3 露顕(1)

 幹生の今年度の担当クラスではなかったが、潮見が昨年度一年間担任をしていたクラスに幹生は急遽教えに行くことになった。担当予定の講師が年度が始まっても見つからず、講師が見つかるまでの代行だった。それは私立文系のクラスで、クラス編成の学年会議では問題児が集っていると取り沙汰されたクラスだった。それで担任は生徒管理の力がある教員ということで潮見に決まった。幹生はそのクラスに昨年は行かなくてすんだ。潮見のクラスを担当しないと分かった時、幹生は幸運と思ったものだ。理由としては潮見のクラスの生徒には手のかかる者が多いということも確かにあった。が、もう一つ、潮見が担任であることが煩わしいのだった。幹生は潮見を嫌っていたので、潮見を煩わしく思うのは当然だったが、それを抜きにしても、教科担当が忌避したくなる面が担任としての潮見にはあった。生徒管理が好きな潮見は教員の管理も好んだ。彼は自分のクラスに教えにくる教師をチェックするのだ。もちろん最初は低姿勢だ。「うちのクラスはどうですか」というような形で訊いてくる。「うるさいです」などと答えれば、「誰ですか、しゃべるのは」と訊いてくる。名前を告げると、「わかりました。注意しときます」とその場は引き下がるが、後日、「〇〇はどうですか、その後は」とまた訊いてくる。「あんまりよくないですね」と答えると、「そうですか。本人はちゃんとやっていると私には言うんですがね」と応じる。そうして状況を細々と訊いてくる。どういう時に、どんな風にしゃべるのか。それに対してどう注意したら、どのように反応したのか、などと。馬鹿正直に答えれば、潮見はそれに対して、「そうですか、注意が心に届いていないんですね」とか「自分のどこが間違っているか、生徒が分かっていないんですね」とか批評を始める。それは暗にあなたの注意の仕方に欠陥があるのでは、と言っているようである。そして、最後には「先生、こういうふうにやってもらえませんか」と要求を出してくる。つまり、結局は教科担当の生徒指導の仕方がチェックされ、こうしなさいと指示されるのだ。生活指導だけではなく、学習指導も潮見はチェックする。定期考査の成績が芳しくない教科があると、潮見はその教科の担当に注文をつける。なぜ成績がよくないのかと彼は教科担当に訊ね、理由を質す。問答を経て、前述の注意を聞かない生徒の場合と同様に、結局、潮見がこうしてくれ、と要求を出すことになる。英語なら単語テストを毎日やってくれ、とか、国語なら内容理解のための小テストをこまめにやってくれとか。他教科の学習指導についてこれだけ口を差し挟む厚かましさに幹生は呆れるとともに辟易するのだ。


 潮見のこうした教科担当チェックは担任としての自衛策でもあった。頃末などのように、教科担当によっては生徒の授業中の態度の悪さについて担任に文句を言ってくる教員もいる。また平均点が低いなど成績の悪い教科があると、生徒の進級について担任が苦労することになる。そういう事態を予防する意味合いがこの行為にはあった。

 

 潮見が一年間担任をしていたクラスに行ってみると、幹生が予想していた通り、私語の多い、落着きのないクラスだった。三分間も黙っていられない。学習意欲に乏しく、授業に耳を傾ける気など少しもないという生徒が半数ほどに及ぶ。やっぱりな、と幹生は思った。潮見のようなタイプの担任の下には往々にしてこのような雰囲気のクラスが形成される。潮見は言ってみればその学級に王として君臨しようとする教師だ。彼が命令を発し、生徒たちはおとなしく従うという関係こそ彼が目指す学級像だ。潮見は生徒に自主的な思考や判断は求めない。生徒はロボットでいい。潮見は生徒に学習活動から学校生活の細々とした点にまで指示を与える。そして、説教や叱責、罰などでその遵守を迫る。生徒としては雁字搦めの感覚を抱くはずだ。その通りにやっていたら息が詰ってしまう。それで適当に手を抜くことを覚える。潮見の顔を読み、どの辺まで対応していればよいかを学ぶ。潮見の圧迫下、息抜きを求める生徒の気持は様々な逸脱として表れる。授業の騒がしさもその一つだ。幹生のような生徒管理の甘い教師の授業は息抜きの時間となる。これが潮見のクラスの生徒には手のかかる者が多いということの理由だ。


 騒がしさの中心にいるのは予想通りKだった。問題児が集っているとされるクラスだが、その問題児たちの首領格に目されている生徒だ。Kは全く落着きのない生徒だった。間断なく他の生徒に話しかける。注意をすれば簡単に「すいません」と謝る。ところが、その目には少しも反省の色はない。むしろ挑戦するように見返しているのに、口では「すいません」と言うのだ。そして一分も経たないうちにまた他の生徒に話しかける。それも遠慮のない声の大きさで。幹生は「おい、K、話をやめて集中しろ」とたしなめる。「はい、すいません」とKは答える。「お前は注意すると、すいませんと言うが、少しも反省していないな」と幹生は語りかける。Kは、「いや、反省しています」とケロリと言う。「何度注意しても話をやめんじゃないか」と言うと、「黙ってましたよ」と答える。そして、これ以上何を求めるんだ、というように、目に苛立ちと挑戦の色が浮かぶ。どうしようもない奴だと幹生は思う。若い頃の幹生なら、ここで怒鳴り声を上げていただろう。叩いていたかもしれない。幹生は平静を維持して、「黙っていた? いつだ? 」と苦笑を浮かべて訊き返す。するとKは「さっき」と答える。「ほう、そうか。そんならそのさっきをずっと続けんか」と幹生は応じた。Kは「はい」と答えた。その返事に少し素直さが感じられたので、「授業に集中して何の損もないはずだ。成績は上がるし、親は喜ぶし」と幹生は言葉を添えた。Kは取り澄ました表情を作り、「そうですね」と返したが、その声音には既に素直さは失われていた。

