第13話 儀式発動

「おっほ!」


 静々と、儀式場の中へと進み出てきた女性たちを一目見るや、カティフは色欲満載の歓声を上げた。猫人種、翼人種、妖人種と居並んだ、いかにも本職、という感じの女性たちは、あるいはにっこりと、あるいは艶やかに、あるいは妖艶に笑ってみせる。


「よろしくお願いしますね、お客さま」


「ふふ、心を込めてご奉仕させていただきますから、どうか楽しんでいってくださいね?」


「ご満足いただけるよう、手も心も尽くさせていただきますわ……どうぞ、ご堪能くださいまし」


「はいぃっ! 喜ん……」


 勢いよく飛び跳ね――かけて、椅子ががったんと揺れた。自分が木製の椅子に厳重に縛りつけられていることをそこでようやく思い出したらしく、カティフはむぎぎと歯噛みして、女性たちの隣でこちらに零下の視線を向けているエリュケテウレにがなり立てる。


「おい! やっぱこの仕打ちおかしいだろ! 初対面の人相手にこの格好とか本気で失礼だし! ほとんど指一本も動かせねぇんだぞ!?」


「目的に応じた、最適の処置であると考えておりますが」


 エリュケテウレは眉一つ動かさず、淡々と――というより冷厳と言葉を返す。


「ひ、人を一方的に動けなくしといてだな、その言い草はねぇだろ!?」


「契約書の第十七項補足に、『重要かつ緊急な事案についての対処が必要とされる際、契約者の協力が必要不可欠であり、かつ契約者のなすべき行為が明確である場合に、契約者が行為の実行を拒む、ないし躊躇した時、ギルドは契約者に強制的に行為を実行させる権限を有する』旨、記されておりますことについては、すでにご説明申し上げたと思いますが?」


「こ、こっちは契約書なんてろくに見る時間もなかったってぇのによくまぁしれっとそんなこと抜かせるな!?」


「契約に同意するということは、契約書の条文すべてに同意するということです。いかに一刻でも早い契約の決断が求められており、わずかな遅滞が人的資源の損害を招きかねなかったとはいえ、契約前に契約書を確認したいとあなた方がおっしゃれば、こちらはいつでも開示する用意はありました。にもかかわらず、契約書の確認を怠って契約に同意されたのですから、法的な責任はすべてあなた方にある、といかなる法務官でも判断するはずです」


「ぬぐぅっ……だ、だけどな! 人権蹂躙だろこんなの! 女に触らせないようにったって、こんな無理やりぐるっぐるのがちっがちに縛りつけるとかそれでも人間かてめぇ!」


「紛うことなく人間ですが。そして、あなたの主張する『人権』というものは、少なくともここゾシュキーヌレフにおいては、有事の際には一時無効とされることが国法に明記されています。よって、あなたの主張は法的によって立つところがない、子供の駄々と同質であることを、どうかご理解ください」


「ぬぐぐぐぅっ……」


 こてんぱんに言い負かされ、がっくりとうなだれるカティフ――その腕に、するり、と白魚のような手が滑った。


「お、ぉ、ぉおうっ!?」


「そんなに落ち込まないでくださいまし、お客さま? 貴方に触れていただけないのは哀しいですけれど……わたくしたち、貴方にご満足いただけるよう、一生懸命頑張りますから……」


「は、ぃ、ふぉおっ!」


 腕を撫でられているだけでびくんびくん震えていたカティフが、さらに大きな奇声を上げる。後ろから抱きつかれて、胸を押しつけられているからだろう。カティフの注文通り、豊かな女性の胸が、カティフの頭に押しつけられて形を変えているのが、はたから見てもはっきりわかる。


「ふふ、それに貴方の方から触れることができなくても……できることは、たくさんありますのよ? 私たちを存分に味わっていただけるよう、楽しんでいただけるよう……たっぷり時間をかけて、いろんなことをいたしましょうね……ね?」


「ほっ、おっ、ふぉっ」


「もう、お客さまったら、そんなに息を荒くして……可愛い、こ、と」


「ふぉぉぉおっ!!」


 するりと胸の谷間を見せつけるようにしながら近づかれ、額に唇を落とされて、カティフは感極まった、というくらいの絶叫を上げる――そこで、さすがに口を挟んだ。


「あの、すいません、その、もうちょっと手加減というか、勢いを落としてもらえますか……? まだ儀式始めるまで……というか、儀式を始められるところまで持っていくまで、しばらく時間、かかるので……」


