第15話 女神さま事情談義++

「はい?」


 目を瞬かせるエベクレナに、問いかける。正直、ロワとしては、ここはなんとしても確かめておかなければ申し訳が立たないところなのだ。


「死んだあとに、女神さまになったって言ってましたけど。人の身から、神になるのにはそれなりの――というより、並じゃない苦労が必要なのは俺にもわかります。人としての在り方を捨て、神としての生き方を受け容れるのは……つらいことじゃ、なかったですか」


 ただの人が。世界と世間に翻弄されるちっぽけな存在が。神に、上位存在に、世界を変える者に成り代わる。


 それはひどく重く、ひどく強烈で、ひどく人を打ちのめすことのように、ロワには思えた。よしんば覚悟があったとしても、エベクレナなりの譲れぬ事情があったとしても。


 自分の存在する階梯が変わる。本来そうであった在りようから、上へと押し上げられる。それは、本来なら背負わされることのないはずだった、人には背負えぬ重荷を背負わされるということだ。


 ただの人が、人でしかなかったものが、神の眷族としての使命を果たす。神として扱われ、崇められ、祈りを力に変えて世界に巡らせる職責を負う。


 女神の寿命がどれくらいなのかは知らないが、少なくとも人から見れば無限に等しいほど長く生きるはずだ。寿命も、生き方も、人としての枠組みから外されて、本来の自分とは違う生き方を強制されながらいつ終わるとも知れぬ生を過ごす。それは、ロワにとっては、ひどく、無残なことに思えたのだ。


『星に手を伸ばす子供は、一人で馬に乗せてやるがいい』。――星を望んで得たわけでなくとも、無理やり押しつけられたものだったとしても、ロワの故郷は、星を手に入れた者に、一人で馬を走らせることを強いた。こんなものいらないと、誰か他の人間にやってくれと、どれだけ頼んでも、一人で――数えきれないほど馬から落ち、傷だらけになるどころか何度も死にかけながら、誰からも助けられることなく走れと、命じられたのだ。


 恨むなどという想いが見当違い、思い上がりであることはわかっている。けれど、それでもロワは思う。自分などに星を与えてくれなければよかったのに、誰かもっと他のふさわしい人間に与えてくれればよかったのにと。


 結局自分はなにもできないまま、なにもしてやれないまま、流れ流れて、こうして、ただ生きているしかできなかったのだから。


「えーっと……ですね……」


 エベクレナは困りきった顔になって、小さく唸りながら眉間に皺を寄せていたが、やがてきっ、と勢いよく顔を上げて、きっぱりした口調で告げる。


「えっと、まず、ですね。私としては、女神になっても全然よかったんです。まぁ普通じゃない人生送ることになるんだろうなー、とは思ってましたけど、私的にはそれも嬉しかったっていうか。なにせ、私の前世というか、神の眷属になる前の人生では、私、ずーっとずーっと、自分のことを『間違ってる』って思いながら生きなきゃならなかったんで」


「え。そ、そうなんですか?」


「ええ。学校通って就職してー、っていう一般的な人生ルートを人間関係でドロップアウトして、引きこもりになってネット廃人になって。親に迷惑かけて心配かけて、そのくせ部屋の外に出ることができないで。それでも、その人生に心底満足してたっていうんならまだしも、私は『嫌だ嫌だ、こんな人生間違ってる』って思いながら、そーいう人生を続けてたんですよ」


「!」


 ロワは思わず絶句する。それは――それは。


「心の底から嫌で嫌で仕方なかったくせに、人生を自分が『真っ当』と思うものに変えられなかった。死に物狂いでやれば少なくとも改善はできたはずなのに、その根性を絞り出すことができなくて、面倒くささとその場の衝動だけに流されるまんま生きてきて。親にも周りにも社会にも、与えられて奪ってばっかりで、なんにも返すことができなくて」


