9 断章―4
学生時代にマルクス主義を学び、資本主義社会が内包する、人間に対する搾取と抑圧の仕組みを知った幹生は、この社会に深い幻滅を抱いた。彼はこれから社会生活を始めるという人生の出発期に、今からその中に入っていく当の社会に対して批判と違和の意識を抱き、〈この社会は自分が生きるべき社会ではない〉という断念を抱いてしまった。彼の前途にある社会は、そこに自分の夢を託し、その中で自分の地歩を築いていく場所とは捉えられず、専ら否定と変革の対象としてのみ意識されたのだった。
彼は会社員になる気は全くなかった。企業の活動が所詮は利潤目的になされることを知っていた彼は、その機構に組み込まれ、利潤追求の歯車の一つになることに何の興味も抱かなかった。
彼が主体的になりたかったのは作家であった。彼は小学生の頃、SFを書き、それが大手出版社が発行する中学生向けの学習雑誌の別冊付録の読物として採用された。五千円の原稿料が届いた。初めて見る大金だった。それは彼にとって空前絶後の原稿料だった。童話を書いて本を出し、それがテレビ番組化されるという経歴を持つ教師が当時の担任だった。教師は教え子たちに小説や童話を書くことを勧め、数名の児童がそれに応じて作品を提出した。教師はそれをまとめて、『僕の小説 私の童話』というタイトルをつけ、本にした。新聞のローカル版などで写真入りで紹介された。幹生のSFはその中の一編だった。そんなことが作家志望の種子になっていたのかもしれない。大学卒業を前にして幹生が思う進路は作家の他はなかった。彼は卒業後、アルバイト的な仕事をしながら同人雑誌に作品を書き続けた。文学賞への応募もした。しかし、芽は出ない。経済的な安定を考える彼の視野に浮かんできたのが教職だった。それは営利から離れた位置にあると見える職業でもあった。幹生が馴染んでいた書物の世界とも縁のある職業とも思われた。
教員免許を取得するために、幹生は聴講生として大学に通った。教育実習を経て、免許を取得した。先生にデモなるか、先生シカあるまい、という気持で教職を選んだので、幹生はまさしく「デモシカ先生」の一員だった。公立高校の採用試験は二度落ちた。学科はまずまずだったので、作文に表れた思想傾向がチェックされたのではないかと後で幹生は思った。コネがあって私立高校に就職した。
金稼ぎはやはり大変だった。就職した最初の年に担任をしたクラスの生徒が八人退学した。万引き・喫煙・カンニングなどの問題行動が原因だった。幹生はノイローゼ状態に陥り、年度末に退職を申し出た。身がもたないと思ったのだ。だが校長に慰留された。迷ったが他に途もなかった。結局、幹生は職に留まった。しかし、精神的には常に不安の中にいた。
そんな幹生の心に沁みこんだのがブッダの言葉だった。彼は文庫本に収められた『スッタニパータ(経集)』や『ダンマパダ(法句経)』をくり返し読んだ。ブッダの言葉は幹生の心を安らげ、活力をもたらした。マルクス主義に触れ、宗教から離れたはずだったが、さして抵抗もなく彼はブッダの教えの中に入っていった。ブッダの言葉には非合理的な要素が殆どなかった。むしろ神秘的な、形而上的な思惟を否定していた。それで幹生には唯物的な思考とブッダの言説(原始仏教)とは両立可能と思われた。それは仏教に対する開眼だった。彼はこの時期、『阿含経』など原始仏典を読むことを初め、原始仏教に関する文献をかなり渉猟した。幹生はブッダの教えによって教員生活初期の危機を乗り越えることができたのだった。
二、三年の月日が経ち、幹生も教員生活にそれなりに適応し、精神的にも余裕ができてきた。「デモシカ先生」だった彼も、自分が教師としてどんな教育を目指すべきなのか考え始めた。彼が目指すべき教育は先ず以っては「民主教育」だった。しかし、その内容は模糊としていた。模索の中で彼が見出したものが「集団主義教育」だった。当時の幹生には「民主的」と「集団的」とは密接不可分な観念だったようだ。集団の上に優越するのではなく、また集団から離れて孤立するのでもなく、集団の中で仲間と共に生きることでこそ、民主的人間は形成されると当時の幹生は考えていた。彼が手にした「集団主義教育」の実践を記した本には班活動が述べられていた。後で確かめると、それは小学校での実践だったが、具体的に何をすればよいか分からなかった幹生は、これだとばかり飛びついてしまった。教師としての経験の浅い幹生には、高校生と小学生の違いなどもよく理解できていなかった。しかし、理想への情熱が彼を衝き動かしていた。彼は遮二無二、学級運営に班活動を導入していった。そこには燃え上がりやすい彼のロマンチストとしての本性が顕れていた。
