第四章 十四都市迎撃戦

第25話 作戦再始動

「次に英霊を降ろすのは、ジルにしてもらう。なぜかはわかるな?」


 邪神の眷族の群れとの戦いののち、後始末を英雄たちに任せて、ルタジュレナとシクセジリューアムが力を合わせて発動させた快眠の術式で、短時間ながらも身魂を完全に復調させるだけの睡眠をとった後。目覚めてすぐに開かれた作戦会議で、タスレクがそう口火を切った。


 ロワはどう答えるか少し悩んだものの、結局素直に自分の考えたところを申し述べる。


「はい、たぶん……治療役で、浄化の風なんかで防御役もこなせるジルの能力が向上すれば、全員の生存率が上がる、からですよね?」


「あと、単純にジルの術法使いとしての資質が優れているから、ってのもあるね。英霊を降ろして、能力の正しい使い方を身に着ければ、一番〝化ける〟可能性が高いだろう、ってことさ」


「え、へへぇ。そー、ですか?」


「逆に言えば、優れた資質を持っているのに、今はそれをまるで使いこなせていない、宝の持ち腐れというにふさわしい状態だ、ってことよ。少しも得意がれることじゃないわ」


「うぐっ……」


 ジルディンはルタジュレナにじろりと睨まれてしゅんとしおれるが、すぐに気にしないことにしたようで、元気に顔を上げいきいきした目で周囲の様子をうかがい始める。自分が話題の中心になっているのが嬉しい、というかうきうきわくわくするのだろう。そこらへんジルディンは年相応というか、普通に子供っぽい奴だから。


 そして、その『年相応に子供っぽい』性格でありながら、英雄たちに認められるほど『術法使いとしての資質が優れている』というところが、ジルの強みであり弱みでもあるわけなのだが。


「私たちは邪鬼との決戦までに、神の加護を受けた子たちには全員、英霊をその身に降ろす、という経験をしてほしいと思っている。だからカティフくんにも英霊を降ろす機会は、できる限り作りたい。……ただ、私たちも、カティフくんにどういう英霊を降ろしてもらうのが一番いいか、というのをいまだ決めかねていてね」


「え……そうなん、ですか?」


「ああ。これまでにもカティも交えて、何度か話し合ったんだけどね」


「カティ自身、自分が最終的にどういう役割の冒険者を完成形として目指すのか、ってぇ心づもりがまだ定まってねぇからな。まぁ、この年なら別におかしいこっちゃねぇが」


 ちらり、とカティフに視線をやると、『渋面』を絵に描いたような顔のカティフと目が合った。じろり、とさして威圧感なく睨んできたので、軽く肩をすくめてみせてやる。そのわずかなやり取りの中でも、垣間見えた表情の苦さなどから、カティフなりに真剣に悩んでいることなんだな、というのはロワにもはっきりわかった。


 実際、カティフの冒険者としての完成形がどういうものか、と問われると、ロワもちょっと考えつくのが難しい。他の面々は(ロワも含め)役割がそれなりにはっきりしているので、どの能力を傾注して伸ばすべきかということもそれなりにはっきりしているが、カティフは違う――というか、現在こなしている役割を完成形としてしまうのは、ちょっともったいない気がしてしまうのだ。


 カティフの現在の役割は、前線を支えて後衛を守る、壁役兼前線指揮官というところだ。兵士としての教育を受けているので、戦場に慣れているし、兵法の基礎も学んでいるので、前線の状況の推移を見極めて、どこをどう攻めれば、どう守れば一番いいか、ということを考えつくのがうまい。


 現段階でも頼りになる前衛なのは間違いない――が、自分たちパーティの全員が戦術眼を磨くことができるようになったならば、今のままではただの壁役になってしまう。それではあまりにもったいない。カティフの戦士としての能力は、決して低いものではないのだ。騎士団の従者の子として教えられた折り目正しい剣術を磨きつつ、実戦の中にそれを運用して自分なりに鍛え上げた戦闘術は、大概の戦場で通用するだろうと、これまでに何度も戦場を見てきたロワとしても断言できる。