「…………」


「繰り返しになりますけど、それで『いい』って心底思えるんならまだいいんですよ。周りにかける迷惑とかは別問題としてですけど。でも、私は、『こんなの嫌だ』『こんなの違う』『こんな人生間違ってる』って思いながら、動けなかったんです。なにもできなかったんです。自分が生きてることが周りに迷惑をかけてるのが、心苦しくて申し訳なくて与えられてることが苦しくて、他のもっとちゃんとした人たちにその分を渡してくれればいいのに、とさえ思ってたのに、それでも流されてくまんまで、なんにも行動に移せなくて」


「――――」


 それは――それは、同じだ。


 エベクレナの前世の人生がどういうものだったのかは、ロワにはよくわからない。言葉の意味もうまく理解できない。それでも、その人生の中で感じた想いは、たぶん、ロワも数えきれないほど経験したものと同じだ。


 望んで得たものじゃない、好きで得たものじゃないと言い張りながら、結局なにも返せなかった、返そうとしなかった、そこから逃げ出してきた、罪悪感と、自己嫌悪。――本来得るはずだったものを奪われた人たちからしてみれば、噴飯ものどころか、恨み骨髄に徹する台詞だろう。


 それでも、あの扱いを受け容れることはできなかった。嫌で嫌でしょうがなかった、身勝手この上ない被害者意識さえ抱いてしまうほど。自分が欲しがったわけじゃないのに、自分は本当に、そんなもの少しもいらなかったのに、と。


 そして、そんな言い草が身勝手どころか、傲慢で高慢で、〝自分のために〟いなくなっていった人々への侮辱に他ならないことを知っているから、どうしようもなく、流されることしかできない。本当なら、真っ当で正しい人間なら、あの人たちに与えられた命を活かすことができたのに、正しく振舞うことができたのに、と頭を抱え呻きながら、這いつくばって生きるしかない。


 それを――誰にも言えない、口にして楽になるなんて資格はない、と根性と勇気を振り絞ることができないまま、沈黙したまま流されてきた自分の心に、当たり前みたいに寄り添う人がいる、なんて。


「だから、私としては、神の眷属だろうがなんだろうが、自分にやれることがあるならなんでもよかったんです。まぁその、福利厚生がそれなりにちゃんとしてるかとかはきっちり確認しましたけど。ずーっと引きこもりしてたんで、引きこもりに飽きた頃には私、マジでなーんにもできない人間になってましたからねー。他の人が勉強したり仕事してる間ずっと、うだうだぐらぐらしながら嫌だ嫌だって思いながら遊んでたわけですから、当然ですけど」


「神の眷属っていう仕事は……あなたにとって、できることだったんですか」


「いや完璧にできる自信はなかったんですけど、一から仕事内容をきっちり教えてくれて、どんなミスしても減俸はされるかもだけど首にはならない、っていうのは最初に教わりましたからねー。そんな都合がいいにもほどがあるオファー、受けないわけにはいかないでしょ」


「それは……そうかも、ですけど」


「……それに、当時は神の眷属の仕事の実態ってのはよくわかりませんでしたけど、神さま――いえ、世の数多ある魂の中から私を選んだのが、私たちが今崇めてる神なのか、そこらへんの人事を担当してる眷属の人だったのかはちょっと判然としないんですけど。とにかくそんなような、〝大したもの〟みたいに思える代物と関わって、世界の役に立てる、なんてーのは、私の利己的な充足感を満たしてくれそうだなー、って……そういう身勝手な心もだいぶありました。あと単純に、面白そうだってワクワクしちゃったってのもありますけどね」


 そう苦笑して、エベクレナはほっそりと白い人差し指で、軽く後頭部を掻いてみせる。


「なんで、私を気遣う必要とか皆無ですよ。私本当、流されるままに生きてきて、現状を創るきっかけになった選択肢だって、とんでもない幸運と甘やかしに基づく代物なんですから。……あなたの選択とは、本当に、重みも痛みも、まるで違います」


