第6話 ゴブリン襲撃

『ウゥィギゥララララァ!』


 ゴブリンたちが奇声を上げながら、ロワたちの敷いた陣形――とも呼べない、せいぜい胸のあたりまでしか築けなかった土壁の中の、後衛を前衛で取り囲んだ円陣に突撃してくる。その速さは明らかに異常な代物で、遠くの村から走り出た姿が見えた、と思った数秒後にはもう目の前まで迫っていた。


 そして土壁の前、半ソネータの距離で跳躍し、間合いを一気に詰め、土壁を飛び越えて自分たちに食いつかんと牙を迸らせてくる――


「――せっ!」


 が、その次々飛びかかってくるゴブリンたちを、ヒュノは的確に斬り倒していた。一撃で確実に首を落とし、あるいは胴を斬り裂き、脳天から唐竹割りにし、敵の命を次々着実に奪っていく。


「ヒュノ! 武器がもたねぇぞその斬り方じゃ!」


「心配ねぇ! こいつら、動きは速いけど異常にもろい! 豆腐を斬るのとほとんど変わらねぇ感覚で斬れる!」


「は!? んな……」


「いや、そうか! 邪鬼の恩寵……!」


『あっ!』


 ネーツェの言葉に、カティフとジルディンが声を揃える。そう、エリュケテウレの言っていた、『童貞と処女以外にはほぼ傷つけられない代わりに童貞と処女ならば簡単に殺せる』という、邪鬼の恩寵にして呪いがこのゴブリンたちに施されたという話が、間違いない事実であることを眼前の光景は証明していた。


 ゴブリンは次々と、まるで怯む様子も見せず真正面から土壁を飛び越えようとしてくるが、そうなると当然ながら動きは単調になるし回避行動もとれなくなる。剣の腕前は一流はだしと言ってもいいヒュノにしてみれば、一撃当てるくらいは楽なものらしかった。


 そして自分たちが一撃を与えれば、このゴブリンたちはもろい果実かなにかのように、ごくあっさりと崩れ落ちる。ヒュノの剣は、閃光に比してもそう遜色のない勢いでひらめき、次々ゴブリンたちを斬り倒していく。


 そしてその勢いを、騎士団の従者の子として、戦場――乱戦の中で生き延びる術と思考を叩き込まれたカティフは見逃しはしなかった。全員の状況を素早く見て取り、口早に指示を下す。


「ヒュノ、そのまま続けろ、漏れたら俺とロワが仕留める! ネテ、範囲攻撃術式、威力抑えめで範囲に全振りしてかませ! ジル、支援術式はもういいから、風操作の術式攻撃力に全振りして使え! ただし誰かが怪我すれば即座に治癒術式!」


「おうっ!」


 ジルディンが意気込んで答え、指先で素早く複雑な印を結んだ。口の中で舌を震わせ、結印を終えるのと同時に短く呪文を呟く。


「〝祈風〟」


 とたん、疾風が巻き起こる。風の女神ゾシュキアから浄化術を授けられたジルディンは、穢れを祓う術(それは怪我や病気等の治療にも転用できる)に最も秀でているが、そこから派生した風操術もそれなりに修めているのだ。


 ゾシュキアの風操術は、攻撃に特化させた術式ならば、木を薙ぎ倒すくらいのことはしてのける。ジルディンが術式を発動するや、それとほぼ同等の勢いの烈風が戦場に吹き荒れた。邪鬼の眷属たちはその風に、首をそれこそ玩具のように捻じ曲げられて、次々その場に倒れ伏していく。


「……〝汝七十二度の紅、虚空より来たりて現れ出でよ、原初の空漠より地維に爆ぜ広がる正にして高の力たるべし、七つの王と十五の帝の天則によりて発動せよ、烈〟!」


 ネーツェが杖で中空に複雑な文字を書きつつ、早口で呪文を唱える。魔術という術法は、魔術文字を覚えることから始まる、高度な学問的素養に精神力、集中力、判断力に器用さと様々な能力を必要とする、習得難易度が他のどの術法よりもぶっちぎりに高い術法だが、術の広範さにおいても他の追随を許さない。攻撃術式にも威力の高い代物がいくつもある。その中でも代表的な代物である火球の術式は、一撃で十匹近いゴブリンを黒焦げにしてみせた。