 ただ、騎士の従者としての教育を受けてきたせいか、冒険の中で特攻するヒュノの補佐役を務めることが多かったせいか、カティフの戦闘術は、『誰かを補佐する』ことを主目的としてしまう傾向がある。補佐する対象は、ヒュノであったり、他の仲間だったり、英雄たちのように一時的な協力者だったりするが、ともあれ戦場の中で戦力的に開いた穴を埋め、前線を保持して前衛後衛が仕事をしやすくする、ということ〝のみ〟に終始してしまいがちだ。


 もちろんそういう役目はそういう役目で非常に重要で、いるといないとでは戦いやすさや安全性が段違いなのは間違いない――のだが、カティフ本人の戦士としての能力向上に有効か、と言われると首肯はしにくい。攻撃役としても防御役としてもどっちつかずの、場当たり的に危険に対処してばかりで『得意な状況』というものがない、そういう戦士に育ちかねない危険性がある。


 これまでは自分たち仲間の未熟のためにそういう役柄を押しつけざるをえなかったわけだが、圧倒的に自分たちより上手の人々に安全を確保されながら、改めて『どんな冒険者になりたいか』『どんな能力を向上させていきたいか』と問われたならば、それは迷い惑いもするだろう。今まで考える余裕のなかった自分の未来を、将来を、現実も踏まえて具体的な部分まで思い描かなければならないのだから。


 カティフにとって好機なのは間違いないが、難事であることも間違いない。当然ながら、そんなことをいちいち口に出して、ただでさえ重圧を感じているだろうカティフに、さらなる圧力をかけるような真似はしたくないが。


 そこまで考えると、太ももから背筋にかけて、ぬらりとしたものが滑ったような悪寒が走った。うわぁ、と顔が勝手にしかめっ面になりかかるのを懸命に抑え、そろそろとルタジュレナの様子をうかがう。ルタジュレナは火を挟んだ自分たちの向かい側で、涼しい顔をしてお茶を飲んでいる。さすがは英雄、面の皮の暑さも一級品だ。今の悪寒は、間違いなくルタジュレナが、自分の心を『しゃぶった』影響だろうに。


 前回の戦いののち、自分が目覚めてすぐの騒ぎであれこれ釘を刺されながらも、ルタジュレナは自分の主張を通して、ロワと四六時中心魂を同調させる術式を使用した。ロワ自身がルタジュレナの熱意を受け容れる気持ちになっていた、というのがやはり大きいのだろう、他の英雄たちも渋い顔はしていたものの、断固として反対し続けるような人間はいなかった。


 そして同調しているといっても、ロワの側にはほとんど負担らしい負担はなかった。苦痛も感じないし、見張られているような緊張感も普段は感じない。ただ、それでも何度か不快な感触が心魂を撫でることはあった。


 詳しく問い詰めたことがあるわけでもないので、その感覚がどういう理由で起こるものか、はっきりしたところは知らないのだが、伝わってくる印象から、なんとなくロワの心を『しゃぶった』――余すところなく味わおうと、自身の内に取り込んだ際に起きる感覚なのではないか、と思っていた。ロワの心魂が神と交信する時に、完全にそれと同調したいルタジュレナが、自身が共感できる感情をロワが抱いたことを感じ取った時に、同調深度をより深めるためやっていることなのではないかと。


 だからといって、さして長い時間感じるわけでもないし、他の英雄たちに言ってやめさせたい、とまでは別に思っていないのだが――英雄たちがルタジュレナを止めに入ったのが、決してゆえないことではないというのは、実感できた。


 ともあれ、それ以外は特に作戦には変更もなく、ロワたちは空間断絶結界で保護していた馬にまたがり、再出発をすることになった。まだ大陸中の街々の半分程度しか回っていないのだ、次に邪鬼が動く前に、できる限り多くの街や国を回りたい。英雄たちのみならず、ロワたちにとっても自明の目的だった。


 馬を走らせながら訓練しつつ、瞬間転移であちらこちらの街へと飛び(といっても、シクセジリューアムが用意していた瞬間転移用の空間はある程度街から離れているところだったので、観光どころか場所の違いすら気候や植生でしかわからない、旅というにはほど遠い転移行だったが)、シクセジリューアムが用意した探知用の使い魔を放つところを眺める、というのをくり返す。