五十人に近い自分の担任クラスの生徒を六、七人の班に分け、班長を決め、班内に幾つかの係も定めた。班には学習的な事柄や生活的な事柄に関して幾つかの目標を決めさせ、その達成に取組ませた。目標の達成では班相互での競争もさせた。班長会議を週一回開き、担任が中心になって班活動の状況を検討・討議した。昼休みに班長を集め、課題の遂行を点検したりもした。そういう活動を授業、その他の職務の合間にするのは、忙しくて骨の折れることだった。生徒の中にも、「何でこんなことをするの」と問う者もいた。班活動などしていないクラスが殆どだった。生徒が余計な負担と思うのももっともだった。しかし幹生は、「これは君たちの成長には大切なことなんだよ」と答えて続けた。
その学校には教員の組合があり、幹生は組合の役員にもなっていた。組合の会議では教育のあり方についての論議も行われた。班活動も議論の対象となった。組合員の教師で幹生に賛同した数人が自分のクラスで班活動を行うようになった。組合に集まっていた民主的志向を抱く教師たちの存在が幹生を励まし、支えてもいた。
七年ほどの歳月が流れ、幹生の勤務先は現在の学校に変った。彼の希望というより学校にコネを持つ親類の勧めと斡旋によるものだった。最初の学校より偏差値の高い生徒が通う学校で、大学の進学成績もよかった。彼は勤務先を変ってから、学生時代に読み止していた『資本論』の完読を思い立ち、実行し始めた。
学校を変ってから幹生の「民主教育」への熱意は薄れた。そこには組合はなかった。教育についての論議もなかった。カリキュラムは大学入試に的を絞って編成されていて、受験する大学・学部の別によって四つのコースが設けられていた。大学を国公立と私立に分け、それぞれを文系・理系に分けた四コースだった。クラスもその四コースに沿って編成されていた。国公立大学受験を目指すクラスは特別進学(特進)クラスと称されていた。まるで予備校のようだというのが入った当初の幹生の感想だった。幹生は新しい環境への適応に追われ、「民主教育」を忘れて過ごした。
しかし、やがて彼の胸に「自由」の火が燃え始めた。学習指導面での受験教育と、生活指導面での管理教育に覆われた教員生活の息苦しさと味気なさが、幹生を新たな模索へ駆り立てたのかもしれない。彼の視野に浮かび上がってきたのは「自由」を標榜する教育論であり、その実践だった。中でも幹生の関心を引き付けたのは「世界でもっとも自由な学校」と言われるサマーヒル学園であり、その創立者で経営者であるA・S・ニイルの思想だった。サマーヒルでは、生徒は授業への出席を強制されない、生徒と教員が平等な権利で集会に参加し、そこで学校生活上の種々のルールを決める、学習内容も生徒自らが選択することを幹生は知った。それは幹生には考えられないほど素晴らしいことだった。そういう学校を生みだしたニイルの思想に彼は関心を抱いた。
幹生はニイルの著作集を手に入れて読んでみた。ニイルは、フロイトが創始した無意識の心理学に基づいて子供の心理、親の心理、一般人の心理を深く、鋭く捉え、そこに立って彼の教育論を展開していた。神や道徳など、一般に世間で善とされ価値あるものとされている事柄が、いかに子供の心を抑圧する有害で罪深いものであるかが述べられていた。その顛倒が辛辣かつウィットに富む筆致で述べられ、幹生は読んでいて痛快な思いを味わった。学校では優等生で通った生徒が、社会に出ると「赤帽」にぴったりだったという記述などは、その皮肉な語り口で幹生に深い印象を残した。幹生は全国的な組織であるニイルの研究会に入会した。彼は夏休みに開かれるその会の一泊二日の研修会にも参加した。
