4 露顕(2)

 幹生の授業の後は担任の吉崎の授業だった。吉崎がクラスに行くとSが居なかった。吉崎が事情を訊くと、生徒達はわからないと答えた。吉崎の授業の間、Sは教室に戻らなかった。

 吉崎は緊張した顔つきで職員室に帰ってきた。

「Sが居ない」

 と隣席の教師に言って、

「何かあったみたいだ」

 と言った。

「トイレや自習教室を捜したけどいない。家に帰ったのかもしれん」

「鞄は? 」

 隣席の教師が訊ねた。

「教科書やノートはそのまま置いている」

 と吉崎は答えた。

「どうしたのかな」

 と隣席の教師が呟いた。二人の会話を聞いていた幹生は、これはやはり言っておくべきだと考えた。

「Sが居ないの? 」

 と幹生は吉崎に問い、自分の授業時間に起きたことを手短に吉崎に話した。

「そうですか」

 と吉崎は応じ、

「やっぱりKだ」

 と呟いた。「よし、呼び出そう」と彼は言った。吉崎はSの自宅にも電話を入れた。事情はまだ分からないが、Sが教室から姿を消していること、捜しているが見つからないこと、もし帰ってきたら学校に連絡してほしいこと、詳しい事情が分かったら、また連絡すること、などを吉崎は謙った、丁寧な言葉遣いで保護者に告げた。


 幹生は授業中に起きたことを担任に伝えたことで、当面の責任を果した気持になっていた。一方で、事件に自分が巻き込まれつつあるのか、という不安も覚えていた。彼はもしこれが何らかの問題となった場合、自分に問われる責任について考えてみた。彼自身が直接に責任を問われるようなことにはならないように思われた。


 吉崎はKを含む数人の生徒を呼び出して事情を聴取した。幹生の授業が終った後、KはSの席に行き、周囲の机を寄せてSを逃げられないように囲み、Sを殴った。何度か殴られて、Sは泣きだした。Sが自分の弟が一年に居ることを認めたので、KはSを放した。Sは教室を出て、戻ってこなかった。以上が事情聴取から明らかになった事件の概要だった。


 Sの弟については経緯があった。Kは一年生の中にSの弟がいるという噂を聞いて、それをSに質した。Sは否定した。その後、やはり一年生の中にSの弟がいる、顔がよく似ているという話をKはクラスの仲間から聞いた。Kは再度Sに確かめたが、Sはやはり否認した。そして、事件の日の昼休み、K達は食堂でSの弟を目撃した。顔がよく似ているので間違いないと思ったが、念のため、一人が側に近づき、名前を確認した。Sの弟だった。K達はすぐSを囲み、詰問した。Sは逃げ出した。それから幹生の授業に続くことになる。


 暴力事件であり、イジメでもあった。しかし問題はすぐには生徒指導部に上げられなかった。学年内部の問題として処理しようという動きがまず起きた。その動きの中心にいたのが潮見だった。


 潮見はそのクラスの昨年度の担任だった。二年の担任は三年に持ち上がるのが通例だが、潮見は今年度はそのクラスを離れ、私立文系の優秀クラスの担任をしている。それは特進クラスに準ずるクラスだった。昨年、その優秀クラスの担任だった教師は、今年度はクラスを持たない副担任になっている。幹生がその教師に担任を希望しなかったのかと訊くと、そんなことはないと答えて、納得がいかないというように頭を振った。二年前の幹生と同じ事態だった。そのクラスには長欠の生徒が一人いたが、それは脳脊髄膜の障害によるもので、担任に責任はない。他にこれといった問題は起きていない。なぜその教師が担任を外され、潮見に替ったのかは不分明だ。一方、潮見に替って担任になった吉崎は他学年から移ってきた。吉崎はサッカー部のコーチをしている。顧問は潮見だ。吉崎はこの学校の卒業生で、在校時はサッカー部に入っていた。その当時も顧問は潮見。つまり潮見と吉崎は師弟の関係にある。しかも二人は同一教科の教員だった。二人を包む二重、三重の上下関係から吉崎は〈潮見の子分〉と囁かれていた。潮見は自分が持っていたクラスを〈子分〉の吉崎に引き継がせ、自らは準特進クラスの担任に納まった。背後に潮見の操作が臭う人事だった。

 潮見は学年主任を巻き込んで、事件を学年内部で処理しようと動いたが、イジメも臭う暴力事件という事柄の重大さに、それはさすがに成功せず、事件は生徒指導部に上げられ、調書が取られ、職員会議で処分が審議されることになった。


