7 ときめき
幹生が彼女の好意を意識するようになって既に数年になる。今では彼女は学校において幹生に慰藉をもたらす稀少な存在であった。
彼女は幹生より一回り以上年下だったが、職場歴は幹生より長かった。幹生が今の学校に採用された時、彼女は既に唯一の女性教師として職員室に居た。女性の職員は他には養護教諭と、事務職に三人居るだけだった。男子校で、七十名ほどの男子教員に囲まれ、彼女は職員室に唯一人の女性として存在した。男子教員から注目され、意識されるのは当然だった。その関心は彼女自身に即したものというよりは、やはり稀少な存在という意識によるものだった。学校に入って以来、幹生は彼女とは所属学年も校務分掌もずっと異なっていたので、会話を交わすことも殆どなかった。幹生は離れた位置から彼女を眺めていた。彼女は幹生とは疎遠な教員グループに加わり、その中で生き生きと動いているようだった。幹生は彼女が女性であるということを除けば、彼女にさして関心はなかった。彼女が交わっている教員グループの存在も幹生を彼女から遠退かせる、あるいは幹生に彼女を縁遠い存在と感じさせる要因だった。
彼女は別教科の教員だったが、蜂須賀や奈良井、その他の国語科の教員と親しくつきあっていた。彼らはランニングを共通の嗜好としていて、休日には連れ立って市民参加のハーフマラソンなどの催しに参加していた。彼女は特に蜂須賀と親しかった。職員室ではよく蜂須賀の側に行って話しこんでいる姿が見られた。ある時、幹生に、隣席にいた(その時も!)頃末が、「あれ、どう思います」と不意に問いかけてきたことがあった。頃末の視線の先を見ると、彼女が椅子に座った蜂須賀の肩を、背後に立って揉んでいるのだった。「あんなことは職員室ではしない方がいいですよね」と頃末は眼鏡の奥の目を光らせて言った。その腹立たしげな口吻に、おや、嫉妬しているのかな、と幹生は思った。日頃、話を交わすこともない頃末が、なぜ自分にこんなことを言うのだろうと幹生は思った。誰かに言わずにはおれなかったようだった。彼女は国語科の教科旅行にも参加してきた。旅館に一泊した翌朝、起床時間直後に、蜂須賀の携帯電話に彼女から連絡が入り、二人は朝食前に宿の周囲をランニングしたりした。彼らのグループは連休には温泉などにも泊りに行くようだった。そんな時はドライブの好きな頃末が行く先や宿のプランを立て、自分の八人乗りのバンに彼らを乗せて行くのだった。そんな旅で頃末は蜂須賀と彼女の親密ぶりをよく目にするのだろう。彼の口吻には、いい加減にしてくれ、というニュアンスがこめられていた。
彼女は美人ではなかった。しかし、全体的な印象としては美しく感じられた。痩身で、どちらかと言えば地味な服装をしていた。彼女が美しい印象を与えたのはやはりその稀少さが大きな要因と思われる。男たちの視野にただ一人存在する女は、いわば美化されて目に映るのではないか。そしてその唯一人の女に対して、男たちの対応は甘くなる。自分をよく見せたい、よく思われたいという本能的な心理が作用する。男たちはいわゆる鼻の下を長くするのであり、女はチヤホヤされるのだ。彼女もそれを経験したはずだ。幹生もそんな男たちの一人だった。職場の外には女はいくらでもいると、ともすれば彼女の存在を過大に見てしまう己の心理を幹生は嗤ったものだ。
幹生が記憶する彼女との初めての接触は、出勤の電車を降りた駅のホームで生じた。彼女が幹生に近づき、一緒にタクシーで学校まで行きませんか、と声をかけてきたのだ。幹生はその申し出を、いや、私はバスで行きます、と断った。幹生が覚えているのはその一瞬だけだ。前後は一切消えている。もう十数年も前のことだ。彼女もその頃は電車通勤だったのかと幹生は思ってみたが、そうだとすればホームや電車の中で彼女を見た記憶がもう少し残っていてもよさそうなものだ。幹生が知っている限り、彼女は現在までずっと車通勤だ。恐らくその日だけ、車検か何かで車が使えず、電車で通勤したと考える方が事実である確率は高いだろう。
幹生は駅からスクールバスに乗ることにしていた。当時はスクールバスに乗る教員は殆ど居なかった。現在は幹生の他にも、教員、事務職員併せて四、五人が利用している。スクールバスは学園の女子部に在籍する生徒の通学用に運行しているもので、教職員はそれに便乗する形だ。同僚の車に乗せてもらって通勤する教員もいたし、幹生も誘いを受けたことはあったが、そうした便宜のために取り結ぶ交際というものを幹生は潔しとせず、断った。