 正確に言うと、今は英霊召喚のための精神集中をしている段階だ。『どんな状況でも集中できなければ真に集中できているとはいえない』と教えられたこともあるとはいえ、今のロワはそういう風にほいほい集中状態へ入ることができるような能力の持ち合わせもないのだ。未熟も力不足も承知だが、現在ゾシュキーヌレフで英霊召喚ができるのはロワだけだそうだから(会議後に幹部たちが各ギルド支部に確認を取ったのだ)、悪いが周りの人々の方でロワに合わせてもらうしかない。


「あらそうですか、それは失礼いたしましたわ」


「ご準備が終わりましたらお教えくださいね」


 そうあっさり答え、女性たちはカティフからすっと離れる。カティフは「ああぁぁ……」と心底口惜しげに呻き、物欲しそうに女性たちの方を見つめるが、女性たちは涼しい笑顔であっさりそれを受け流した。だがその笑顔には、涼しいながらも男をいい気にさせるような、媚びにならない程度の甘えがほんのり匂う。


 カティフもあっさり満足し、本番への期待がより高まったのだろう、むふんむふんと鼻息を荒げがたがた椅子を揺らす。それを零下と言うよりまだ冷たい、凍てつきそうな視線で眺めやってから、エリュケテウレはこちらにほとんど温度の変わらない視線を向ける。


「――儀式を始めるまでに、そこまで時間がかかりそうなのですか?」


「いっいえっ、そこまでっていうか、機がうまく計れないっていうか……」


「ロワの召霊術には、腕前に加え流派の性質もあって、どうしても発動までに時間がかかります。儀式の時間を大きくずらすほどのものではないので、どうかご容赦願いたいのですが」


 援護してくれたネーツェに、思わず安堵と感謝の視線を送った。それをちらりと眺めやりながらも、エリュケテウレは小さく肩をすくめる。


「問題なく発動ができるとおっしゃるなら、こちらとしては問題はありませんが。……しかし、念のためもう一度確認しますが、補助の魔術師は本当に必要ないのですね?」


 真剣な顔でエリュケテウレに見つめられ、ネーツェも真剣な顔で見返す。


「はい。あらかじめ準備した定点からの視界確保の術式は、今の僕でも使えます。補助の方がいればそちらに集中を逸らさずにすむので、楽と言えば楽ですが、儀式魔術においても他の術者を通さなくてはならないため、魔力の無駄が無視できない段階にまでなってしまうんです。僕が範囲拡大の儀式魔術と、視界確保の術式をジルにかけるだけならば、魔力の無駄はほぼなしですみます」


「集中を逸らさずにすむという利点は、魔力の無駄が出るという欠点を打ち消しえない、とお考えなのですね」


「英霊召喚によって、儀式魔術を無事行えるほどの魔術師を憑けることができたならば、その利点はほぼ無実化されます」


 自信たっぷりにきっぱりと言い放ったネーツェに、エリュケテウレは黙ってうなずき、引き下がった。……その横で、降霊のための神楽(一応剣舞の形)を必死に踊っているロワの、『いやそもそも英霊召喚が発動できるかってとこからしてだいぶ綱渡りなんだけど……』という引きつった顔に、気づいた風もなく。


 いやここまできてしまえば気づかない方がいいというか、気づかれては困る話ではあるが、自分の、成功のおぼつかない術式を完全にあてにして立てられた作戦について、あれこれ議論されるのを見るのは、正直落ち着かないことこの上ない。集中力が削がれるし、腰が据わらず地に足がまともにつかない気がしてしょうがない。


 そんなぶれまくるロワの気持ちをよそに、ネーツェとエリュケテウレはどんどん話を進めていく。


「それに、ギルドの方もおっしゃってましたが、儀式に僕たちのような、『邪鬼の恩寵の範疇外である存在』以外の術者を介入させることによる危険性も、無視できないものだと思いますよ。恩寵の範疇に入る術者を通すことで、術式自体が恩寵の範疇に入ってしまう可能性は、それなりに高い、と僕も思います」


「それならば、儀式場に恩寵の範疇に入る人間を入れること自体、危険ということにはなりませんか?」


「いえ、単純に魔術法理の観点から、それはないと言い切れます。魔術法理において、この儀式におけるカティは供物でもなんでもなく、単純に生きた蓄魔石です。有線で繋がれた相手から、生命力を魔力に変換して取り出す、この時点で魔力は純粋な力の塊になっている。いわば純水を作り出すために蒸留するのと同じことをやってるわけですから」