 ヒュノもゴブリンたちをほとんど鎧袖一触の勢いで薙ぎ払い、カティフもやや下がり気味の位置で冷静に周囲の状況を見渡しながら次々ゴブリンたちを斬り倒す。ロワも二人よりは格段に速度は落ちるものの、なんとか後衛に到達させないよう、二人の討ち漏らしを始末することができている。


 数を察知した時は仰天したが、邪鬼の恩寵――自分たち相手では呪いとなるそれの効果は、ロワの予想をはるかに超えていた。この分ならまず大丈夫だろう、と内心で安堵の息をつき――数瞬後愕然として、ヒュノの前へと飛び出した。


「っと、っ………!」


「な!?」


「っ、ぐ、ぅっ……!」


 ぞぶん、と自身の腹を貫いた肉の槍を、ロワは必死に息をつきながら剣を振るって斬り落とした。とっさの判断だったが、やはりこの肉の槍も邪鬼の恩寵を受けているらしく、ろくに力の入っていない一刀であっさり切断されてくれた。


 だが、それでもロワの受けた傷が治るわけではない。ずるり、とロワの腹から肉の槍が抜けたあとから、ぼたぼたっ、と相当な勢いで血が噴き出し、喉の奥からもごぼっ、と血が湧いてきた。内臓を傷つけられたか、と激痛の中妙に冷静に頭の一部が判断し、口内を圧するほどの鉄臭い液体を、懸命に吐き出しながら、なんとか治療術式を唱えるべく、精神を集中しようと試みる。


「ジル!」


「あっ……っ、〝祈癒〟!」


 ジルディンがロワよりもはるかに素早く治癒術式を発動させ、燃えるように熱い腹部の痛みを鎮める。だが、それでも受けた傷が深すぎた。ジルディンの浄化術は、毒や病気、呪いや狂気の類を払うことにかけては、一般的な術法の中では最優だが、傷の治療はやや不得手。いかにジルディンが優秀な使い手とはいえ、こんな傷の対応には限界がある。


「ヒュ……ノ」


「黙ってろ! カティフ、僕も治療に回る! こっちにゴブリンを寄せつけないように――」


「邪鬼の、眷属……でかいのが、来る」


「え……」


 目を瞠る仲間たちに、ロワは懸命に、村へと偵察に出した霊魂の伝えてくれた情報を告げた。


「一見、ゴブリン、だけど、頭や、腹をっ……裂いて、肉の触手を、伸ばす……っ、腕や、足からも、短いけど、攻撃しながら、いくらでも……ふっ、ぅっ、力、が、強くて、触、手、は、硬っ、い……ほと、んど、鉄と、考、え……げぼっ」


「黙ってろって言ってるだろうが! 〝翠、光度七、王帝一一、創血肉加力命――〟」


「〝祈癒〟! 〝祈癒〟! くそ、傷がっ、塞がらないっ……!」


「ロ……」


 ヒュノが呆然と呟きかけて、ばっと正面に振り向き剣を振るう。ヒュノの後頭部を貫こうとしていた触手は、その一刀にあっけなく斬り落とされ、地面の上でびちびちとうねった。


 まるで王の登場を待つがごとく、ゴブリンたちはさっきまでの狂奔が嘘のように、波が引くように後退したかと思うと、村に向けてひれ伏し、こぞって祈りとも喚き声ともつかない叫びを上げる。それに迎え入れられながら、村の奥から触手の主は現れた。


『…………!』


 仲間たちが声にならない呻き声を上げる。顔から血の気が引き、戦闘に際しての昂りが一瞬消え失せて、体が震える。


 恐怖。それの姿は、人からその反応を強制的に引き出すに足る代物だった。


 確かに一見した姿形はゴブリン。だが、色味があまりにも赤々として、血管が目立ち、肌のないむき出しの肉を見せられている心地になる。そのどくり、どくりと脈打つ血管が縦横に走る頭部が、ときおりぱかっと大きく、花が開くように裂けて、中からしゅっと、目にも止まらぬ速さで触手を伸ばす。


