第29話 人界の対話、神界の交流

 森の中ではあるがそこまで深い森ではないし、霊に観てもらえばついさっき通った人の跡を追う程度のことは造作もない。もちろん、シクセジリューアムが本気で隠れるつもりならば、追いかけることなどどうやってもできなかったろうが、幸い相手はそこまで本気で隠れようとはしていなかった。


 仲間たちの前をかけ去ってから、早足にまで速度を落として歩くこと数分。大樹を回り込むようにして進んでいくと、向こうの方から腕をつかまれて、木陰――闇の中へと引きずり込まれた。


 とたん、視界の陰陽が反転する。薄闇に呑み込まれ始めていた黒い森の光景の色が、白と黒のみに塗り分けられる。以前ネーツェが使っていたことがあるので覚えている。これはたぶん、密談用に使う魔術結界だ。触媒として影と闇を使うのだが、使った影と闇が肥大化するため、『そこにある』ことはわかってしまうものの、中で行われた会話を外から聞き出すのは、相当に技量に差があっても難しいため、密談用に広く使われている術式なのだとか。


 そんな結界の中で、ごく普通の中年男性にしか見えない元人が、自分を大樹へと追いつめるように両腕で逃げ道を塞ぎながら、無表情でこちらを見下ろしてくる。ロワの中でざわりと恐怖心が蠢いたが、自分はそもそもこの人と話をしに来たのだ。できる限り冷静さを保った顔で、じっとシクセジリューアムの顔を見上げる。


 シクセジリューアムは、数瞬刻ルテンこちらを無言で見下ろしたのち、低い声で告げた。


「……君は、本気で、ルタジュレナのために、神に向けて、あんな申し出をするつもりなのかい?」


 やっぱりそのことか、と思いつつ、ロワはきっぱりうなずいた。


「はい」


 一度深くため息をついてから、シクセジリューアムは感情の感じられない顔で、こちらを睨むように見下ろす。


「やめておきなさい」


「なにか、止めなくてはいけない、差し迫った明確な理由があるんですか?」


「そもそも、神に対して、人の側からなにかを願い出るということそのものが不遜だ。人としての分を超えている。人として在ってはならない愚行だ、止めない方がおかしいというものだろう」


「『人としてそう在ってはならない』って、神さまから言われたんですか?」


「……そう、では、ないが」


「それなら、俺は、何度も会って話をした、あの神さまのことの方を信じます。あの方は……俺の理解の及ばないところもあるけれど、少なくとも、人の生が不幸であることを、肯んずるようなことは、決しておっしゃらなかった」


 できる限りへりくだった口調で、取り繕いながらも、できる限り正直な気持ちを話す。自分なんぞが嘘をついたところで、大英雄が騙されてくれるわけがない。


 ただ、自分の出会った神が――あの優しい女神さまたちが、人の不幸を肯んずるような存在ではないことは、誰に問い詰められても断言できる事実だ。言いたいこと自体に微塵も嘘偽りはないのだから、ロワとしては後ろめたさはなかった。


 シクセジリューアムはそんなロワを、無表情のままじっと見つめていたが、やがてぼそりと告げる。


「私の神――術と魔の神ロヴァナケトゥさまは、私にこう仰せになった。『技を磨き、魔の高みへと至れ』と」


「え……」


「『神に頼らず、超越者に縋らず、ただ人の業を積み重ね高みへと至れ』――そう仰せになった。私はあの方のそのお言葉を、今もはっきり覚えている」


「…………」


「だからこそ、言える。神は人が御自身に縋ることを、よしとはなさらない。ロヴァナケトゥさまのお言葉のみならず、これまで大陸中を回り、幾多の神々の御足跡を見てきた私だから言える。神々の御情けに縋ることは、神々の御心を損なうことだ」


「…………」


「だから、やめておきなさい。君が、神々を敬う気持ちを持ち合わせているならば」


 そう告げるやシクセジリューアムの姿はすぅっと消え失せ、同時に白黒の世界に色が戻る。元の世界に戻ったのだ、とロワが悟る頃には、もうシクセジリューアムはどこにもいなかった。


「…………」


 ロワの目も耳も、シクセジリューアム――大英雄の大迫力の無表情の印象が後を引き、なかなかまともに世界を認識できている気がしないほどだったが、そんな中でもなにより印象に残ったのは。


「………あの人、普段の物言いは、演技だったのかな」


 シクセジリューアムの一番『素』が出たであろう言葉が、普段喋っている言葉と微妙に違うという、些細だけれどはっきりとした違和感だった。




   *   *   *




 とぼとぼと野営した場所に戻ってきた頃には、もう仲間たちは全員、天幕の中で床に就いていた。夜番を立てないでいいのかと思ったが、なんでも今日一日中自分たちを厳しく指導した、ルタジュレナ自身がそうするよう言ったらしい。