 最後にそう付け加えられた言葉で、エベクレナが自分の過去の心情を、ロワ自身にはなにも聞きもしないうちから、これまで幾度も自分の心を見抜いたのと同様に、はっきり知られているのだと悟ったが、怒りや拒否感はわかなかった。


 むしろありがたさすら感じた。この人は本当に、自分の心の底の底まで見通して、それでも自分の選択を評価してくれている。ただ流されるままに、どうしようもなくて続けてきた選択を肯定してくれる。それでもいいんだと、自分の弱さも醜さも下衆で身勝手な根性も知りぬいた上で、許容してくれる。


 それは、本当に。女神さまでしか、できない所業で――


「エベクレナさま」


「は、はい?」


「俺があなたにできることなんて、本当にごくわずかなことでしかないですけど。それでも、俺は俺なりに、なんとかあなたに恩を返します」


「え……」


 ぽかんとするエベクレナに、ロワは自分なりの誠実さを振り絞り、できる限り真正面から、きっぱりはっきり言い放つ。


「俺は本当に、ちっぽけで、なんにもできない人間ですけど、あなたへのご恩は一生忘れません。だから、できる限り、一生かけて、あなたに恩を返したいって、なにかをさせてほしい、望みを叶えたいって思います」


「……今、なんでもって言いました?」


「言ってませんけどなんでもしますよ。俺にできる、許されてることならなんでも。――あなたが俺に与えてくれたものは、それくらいの価値があるって思うから」


 じっとエベクレナを見つめながら告げると、エベクレナは呆然とした顔を、一瞬でふわぁっと朱に染めて、驚きに見開いた目をわずかに潤ませ、まじまじとロワを見返し――絶叫した。


「無理!」


「………え?」


「いや無理マジ無理もうマジ無理です、だって私なんて単に引きこもりのまんま孤独死した女が異世界転生して、いきなり女神になっちゃった流れで特権享受しまくってるだけなのに! 日々の推し活で生きる気力をもらいつつ仕事をフツーにこなしてるだけなのに! 言うなればシリーズ人間のクズでも平均からかなり上位に食い込んでるよーな奴なのに、推しご本人さまから謎の全肯定されるどころか意味不明のなんでもします権いただいちゃうとか無理! もうマジ無理としか言いようないですなにこの状況!」


「え……あの……ご迷惑でした?」


「ああああううううそうじゃないです迷惑じゃないです嬉しいと言えばすっごい嬉しいんですけどぉぉぉああああっ、すいませんマジ無理ですぅぁああ誰か助けてぇぇぇ!」


 エベクレナのその絶叫と共に、ロワの足下の雲が、いきなりずぼっと抜けた。唐突に一気に視界が下方へ高速移動し、目の前のものがまともに見えなくなり、どこまでも果てしなく下へ下へと飛び落ちて――






「………起きたか」


 目を開けるや、顔をのぞき込んでいたネーツェと、ばっちり目が合った。じろりとこちらを睨み下ろしていたネーツェは、ふんと鼻を鳴らして姿勢を戻し、自分の寝ているベッドの隣の椅子へと腰を下ろす。


「………またこれか……」


「そうだな、またこれだな。聞くが、理解してるならなんで同じことを繰り返す、周りにどれだけ迷惑かけたかわかってるのか、という言葉が返ってくるだろうことを理解して言ってるのか、その台詞」


「え? いや、その……」


 口から漏れた言葉は、前回の英霊召喚の時のことよりも、エベクレナと話している時に何度も似たような形で強制送還をくらったことについてだったのだが、さすがにそれを事細かに説明はできない。


 なので、ベッドから身を起こし、かけて力が入らずぼすっとまた布団の上に身を預けてしまいながら、おずおずと訊ねた。


「その……なんていうか、今回、そんなに迷惑かけちゃったのか?」


「はぁ!? お前正気で言ってるのかその台詞! 儀式の途中でぶっ倒れて、儀式の後で助け起こしたら生命力が死ぬ寸前まで落ち込んでるのがわかって、僕の魔力が枯渇してたから大慌てでギルドに残ってる生命賦活の術式使える人たちをかき集めて、大騒ぎで命を繋げたって顛末を、迷惑かけてないと思ってるのかお前は!」