 英雄たちの攻撃をいなしたり、英雄たちに攻めかかったりといった特訓で息も絶え絶えだったロワは正直ろくに気づかなかったが、ヒュノなどは「なんか、一回行ったとこの近くにまた飛んだりしてるっぽいな」などと言い出した頃――つまり『邪鬼が攻めてくるのを探知する』という目的の移動を終え、『邪鬼の居場所を探り当てる』という目的の移動へと変移したらしい、ということにロワでもなんとなく気づき始めた頃、野営の時間がやってきた。


 いつも通りにみっちり一ユジンほど訓練したのち、四人の英雄に術法を駆使してあっという間に準備してもらった食事を詰め込み、いつも通りの順番で床につく。休息を取って回復したとはいえ、朝っぱらから命懸けの戦いをして死にかけたりした後に一日刻ジァン中行軍を続けたので、精神的にも体力的にもいつもより疲労が激しく、真っ先に天幕の中で休ませてもらえたのは正直かなり助かった。


「……おい」


「……なに?」


 うとうとし始めた時に、隣に寝転がっていたカティフから、低く声をかけられた。眠りかけていた時に、と思わずこちらも声を低くしながら答えると、カティフはなぜかさらに声を低くしながら迫力満点に問うてくる。


「……お前、今日寝たら、また女神さまに会うかもしれねぇんだよな」


「……うん、そうだけど……」


 思わず語尾をもにょもにょと濁らせながら答える。失神から復帰するや否や(いや失神している間も体にまたがりながら誰にも口を挟ませない勢いで探査術式をかけてきていたらしいのだが)、ルタジュレナが異様な勢いで迫ってきたので、さすがに不審に思った仲間たちに問い詰められ、いささかの逡巡はあったものの、嘘をつくのも嫌だったので、ロワは自身が女神――主にエベクレナと、何度も邂逅していることを明かしていた。


 ただ、さすがにそもそも最初に目をつけられたのは自分だということや、女神たちの実態……というか、本性……というか、求めるところを詳しく説明するのはさすがにためらわれたので、女神たち自身もなぜロワが突然神々の世界を訪れたのか測りかねていて、詳しく調べるために何度も召喚されているのだ、と事実の一部のみを告げたのだ。


 仲間たちは驚いたものの、さして疑いもせずその説明を受け容れ(ルタジュレナはもっと詳しく聞きほじりたそうにしていたものの、おそらくは『客観的な資料にはなりえない』からだろう、実行はしなかった)、なんで黙ってたとか(『なんとなく言い出しにくくて』と事実を告げた)、どんなことを話したんだとか(『神々の世界の話をいくつかされたけれど、自分にはよく理解できなかった』というようにごまかすしかなかった)、少し聞かれた程度で、行軍に影響が出るほどの長話はしていない。いや、英雄たちの前でそんな無駄話なんぞできるわけないから当然なのだが。


 なので、この時間に細かいところまで突っ込んだことを聞いてくる気かも、と思わず警戒してしまったのだが、カティフは声に全力で圧迫感を込めながら、短く告げてきた。


「よこせ」


「…………はい?」


「女神さまと同じ空気吸う感覚よこせ!」


「…………え、ごめん、なにが言いたいのかよくわかんないんだけど……」


「女神さまなんだからエベクレナさまも超絶この世にありえねぇ級の全力美人なんだろ!? 見た瞬間あばばばばとかしか言えなくなるぐれぇの超超キラッキラ美女なんだろ!?」


「…………まぁ…………」


「お前ひとりでその感覚独り占めするとか許せねぇだろ!? ずりぃ! ずるすぎる! 俺にも分けろや女神さまとの邂逅! おんなじ空気吸ってる感覚だけでもいいから! お前同調する術式使えんだからそういうのもできんだろ!?」


「…………空気吸ってる感覚だけで、いいのか?」


「えっ……ちょ、おま、なに、まさか、まさかたぁ思うけど、女神さま見てる視界も同調できたりすんの!? え、本気か!? うぉぉ許されんのかそんなこと!」


「いやそういうことじゃなくて……同じ空気吸ってる感覚だけ味わって、どういう意味があるのかなって……」


「バッカお前バッカ、女神さまだぞ!? 超絶壮絶超越級バンボンバン美女なんだぞ!? そんな人と同じ空気吸えるとかもう、昂る程度じゃすまねぇだろ!」


「………そうなんだ。でも俺、他人の感覚を自分に同調させる術式とか、使えないぞ。召霊術なんだから、霊の方にこっちから心の波長を合わせるための術式なわけで……」


「チッ! なんだこの野郎使えねぇな! 覚えてろてめぇ、明日女神さまに会えた話とかしたら本気で泣かすからな!」


「えぇ……」


 正直意味がわからないが、カティフの声音からどうやらどの言葉も本気で言っているらしいことだけは理解し、ロワは思わず眉間に寄った皺を搔いた。カティフはそれで話を終わりにして、こちらに背を向けて呼吸を緩く(意識的に寝ようと)し始めるが、その時ようやくカティフと逆隣りに寝ているネーツェが、こちらに似たような思念を送っているのに気がついた。