 その狙いは、自分たち――ではなく、ゴブリンだった。ひれ伏し祈るゴブリンたちの体に次々肉の槍を突き刺し、異常な剛力で軽々と持ち上げ、裂けた頭の中に取り込んで、咀嚼する。狙いをつけられたゴブリンたちが、必死に喚こうとも、断末魔の絶叫を上げようとも、ぴくりとも反応せずに、次々ゴブリンたちを中に取り込む。


 裂けるのは頭だけでなく、腹もだった。ゴブリン程度の大きさだった腹が、裂けて触手を伸ばすと、人の体よりもはるかに大きな、肉の花を開かせたように見える。


 そこからも肉の槍は伸び、周囲のゴブリンたちを次々取って喰う。ゴブリンたちは喚き、呻き、絶叫するが、逃げ出そうとはしなかった。それが無理だと知っているからか、この化け物にはなにをされようとも受け入れざるをえない、自分たちの圧倒的上位者だと理解させられているからか。


「………ムィベキュツノク………」


 ネーツェが呆然と言葉をこぼす。ヒュノがその声に一瞬視線を走らせて、低く問うた。


「知ってるのか、ネテ」


「本で見て、名前だけ……ウィペギュロクの眷属の一柱で……邪淫と加虐の神が暴威を振るう時、その尖兵として遣わされる、って……」


「っ! じゃああれ……邪神の眷属なのかよ!?」


「んな……んなもんが、なんで、ここに。俺たちなんぞの、前に……!」


 邪神の眷族。邪神が直接遣わす自らの眷族。邪鬼を護り導くためなど、邪神にとっても重要度の高い案件についてのみ人界に遣わされるという。当然ながらその強さは邪鬼の眷族とは比較にならず、英雄と呼ばれる人々でなければ対処も難しいほど。少なくとも、自分たちのような最下層冒険者がどうにかできるような代物ではない。


 唖然、愕然、呆然。事実と目の前の光景に打ちのめされて、全員まともにそれ――ムィベキュツノクと相対することもできていない。


 それも当然だ。ロワは心底からそう思う。現実が、これまで当然のことと考えていた事態が崩れ去った時に、その事実と真正面から向き合うのは、そうそうできることではない。受け容れられず、反応できず、情勢の濁流に呑み込まれて、いいようにされてしまうのがたいていの人間にとっては当たり前だ。――『自分がごく簡単なことで死にうる』という誰もが知っている事実からすら、ほとんどの人間が目を逸らしているのと同様に。


 それでいいのだ、とすら思う。『現実とごまかしなく向き合う』ということは、たいていの人間が思っているよりもはるかに心身を消耗させる。『それが正しいから』という理由でひたすらに現実と向き合い続けても、最終的に得られるのは、苦痛に荒れ果てぼろぼろになった心身だけだ。


 自分はそれを知っている。――故郷の愚直な隣人たちが、現実に立ち向かい乗り越えようとして、なにもできずに死んでいった様を、見ているから。


 だから、自分がやっているのは、ただのごまかし。やれるだけのことはやったのだ、と思いたいがための自己満足。時間と命を無駄にして、心地よい夢を見るために自分を投げ出しているだけ。


 ――けれど、自分がその夢に酔えるのは。『こうした方が仲間が生き延びる確率が上がる』という、単純な損得勘定が事実だと、冒険者として生きてきた経験が告げているからで――


「女神――エベクレナ!」


「……っ?」


 なので、ヒュノがいきなりぱぁんと自分の頬を叩き、剣を掲げて自分の知っている神の名前を叫び出すと、仰天して一瞬小さく呪文を唱えていた舌が固まった。いやいきなりお前なに言いだしてんだ、状況わかってんのか敵前だぞおい、と。


「俺は誓う。俺の剣は仲間を、友を護るために振るう! 金を払う奴のためでも、誇りのためでもなく、ただ隣にいる、尊敬できる奴のために、そいつらに恥じない自分でいるために!」