「ご、ごめん……」


 確かにそれは徹頭徹尾迷惑に違いない。伏し拝もうにも手を持ち上げるだけの力が入らないので、のろのろとわずかに頭を下げて、せめてもの謝意を示す。


「本当にごめん。俺、そこまで気が回ってなくて……英霊召喚術式を成功させることができれば、俺は基本お役御免だし、ぶっ倒れても迷惑はかからないかなって思っちゃったんだ」


「阿呆かお前はかかるに決まってるだろ、隣でいきなり人がぶっ倒れて微塵も気にしないでいられるほどの人非人はそうそうおらんわ! 確かにあの後お前にできることはなかっただろうがな、あの状況でいきなり死にかけるとか、お前の命で安全を購った気分になるだろう!? その状況で命を助けようと必死になるなとか、お前は僕たちを馬鹿にしてるのか!」


「ほ、本当にごめん……」


 確かにそう言われると、まったく返す言葉がない。


「え、えっと……あの後、儀式は? 無事終わった……んだよな?」


 いたたまれずにそう話題を変えると、ネーツェはふん、と鼻を鳴らしてぶっきらぼうに答えた。


「儀式参加者のうち三人が、まとめて死にかけたのを無事と表現していいならな」


「三人……?」


 目を瞬かせるロワに、ネーツェは無言で顎をしゃくる。その先に(身体に力が入らないので)のろのろと視線を移すと、隣とさらにその向こう側のベッドに、ジルディンとカティフが寝ているのに気づき仰天した。


「え、いや、なに……? え、あの、生きてる……よな?」


「生きてるからベッドに寝かせてるんだろうが。死んでたら棺に入れるか、袋に入れて死体安置所だ。……ちゃんと口元を見ろ、息をしてるだろう」


「あ、うん……ほんとだ……」


 思わず安堵の息をついてから、はっと気づいて慌てて訊ねる。


「ヒュノは? あいつは生きてるのか? 向こうの光景を見た限りじゃ、いつ死んでもおかしくない感じだったけど……」


 その問いに、ネーツェははぁっ、と忌々しげにため息をついて、答えた。


「生きてる。……頭を下げさせなきゃいけないところを方々に作りまくってくれながらな」


「え……」


「最初から説明する。……まず、お前が英霊召喚術式を発動させて……そこに自分の生命力まで、死にかけるほどに魔力に変換してぶち込んでくれたおかげで、強力な英霊が魔力を臨界近くまで高めて召喚されて……確認するが、そういうことでいいんだよな、お前がやったのは?」


「あ、う、うん」


『術式を発動させる自信がないから霊に状態を近づけるため意図的に死にかけた』『カティフを残してくれるよう要請したのも魔力の動きを知られにくくするため』ということまではわかっていないようなので、微妙に視線を逸らしたい気分になりながらうなずく。ネーツェはあからさまに胡乱な眼差しをぶつけてきたが、とりあえず聞きほじることなく話を先に進めた。


「それで、僕はその英霊の圧倒的な術式と術法に対する技術と知識を一瞬で認識……というか、たぶん英霊の方が全力で〝悟らせて〟くれたんだろうが、とにかく英霊の保持する技術知識を十全に使える上、魔力が臨界……僕の器では受け止めきれずに暴発しそうなほど高まった段階になっていたので、全力で魔力を使えば、使用する予定だった儀式を短縮……というか、術式化できると理解した。予定していた技術付与の術式についても、儀式魔術の技術どころか、その保有する術式も含めた技能、丸ごと僕に付与できることがわかったので、予定通りの順序で、予定をはるかに超えた階梯の術式を発動させたわけだ」