「『有線で繋ぐ』というのは、汚染される可能性を生むことにはならないのですか? 素人考えを承知で申し上げますと、『繋ぐ』ということは『ものが行き来する』ということであり、病原を受容することにもなりかねないように思うのですが」


「びょ、病原という言葉が当たっているかはともかく……有線といっても、術理的なものですから。物理的にはただの紐です。それに僕が魔術的に『道筋』をつけました。この段階で流れる力はある程度純化されるわけですが、この『道筋』は術者か対象が意図した時以外も開いている類のものではありません。有資格者が『道を開けよう』と思わない限り、ただの紐です」


「…………」


「そして、個々の術者は開けた『道筋』を通して術理的な針を伸ばし、カティから力を吸うわけですが、その針には通る力を蒸留する膜が必ず設置されています。これは術理的に、『膜を外そう』と考えて術式を構築しない限り、術者が意図しなくとも設置されてしまうもので、一般的な術者では外そうとしても外しようがありません。その危険性を危惧するぐらいなら、玄人の女性と同室することによる空気汚染を心配した方がまだ可能性がありますよ」


 ネーツェは自信満々に眼鏡をくいっと押し上げながら言ってのけたが、ロワはその『空気汚染』を切実に心配しかけていた。召霊術は、少なくともロワの習った流派は、穢れ――血や肉や、その悦びといった、生命の平常の在り方から外れる状態を嫌うのだ。


 今も頑張って部屋を聖別して、懸命に神楽を踊ってはいるものの、霊を降ろす状態まで心身を浄めることがまるでできていない。『色気を放出させまくっている女性たちと仲間がいちゃついている横じゃ集中なんかできない』ってことなんじゃないのか、と言われると、うまく反論ができそうにないのも事実だが。


 いや、そんなことを言ってる場合じゃない、俺の術式が発動しないと作戦そのものが成り立たないんだから、と懸命に神楽を踊るが、心身がまるで調和しない。術式を発動しようとするところまで持っていくことすらできない。一応ロワなりに一計を案じたとはいえ、心身の状態を術が使える程度に調和させるところまでは自力でやらなくてはしょうがない。


 気ばかり焦る中必死に神楽を踊っていると、ジルディンがふいにぽんと手を叩いた。


「なーなー、ネテ。せっかくだからさぁ、敵の大群が今どうなってるか、幻で見せてくれよ」


「……は? なんで? まだ儀式が始まってもいない状態で敵を見て、なんの意味があるんだ?」


「いやだってさー、相手の様子もわかんないのに準備ばっかしてたって気合入んなくね? せっかく使い魔も連れてかせたんだしさー」


 魔術における使い魔というのは、基本的には長距離魔術使用の端末として用いられる魔法生物だ。時間をかけて強力な使い魔を創り上げる魔術師もいるが、どちらかというと、その場その場で使用に耐える程度の機能を持った使い魔を即興で組み上げる、という使い方の方が一般的らしい。


 今回ヒュノに持たせた小型の使い魔も、その類の代物だ。向こうの様子を確認し、儀式で強化したジルディンの術式を届けるための位置測定器、兼視界確保用撮影機として使われる。


「別にお前の気合のために創ったわけじゃないんだが……それに、魔術的に観測した光景を幻で映し出すというのは、けっこう魔力を喰うし」


「それだったらよけい好都合じゃん。カティの生命力の使い心地とか、確認しよーぜ? ぶっつけ本番より、予行演習して、やり方とかどこまでやるかとかつかんどいた方がいいだろ」


「……それは、まぁ、そうか」


 眼鏡をいじりながら考えることしばし、ネーツェは軽くうなずいて声をかけた。


「そういうことだから、カティ、ちょっと生命力をもらうぞ。……皆さんも、お手数ですが、どうかご協力願えますでしょうか」


 玄人の女性たちに向け、やや緊張ぎみの声をかけると、女性たちもそれぞれしとやかに微笑みとうなずきを返す。向こうも本番前に予行演習ができるのはありがたいらしかった。


「承知いたしましたわ」


「喜んで」


「ご満足いただけるよう、精一杯尽くさせていただきますわね?」


「おぉっ……はい! はい! よろしくお願いしますっ!」


 勢い込んで返事をするカティフに変わらぬ笑顔で応え、それからちろり、とエリュケテウレの顔を見る。雇い主であるギルドの人間の許可をえたかったのだろう、エリュケテウレが重々しくうなずくと、互いに一瞬視線を交わす――や、まず猫人種の女性がするすると、滑るような動きでカティフに近づいた。


