偉い、素晴らしいカッコいい、君は我々の誇りだ、って褒めちぎられたいんだろ?』


『な……っ、ぁ……』


『こんな大仕事、俺たちにはもう二度と回ってこないかもしれないもんな。それを成功させて、これまでの人生で手に入れることができなかった、他の人からの尊敬とか、賞賛とか……あと、自分で自分を大した奴だ、って誇れる気持ちとかを、手に入れたいって思う気持ちは、俺にだってあるよ』


『だ、っ、あ』


『でも、この依頼は妄想じゃなく、現実だから……これまでずっとうまくいかせることができなかった代物と地続きのものだから、自信がない、うまくできるかわからない、怖い、失敗しちゃったらどうしよう……って逃げ出したくなる気持ちも、俺にだってあるよ』


『っ……』


 再度絶句したカティフに、その声はやはり淡々と、そして真摯に、誠実な言葉を告げた。


『どっちもわかるから、どっちを選んでも、俺は文句を言う気はないし、言えない。俺としてはちゃんと仕事してほしくはあるけど、逃げ出しても俺はどうこう言えないし、言う気もないよ』


『……なんで……』


『ん?』


『なんで、お前は、こんな状況で……最低の、人生を送ってきたって言ってるくせに……』


『なんで逃げ出さずに仕事しようって思えるのか、って?』


『っ………』


『まぁ……ひとつには、選択の余地がないから、っていうのはあるかな。断って逃げ出したところで、ろくな人生が待ってる気はしないし。ていうかそもそも大陸そのものが滅びる可能性だって、無きにしも非ずだし。だったらやるだけやってみた方が建設的だし……それに』


 そこでいったん言葉を切って、少し逡巡するような気配を感じさせてから、声は少し照れくさげに、わずかに潤んだ声音で告白した。


『俺にだって、裏切りたくない相手ぐらいいるからさ。その相手のためにも、こんな俺でも、できる限りのことはやらなきゃって思うんだよ』


『………――――』


 数瞬の沈黙。それから発想、そして想到――続いて激情がやってきた。


『………おい』


『え、なに?』


『お前、ロワだよな? っていうか、正直この声俺の幻聴とかであってほしいって思ってたんだけど、この謎の声を喋ってるのは、俺の仲間のロワで間違いないんだよな?』


『え、そうだけど。……っていうか、それ気づいてなかったのか? 口ぶりからしても、明らかに気づいてると思ってたんだけど……』


『気づいちゃいたけど気づきたかなかったんだよ。……つまり、こういうことだよな? ロワ、お前には、どんな状況でも裏切りたくない、特別な相手がいる、ってことだよな?』


『え……う、うん。そうだけど……』


『………許せねえぇぇぇえぇェッ!!!!』


 カティフは動かない体で、それでも腹の底から絶叫する。命懸けて魂懸けて、心底からの想いを叫ぶ。


『んっだそりゃお前この野郎ふざけんなよ!? お前は俺の同類だと思ってたのにんっだそりゃてめぇこの野郎! 特別な相手がいるとかっ、ふっざけんな殺すぞこのクソガキャア! 俺と同じ底辺冒険者の分際で、俺より五歳も年下のくせしやがって、特別な! 相手だとぉぅっ!? 許せるわきゃねぇだろうそんなもんっ!』


『え、えぇー……?』


 これまでずっと体中にわだかまっていた、怖気や憂いは吹き飛んでいた。そんなことをうだうだ言っている余裕はない。


 腹の底から湧き上がる、単純にして強烈な、『自分より年下の仲間に特別な相手がいる』という事実に対する、我が身を焼き焦がすほどの苛烈な嫉妬の前では、自分のこれまでの人生につきまとっていた煩悶など無に等しい。


『許せねぇ、断じて許せねぇ許してたまるか断固断罪だ断罪っ! とっととこの仕事片付けて、無事ゾヌに戻ってその特別な相手紹介しろクソ野郎! てめぇの失敗談からどんな女に目がいくかまで、あることないこと吹き込んで破局させてやるっ!』


『えぇ~………いや、そんなこと言われてもさ……』


『いいからとっとと術式発動させろこのボケ野郎馬鹿野郎! 絶対許さねぇ断固許さねぇ死んでも断じて許さねぇ、この俺の恨みつらみを炸裂させるまでは絶対死んでやらねぇぞこのクソ野郎! 俺はすぐにでも即座にでも寸秒を惜しんででも、仕事を終えてお前の相手にあれこれ吹き込みに行きてぇんだ、即行でやれ今すぐやれうだうだ言ってねぇで瞬時にやれっ!』


『いや、やりたいとは思うけどさ、っていうかさっきから頑張ってるけどさ、それでも正直なかなかできそうな感じが……あ、できた』


「……は?」


 ぽかん、と顔を上げて呟くよりも早く、体に先に自覚がやってきた。


「………っ!?」


 体が先に思い知った現実に、思わず息が詰まる。心臓が跳ねる。緊張と恐怖でまともに口が利けなくなる。今、カティフの体は、間違いなく、別の人格に支配されていた。


 その人格は、カティフに敵意を向けているわけでもない。カティフの体に対する支配権を、断ち切ろうとしているわけでもない。ただそこに在るだけで、カティフ自身の心魂の方が自然と、その圧倒的な存在感に、『身体』というものに対する強烈な支配力に、打ちのめされて支配権を差し出してしまっているのだ。


