8 守ってあげる


 時間割係は二人が組になっているが、毎朝二人が揃っているわけではない。相棒が朝の課外授業の担当になっている時は、一人での仕事となる。そんな時に突然の欠勤や遅刻、あるいは「時間割変更依頼」などがあると、一人で対応しなければならない。朝の課外授業が二、三日続く相棒もいる。朝の課外だけではない。稀ではあるが、相棒が遅刻したり休んだりすることもある。相棒が欠勤や有休で休むと、とても心細いことになる。その日だけのことではなくなる。翌日の時間割についても、基本的に一人で時間割を操作し、ミスがないかをチェックしなければならなくなる。こういう場合は二人で支え合うという折角の二人制のメリットも失われることになる。時間割係のキャップがこういう場合はヘルプとして入ることに建前としてはなっているが、実際はなかなかうまく機能しない。切羽詰った時間割担当が頼みに行って、初めてキャップが動き出すことが多い。


 そのキャップが今年度から彼女に変った。前任の森は長らく務めた時間割係の部署を離れた。彼女は昨年度から時間割の部署に入り、森のサブとして働いていた。彼女は以前にも時間割係に所属していて、時間割係としての経歴は長かった。幹生は初めて彼女と同じ部署で働くことになった。仕事上の接点が生まれたのだった。しかし昨年度は彼女とペアを組むことはなかったのでそれほどの接触はなかった。キャップになった彼女は森よりよほど担当に対して親身だった。例えば担当者に対して担当期間内の注意すべき日(出張や有休が多く、空きがたくさん出そうな日、あるいは行事などで大きな時間割変更が指示されている日)を予め指摘し、早くからの対応を促した。またそのための具体的なアドバイスもした。朝課外で担当の一人が不在の時は彼女が自主的にスタンバイしてその代役を果した。


 その日は幹生が担当する期間の初日で、相棒が朝課外で不在の日だった。幹生は時間割担当になっている時は午前七時五十分には職員室に入ることにしている。自分の机に鞄を置き、靴を上履きに履き替え、ロッカー室に行って上着を脱ぎ、上っ張りを着る。自席に戻り、机の抽き出しから印鑑を取り出す。教頭席の斜め前の台に置かれている出勤簿に向かい、教頭が席に居れば、朝の挨拶をしてから出勤簿を開いて押印する。教頭への朝の挨拶が幹生は苦手だった。蜂須賀が教頭だった頃はなかなか素直に声が出なかった。教頭が変って、挨拶は幾分しやすくなったが、それでも三回に一回は挨拶をしないまま押印した。


 印鑑を抽き出しにしまって、ようやく時間割係の机に向かう。昨夜から気になっていたことといよいよ直面する。バインダーに綴じられた時間割変更用紙が机の中央に置かれている。今日の分が表に出ている。昨日、退勤前に確認した時間割変更がそこに記入されている。欠勤や何らかの時間割変更の指示など、新たな記入がないかを確かめる。そんなメモが置かれていないか、机上を見回す。いずれも見当たらない。どうやら今のところ変事は起きていないようだ。幹生は少しほっとする。しかし、まだ分からない。とにかく八時まで待とうと思う。後五分ほどで八時だ。その間にコーヒーでも飲もうと考え、幹生は湯茶室に向かう。コーヒーメーカーを見ると空だ。コーヒーはまだ作られていない。この時間帯ではあり得ることだ。自分でドリップする余裕はない。幹生は仕方なく時間割係の机に戻った。椅子に座って、両掌を組んで後頭に当て、天井を仰いでしばし瞑目した。このまま何事もなければいいが、と思う。変事があるのなら早く知らせてこいとも思う。彼女は来てないな、と思う。幹生はこの時間、彼女が側にスタンバイしていることを心のどこかで期待していた。しかし、自ら彼女に助けを求めるような弱みは見せたくなかった。落着かないので日本茶でも飲むことにし、再び湯茶室に行く。熱湯は給湯器によって出るから、茶葉さえ切れていなければ日本茶は飲める。


 八時になった。よし、記入しようと幹生はバインダーを把って、時間割変更白板に向かった。時間割変更用紙の記述を白板に水性マジックで転記するのだ。一年の欄から記入を始めた。その日は変更が比較的少ない日だった。書き始めれば二分はかかるまいと思われた。多い日は白板いっぱいが黒くなる。それはもはや「変更」の域を超え、「改編」と呼ぶのがふさわしい。一人で転記すれば十分はかかる。そんな事態も稀ではなかった。


 二年の欄に移った時だった。教頭が近づいてきて、一人の教師の遅刻を告げた。授業が可能なのは三時限以後だと言う。にこやかに応じたいところだが、幹生の顔はやはり歪んだ。何で今ごろ言ってくるんだと思う。「そうですか」と不機嫌な声で応じた。「よろしく」と言って教頭は去る。あんたはそれで済むからいいよ、と思う。書き終えてしまおうかと思ったが、遅刻で空く穴を処理しなければならない。そのために時間割を動かせば、転記した箇所もまた変る可能性がある。そうなれば転記に意味はない。そう考えて幹生は白板を離れた。先ず遅刻の処理をすべきなのだ。