「まず、手指の按摩からさせていただきますね?」


「え……あ、は、はい」


 カティフは戸惑ったようだったが、ロワも正直戸惑った。按摩って、そりゃ気持ちいいものではあるだろうけど、性欲が盛り上がるかというとだいぶ違うような。


 が、猫人種の女性は微笑みながら、ふにふにと、柔らかい手で優しくカティフの指先を撫で、揉みほぐす。指の一本一本にまで縄がかけられているのでやりにくかろうと思うのだが、見た感じ、手つきは真面目だ。


 カティフも戸惑った面持ちだったが、ふと突然ぎんっ、と目を見開いて、じろじろ真剣な眼差しで猫人種の女性を見据え始める。え、なに? と一瞬戸惑ってから、はっと気づいた。この角度だと、たぶん、胸の谷間が見える。


 いや、おそらくはこの女性は、見えそうで見えない、その状態を保持しているのだ。身を乗り出したり、体をすり寄せたり、懸命に指先を按摩しているように見えるが、たぶんそのたびに胸が揺れ、谷間が今にも見えそうになったり見えにくくなったりしているのだろう。カティフは鼻息を荒くしながら、身を乗り出したり縮めたり、少しでも多く胸が見えるようにと必死だ。


 そんな中、いつの間にやらカティフの背後に回っていた翼人種の女性が、広げた翼でひょい、とカティフの目を隠してしまう。「あーっ」と呻き声を上げるカティフに、くすくす笑い声を上げながら、耳元で囁いた。


「もう、どこを見てらっしゃるの? いけない方」


「いっ……!」


「ちゃんと私にも、あなたのもてなしをさせてくださらないと。ね……これ、なんて書いたか、おわかりになって?」


「うおっ……!」


 翼人種の女性は、ふわふわした翼でカティフの顔を包み込みながら、くにくにとカティフの首筋に、細い指先で文字を書く。その力加減のせいか、カティフは指が滑るたびに「うぉぉっ」「うひぃっ」などと嬌声を上げた。


 いや、それだけじゃない、としばらく見ていてロワも気づく。ほとんど抱きつくような格好になっているのだから、本来なら胸を押しつける格好になっていてしかるべきだ。だが、今カティフは体中ぐるぐる巻きにされているので、縄で阻まれて胸の感触は感じられない。


 が、縄にも隙間はどうしてもできる。素肌が出る場所もある。ほとんど絡みつくようにして抱きついている翼人種の女性の体が、ときおりむちん、むちんとそこに触れるのだ。


 当然ながらそれはほとんど撫でるような、もどかしい感触だろうが、目隠しされた状態でそんな感触だけを与えられて、カティフの性欲がどんどん盛り上がっているのは疑いようがない。鼻息と呼吸がどんどん荒くなっているのがこの距離でもわかった。


 そしてそこに、優美なほほえみを湛えながら妖人種の女性がすり寄ってきた。猫人種の女性が素早く退いて空けた場所に入り、カティフの指先をぎゅっと、細い指で握り締める。


「逞しい指……立派な戦士さまの指ですわね?」


「……ひぇっ?」


「この指で、お客さまの思うままに、嬲っていただけなかったのは残念ですけれど……」


「な……ぇっ? わぇっ?」


「私たちが、戦士さまの指を、愛おしませていただくのはかまわないのですわよね? ここ、とか……」


 言って女性はむにっ、とカティフの指に、自分の素肌を押しつける。完全に胸と言いきるのには無理があるが、あと少しずれたら乳房にうずもれてしまうだろう、きわどいところを。


「う……うひゃぇっ!?」


「ここ、とか」


 次は太腿、というにはやっぱりやや無理がある膝頭近く。それでも素肌の柔らかさと体温と肉感が指先に伝わるのだろう、加えて目隠しした状態で衣擦れの音や息遣いが間近に聞こえるせいもあるのだろう、カティフは惑乱しながらも興奮しきって奇声を上げる。


「ひ、あぃっ、うぉっ、うぉぉっ!」


「ねぇ、戦士さま。ここ……私の体のどこだか、おわかりになる?」


「ふふ、お姉さまばかりずるいわ。ねぇ戦士さま、今左の指に触っているのは、私の体のどこかしら?」


「もう、私ばっかり目隠し役でつまらない。じゃあせめて、この逞しい背中は、私が独占ね? 戦士さま、あなたの背中にどれだけぴったり私が触っているか、おわかりになって?」