 別に向こうはこちらに伝えようとしているわけではないだろうが、同調術式を切ったとはいえ、まだ心魂がネーツェの思念の波長を覚えているので、なにを感じているか、ぐらいのことは嫌でも伝わってきてしまう。別に俺がそうしてくれと頼んだわけじゃないし、そんな風に『うらやましい!』って思われても困るんだけどな、と思いはするものの、気持ちはわからなくもなかった。


 自分もあの女神さまと一度出会ったならば、そしてもう二度と出会えないというのならば、身近に何度も女神さまと邂逅している人間がいるというのに、『うらやましいぞこの野郎』と思うなと言われても、ちょっと無理があるな、というのが正直なところだったので。


 疲れ果ててはいたものの、自然に口元が緩むのを感じながら、ロワは再度目を閉じた。






 ―――そして気がつくと、神の世界にいた。


「あ……」


 光に満たされた世界。見渡す限り続く輝く雲海を足下に、陽の光よりも眩しい黄金色の光がどこからともなく降り注ぎ、空気そのものすら娟麗に煌めかせている。


 なびく瑞雲は一筋はきらきらしい五色、もう一筋は輝かしい空間を典雅に引き締める紫色。その二筋の雲に挟まれた、雲が高台を形作っている場所に、一人の女性が――土下座をしていた。


「え……あ、あの……エベクレナ、さま?」


 その艶々と輝く金髪と、問答無用で伝わってくる華やかな気配から、その人以外ないはずだと自分を励まして問いかけると、エベクレナは高台から流れるように滑り落ち、ロワの目の前に着地して、さらに深々と叩頭する。


「え……いや、あの……え? あの、すいません、エベクレナさま……どうかしたんですか?」


「すいません」


「え、なにがですか?」


「いや土下座の一つや二つで許されることじゃないとわかってはいるんです、っていうか正直私申し訳なさのあまり今にも泣きそうなんですが、泣いたところであなたには鬱陶しいだけですし役に立たないですし、もちろんせめてものお詫びのつもりで全力で加神音かきぃんはするつもりですけど、そんな程度じゃ全然許されざると誰より私が心底思っているので……本当に申し訳ありませんでした、許されることじゃないと承知で謝らせてください。本当に、本当にすいませんでした」


「え、いや、あの、本当になにを謝られてるんだかわからないんですが……」


「はい、もちろんあなたにとってはどうでもいいことかもしれないとわかってはいたんですが……むしろこうやって謝ること自体迷惑かもしれないと理解してはいるんですが……誰よりも私が私を許せないんですッ! 本当に、本当に許されざることを、人として、曲がりなりにも推し活をする者としてありえない、絶許案件としか言いようがない真似を私は………!」


「あ、あの……すいません、エベクレナさま……一体、なにを謝ってるのか、教えてもらえませんか?」


 なんだか本気でこの人がとんでもないことをしでかしたのかもしれない気もしてきて、おそるおそるそう問うと、エベクレナはびくっと体を震わせてから、再度頭を雲に叩きつけ(そしてたぶんふんわりと受け止められたはずだ、ロワもやったからよくわかる)、呻くように言葉を漏らした。


「前回」


「はい?」


「前回、あなたをお呼び立てした時。あなたは、私たちが話している間に、人次元に戻られ、ましたよね」


「え、ああ、はい。まずかったですか? すいません、でも俺も意識的に戻ったわけじゃなくて、気がついたらいつの間にか戻ってたっていうか……」


「その時。私たち……私とギュマっちゃんは、あなたをほっぽって、二人で勝手に盛り上がりましたよね?」


「ええと、はい。お二人で楽しそうに話されてましたね」


「それです」


「それ?」


「曲がりなりにも推し活してる人間がッ! 推しご本人さまの前で! いっくら話が通じないっていっても! 推しの話をして盛り上がって、推しご本人さまをほっぽっとくとかっ! 人として本気でありえなさすぎるでしょっ!」