「え……なに、それ、丸ごと……?」


「ああ、丸ごとだ。あの時は『できる!』と根拠のない確信があったが、今から考えると背筋が冷えるな。そんなことのできる魔術師なんて、僕はまるで聞いたことがない。そんな術式を実行すれば、どんな厄介事が起きてもおかしくなかっただろうに」


「……もしかすると、ギュマゥネコーセさまが、ネテに特別な加護をくださったのかもしれないな」


 いやむしろそうとしか思えない。今回も前回もエベクレナが自分とヒュノのために神音かねをはたいてくれたように、ギュマゥネコーセもネーツェのためになら神音かねを使って、奇跡を起こすぐらいの価値を認めてくれているのだろうから。


 そんな内心冷や汗混じりで言った言葉に(自分たちなんぞのためにどれだけの神音かねが使われたのかを考えると正直冷や汗が止まらない)、ネーツェは真剣な顔でうなずいた。


「僕もそう思う。というか、それ以外に考えられない。いくらなんでも、お前があんな常識外れの英霊を、どれだけ命を賭したところで召喚できるとは思えない。悪いがな」


「……いや、俺も自分でそう思うよ」


「ああ。ことによると、ギュマゥネコーセさま直属の眷属をよこしてくださったのかもしれないとすら思う」


「女神さまの、眷属か……」


「ああ。リジ村でウィグの眷属と出くわしたくらいだ、邪鬼・汪の存在はそれだけ神々を騒がせているのかもしれないぞ」


「そう、かもな……」


 まぁこれまで女神さまと会ってきた中じゃ、そんな話欠片も出てこなかったけど、という言葉を全力で呑み下すロワに気づいた風もなく、ネーツェは話を続ける。


「とにかく、丸ごとその圧倒的な技能を付与された僕は、儀式を術式化して一瞬で終わらせ、ジルの術式の範囲を思いきり拡大した上で、僕の使い魔を発動地点として成立させた。本来ならそんな荒業を瞬時にやってのけるなどありえないが、あの英霊にはそれができたんだ。魔力の消耗も桁外れだったが、僕からすれば臨界寸前の魔力をさっさと使いきらなくちゃならなかったからな、英霊の知識で計算して、『魔力が足りなくなることはない』と思ったから、見切り発車ではあったが、実行した」


「うん」


「それらの術式の効果時間はそう長くはなかったから、ジルに大急ぎで風操術を発動させた。あんな忙しない状況下でよくもまぁ、と思うぐらいには見事な魔力制御だったよ。相当な大規模で発動した風操術は、ほとんど周囲すべてを薙ぎ倒す嵐になって、邪鬼の眷属たちを次々吹き飛ばしていった。慌てて前線の冒険者たちを巻き込まないための術式を組んだくらいだ」


「うん」


「で、術式が完全に発動し終わったら、お前同様にジルとカティがぶっ倒れた」


「………え?」


 思わず目を丸くするロワに、ネーツェは遠慮なく忌々しげに、吐き捨てるように説明を続けた。


「術式に集中していた僕は気づかなかったが、ジルの奴、ほとんど魔力を臨界まで高める勢いで、遠慮会釈なくカティの生命力を術式用の魔力につぎ込んでたんだ。これまでの生命力の増幅率を完全に無視して、それはいくらなんでも死ぬだろう、というところまで」


「え、そ、それって」


「そもそも術式展開の規模が大きすぎたから、カティの生命力だけじゃ、どれだけ増幅しても、魔力が足りなくなるのは確実だったんだ。で、その魔力≒生命力がもうぎりぎり限界というところまできたら、ジルの奴、自分の生命力を魔力につぎ込み始めた」