「うひょおぉっ!!」


 ………さすがだ。一千万都市の存続が懸かったこの状況で、売色の専門店がよこしたのだから並の女性ではなかろうとは思っていたが、これは本職中の本職、まさに達人と呼ぶにふさわしい腕前だ。カティフは指一本動かせていないのに、気分やらなにやらが高まりまくっているのがはたから見てもわかってしまう。


 ネーツェもそれに気圧され、というかたぶんそういう気分や部分が盛り上がったのだろう、顔を赤くしてカティフたちをまじまじ見つめていたが、ジルディンに肘打ちされてはっと我に返った。


「ほら、術式術式。カティフの生命力使えって」


「う、わ、わかってるっ。……〝汝十二則の銀、我が繋ぎし道の門を開け、高きより低きに流れる理たるべく、五つの王から一つの王へと律を発せよ……〟」


 せかせかと杖を振り回して魔術文字を描きながら呪文を唱える。誰がどう見ても言われて慌てて唱えたとしか見えなかっただろうが、それでも魔術の実践においては一人前と学院で太鼓判を押されたというだけのことはあり、魔術はあっさり当然のように発動した。


「〝……彼方の王帝から此方の王帝へ、目に映りしものを放つべし、影!〟」


「うおっ……」


 カティフが小さく呻く。生命力を他者の魔力として使われたのだ、相応の脱力感があったのだろう。だが今のところ生命力が溢れているせいか、単に夢中になっているせいか、さして苦痛に感じた風も見せなかった。


 生命力が魔力に代わり、魔力が術式に従い編まれて目の前の現象を変える。目の前にネーツェがヒュノに預けた、使い魔の周辺の光景が広がる――とたん、思わず息を呑んだ。


 見渡す限り、敵だった。ゴブリン、オーク、オーガ。プレータ、ハッグ、アエーシュマ。デックアールヴにラミア、イルルヤンカにボナコン、ミノタウロスにワクワクにポンティアナック、数も種類も数えきれないほどの邪鬼の眷属たち――それが、雪崩のごとくこちらに襲いかかってくる。


 反射的に身構え、腰の剣を抜く――より早く、一閃、銀光が迸った。驚き硬直する間にも、二度、三度と銀閃が舞う。そのたびに襲いかかってくる眷属たちの首が落ち、腕が落ち、胴体が両断される。


 周囲の眷属たちが一掃されて、思わず息をついてようやく、自分の見ているものを認識し直す。目の前の見渡す限りに広がっているように見える光景がネーツェによる幻であること、視界のすべてが幻に呑まれていること、次々眷属たちを斬り倒している並外れた剣士の後頭部直上辺りに視点が固定されていること――そしてその剣士がヒュノだということに気づき、仰天した。


「ヒュっ……」


 思わず声をかけようとするよりも早く、ヒュノは数ソネータ先の群れへと突貫する。こちらを見もしていなかったその群れは、ヒュノが一ソネータ内に近づくや、揃って即座に存在に気づき、雄叫びを上げて襲いかかってきた。


 だがヒュノは退くことなく、逆に勢いを増して懐に飛び込む。アエーシュマの振り下ろす棍棒を避けながら飛び込んで股下から脳天まで斬り上げ、一斉に飛びかかってくるプレータの群れを一刀のもとに薙ぎ払い、さらには上空から襲いかかるワクワクと下方から尻尾を伸ばすイルルヤンカ、左右から武器を振り下ろしてくるオークとオーガという一団を、避けては突き、退いては払い、飛び込んでは斬り、という動作を的確に繰り返して、一匹残らず斬り倒してみせる。


 数度呼吸を繰り返した後には、その一群は全員骸となって地面に転がっていた。ヒュノはさらに奥の一軍に向かおうと足を速めるが、そこに背後から数人の戦士が近づいて、武器を振り上げる。


『退却だ』と声をかけられでもしたのか(その時ようやくこの幻がすべて無音だったことに気づいた)、ヒュノは小さくうなずいて後方を向き、駆け出す。だが、なにせ見渡す限りの大群だ、退却中にもいくつかの群れがヒュノに気づき、攻撃を仕掛けてきた。


 その大半はヒュノのあまりの足の速さに、攻撃範囲に入ることもできなかったが(ヒュノの足の速さが自分の知っているものより桁違いに速くなっていることにも気づく)、ハッグやデックアールヴやボナコン、さらには雲霞のごとく大地を埋め尽くしているゴブリンの中のいくぶんかは、術式や炎を飛ばしてくる。