「え……え、えぇ~……?」


 なににそこまで落ち込んでいるのかわからず困惑するロワをよそに、エベクレナは頭を雲にぐりぐりぐりと押しつけまくりながら荒れ狂う。


「推し活だなんだっていう前に、人としてダメです! アウトです! 若い子のわかんない話で盛り上がって、若い子に寝落ちさせるとか、気遣いできないとかいうレベルじゃないです! し、か、も、その相手が推しとか! 推しご本人さまとか! もぉぉ本当にガチで生存が許されないレベルの悪行でしょ! 推しの話をして盛り上がって、推しご本人さまに! ご本尊に! 不快な思いをさせるとか! 曲がりなりにも推し活やってる人間が、推しにそんな真似しでかすとか! もうっ本当に、本当に、生まれることすら許されない級の大悪行で……!」


「い、いやいや、落ち着いてくださいよ。別にそんなに気にする必要は……これまでに何度もあった、話してる最中に強制送還されるのと、感覚としてはあまり変わりないですし……」


「そう、その会話中の強制送還も十分クッソ失礼だったのにですよ!? これまでみたいな不可抗力とかいうのじゃなく! 勢いでとはいえ、自分の意志で! 推しご本人さまの前で! 推しご本人さま無視して、推しの話して盛り上がるとかっ! たとえフィルタリングしてたとしても! 本当に、人として、推し活やってる存在として、絶対に間違いなく死刑確定のクッソ重罪としか言いようがなく! もぉぉ私これまで八百年くらい神の眷属やってて、ここまで自分を許せないと思ったのは、前世から数えても初めてってくらい、本当に本当に本当に……!」


「いやだから、落ち着いてくださいって!」


 このままではらちが明かない、と無礼を承知でロワは土下座するエベクレナを抱え起こし、視線を合わせた。――とたん、眩ささえ感じるほどに美しくきらめく、金剛石よりなお美しい露が、瞳から次々と溢れてこぼれ、幾筋もの跡を残して流れ落ちているのと真正面から向き合うことになり、思わず一瞬全身を硬直させる。


 だがかろうじて、いやいやそんな場合では、と一瞬おいただけで我に返ることはできた。きらめく涙の圧迫感に、心臓がびくついたりうまく息ができなくなったりしながらも、本気でぼたぼた涙をこぼし、顔をくしゃくしゃにしているエベクレナに、決死の覚悟をなんとか奮い起こして、至近距離の真正面から、きっぱりはっきり告げる。


「俺はそういうの、別に嫌じゃないですよ。むしろ、どっちかっていうと嬉しいです、ある意味」


「え………?」


 涙に濡れた瞳が、どこか呆然と、ある種自失して、絶世の美貌と相まってどこかこの世ならぬ雰囲気を形作りながら、頼りなげにこちらを見上げてくるのに、なぜか全身にぞくぞくっ、と身震いするような感覚を覚えつつも、ロワは懸命に説明した。


「いや、だってそういうのって、ある意味こっちに気を許してくれたってことじゃないですか? 基本エベクレナさまって俺を……なんていうか、やたらめったら上に見てるっていうか、ものすごくたいそうな代物みたいに色眼鏡かけて見てるところ、あると思うんですけど……話に夢中になって俺のことを忘れるってことは、たとえそういう風に見てるとしても、そこにいて当たり前の存在として受け容れてくれたんだなっていうか、そこにいても気にならないくらい身内に勘定するようになってくれたんだなっていうか……」


 忘我の境に入ったがごとく、この世より常世に近いとすら思える眼差しで、じっとこちらを見つめてくるエベクレナ。それに内心では相当うろたえ慌てふためき無駄に心臓に早鐘を打たせながらも、必死にロワは続ける。


「俺としてはそういうの、そこにいていいよって言われたみたいで嬉しいっていうか、隣にいるのが当たり前って扱われてるみたいで、ほっとするっていうか……俺、基本そういう風に扱ってくれる人、これまでの人生で仲間ぐらいしかいなかったんで……むしろそう扱ってくれてありがとうっていうか」