「おいヒュノっ、お前突然なに言い出して……」


「だから頼む、女神エベクレナ。この俺の誓いを、俺の真情だと誰にでも胸を張れる言葉を聞き届けてくれたなら――俺に力を、貸してくれ!」


 いや本当突然なに言い出してんだ、と心中(口は必死に呪文を唱えていたので)全力で突っ込む――そんな冷静な自分は、次の瞬間、かぱっと口を開けて固まった。ヒュノが掲げた剣に向かい、天から光が――早朝の眩しい光が降り注ぐ中でもはっきりわかるほどに、鮮烈に耀う光の柱が降りてくる。


 ヒュノの剣はその光を受けて、それこそ聖剣かなにかのように煌めき、ヒュノがぶんっと剣を振り下ろし構えると、光の粒子を周囲に飛ばす。粒子はヒュノの体に纏われ輝き、光の鎧を着けていると言い張れば言い張れてしまえるような姿に変える。


「―――いくぞ」


 低く告げるやムィベキュツノクに突っ込んでいくヒュノに、いや待て突出するな援護が届かなくなるだろ! と(心中で)絶叫する――も、ヒュノはなぜか、案外無事だった。


 ゴブリンたちは素早くヒュノを取り囲み、次々飛びかかっていくのだが、普通なら異常に動きの素早いゴブリンに、あっさり袋叩きにされていただろうヒュノが、まるで倒れない、というか怪我を負った様子すらない。ヒュノの纏った光の粒子が、本当に鎧のように攻撃を遮断し、のみならず負った傷を癒しているようにロワには見えた。


 いやなになんなんだ本当なんなんだ、とロワと仲間たちが事態が把握できず固まっている間に、ロワは本当にゴブリンたちを鎧袖一触の強さで蹴散らしてしまう。しかし油断も動揺も勝利を喜ぶことも、まるでする様子のないまま、軽く血振るいしたのちムィベキュツノクに向き直り、真正面から対峙する。


 その姿はこれまで冒険の中で見せてきたいつものヒュノの姿からしても明らかに尋常ではないもので、いやいやなにがあったんだお前っていうか絶対なんかヤバいことやってるだろ、とロワは内心で突っ込みまくるが、そんな(死にかけている)ロワの驚愕など気にもせず、ヒュノとムィベキュツノクは戦いを始めた。


神雷しんらい……」


 ジルディンが呆然と呟くのより、数瞬早いか遅いか。ロワには見切れないほどの速さで、ヒュノは剣を振るう。迅雷のごとくと称しても、誰も文句をつけないだろう、さっきまでのヒュノとは桁違いの、明らかに普通の人間の出せる速さではない踏み込みと剣速。人外の達人にも比すべき、必滅の一撃。


 ――それを、ムィベキュツノクはあっさりと受けた。


『!?』


 思わず全員絶句する。ロワの苦し紛れの一刀でも、触手を斬り落とすことのできたムィベキュツノクが、今のヒュノに斬れない。そんな道理があるわけはない。ヒュノも明らかに驚きを見せて、一瞬動きが鈍る。


 そこに即座にムィベキュツノクは攻撃を仕掛けた。頭から、腹から触手を伸ばし、腕も伸縮自在の肉の槍と化して至近から、右から左から後ろから、言葉の綾でなく四方八方から命を奪わんと襲いかかる。


 ヒュノはそれを横っ飛びに転がって避け、そのまま一回転して立ち上がる。だがそれは、明らかな悪手だった。間合いが広がった。剣ではなく長物の間合いになった。


 ロワの現在地から村まで、馬で駆けても十瞬刻ルテンはかかるだろう。その距離を一瞬で埋めて、肉の槍を突き立てられるムィベキュツノクにとっては、間合いは開いてすらいない。だがヒュノにしてみれば、この距離はすでに遠すぎた。