 時間割係の机に戻り、ビニールケースに入った今日の時間割表を睨む。悪いことに遅刻教師の授業が一時間目と二時間目にある。何でこんな日に遅刻するのだ、と毒づきたくなる。彼は三年のクラス担任だった。あれこれ時間割を動かしてみるが、その教師の授業がうまく三限目以降に下がらない。下げれば他の教師が三時限連続授業になったり、分離分割授業を動かさないといけなくなったりする。時間割の操作によって一人の教師が三時限連続授業となることは避けるべきであり、やむを得ない場合はその教師の承諾を得なければならないというのが時間割係の内規となっていた。幹生は振替をしようかとも考えた。遅刻教師の授業を他の教師の授業と入れ替えるのだ。振替には条件がある。振替先の教員は当然ながら当該クラス(穴が空いたクラス)を教えていなければならない。そして当日となっての振替だから、生徒に教科書その他の用意をさせることはできない。従って振替先の教員は本日当該クラスに授業がある者から選ばなければならない。しかも振替をされた教師は授業時数が一つ増えるわけだから、そうなってもいいように、本日の授業時数の少ない者が望ましいことになる。幹生は以上の条件を踏まえて振替の候補者を探してみようと、三学年の全クラスの一週間の時間割を一覧する表を取り出した。しかし、時刻は既に八時十分を回っている。職員朝礼が始まる八時二十五分までにはその日の時間割異動を終えていなければ、授業に支障をきたすことになる。焦りが幹生の気持を締めつけてくる。


 彼は「仕方がない。自習だ」と呟いた。自習はなるべく減らすのが方針だが、という声が胸のうちでしたが、〈これが俺の能力の限界だ〉と幹生はその声に応じた。


 幹生は再び白板の前に立った。遅刻教師の穴となる授業の桝目に自習を意味する「自」と書き込み、彼は転記を続行した。すると外部からの電話を受けた教員の、非常勤講師の欠勤を告げる声が幹生の耳に入った。彼は〈何だと! 〉と思った。時計を見た。八時十五分を過ぎている。こんな時間に欠勤を届けてくるかな、と幹生はまた毒づきたい気持になった。教務部長が幹生の側に来て、非常勤講師の欠勤を伝えた。「そうらしいですね」と幹生は、今度は不機嫌な表情を作る気力も失せ、力無い苦笑を浮かべて応じた。その時、「〇〇先生が欠勤ですね」とその非常勤講師の名を口にしながら彼女が現れた。幹生は、ようやく来てくれたな、と内心で思ったが、表情には出さないようにして、「はい」と頷いた。そして、「△△先生が遅刻するそうです」とつけ加えた。彼女は頷いて、その日の時間割表に見入った。「△△先生は三限から授業ができるそうです」と幹生は言葉を添えた。彼女は「そうですか」と答えて、時間割表の、その教師の枠の第三限の始まりの線に、四時限目の桝目の方に開いた括弧を書き込んだ。もちろんビニールケースの上からだ。この時限以降、授業可能という印だ。時間割表は透明なビニールケースに入っており、ビニールケースにマジックで書いた変更操作は、用が済めば布かティッシュで拭って消せた。


 彼女は白板の前で時間割表に見入り、立ったまま対応策を考え始めた。転記を中断した幹生も時間割表を見つめた。彼女は遅刻教師の穴埋めを先に考えるようで、手に持っている茶色のマジックペンで穴になっている授業を丸く囲んだ。彼女が茶色のペンを使っているのは、これから行う操作を前のものと区別するためだ。前の操作は青色のペンで記されている。動き始めた彼女のペンが止まり、考えこむ。吐息が漏れる。思考に集中している彼女に話しかけることはできないし、幹生もただ側で見ていていい場合ではなかった。側にいることも彼女の集中の妨げになるような気がした。彼女が来てくれたことで幹生の気持はずっと楽になっていた。非常勤講師の欠勤の穴埋めと、自習監督の候補を考えようと思い、彼は時間割係の机に戻った。


 欠勤の非常勤講師はその日四コマの授業を持っていた。欠勤の場合は振替を考えるほかはない。二コマの振替は比較的容易に見つかった。一コマは二クラスを三つの科目に分割して行う授業なので自習にする他はなかった。そこまで考えたところで、幹生は白板の前に戻った。


 白板を見ると、どんな方法があったのか、遅刻教師の授業は三限以降に下げられ、自習は解消していた。幹生は内心でたいしたもんだと思った。何かのマジックのようだった。こういう力があるからこそ彼女はキャップにもなったのだと納得する思いだった。しかしそのやりくりのため、三年の時間割にかなりの変動が生じていた。彼女は変動した時間割の白板への記入も済ませていた。