「ぶっほ」


「え?」


 美貌の圧に耐えられず、自然と逸れていた視線を、エベクレナが唐突に発した奇声に思わず向け直すと、エベクレナはなぜか、うつむいてふるふると震えていた。うつむいた顔を押さえ、もう片方の手をこちらに突き出し、『待ってくれ、頼む、少し待ってくれ』と言いたげな体勢で身体を震わせている。


「えっ……あの、なんか俺、まずいこととか言いました?」


「いえっ、いえいえそんなことは全然、いや本気でまるでまったく。気にしないでください、私のことなんか本気でそこらの壁のシミぐらいに認識してくれれば充分すぎるくらいなので……マジすか、え、ちょ、マジですか? 本気で言ってます? いや本気で言ってるんですよね、嘘つけませんもんねこの部屋。って、え? つまりすなわちそれが本音だと? 心の底から思っていることだ、と? え、マ? ガチですか? そういう、風に、扱ってくれる人、これまでの人生で、仲間しか! とかっ! 本気で言ってるわけですか!?」


「………あの………?」


「いえお気になさらず! 本気でガチで気にする必要とか完全に皆無なんで! いやだってねぇ、あれが、え? ちょいちょいちょいあれ本気で言ってるとか、もう、本気ですさまじすぎるんですけど!? 『隣にいるのが当たり前って扱われてる』って! 『そう扱ってくれてありがとう』って! 『そういう風に扱ってくれる人、これまでの人生で仲間しか』って! ちょおぉぉぉもうっ、これもうっ、完全完璧に友情完了しまくってませんかこれ!?」


「えー……と、エベクレナさま?」


「はいっはいはいなんでしょうかっ!?」


 慌てふためくのと勢い込むのが等分に混ざった感じでエベクレナが手をどけて間近からこちらを振り仰ぎ、きらきら煌めく瞳を熱く濡らしながら真正面からロワに視線をぶつけてくる。だがその口元は微妙に笑っている、というか今にも歓びを叫び出しそうに緩んでいて、内心すさまじくウキウキワクワクしているのが一目瞭然だ。


 なんでいきなりそこまで立ち直ったのかさっぱりわからないけど、元気になったみたいでよかった、とロワは嘆息しつつも安堵する。正直自分が必死に自身を奮い立たせて投げかけた言葉が、まるで意味がなかったというのは意気をくじかなくもないが、エベクレナが元気になったのなら、そんな問題はロワにとってすらどうでもいいことなのだ。


「……元気になられたんでしたら、俺、手を離した方がいいですかね? 女神さまに対してこの距離で会話するって、けっこう失礼な気しますし……」


「え……うぉわぉぉぅっ!」


 我に返ったらしいエベクレナは、自身がロワに抱え起こされた体勢になっているのに気づいたのだろう、仰天しまくった顔と声で、転がるようにロワの腕の中から脱出し、流れるように再度の土下座体勢に入る。


「もっ、申し訳ありませんっ! 毎度毎度申し訳ないことやってる気しますが、今回もまたさらに本気で申し訳ない! モブ女が推しの腕に抱かれるとか、地雷な人も多いというのに私はなんということを……!」


「いや、こちらこそすいません。女性に、しかも女神さまにあんな体勢で話するとか、失礼すぎましたよね」


「いやいやなに言ってるんですか、ガチでマジに神対応すぎましたよ! 暴走してわけのわからんこと言い出したファンに優しく対応して我に返らせるとか、ファンサの匠でもそうそうできないですから! まぁ正直『私以外の人にしてるところを見たかった』とかは思っちゃいますけど! ……いやいやそうじゃなくですね、その、本当に前回は申し訳ありませんでした……あなたにとってはあんまり気にならないことかも、とは思ってたんですけど、なによりも私たち自身が私たちを許せなかったもので……せっかくあなたたちが、またもがっつり絆を見せつけまくってくれたというのに、推し活やってる身として本当に情けなく、申し訳なく……」


「じゃ、これでお互い失礼を働いたってことで、お互いさまにしましょうか」


 笑いかけると、エベクレナは『ああ推しの笑顔……眩しすぎる……もったいない……私じゃなくて仲間のみんなに向けているところを見たかった……』などと口の中で素早く意味のわからないことを呟いたのち、「はい」と返して、叩頭の少し手前、ぐらいまで勢いよく頭を下げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る