そのようにして、自由教育の理想に向かって歩みだしていた幹生だったが、その進行にストップがかかることになる。それはサマーヒルで行われているような無条件的な自由教育への懐疑だった。
この世界に個人に委ねられる自由がどれだけあるだろうか。人間は生まれた瞬間から不自由な制約の中にいるのではないか。国籍・人種・生育環境は選択不可能な、所与の先天的制約だ。それを初めとして、人間は様々な条件に囲繞されたなかで生きていくほかはない。人間に許されている「自由」は、泥濘を歩くに際して、黒の長靴か黄色の長靴か好きな方を選べるというほどの、ほんのチッポケなものに過ぎない。泥濘を歩かなければならないことに変りはないのだ。とすれば、子供は「自由」のなかに置かれるよりも様々な制約の下に置かれる方が、彼が今後生きていく人生を考えれば有益ではないのか。実人生の模擬演習として。この考え方の背景には、人間は物質的生産を始めるに際しては、所与の諸前提、つまりそれまでに蓄積してきた生産諸力に依拠するほかはなく、それらに制約されるというマルクスの唯物的考察があった。その頃幹生は『資本論』の読了を進めていたが、『資本論』を読んでいると、人間が物質的に〈制約された存在〉であることが見えてくるのだ。このような思考によって、幹生の自由教育への情熱は減退した。
しかし、この思考には自己正当化の側面もあった。本当に考え抜かれたものとは言えないところがあった。管理と受験で縛られている幹生の勤めている学校では、自由教育は実践し難い事だった。学校には組合もなく、教育理念を語り合う仲間もいなかった。大きな困難を前にして、幹生が自由教育の実践を回避することの合理化にこの理屈が充てられていたという面も否定できなかった。
幹生が自由教育から離れる心理的契機となった出来事があった。ニイルの教育理念を日本において実践する学校が設立されることになった。その学校が開校した時、幹生は祝う詩を書いてニイルの研究会の事務局に送った。研究会が学校設立の母体だった。彼はその行為を文芸を嗜む自分に相応しい祝い方と思い、詩についてもよいものが書けたと満足していた。彼としては作品が会報に掲載されることを期待していた。ところが何の反応もなかった。返事さえ届かなかった。完全な黙殺。ニイルに賛同するような人は人間の気持を大切にする人であるはずなのに、会の中核的なメンバーがいると思われる事務局のこの冷淡な対応に幹生は幻滅を覚えた。立派な理念を掲げていても、それを担う生身の人間はこんなものだと彼は思った。幹生はこの時、ニイルとその賛同者たちに対して一歩退いたのだ。そして、その後、自由教育に対する批判的懐疑が生まれることになる。自由教育からの幹生の撤退は、彼の詩人としてのプライドが傷つけられたことがきっかけだったと言えるかもしれない。
それから十年以上の歳月が過ぎた。その間、幹生の関心は教育の分野から離れていた。『資本論』を完読して、「学問とはどんなものか、どうあるべきものかが分かった」と読書ノートに感銘を書きつけた彼は、その後、ランボーを契機として十九世紀のフランス文学に関心を向けていった。詩ではランボー、ヴェルレーヌ、マラルメ、ボードレール、小説ではユゴー、バルザック、スタンザール、ゾラ、モーパッサンなど。それまでフランス文学は殆ど読んでこなかったことに気づき、その欠落を埋めようとした。その他には最新の宇宙論に対する探求もあったし、戦後の文学論争を取っ掛りとして、日本の近代文学のあり様への考察も行った。幹生はこうして教育や学校以外の事に関心を向け、精神的充足を得ていた。
一方、学校での教員としての仕事は生計のための苦役だった。学校もまた社会の縮図であり、社会に現存する種々の制約を帯びるものとして、自由教育から退いた彼は、学校で展開されている管理と受験準備の教育を、やむを得ないもの、必要悪とまでは言わないが、在るべくして在るものと容認していた。その教育は彼に多く苦痛を与え、空虚感をもたらすものだった。
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