 疾風の速度で駆けるヒュノに追いつけない攻撃もあったが、攻撃術式は大半が追尾性能があったり異様な速度を持っていたりで『避けられない』ようにできている。攻撃の何割かは確実にヒュノの体に突き刺さった。びくん、びくんとヒュノの体に、痙攣のような震えが走るのがロワの視界からはっきり見える。


 だが、ヒュノは息を荒げ体を震わせながらも、それに耐えた。深い傷をいくつも負い、だらだらと血を流し、口から吐瀉物混じりの血を何度も吐き捨てながら、ひたすらに戦場を遁走する。


 相当に眷属たちから距離を離してから、ヒュノはがっくりと膝をついた。疲労のあまりにか、ほとんど体を地面に投げ出すようにしながら、げほっ、げほっと幾度も血を吐く。


 そこに、何人もの戦士で厳重に守られた術法使いたちが素早く駆け寄った。口々に呪文を唱え、あるいは印を切り、全力でヒュノの傷を癒し、あるいは守護や強化の術式をかける。


 とたん、ヒュノは一度深く息をついた、かと思うや元気よく立ち上がり振り向いた。だっと駆け出し、邪鬼の眷属たちが行軍する戦場へと突撃していく。眷属たちの中にはヒュノを目標として捉え、行軍の列から外れて襲いかかろうとしている群れもいくつもあるのに、まるで怯みの色さえ見せず。


 術式がまたいくつも飛び、いくつかは的確に間合いを取って外すも、いくつかは確実に体に突き刺さる。それでもヒュノは一瞬の遅滞もなく、邪鬼の眷属の群れへと立ち向かおうと――


 するところで映像が切れた。冒険者ギルドの儀式場の、数十ソチェィル離れた場所ではカティフと玄人の女性たちがいちゃついており、ギルドの職員たちが足早に行き交う、すぐ隣ではまじまじこちらをエリュケテウレが観察している光景が一瞬で取り戻される。


 だが、精神の方はそう簡単に立ち戻れはしなかった。ロワは喘ぎながら、きっとネーツェを見つめて問う。


「今のは……今のが、魔術の?」


 半端な問いかけだったが、意味は通じたようだった。ネーツェも、息を荒げながら、ジルとロワに向けてうなずく。


「カティフの生命力が、相当魔力として使っても、まだ十二分に余るくらいだったから、全力で術式につぎ込んでみたんだ。視界そのものに定点からの観測情報を映し出す、思いきり魔力を喰う術式……状況把握だけなら、普段なら絶対やらない、けど。……向こうの状況は、この上なく、よくわかったな」


 ロワと一緒に、ジルディンもうなずいた。震える声で、ネーツェに問う。


「……一応、確認しとくけど。今見えたのが、ヒュノの今の状況ってことで、いいんだよな?」


「ああ。使い魔を通した状況観測だ、結界を張られようが混線の術式を使われようが、見えなくなることはあっても不正確なものが映ることはない。今この時、間違いなくヒュノはあんな切った張ったをやらかしてる」


「めっちゃすげーじゃん。もう達人の勢いじゃん。なんでいきなしあんな強くなってんだ」


「僕が知るか。女神の加護を受けて、神雷しんらいを発動させて、英霊召喚を体験したのが大きいのは間違いないと思うけどな。……ことによると、さっきみたいな、ぎりぎりの命懸けの戦いを繰り返した中で、爆発的に成長したってことだってありえる」


「……そんだけぎりぎりの殺し合いやってるってことじゃん」


「ああ。間違いなくな」


 ジルディンはふぅっ、と深く、そして強く息を吐いて、ロワの方をぎっと睨みつけた。


「ロワ」


「……うん。わかってる」


 ロワも深く深呼吸をする。集中できないだのなんだの言っている場合じゃない。


 十万の大群と言われても、突然のことすぎて、数が大きすぎて実感がわかなかった。街の、国の存亡の危機と言われ、それは大変だと思いはしたものの、まともに理解できていたわけではなかったし、言われるまま流されるままに動いているだけ、という感覚もあった。