恐らくその日車が使えなかった彼女は電車で通勤した。駅から学校までは、彼女はタクシーに乗るつもりだった。ホームでたまたま幹生を見かけた。黙って見過ごすこともできたが、声をかけるのが親切だろうと彼女は思った。タクシー料金を幹生と割り勘にしようという気はなかったろう。それはいつも男性教員に囲まれている彼女が、彼らの一人に示す気配りといえるものなのかも知れなかった。あるいは親しくつき合っている国語科の中で、一人疎遠である幹生への気遣いなのかもしれなかった。
幹生は即座に断った。あるいは反射的に断った。そんなふうに彼は記憶している。記憶を辿れば、その時の心事もしだいに蘇ってくる。幹生にとってはその誘いは先ず驚きだった。悪い気はしなかったはずだが、次に彼を捉えたのは警戒であり、身構えだった。警戒はやはり彼女が交際しているグループに関係していた。そのグループに属している教員に幹生は人間的関心や共感を全くと言っていいほど抱かなかった。何より彼らの抱く価値観や思想が自分のそれと全く対立していることを幹生は意識していた。思想的に共鳴するところのない人間に対しては、あらゆる関心が消えてしまうというところが幹生にはあった。そんな人々と幹生との間に残される関係は、いつでも敵対に転化する可能性を持つ疎遠さであり、あるいは敵対を既に孕んでいる疎遠さだ。そういう人々と親しくつき合い、そのグループの一員になっている彼女は、幹生にとってはやはり敵対的に疎遠な存在だった。
その彼女がなぜ声をかけてきたのか。その意図を思い遣るというのが幹生を捉えた警戒だった。
男の教員にチヤホヤされて、いい気になるなよ、という意識もそこに働いていたのかもしれない。自分が誘えばすぐに乗ってくると思って声をかけてきたのではないか。そうはいかない、俺を甘く見るなよ、という意識。そしてもう一つ、スクールバスに乗るという教員としては殆ど幹生一人が行っている行為への固執。スクールバスに乗ることは幹生にとって、孤立を恐れず合理性を貫くという生活信条の実践でもあった。バスに乗れない男子部の生徒は満員の女生徒の中に一人居る幹生を冷やかし、あるいは嫉視した。教職員たちは車に同乗させてくれる同僚もいない幹生の孤立ぶりをそこに見ていた。幹生はそんな周囲の目の圧力に耐えてバスに乗り続けていた。彼女の目にも幹生のバス乗車はそんな不都合を含んだものとして映っており、だからこそ声をかけてきたのかもしれなかった。幹生は彼女の申し出を断った後、一緒にバスに乗ろうと言えばいいのに、と思ったことを記憶の中から最後に取り出した。
その後長く、幹生と彼女の間には数語の会話すらなかった。幹生が彼女の存在を特別に意識することのない十年ほどが過ぎた。その間に女性の教員も増えた。新入りの女性教員たちは彼女より若かった。女性教員たちはすぐ仲良くなった。その輪の中心に彼女がいるようだった。〈唯一の女性教師〉ではなくなった彼女の存在が目立たなくなったのは事実だった。
そして、数年前から、幹生と彼女が二人きりになる場面が増えだした。その場所は、先ずは湯茶室。湯茶室と言っても、片側にいつも開かれた状態のドアがあるだけで、シンクと、ポットやコーヒー・メーカーなどを置いてある台の前の通路に過ぎない。職員室に向かう広い通路から直角に折れて(その入口が常時開かれた状態のドア)、事務室に通じる通路であり、そこを過ぎるとまた直角に折れるので、死角となって、そこに入らないとそこに居る人間は見えない構造になっている。それで部屋のような雰囲気を醸していた。
湯茶室で幹生が茶を淹れていると、彼女が入ってきて、湯呑みを洗ったり、コーヒーをカップに注いだりする。あるいは幹生がコーヒーや茶を汲みに湯茶室に入ると、そこに彼女がいて、コップを洗っていたり、茶を淹れたりしている。昼食のカップ麺に湯を注ぎに湯茶室に入ると彼女が居たり、あるいは後から入ってきたりする。退勤前、一日使ったカップを洗い、水切り籠に納める折に彼女と出会うこともある。いずれも長い時間ではない。長くて一分程だ。しかし、二人だけの時間だ。幹生は彼女に話しかけてみようかと思う。だが、日頃接触がないので、何を話したらいいのか分からない。一般的な話をすればいいのだとも思うが、話柄として何を選べばいいのか分からない。だから、二人は沈黙したまま、それぞれの作業をして、済めば離れるというのが殆どだった。第三者が入ってくれば、二人だけの「緊張」のようなものは忽ち霧消した。