「これまでに移動しながらやってきた鍛錬は、あなたたちを『一人前の冒険者』に、少しでも近づけるためにやってきたこと。私たちが万一いなくなったとしても、対処できるようになるためにね。でも今日からの鍛錬は、純粋に技術や能力の向上を目指したもの。あなたたちをどう動かし、どう生き延びさせるか、そういうことを考える頭――つまり私が、どんな時でもあなたたちの側にいるという前提でね。私は死に物狂いで、なにがあろうともあなたたちを命懸けで護り、動かすわ。それに必要だから、あなたたちの駒としての、単純な戦力としての能力も向上させる。そのためには、あなたたちが誰にも妨げられることなく、ぐっすり休むことも勘定に入っているのよ」


 きっぱりはっきりそう告げるルタジュレナに逆らう気も起きず、そもそもロワ自身も相当疲れていたので、言われるままに天幕の中で、毛布をかぶって寝転がる。おそらくルタジュレナが、天幕内を快適な状況に保つ術式をかけてくれているのだろう、男が五人並んで寝転んでいるのに、空気も温もりも心地よかった。当然ながら導眠の術式もかけてくれているのだろう、目を閉じて深呼吸をしようとする、やいなやあっさり眠りに落ちる。






 ―――そして気がつくと、神の世界にいた。


「あー……」


 光に満たされた以下略。なびく瑞雲は以下略。雲が高台を形作っている場所に、いつも通り一人の女性が立っている。


 黄金の髪以下略。翠玉の瞳以下略。圧倒的な美貌以下略。つまり、エベクレナだった。


「……どうも、こんにちは……」


「……はい、こんにちは」


 あれ、と少しばかり不審に思う。なんだか、いつもの勢い……というか元気というか、そういう活力が少ないような。


「あの……エベクレナさま、なにかありました? なんだか、普段よりお元気がないような気がするんですけど」


「いやなにかあったというか……なんにもないがゆえというか……いや私がショック受ける筋合いみじんもないんですけどね、ある意味私の存在に申し訳なさすら感じるというか……」


「え? あの、なにが……?」


「……ついに私も以下略で表されるようになったんだなぁ……と思っただけです……いや私がそんなこと感じられるほどあなたに認識されてるこの現状がそもそも間違ってると思うんですけどね、もうなんかホント私なんぞが推しの前に立つとか本気ありえんわって感じですしね、いやなんか本当私なんぞがこの役やってて本気で申し訳ありません生きててすいませんというか……」


「え゛」


 一瞬愕然としてから、慌てて言い訳する。そうかそうだこっちの考えていることが素通しなんだからこういうことも読み取られて当然だ。


「いや別にそういうわけでは! そもそもエベクレナさまが申し訳なく感じる必要少しもありませんし! 単に俺が慣れというか、この状況に馴染んできたせいで無精しちゃっただけで!」


「いやいいんですすいません、気にしないでくださいホントっていうか悪いのも責任あるのも全部こっちですし。勝手に心読まれて勝手に落ち込まれるとか大迷惑以外の何物でもないですし、サトリストーカーとか鬱陶しすぎるというか、身近に存在しててほしくないって思うのごく普通の考えというか。いやこういうこと言われること自体面倒くさい以外の何物でもないですね、否定するのも肯定するのも鬱陶しいですもんね、なに口に出してんだこの女って感じですよねいや本当申し訳ありませんとしか」


「いや迷惑じゃないですから! 俺はエベクレナさまが俺と話してくれる神さまで、本当によかったって思ってますから!」


「………うっ………」


「いつも俺に優しくしてくれますし! 他の女神さまとの間にも入ってくれますし! いつも俺たちを見守ってくれて、危機に陥った時には身銭をつぎ込んで力を貸してくれる……というのは、正直まだ納得いってないんですけど……それでも、そこまでしてくれるのにまるで恩を着せようともしない女神さまなんて、本当に俺にはこれ以上の方はいないって思って……え、あ、あの、すいません。なんで泣いてるんですか……?」


「………神すぎる………」


「え……いやあの。神はあなたでしょ……?」


「いやすいません本当申し訳ありません神の眼前でこんなこと抜かして。いやでもあまりに神すぎませんかこの対応。勝手に傷ついて暴走するファンに、あくまで誠実に正直に、心の底からこんなこと言っちゃえるとか。もう可愛いとか尊いとかいう次元じゃないですよこれ、あまりに神……神すぎる……。こんな人を尊死させられる子がこの世界に存在してくれることに、ただただ感謝、圧倒的感謝……。この世界を創り出してくれた神にひたすら平伏して感謝の祈りを捧げたい……」


「いやあのすいません、どの神がどこの神だか俺さっぱりわからないんですが」


「ううっ、うっうっ……」


「いや………あの。とりあえず、落ち着いてくれませんか……?」


 法悦の表情で滂沱の涙を流しまくる圧倒的美貌の女神に、ロワとしてはそう言うしかなかったが、幸いエベクレナは数短刻ナキャンで正気に戻ってくれた。目尻を赤くして照れ笑いしつつ、正気の顔で頭を下げてくる。


「いや……すいませんご迷惑おかけして。あなたが寝るちょっと前に、魔術師の何某さんにあなたが迫られているところ見て、ちょっと発狂したこともあって、情緒不安定になってまして……」