 だが、あの見渡す限りの魔物の群れと、死に物狂いで渡り合っていた一人の剣士は、自分たちの仲間なのだ。


 だから、なにがどう転ぼうと、絶対に。自分たちも、死に物狂いにならないわけには、いかない。


「……カティには見せてねーの? こっちの話全然聞こえてない勢いでいちゃついてっけど」


「カティは性欲を盛り上げるのが仕事だ、仲間の戦ってるところを見せて、そちらに意識が行かれても困る」


「そっか……死ぬ気になられても困るのか。なんぎな話だなー」


「女神の加護を受けるというのは、よかれあしかれそういう面はあるさ。――すいません、皆さん! こちらは儀式の準備に入りますので、ご用意のほど、お願いします!」


「おぉぅっ」


「えぇ、承知いたしましたわ。私たちも、もっともっと頑張って、お客さまのお世話をさせていただきますわね?」


「は、はぃぃっ。ネテ、くるならこいっ、どんどんこいっ、いつでもこいっ」


「……ああ。とりあえず、英霊召喚の術式が発動するまでは、できるだけ儀式場の出入りを控えていただきたいのですが、よろしいでしょうか」


 こちらを真剣な面持ちでじっと観察しているエリュケテウレに、ネーツェがそう話を振ると、ほとんど睨むような鋭い視線で返された。


「承知いたしました。――あちらは、相当に切迫した状況のようですね」


「ええ。もうお聞きになられていたと思いますが。こっちも否応なく死ぬ気にならなきゃならない状態です」


 ネーツェがそう言うと、エリュケテウレはぶんぶんと力強く、初めて見るどこか子供じみた仕草で首を振る。


「死ぬ気、では困ります。命懸けでも、生きて帰るつもりでやってください」


「え?」


「……私たち冒険者ギルドの職員の責務は。生きて帰ってきた冒険者の方々に、報酬をお渡しして、後始末の手配をするところまで含まれているんですから」


「…………」


 おそらく予想外の言葉だったのだろう、ネーツェは固まり、ジルディンは「ねーちゃん、少しは優しいことも言えたんだなー」と感心した。エリュケテウレは当然といえば当然だが、一気に視線の温度を零下に下げて、「私は単に事実を口にしただけですが」と平板な口調で告げてくる。


 なんでこいつら女の人の尻尾を踏むような真似を平気でしでかせるんだろう、と内心ひやひやしながら、ロワは割って入って言葉を返した。


「当然、生き延びるつもりでやります。あいつだって……ヒュノだって、死ぬつもりなんて欠片もない……っていうか、考えてすらいないはずですから」


「……それは、それだけ自信を持っておられる、ということですか?」


「え? いやそういうわけじゃ……いや、あいつわりと剣の腕には自信持ってる方だと思いますけど、単純に、性格的にそうかなって……暗い発想とか基本浮かばない奴だから」


「そうですか。……お仲間のことを、よく理解していらっしゃるんですね」


「えぇ……? 別にそういうわけでもないですけど……」


 いや、そんな話をしている場合ではない、と我に返り、仲間たちに向き直って「じゃあ、やるぞ」と術式の開始を告げる。うなずいて構える仲間たちにこちらもうなずきを返してから、あえて再度の神楽を舞い始めた。


 ただし、今度は集中して。静かに、ゆるやかに舞いながらも、深く、長く呼吸を繰り返す。世界が視界から失せ、目の前の空気だけしか目に入らなくなる。頭の中に闇が降り、心身が陰に沈んでいく。――死に近づいていく。


 術式を発動させるのに、呪文は必ずしも必要ではない。いや基本的にはほぼ必須ではあるのだが、達人になれば(使い慣れた術式ならば)念じただけで発動が可能だというし、今のロワ程度の腕でも、心身を正しく舞わせることさえできれば、神楽を祝詞の代わりとして発動させることはできる。


 それを、この時は幸いとした。


 紐で繋がったカティフから、溢れんばかりに発散している生命力を全力で引き出し、魔力に変換する。――その流れに乗じて、ロワ自身の生命力も、全力で引きずり出し、魔力に変換した。


「………っ」


 ぐらり、と世界が回りかけるのを、剣の刃の部分を握り締め、痛みで無理やり引き戻す。剣舞にしたのはこういう時に備えてのことでもあったが、こうも意図に嵌るとは驚きだ。


 要するに、ヒュノの時に英霊召喚を成功させたのと同じことをしているわけだ。英霊の、亡霊の存在する階梯に、できるだけロワの存在を近づければ英霊召喚の成功率は高まる。命が失われそうなほど生命力を魔力変換につぎ込めば、少しは可能性が上がるだろうと考えたのだ。