 幹生は生徒指導部長の松木に、「先生、大変やったね」と声をかけられ、事件が起きる前の、幹生の授業中の様子を聞かせてほしいと言われた。応接室で松木と向き合い、幹生は出来事をそのまま語った。松木は聞き終わると、幹生に添うような調子で、「私も去年、あのクラスを教えたけど、騒がしい、落着きのないクラスだった。何人か激しく叱ったことがある」と言った。そして、昨年も暴力事件が起きていたことを幹生に告げた。「潮見さんが隠していた」と声を低くしてつけ加えた。KがSを傘で突き、Sが教室から逃げ出したという。潮見はSの親に平謝りにあやまり、許してもらったが、その時Sの親は「三度目はないからな」と言ったという。今回の件についての生徒指導部の会議で出てきた話らしい。「三度目」と言うからには、それ以前にもその種の事件は起きていたのかと幹生が訊ねると、松木は「そうらしいよ」と頷いた。潮見はそんな出来事を皆隠蔽してきたのだ。Sは過年度生であるらしい。自らその事をクラスで明かし、年長者ということで、自分を〈ロード〉と呼ぶように言ったという。それが裏目に出てイジメのターゲットとなったようだ。


 松木は学校の教員の中で、幹生と考え方に合うところのある数少ない教員の一人だった。生徒の自主性や自立性を重視する点で幹生と通い合うのだった。学校の教員で幹生が真面目に教育を語れる相手は、広木を除けば松木だけだった。広木とは学校外で語ることが殆どだったが、松木とは学校内が殆どだった。教員同士が教育を語り合うという場面は学校では絶無に近かったから、幹生と松木は珍しい光景の提供者だった。無論松木の考え方は学校の主流の考え方ではなかった。そんな人物が生徒指導部長になったのは異例だった。〈クー・デタ〉に関連するこの間の目まぐるしい管理職の交代は、部長レベルでこんな人事を現出させていた。


 幹生は松木からSの書いた調書を見せられた。それには、「Kが側に来て、『このっ』と言って胸を叩いた。早瀬先生が、『お前、Sを叩いたのではないか』と訊いたが、Kは『叩いていません』と答えて、それで終った」と書いてあった。幹生は自分の対応をSがきちんと書いていることに強い印象を受けた。やはりあの時、Kに確かめていてよかったと思った。自分が他の教師に語ったことの証が立ったような気がした。そして、あの時、もう一歩踏み込んで、Sにも確認の問いかけをやはりすべきだったと悔いた。それができなかった自分の臆病さを思った。「それで終った」と書いているところにSの無念さが出ているように感じた。松木は最後に、「職員会議では先生にも話してもらうことになるかもしれないので、よろしく」と言った。


 松木の話を聞いて、幹生はこの事件の背景が見えてきたように思った。KのSに対するイジメは昨年から続く根の深いものだった。やはり潮見のクラスはそんな陰惨なものを孕んでいたのだ。生徒管理力を評価されている潮見だが、どうやらKをコントロールすることができなかったようだ。それで担任を変ったのではないか。クラスの運営に展望を失ったのだ。三年まで持ち上がれば大きなトラブルを抱えこみそうな危惧を抱いたのだ。幹生は潮見の心事を推測した。それにそのクラスの担任を三年まで続けても国公立大学に合格者を出す成果は望めない。私立文系の優秀クラスならその可能性はある。生徒管理力だけでなく、大学進学でも成果を出して、運営委員会入りを狙う潮見にとって画策すべき機会だった。自分の後釜のクラス担任には、自分を批判することは絶対にない吉崎を据えれば磐石ではないか。


 幹生は学年きってのワルとして聞こえていたKに対して、どんな生徒なのかと昨年から関心を抱いていた。学年集会などの機会にその顔を探した。見つけたKは、その目が一種躁的な活力に満ち、なるほど一筋縄ではいかない生徒だなという印象を与えた。潮見の手腕もKをどう扱うかに表れるだろうと思っていた。Kに関する不祥事が起きないので、潮見はKをうまくコントロールできてるのかと思っていたが、そうではなかったのだ。


 二年の終わりにあった修学旅行でも幹生はKの動きを注視しようと思っていた。そこに潮見の指導力やクラス経営の実情が表れるだろうと考えた。ところがKの姿はなかった。Kは修学旅行に参加していなかったのだ。理由を訊いてみると、「家庭の事情」ということだった。しかし、KのSへのイジメを知った今、修学旅行へのKの不参加の事情もいろいろと推測されるのだった。潮見は修学旅行中にKのSに対する三度目のイジメ・暴力事件が起きることを何よりも懼れていたに違いない。それでKに対して事前に厳重な注意・警告を行ったと思われる。あるいはSの方が不参加を申し出てきたのかもしれない。Kがいるので不安だから参加しない、と。Sの保護者が、Sに対するイジメは旅行中絶対に起こさせないという確約を求めてきたことも考えられる。いずれにしてもKをいかにコントロールするかが鍵となる問題だった。潮見の本音としてはKの不参加こそ最も願わしいことだったはずだ。それが実現したのだ。だからKの不参加には潮見の作為が臭うのだ。もし修学旅行中にKのSに対する暴力事件などが起これば、Sの親はどんな手段を使って抗議してくるかわからないので、Kの退学は避けられないと潮見が話し、Kの親に不参加を説得したとも考えられる。そして表向きは「家庭の事情」で不参加という形にした。


 いずれにしてもKをコントロールできなかった潮見は、Kという爆弾を抱えたクラスからの離脱をはかったのだ。


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