 ムィベキュツノクの体から、先刻の一合にも勝る数の触手が伸び、槍衾と化してヒュノの接近を防ぐ。ヒュノも懸命に剣を振るうも、最初の一撃を防がれた時と同様、ムィベキュツノクはあっさりとそれを受け、同時に別の触手がヒュノの体に突き立つ。そのたびに光の粒子が瞬いてそれを防ぐも、致命的な一撃を防ぐたびに、光の粒子の色は薄くなっているように見えた。


「技だ……」


 カティフが呆然と呟くのに、ネーツェとジルディンも呆然と答える。


『え……』


「あの化け物……人間なんぞ歯牙にもかけねぇくらいの力を持ってるくせに、戦技の方も人外なんだ。ヒュノがめちゃくちゃな速さで剣を振っても、それをきっちり受けきれちまうくらい技量に差がある。ヒュノの剣は、たぶん一撃であの化け物を倒せる。化け物の触手だって、受けてる時に傷ついちゃいるんだ。肉が崩れてくのが見えた……だけど、それ止まりにしちまえる……勢いを完全に殺せちまうくらい、技の習熟度が桁外れなんだ……」


「それ、じゃあ……」


「ヒュノが、いっくら、神雷しんらいを与えられてたからって……」


 呆然と仲間たちが呟く中――ロワは、ひそかに安堵していた。


 それならば、自分が死ぬ思いで、この呪文を唱えていた甲斐もある。囁きよりまだ小さい、自分を支えているジルディンにすら聞こえない程度の声で、ロワは呪文の最後の一文を告げた。


「〝――祈りに応え、彼岸より来たりて縁り憑きたまえ――士なる御方よ〟」


「っ!?」


「え、なんだ!?」


 カティフやジルディンが声を上げる。それほどにはっきり、ヒュノの動きが変わった。


 飛んでくる触手を受ける。触手が他の触手のひしめく空間へと跳ね飛ばされる。触手が混雑して一瞬動きが鈍った、と思うやヒュノが剣を振るって丸ごと叩き斬る。


 後方から触手が襲いかかる。わずかに身を揺らし避ける。触手が避けた先へと追撃する。ごくわずかに跳んで、下から足を払おうとしていた触手とぶつけ合わせ、触手同士で絡みつかせる。


 そんなことを数瞬の間に数限りなくやっている。触手がまるで体に当たらなくなった。――じわじわと、ムィベキュツノク本体へと近づいていっている。


 ヒュノのそんな姿に心底安堵し、ロワはこれで最後、と破けそうに痛む腹に力を入れて、気力体力体に残ったものすべてかき集め、それこそ渾身の力を振り絞って叫んだ。


「ヒュノ! その力はっ、太古の、戦士――英霊の、力だ!」


「っ! ロワ、おい……」


「邪神の、眷属、だから……それに、敵対して、いた、高位の戦士を、呼べた……! 反発、しないで、受け容れて、協力しろ! 術式の、持続時間は、そう、長くない……っ」


 そこまで言って、喉の奥からまた血がこみ上げてきて、げぼっ、げぼっと咳込む。ネーツェが半ば狂乱状態で頭をがりがりとかきむしり喚いた。


「だから! 傷口をとりあえず塞いだだけなのにでかい声で喋るなって……くそっ、〝翠、光度七――〟」


「っ、〝祈癒〟! 〝祈癒〟!」


 ジルディンも必死に何度も呪文をかけて、少しずつ傷は癒されていく。だがもうどちらもそろそろ魔力切れが近い、完全な治癒は望めない。そもそも、死にかけているのに、自分の力量では手に余るような術式を使う、というのがそもそも無茶な話なのだ。ロワ自身、そこまですれば本気で死ぬ確率が、七三ぐらいで存在することは理解していた。


 だが、それでも、ロワにしてみれば、それ以外の選択肢は実質なきに等しかったのだ。召霊術は霊と身魂の階梯を合わせ、対話し祈り乞い願うことで発動する。つまり、死にかけていれば、亡霊に――死に近くなるわけだから会話もしやすく、亡霊に対しては術式の発動成功率は上がるのだ。