 幸いネーツェがカティフと線を繋いでくれたおかげで、カティフの生命力を魔力に変換する術式はほとんど意識する必要もないほど楽に行えるし、その流れに乗れば、自分の生命力をつぎ込むのも、そう難しいことではない。時々調子に乗ることはあるが、ネーツェのそういった補助的な仕事に対する腕前――集中力と、細かいところまで手を抜かない生真面目さは、パーティ内一、どころかどこに出しても恥ずかしくないと言ってもいいくらいだと、ロワは知っていた。


 効率は悪いが、魔力を大量に使って術式の成功率を上げる技法なら、ロワにも心得くらいはある。あとは、ロワ自身の、単純な実力にかかっているわけだ。


「――――」


 舞いながら、無意識に口が、言葉にならない言葉を詠ずる。歌に似た、呻き声にも似た、通常の人の世界の在りようから外れた声だ。自分の身体が、命が、どんどんと、ずるずると引き出され、英霊たちの階梯へ、不帰の道へと流れ落ちていく。


 まずい、かな。


 そんな思いが脳裏をちらりとよぎるが、一度〝入った〟体は、少しばかりの生命力の減少などかまいもせずに舞い続けてくれた。それをいいことに、全力で、一心に祈れと心身に命令し、震える指先に懸命に力を込めながら、頭の中で祝詞を上げる。


『〝―――祈る声は風に、吹きすさぶは空に、心は芯に継がれ残り、巡り流れようとも絶えずここに在ることを知る……〟』


 身体が全力で警戒信号を上げるのを、できるだけ心静かになだめながら、魔力と生命力をまとめて術式に流し込む。


『〝祈りと誓いはここに在り。遥けき彼岸より約束は受け継がれん。連なる理は血にも記にも拠らず、遺され託され積み上げられ続けることを謳う……〟』


 最後の一文だけは、叩頭せんばかりに身をかがめ、声に出して奏する。ここで自分のできることは終わるのだという宣言だ。あの命懸けで剣を振るう仲間の姿に、それに応えんと全力を尽くす仲間たちに、少しくらいは値することができたと、自分を慰めるための。


「〝……伏して希い奉る。彼岸より来たりて、士なる御方よ、縁り憑きたまわんことを―――〟」


 応えはなかった。――だが、世界は、確かに、変容してくれた。


「っ!! これ、は……!」


「ネテっ! 術式っ!」


「ああ……っ、ここまでの、術者なら……『丸ごと』いける……!」


 ネーツェの周囲に力が渦巻いた、かと思えばそれが一瞬で鎮静化するのを、遠ざかる意識の中で視界に収める。ネーツェは呼吸を荒げながらも、呪文を唱えることすらせず、短く印を切った。それだけで、ネーツェの魂に、力が――知識が、技術が、気の遠くなるほどの鍛錬の末に築かれたであろう数多の魔力が、刻み込まれ、注がれる。


 ほとんどの術法使いを圧倒できてしまうだろう、驚異的な魔力制御力で周囲の空気が一瞬にして変わる。瞬時に何重にも結界が張られ、数多の技法と術式が積み重ねられ、瞬く間に〝儀式〟の形が完成する。


「ジル!」


「って、今!? んな……、っ……っ! わーったよっ、細かい調整とか後始末とか全部任せたからなっ! 〝祈風〟………!」


 ジルディンの祈りの声に従い、空気が渦巻き、嵐へと変わる。本来なら部屋を破壊しつくすだけだったろう風の暴威を、儀式は鎮めることなく吹き荒れるべき場所へと導く。


 儀式魔術によって、〝定点〟であるヒュノにつけた使い魔との間に道を繋ぎ、ジルディンの風操術を超遠距離に、かつ範囲を拡大して発動させる。予定通りのことではあったが、ネーツェに憑いてくれた英霊は、それを一瞬で、かつ想定していたよりもはるかに、距離も範囲も大規模にして成功してのけたのだ。


 風操術を発動させたジルディンも、中空を、おそらくは視界に映されたヒュノたちの戦っているゴブリンたちの大群を見据え、懸命に必死に、風を制御し効果範囲を広げている。ゾシュキアをはじめとした風の神々が授ける風操術は、もともと航海や天候操作といった事態に対応するための、大規模、広範囲で使うことを前提としている術法。ゾシュキアの寵愛を受けたジルディンならば、なんとか大群殲滅に必要なくらいの広さまでには風を吹かせられる、はずだ。


 もう大丈夫。たぶん、なんとかなるだろう。少なくとも、ロワにできることは、おそらくもうこれ以上存在しない。


 そう思うやふっと気が抜けて、必死に顔を上げるべく全身に込めていた力がすーっと抜けて、ロワはその場にひっくり返って気絶した。

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