「え……そ、れは、最初から計算して……?」


「あいつがそういうことができると思うか?」


 ロワはのろのろと首を振る。悪いが、ちっとも思わない。


「横で見てた人の意見によると、ぎりぎりのところまで来てこれじゃどうやっても足りないって気づいたらしくてな。慌てて自分の生命力まで魔力につぎ込み始めたんで、その人も大慌てで手持ちの蓄魔石やらなんやらをかき集めてジルに押しつけたらしい。それでも魔力は本当にぎりぎりで、発動し終えたらジルとカティはひっくり返るわ、その数瞬前に唐突にお前もぶっ倒れてるわで、本当にてんやわんやだったぞ」


「ほ、本当にごめん……」


「おまけにヒュノも風が吹き始めた頃には唐突にぶっ倒れてたっていうし! 周囲の冒険者が止めるのも聞かず、大群に無茶な突撃を何度も敢行しといてだぞ!? 突撃の最中にいきなり倒れられて、周りの人たちは死に物狂いで大群の中から気絶したヒュノを助け出さなきゃならなかったって、それまでも死ぬ気で援護してたのに全員ずたぼろになったって、そういう苦情が向こうと連絡を取るや、どれだけ集まったと思ってる! そして他のパーティ面子は全員気絶中だから、こっちの苦情も向こうの苦情も全部僕が引き受けたんだぞ!? わかってるのかおい!」


「ほ、本当に申し訳ございませんでした……今度ちゃんとお詫びさせていただきます……」


「ああ、全員からきっちり詫びを取り立てさせてもらうからな、覚悟しておけ!」


 ふんっ、と大きく鼻を鳴らして、ネーツェはぷいっとそっぽを向いてしまう。周りの人間からの苦情処理を一人でこなさざるをえなかったのが、よっぽど腹に据えかねたのだろう。


 そんなネーツェをこれ以上刺激したくはなかったのだが、それでもここは確認しなければならないところだ。恐る恐る、だがはっきりと、今回の依頼の帰結を確認した。


「えっと……つまり、それは。ゾヌを襲ってきた邪鬼の眷属の大群は、撃退できた、ってことでいいんだ、よな?」


 ネーツェはそっぽを向いたまままたふんと鼻を鳴らし、少しだけそっくり返ってみせる。


「そうじゃなかったら僕がここでのんびりお前たちが目覚めるのを待っているわけないだろう」


「………だよな」


 ふぅっ、と心底安堵の息をつく。自分たちの力量からすれば無茶振りにもほどがある依頼だったが、裏技と女神の(所持する神音かねを大量に削り取っての)ご加護を駆使した末に、一応、なんとか、成し遂げられた。頭を下げなければならないところがどれだけあるにしろ、仕事を完遂できたことに、心底の安堵を覚える。


 と、そこに唐突に冷厳とした声が響き、ロワの身を震わせた。


「完全に契約が完遂されたわけではありません。そこは勘違いされないようお願いいたします」


「ふぇっ……あ、エリュケテウレさん」


 足方向の壁際に、エリュケテウレが音もなく気配も断ちながらたたずんでいたことに、そこでようやく気づく。首の角度の関係上目に入りにくかったのだろうが、気配の乱れがまるでなかったことから、自分が起きる前からずっとそこで無言で立っていたのかと思うと、正直背筋が冷える感覚を覚えた。


「もちろんご承知のこととは思いますが、あなた方パーティとギルドが結んだ契約は『邪鬼・汪の討伐に対する全面的な協力』です。貞潔の保持も含めて、これからも主戦力として労力をきっちり提供していただく旨、重ねての念押しになりますが、どうぞご理解くださいますよう」


「は、はい……」


 いつもの淡々とした口調と冷たい眼差しで口早に告げられ、気圧されて力の入らない体がわずかながらもベッドの上で退く。エリュケテウレはそれを凍るような無表情で見下ろしてから、変わらぬ口調で、やはり口早に続けた。