「生徒用の白板にはまだ記入してないんでしょう」

 と彼女が幹生に訊いた。「はい」と幹生は答えた。

「〇〇先生の振替は後で考えるとして、先生、生徒用の白板への記入をお願いできます?」

 と彼女は言った。幹生は、「はい」と答え、「二コマは振替先が見つかりましたよ」とつけ加えた。その言葉には、あなたに依存してばかりはいないという幹生の釈明、あるいは矜持の気持が含まれていた。彼女は「そうですか」とだけ言った。白板を見ると、欠勤した非常勤講師の授業の桝目の下部にその講師の姓が小さく書かれ、括弧で括られている。その授業が自習か振替か、他の教師の取得になることをそれは示していた。幹生は白板の記述を時間割変更用紙に転記した。通常とは逆の作業だ。切迫する時間の中で、彼女は時間割表での変更操作を時間割変更用紙に記入する手間を省いて、直接白板に記入していた。


 転記を終えた幹生は、時間割変更用紙のバインダーを持って職員室を出て、生徒用の時間割変更連絡白板に向かった。時刻は八時二十分を過ぎていた。生徒用白板への記入は八時十分までに終了しているのが通常であり、正常だった。白板は職員室と教室棟とをつなぐ長い廊下(その間には社会科教室・情報教室などの特別教室が納まっている)の中央付近の壁に掛かっている。教員用白板には教員の姓で変更を記すが、生徒用では科目名で記す。


 書き終えて職員室に戻ると、職員朝礼が始まったところだった。時間割係の席に彼女が座っていた。幹生はそこへ行った。バインダーを机の上に置くと、「ご苦労様」と彼女が言った。「いや、どうも」と幹生は応じ、彼女の手許を覘きこんだ。彼女は欠勤した非常勤講師の振替作業をしているようだった。ありがたいな、と幹生は思った。課外授業を終えたはずの相棒はまだ姿を現さない。しかし幹生は気にならなかった。幹生には相棒よりも彼女がいてくれる方が頼もしかったし、好ましかった。

「先生、三年の学年朝礼で、クラス担任の先生に、朝のホームに行く前に自分のクラスの時間割を確認するように、一言言ってもらえませんか。かなり動かしましたから」

 と彼女が幹生に言った。「かなり動かしました」という声には、悪戯っぽい笑いが少し入った。

「分かりました」

 幹生は応えて頷いた。

「それから、自習が一コマ出ますから、監督の候補を探してください」

 と彼女はつけ加えた。欠勤教師の分割授業はやはり自習になるのだと幹生は思った。いくつかの仕事は残っているとは言え、これで今日の山は越えたという安堵の思いが幹生に起きた。


 彼女は三コマの振替先を決め、それを振替授業連絡用紙に記入するところまでしてくれた。幹生とその相棒に残された仕事は、振替の裏を返すこと、つまり、欠勤した非常勤講師が、振替授業をした教師たちのコマをいつ自分の授業として取るかを決めることだった。それは急ぐことではなかった。


 彼女のサポートは幹生には有難いものだった。体育科の教師が出張・欠勤などをした場合も、彼女が体育科と交渉して、空いた穴を体育科の他の教師が取得して埋めるよう処置した。それは幹生には困難なことだった。体育科の教師と人間関係のない(むしろ対立的関係にある)幹生がそんな要請をしても、断られるのがオチだろう。出張が多い日や大きな時間割変更がある日など、彼女が前もって時間割を動かしてくれていることもあった。こうして彼女は、幹生が慣れない時間割係の業務を円滑に遂行するための支えとなっていた。


 幹生はそんな彼女のサポートに、彼女の自分への好意を感じていた。それは以前、夏休みの課外中に、「先生は日頃体を鍛えていらっしゃるから、そんな服装が似合いますね」という彼女の言葉に確認した自分への好意の再確認であり、好意の持続の証だった。もちろん彼女のサポートは幹生だけに対する特別なものではなく、キャップとして他のスタッフにもしている彼女の職務だと捉えることもできた。しかし自分に対しては特別に手厚いと幹生は受けとめていた。例えば幹生が担当する期間内のある日の時間割を、幹生が作業に取りかかる前に、彼女が時間割変更依頼に従って既に動かしてくれていることが何度かあるのだ。その日が特別変更が多い日というわけでもなく、もちろん要請もしていないのにだ。こんなことは他の者が担当の時にはしないだろうと幹生は思うのだ。その思いは幹生の心を擽る。自分と彼女との関係はもう一段進むことになるのではないかと空想させたりする。しかし、待て、待て、と彼は思う。彼女と蜂須賀とのつながりが幹生の熱を冷ます。広木は彼女が蜂須賀の車に乗り込むのを何度か見たと言う。「あの二人は不倫してますよ」というのが広木の観測だ。彼女は独身だが、蜂須賀は妻帯者だ。それは有り得ると幹生も思う。そうだとしても別に構わないと彼は思う。幹生も妻帯者なので、彼の気持自体も不倫を孕んでいるのだ。彼女が自分に優しくしてくれる、好意をもってくれている。そう思えるだけで幹生は満足できるようだった。


 広木の話を聞いた幹生は、奈良井の転落に関して、蜂須賀に兄事していた奈良井は蜂須賀の不倫まで見習ったのではないかと後になって思った。


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