次いではエレベーターだ。幹生がエレベーターのボタンを押して待っていると、彼女が現れて、彼女もエレベーターを待つ。あるいは幹生がエレベーターに乗って、ドアを閉めようとすると彼女が現れ、「すいません」と言って乗りこんでくる。エレベーター内は完全に二人だけの密室になる。ここではさすがに言葉を交わさざるを得ない。幹生は無難な話題を口にし、彼女はなめらかにそれに応じる。ここでも第三者が現れれば、二人の間に流れていた、ある「雰囲気」のようなものは忽ち雲散する。その時、淡い落胆が幹生に生まれるのは事実だった。
もう一つは廊下。授業のために職員室を出て、教室へ向かう廊下、あるいは授業を終えて職員室に戻る廊下で幹生は彼女を見る。彼女は幹生の前を歩いている。間に他の人間はいない。幹生の三、四メートルほど先を彼女は歩いている。彼女は急がない。従って幹生の歩度も上がらない。幹生の目は歩く彼女の後ろ姿を眺める。それを存分に見せようとするかのように、彼女は幾分俯いて決して急がない。彼女が自分を意識していることを幹生は感じる。追いついて、何か話しかければいいかなと思うこともある。この「駆け引き」のような心情も、第三者が接近すれば忽ち消えてしまう。
いずれも偶然と言えば偶然である。しかし、ある時、幹生は頻度が少し高過ぎると感じた。二日に一回は二人だけの時間が訪れた。幹生が湯茶室に向かおうとすると、彼女が一足先に湯茶室に入るのを目にする。授業に行こうとして職員室を出かかると、前を彼女が歩いている。エレベーターに近づくと、彼女がその前に立っている。幹生は、ほう、また彼女と二人だけだ、と思う。それは秘かに幹生の気持をときめかせる思いだ。偶然なのか。いや、彼女の故意ではないか。そう思うことがまた幹生の心を擽る。二人だけの時間の実在は幹生の中に彼女をしっかりと存在させることになった。
しかし、なぜなのか。彼女は自分に関心があるのか。幹生は彼女の気持を忖度した。もしかしたら自分に好意を抱いているのではないか。そう考えていて、駅のホームでの彼女の誘いかけを幹生は思い起こしたのだ。あれも好意から生まれたもので、あの頃から彼女は自分に好意を抱いていたのだろうかと。
彼女は年賀状を断続的に幹生に
それは夏休みの課外授業が行われている時のことだった。幹生は夏はノーネクタイで勤務する。もともとネクタイは嫌いだった。「クールビズ」ということが言われ、首相や閣僚などがノーネクタイでテレビに出るようになって、幹生もノーネクタイ姿での勤務がしやすくなった。課外授業中とは言え、夏休みはやはり幾分かの解放感がある。幹生はその日、柿色のカッターシャツに、白の綿パンという扮装で学校に出てきていた。行楽に出かける時のような服装なので、目立つかなとは思ったが、いつもの開襟シャツのノーネクタイ姿をもう少し自由にしてみたつもりだった。一日に二コマある授業を終え、そろそろ帰ろうかと思っている時、幹生はエレベーターの扉の前にいる彼女に会った。彼女はエレベーターを待っており、幹生は職員室に向かってその傍らを通り過ぎようとしていた。二人は目を合わせ、会釈した。その時、彼女が、
「先生は日頃体を鍛えていらっしゃるから、そんな服装が似合いますね」
と言った。幹生は「えっ」と言って、「そうですか」と応じた。
「とても見映えがします」
と彼女は言った。幹生は彼女が自分の扮装をほめたと知って、嬉しくもあり、少し照れもした。何と返したらいいのか彼は一瞬迷ったが、素直に感謝を表すのが一番と考え、少しおどけ気味に、「ありがとうございます」と声を高めて言い、頭を下げた。彼女はにっこり笑い、頷いた。二人はそれで別れたが、幹生の胸に温かいものがじんわりと広がっていった。彼女の優しさ、気遣いが伝わっていた。それは自分への好意を明確に示したものと幹生には思われた。彼女も既に若くはないにしても、一回り以上も年下の女性が、こんな言葉を五十代の半ばを過ぎた自分にかけてくれるのは相当の好意であると幹生は思い、有難く思った。
幹生は退勤後、週に一度ほどスポーツクラブに通っていた。それはもう二十年以上続く習慣だった。プールで泳ぐのが主だったが、ヨガやピラティスなどのレッスンも時折り受けていた。彼女が「日頃体を鍛えていらっしゃる」と言ったのは、それを知っているからだった。自身もランニングをしている彼女から、スポーツをしている成果を認められたことも幹生には嬉しかった。
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