「え、迫られて……って、シクセジリューアムさんのことですか? あれは別に迫られたっていうほどのことでもないと思いますけど……」


「いやあれは充分迫ってたでしょ! 若い男の子に二人っきりでいい年こいた人間がああもぐいぐい接近するとか、その時点で充分犯罪のレベル! お巡りさんこいつですとしか言いようがないです! 通報できない我が身をああも恨んだのは久しぶりです私!」


「はぁ……」


 接近するだけで犯罪とは。なんだか自分がお姫さまかなにかになったような扱いだ。


「おひっ! ひっ……やっ、その、私そこまでは! 正直そういうのも嫌いじゃないっていうか好きですけど、基本はあくまで男子同士の対等な関係なんで! いや根本的な魂の部分で対等なら、推しがみんなに姫扱いされてるのぶっちゃけ超嬉しいんですけどね、みんな私の推しを好きでいてくれてる! みたいな……! 伝わらないのをいいことに推しの前で好きシチュを語るとか自己完結羞恥プレイみたいなことしちゃってますけど!」


「はぁ」


 なにを言っているのかよくわからないが、顔を真っ赤にして、たぶん恥ずかしさで泣きそうになっているのに、必死に勢い込んで喋るエベクレナは、見ていて可愛らしいので、良し悪しでいうならたぶんいいことなのだろう。


「かっ……! ってっ……、もぉぉ……妄想盛り上げた後に夢で殴りかかってくるみたいな情緒のぶん回し方、本気で勘弁してくれませんかね……! いや私が全部悪いんですが! 自業自得自家発電ですが!」


「はぁ」


「ええと! とにかく! 話を進めますね! それでっ、今回もゾっさん……風の女神ゾシュキアを呼んで、お話するわけなんですが!」


「はい」


 そうだ、ギュマゥネコーセの時は自主的に二度目を辞退されただけで、他の女神お一方につき三回連続で呼んでくることになっていたそうなのだから、当然そうなる。


「ゾっさんが言うには、ガチ問い形式にしたいそうなんですよ」


「え?」


「いやええと、なんて言えばいいかな……互い違いに、一問一答形式で話をしたいそうなんですよ。お互い相手に質問をぶつけあって、どちらも正直に答える、みたいな……」


「それは……かまいませんけど。なんでですか?」


「なんていうか、その……前回、ちょっと恥ずかしい目に遭わされたの、ゾっさん地味に根に持ってるみたいで。こっちからもきわどい質問をして恥ずかしいことを答えさせてやるぜ、みたいに思ってるらしくて……」


「うぇ……そうなんですか?」


「もちろん、あなたが嫌だってことなら、この提案はなしってことでもいいそうなんですけど。『その代わり、女神ゾシュキアになんでも質問ができる権利は消えてなくなっちゃうけどね』だそうで……」


「……なるほど」


 確かに、それは惜しい。これまで数千年女神をやってきたというゾシュキアに、なんでも質問ができる権利なんてそうそう手に入るものではない。エベクレナたちにいくつか聞いておきたいこともできたことだし、とロワはエベクレナにうなずいた。


「わかりました。俺はいいですよ、そのやり方で」


「お、ぉぉぅ……そ、そうですか……わ、わかりました。じゃあ今ゾっさん呼びますね」


「? エベクレナさまはなにか、その形式だと困ることがあるんですか? それなら俺考え直しますけど」


「いやその、えっとその、そういうわけじゃなくてですね、その……逆に嬉しいというか」


「え?」


「そ、そのですね! 推しが、自分以外の人がガチで質問することに、ガチで答えてくれるというこの状況に、ひゃっほい推しの話が聞けると喜ぶ私と、他の人が質問するんだから私は悪くないよね的な思考をするずるい私と、いやこれ合法的なハラスメントの一種では? と真面目にどうよと考えている私がいてですね! 私がどうこう言える筋合いじゃないんでこの状況をどうにかできるわけでもないんですけれども、申し訳なさと歓喜で混乱中といいますか……!」


「ああ……」


 ロワは思わずくすっと笑った。この女神さまは本当に、真面目な人だ。


「気にすることないですよ、俺は別に隠さなきゃならないほど、たいそうな秘密持ってないですし。ゾシュキアさまに質問できる機会を与えてもらえるのは嬉しいというか、ありがたい話ですし。こちらとしてはむしろ、絶好の機会ってやつだな、って思ってますよ」


「そ、そうですか……?」


「でも、エベクレナさまがそんな風に考えてくださるのは、すごく嬉しいです。ありがとうございます」


 にこっと笑ってぺこりと頭を下げると、エベクレナは顔を真っ赤に染め、慌てて恥じらうようにうつむく。


「え、笑顔ヤッバ……! この至近距離で! 推しが! 私に笑いかけてくれるとか! ありえん、もったいない、仲間たちに向けているところを見たかった……! いやでもヤバい、普通に眩しすぎて真面目に鼻血出るわ、奇跡すぎるでしょこの笑顔! これ無理ありえんガチで脳味噌飛ぶ……!」


「エベクレナさま……? 大丈夫、ですか?」


「はっはい大丈夫です大丈夫ですよぉっ、話を先に進めましょう!」

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