 英霊召喚。英霊に人の体を明け渡す儀式。その実態に、カティフは怯え、打ちのめされ――


「………んん?」


 ――ながらも、動けなくなりはしなかった。


 英霊の心と魂が、カティフのそれに上から纏うように寄り重なっている。だからその思うこと、感じる想いは自分のそれのように簡単に掴み取ることができた。


 そこから伝わってくるのは、強烈な共感だった。カティフの感情――嫉妬に対する、ほとんど同化していると言ってもいいほどの同調。


 この英霊の送ってきた人生への想念が、ぼんやりとではあるが感じ取れる。英雄と呼ばれるほどの実力を身につけながらも、生まれてから死ぬまで、一度も女にモテたことがなかったことへの、壮絶な無念と悔やみの感情。共に歩んだ仲間の、自分よりはるかにモテていた奴に向けられた熾烈な嫉妬と呪詛。自分よりもモテないと思っていた後輩が、あっさりさっくり相手を見つけていたことへの、激烈なまでの憎悪と怨念。


 その感情のことごとくに、カティフも心底から同調し、共感する。今やカティフと英霊はひとつであるようにすら感じられた。他の誰もが首をかしげるような、目を背けるような繋がりであろうとも、この絆は唯一無二であるとすら今のカティフには思えた。そう、この世の最底辺に存在する男たちが、自分よりもモテる男に向ける嫉妬ほど、強く共感し合える感情などこの世にはない!


 カティフはすっくと立ち上がる。さっきまで指一本動かすこともできなかったのが嘘のように、体を縛っていたものはあっさり解けていた。


 自分の前にへたり込んでいるロワをよそに、カティフと、その体を使っている英霊は叫んだ。


「支援!」


 ロワの後ろに座り込んでいた仲間たちが、慌てて立ち上がり、いくつもの支援術式を自分に向けてかけてくる。それを受け取りながら、カティフは深く息をつき、中空を睨みつけて、仲間たちが一通りの支援術式をかけ終えた頃を見計らって叫んだ。


「分割!」


 その叫びに一瞬息を吞んでから、ネーツェがシクセジリューアムに渡された術法具を発動させる。とたん、カティフの体からがくんと力が抜けた。


 いや、抜けたのではない、分かたれたのだ。カティフの体はぼんやりと歪み、軋み捻れて、いくつもの影に分かたれていく。数瞬後には、一人のカティフだったものは、装備も含めて、カティフそのものの姿と顔を有した五体に分割されていた。言ってしまえば、分身したわけだ。


 これぞシクセジリューアム特性の術法具、人間分割並列処理術式発動装置の力。読んで字のごとく、人間の能力をいくつかに分割し、並行して操作することができるという代物だ。


 そのとんでもない効果同様、お値段の方もとんでもないらしい。自分たちが立てた『カティフを五つに分割して邪神の眷族五体と戦わせる』という作戦に使える術法具はないか、というロワの問いに、シクセジリューアムが準備してくれたのがこの術法具なのだが、あのシクセジリューアムが問いに答える前に、一瞬躊躇したくらいだ、値段も希少性もとんでもないのはほぼ確実だ。


 だがそれでもこの状況下で作戦を遂行するためには、これを使わなければどうにもならない。これは術式発動一回ごとに一個必要になる使い捨ての術法具で、普段のカティフなら、いかに絶対必要といえども使うのにどうしてもためらいが生じてしまっていただろうが、今はそんな些末事はどうでもよかった。そう、この胸を焦がす鮮烈な嫉妬の情に比べれば、どんな感情も行いも些末事でしかないではないか。


「転送!」


 カティフの叫びに、ネーツェがわずかに瞳を揺らしながらも、素直に術法具を発動させる。一瞬の視界の歪みと惑乱ののちに視界が切り替わり、五体のカティフがそれぞれに、魔物がうじゃうじゃいる森の奥の祭壇や、断崖絶壁に建つ陸からも海からも死角になって見えない祭壇、人跡未踏の洞窟の奥の祭壇など、人の手の触れようがない場所に設置された祭壇の前へと転移した。


 視界は共有、というか五つの分身をひとつの人格で操っているような状態なので、そのことごとくを今のカティフは認識し、理解し、各個の分身を操って動かすことができるわけだが(心身を鍛え上げたことにより情報処理能力も一般人より格段に高い、英霊が憑いていなければまともに世界を認識することもできなかっただろう)、そのすべてに共通する障害物を視認し、カティフは剣を抜いて構えた。


 どの祭壇の前にも、不気味な肉の塊としか称しようのない気色悪い生物が、どんと鎮座して待ち構えていたのだ。その生物たちは、どれも敵性存在――カティフの出現を、待ちに待っていたとでも言いたげに身体を震わせ、『イイィイィィッ!』『ブルルルルル』『シギァァアァッ!』などと、それぞれ奇声を上げてこちらを威圧してくる。


 こちらもこういう連中が出てくることは予想通りだ。余裕の笑みをにやりと浮かべ、剣と盾を構え直し、正面から相対して――ようやく気づいた。


『あ、これ、駄目だ。英霊込みでも、五分の一になった俺とこいつらじゃ、こいつらの方が強ぇわ』


 そしてその自覚の後に、敵――邪神の眷属たちが、カティフと英霊の五分の一の分割体めがけ、不気味な喚き声と共に、分割体では対処しきれないほどの速さで突撃してくる。


『………うぎゃあぁあぁっ!』

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