「その上で、あえて申し上げますが。あなた方は、もう少しご自分たちの功績を自覚した方がよろしいかと存じます」


「は?」


「功績……というと?」


 眉を寄せてしまった自分たちを、エリュケテウレはやはり零下の眼差しで見下ろしながら、温度のない声で(口早に)説明してくれた。


「十万という大群は、洒落でも冗談でもなく、ゾシュキーヌレフという街と国が完膚なきまでに滅ぼされても、なんの不思議もない厄災でした。しかもそれがこの上なく強大な邪鬼の加護を受け、普通の冒険者では傷ひとつつけられない状態になっているとなれば、むしろこれは滅亡するのが当然の事態であったと言えるでしょう。あとはできる限り被害を抑え、少しでも損害を取り返す方法を模索するのみ。あなた方はそのための時間稼ぎにでもなればいい、それが幹部の皆様方の共通認識であったはずです」


「そ、そう、ですか……」


「……僕たちの命を優先するように言っていたのは? 単なる嘘かおためごかしだと?」


「勘違いなさらないでください。あなた方が我々の切り札、というよりほぼ唯一の手札であることは間違いありません。当然、邪鬼・汪を倒すまでできる限り生きていてほしかった。ですが、あなた方がこれまでずっと、ほぼ底辺の冒険者であったことも確かです。だからこそ、あなた方には少しでも経験を積み、強くなっていただきたいと考えた。本来なら強さなどというものは一朝一夕に手に入れられる代物ではありませんが、あなた方の大半は女神の加護を受けていらっしゃるという幸運な巡り合わせがあった」


「あ……」


「……神々のご加護に共通するのは、成長効率の増幅。精鋭冒険者をつけて安全を担保しつつ、『命懸けの戦い』という状況を作り出して少しでも能力を向上させたかったわけですか」


「はい。当然ながら、その考えが必ずしもうまくいくとはどなたも思ってはおられなかったでしょう。ただ、あの状況で打てる手と言えばその程度でした。十万という大群に抗しうるだけの奇策も、それを実行できる能力を持つ手駒も、我々は有していなかったからです。そんな代物は、それこそ神々の寵愛を受けた英雄にしか有しえないものだと、最初から考慮すらしていませんでした」


「手駒、というおっしゃりようにはいろいろと言いたいことはありますが」


「でも……それは、まぁ当たり前のことじゃないですか?」


 そりゃあ十万なんて大群、戦国時代の戦でもそうそう拝めなかったほどの代物なのだから、何のかんの言いつつそれなりに平和な現代でそんなものが(邪鬼の加護つきで)襲ってくるなんぞ、思案の他にもほどがあるだろう。どうしようもない、破滅は避けえない、せめて少しでもやれることをやっておこう、という心境になってもおかしくない、というかそれが当然と言っていいはずだ。


 そんな正直な感想を告げると、エリュケテウレはより眼差しの温度を下げてきた。思わずびくりとする自分たちを極寒の視線で見下ろしながら、冷たく感情のない、震えそうなほど冷然とした口調で告げる。


「あなた方にはご理解いただけなかったようですが、私は最前、『功績を自覚した方がよろしい』と申し上げたことは覚えていらっしゃいますでしょうか」


「え、ええと……はい」


「……そこまで記憶力を疑われるほど呆けてはいないつもりですが」


「あえてはっきり申し上げますと、理解力は足りてらっしゃらないように見受けます」


「なっ……」


「私は幾度も申し上げていますが、十万の大群を前にして、我々冒険者ギルドの人間には、絶望的な選択肢しか存在していなかったのです。それをあなた方はひっくり返された。十万の大群に一人で突貫し、少なからぬ数を討ち取ってみせた方。命を賭して、神の眷属としか思えないほどの英霊を呼び出した方。その英霊の力を使いこなし、一瞬で儀式を完遂したのみならず、多方の状況を的確に補佐してみせた方。ゾシュキーヌレフの歴史でも例がないほどの風操術によって、十万の大群を薙ぎ払ってみせた方。………生命力を活性化し強力な蓄魔石となった方」