 そしてこの英霊召喚の術式は、神雷しんらいとジルディンが言っていた、ヒュノの今の強化状態下ならば抜群の効果を発揮する。身体能力が邪神の眷属と渡り合えるほどに高くなったところに、太古の英霊の技が加わるのだ、それこそ戦況を一発でひっくり返せる鬼札になりうるはず。


 ――まぁ、そういう思考はぶっちゃけ後付けで、実際のところは『無駄かもしれないけどやらないよりはマシだろう』と反射的に呪文を唱え始めてしまった、という面が大きいのだが。


 死ぬような思いは何度もした。死にたいと思ったこともなくはない。死ぬほど痛い経験は、今もしているが何度もしたいものじゃ決してない。


 だが、だから否応なしにわかってしまう。自分のやれることはやれるだけやっておかないと、死んだ後にも未練は残る。『もしかしたらなんとかなったのかもしれなかったのに』という無意味な後悔は、自分の命も想いも人生も歪めて、天地に汚点を残すだろう。自分はそういうどうしようもない魂を、それなりに見てきた。


 だから、やるだけのことはやる。自分の無益かもしれない自己満足のために。それに仲間のためという大義名分がつくならば、少しは命を張る格好もつくというものだ――


「っほげっ、ほ、げぼっ! が、っ、ぐ……!」


「おい馬鹿ロワっ、息しろ息っ! 口開けろ!」


「げっ、ぼ……!」


 痛い。痛い。痛い痛いそれはそれとしてめっちゃくちゃ痛い痛い! くっそこれで術式が無駄になって全員全滅とかいう羽目になったらヒュノにあの世で……なんか……甘いものとかおごらせてやる……!


 何度も血を吐きながら懸命に痛みと戦い、思うことの小ささに我ながら情けなさしか感じない。だがしょうがない、自分はその程度の器しか持ち合わせがないのだ。たとえあの世でも大きな態度を取って、反撃されるのも本気で落ち込まれるのも気が引ける。


 だから。頼むから。なんとかして勝ってくれ、ヒュノ――


 霞む目を必死に見開いてそう祈った、のとどちらが早かったか。ヒュノが、ごくあっさりとした所作で、輝く剣を軽く振った――かと思うや、ムィベキュツノクの本体をあっさり一刀両断した。


『………え』


「ロワ! おい無事か!」


 そして即座に振り向いてそう怒鳴る。えーいやお前今すごいことやってなかった、っていうか触手の体液とゴブリンの血まみれで形相がすごいことに……と思いながらも、心底ほっとして、表情筋が緩んで。


 次の瞬間、世界が揺らいで、暗転した。


「おいぃっ!」






 ―――そして気がつくと、神の世界にいた。


「………はい?」


 光に満たされた世界。見渡す限り続く輝く雲海を足下に、陽の光よりも眩しい黄金色の光がどこからともなく降り注ぎ、空気そのものすら娟麗に煌めかせている。


 なびく瑞雲は一筋はきらきらしい五色、もう一筋は輝かしい空間を典雅に引き締める紫色。その二筋の雲に挟まれた、雲が高台を形作っている場所に、一人の女性が立っている。


 ――まさに女神としか言いようのない圧倒的な美貌で、引くほどぼたぼた涙をこぼしながら。


「………あの………」


 ずかずかずか、とその女神――エベクレナは高台から駆け下り、反射的に逃げ腰になるロワの手をがっしと両手でつかんで、絶叫する。


「ありがとう……ありがとうございます……!」


「え……いやあの……」


「推しててよかった……マジ推しててよかったです! 神! 神すぎる! 世界の神にも五体投地して感謝の祈りを捧げてましたが、本当にあなた方にもマジで心底全身全霊で感謝しかない……! あああ生まれてきてくれてありがとう! あなた方が今この世に存在して一緒にパーティ組んだりしてくれちゃってる奇跡に、神の御業にただただ、感謝………!」


「………あの………」


 ロワはひたすらに気圧され、呆然と呟くしかできなかった。内心で、この女神さまと初めて会った時と同様、全力でこの状況に突っ込みを入れずにはいられない。


 いや、なにこれ。本当なにこれ。

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