「い、いや、カティフはあれで、普段はけっこう頼りになる前衛なんですよ? ただちょっとその、自分の、なんというか置かれた状況に、劣等感を抱きがちで、だからつい調子に乗っちゃったというか……」


「そういうことを申し上げているのではない、ということはご理解いただけますか」


「す、すいません……」


 エリュケテウレは一瞬瞑目し、深々と息をついたのち、カッと目を見開いてこちらを睨み下ろしたかと思うと、重々しく峻厳な声音で告げた。


「――あなた方に、我々は深く感謝している、と、そう申し上げたかったのです」


「え……えぇ? は?」


「ほ……本気で言ってるんですか?」


 思わず揃ってぽかんと口を開ける自分たちを、変わらず震えがくるほど酷烈に睨みつけながら、冷ややかに答えが返される。


「むしろ、それをご理解いただけていないことに、私としては驚きを感じずにはいられませんが」


「い、いやだって、あなた人に感謝する態度じゃないですよね!? 他の人たちにも僕はさんざん苦情を言われましたし!」


「……文句を言うしか仕様がない、という心境については思い至ることはおできになりますか。選択の余地がないためにやむなく頼らざるをえない、という程度の手札と認識していたあなたたちに、絶望的な苦境をすべて救われた。自らに恃むところのある人間ならば、悔しさ、憤ろしさ、情けなさで心中が満たされるのはごく自然なことでしょう」


「いやだからって助けられた相手に文句言います!?」


「それはむろん倫理的に正しい振る舞いではないでしょうが、あなたはいついかなる時も私情に流されることなく、正しく道徳的に人と接することができる、という自負がおありなのですか?」


「ぬぐっ……」


「――ですが当然のことながら、その理屈は私たちの行為を正当化はしません。少なくともギルドのほとんどの方々は、落ち着けば、あなた方にできる限りの感謝を表したいと思われているはずです」


 重く冷たい口調でそう告げると、エリュケテウレは深々と、美しく礼儀に則った所作で頭を下げた。


「私も、心からあなた方に感謝を捧げます。ありがとうございます、みなさん。この街と、そこに住む人々を救ってくださったこと、私の命ある限り感謝し続けます」


 そして素早く頭を上げると、顔もろくに見えない早さで背中を向け、かつかつと足音を立てながら部屋の外へと歩き去る。ロワとネーツェはぽかんとその後姿を見送ってしまったが、おずおずと顔を見合わせてから、揃って首を傾げた。


「結局、あの人、なにが言いたかったんだ?」


「それは……まぁ、お礼なんじゃないか? 自分でそう言ってたし……」


「普通の人間はああも嫌々お礼言われるくらいなら言われない方がマシって思うだろう、みたいなことは考えないのか? あの人。頭はそれなりによさそうに見えたのに」


「さぁ……。でも、自発的なお礼は基本自己満足だ、っていう考え方もあるし……」


「そうかもしれないが……いろんな意味で、よく分からない人だな、あの人」


「そうだな……」


 呟いて、ロワは力を抜き、ベッドにゆったりとうずもれる。どうせすぐにまた命懸けで働くことになるのだろうし、休める時に休んでおいた方がいいだろう。邪鬼・汪はまたその居場所さえ突き止められておらず、契約は完遂されていないのだ。エリュケテウレはいろいろ言っていたが、一番言いたかったのはたぶんそういうことなんだろうし。


 また大変なことになりそうだな、と思うものの、ロワは自分の唇が笑みの形を取っていることも気づいていた。命懸けの働きというのは確かに心身を著しく消耗させるが、底辺の冒険者として今日の宿もおぼつかない生活をしているよりはよほど気が楽だ。


 少なくともやるべきことをやっている、という気になれるし――またあの女神さまに会うことになるだろうと思うと、ちょっと楽しみでもあったから。


 また加護を与えられて女神さまたちの預金を削ることになるかもしれない、と思うと、胃がきりきり痛むのも間違いないことではあったのだけれども。

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