 

 注意が通じないKのような生徒に、幹生は現在の社会の荒廃、教育の荒廃を強く感じる。このような生徒には言葉が通じないのだ。言葉に籠められた人の心が受けとめられないのだ。言葉と心とが分離されている。だから心にもない「すいません」という言葉を連発できるのだ。表面的な形だけを重視して中身を問題にしない現在社会の風潮がそこに表れていると幹生は思う。テレビのバラエティー番組などで展開される軽薄な言葉のやり取りなども影響しているだろう。ああ言えばこう言う式に言い返してくるのも、Kを始めとしてそのクラスの生徒の特徴だった。これも現在の生徒全般に見られる傾向であろう。中身の伴わない言葉のやり取りに現在の生徒は馴らされているのだ。そう思うとともに幹生は、潮見の影をそこに見ていた。責めてくる潮見の理屈に追い詰められないように、生徒たちは自衛策としてもそんな対応を身につけたのではないかと思うのだ。


 潮見の管理の下で、生徒たちの学習に対する自主性は大きくそこなわれている。それをどう回復するか。幹生はそこに生徒への対応の基本を置いた。生徒に語りかけ、問いかけ、学習の主体として育てていかなければならない。時と所を構わずしゃべる、あるいは居眠りする生徒が相手だった。教壇から、あるいは机間を巡って、「前を向け」「話をやめろ」「頭を上げろ」と声をかけていく。机にうつ伏して寝ている生徒は肩や背中を叩いて起こす。頭は叩かない。頭は大切な場所だ。頭を上げた生徒には二言三言、言葉をかける。こういう場合、寝ている生徒の頭にいきなりゲンコツを入れる教師がいる。なるほど、そうすれば生徒もおちおち寝てはおれまい。即効性というやつだ。頃末などはこの伝だ。しかしそれは学習に対する生徒の自主性を育む行為ではない。言葉によって生徒の心の中に学習への意欲を呼び起こすのだ。人間の自主性・自発性を喚起するのに強制的手段は不要だ。他律的な自主性などは形容矛盾だ。

以前は幹生も体罰などを用いてきた。理想は理想、現実は現実という割り切った意識だった。しかし、定年まで残すところ数年という現在になって、自分が願っていた教育をやってみようじゃないかという気持が強くなってきた。もちろん自信はない。実績もない。環境的にも不安だらけだ。この学校は管理主義に立つ教育を行っている。生徒を外側から縛り、規制するのが指導の基本スタイルだ。教員もそのタイプの者が殆どだ。潮見はその典型とも言える。幹生のような考え方をする教員は皆無に近い。しかも幹生は教員のなかで孤立している。支援者はいない。それどころか潮見のような批判者が既に存在している。しかし、教育が人間を育てる営為であり、人間の知的活動が自主的な意思を基盤とするものである以上、教育の方法は生徒の内面に働きかける方法しか有り得ないと思うのだ。


 Kは毎回の授業で依然として騒がしかった。このクラスの授業の成否の鍵は間違いなくKにあった。授業の最大の妨害者であるKを、どのようにして授業のなかに引きこんでいくか、それがポイントだった。Kと連動してよくしゃべる四、五人の生徒がいる。彼等は席が離れていても無遠慮に声を掛け合い、会話をする。教師にとっては自らの存在を無視されたと感じる腹立たしい行為だ。それでも、話をしている者を注視すると会話を止める。そういう時も、幹生には生徒を睨んで威嚇しようという意識はない。また、そんな意識は持つまいともしている。しゃべっている生徒に目がいくのは、よくしゃべるうるさい奴だなと思って自然にその生徒を見るのだ。注視だけで生徒が黙ると、幹生はそこにその生徒の善良さを感じた。Kとは問答をしなければならない。Kは名指しで注意されると意外だというような表情をする。そして苦笑を浮かべる。恐らくKを名指しで注意する教師は少ないのだろうと幹生は推測する。それが幹生のような〈シャバイ(弱い)〉教師が名指しで「話をやめろ」などと言うので苦笑するのだろう。「はい、すみません」などとおどけて応じる。これで終ってはいけないと幹生は思う。Kになにか心に残ることを、自分の態度を省みるきっかけとなるような言葉を言わなければならないと思う。「何のために学校に来ているのだ。授業料に見合うものを持って帰れよ」と幹生は声をかけた。幹生はこういう時、あまり構えたことは言わないようにしている。自分のその時の気持に自然であることが最も大切だった。その上で生徒にインパクトを与える言葉であれば申し分なかった。幹生の言葉にKは笑顔を見せた。


 静かにしている生徒たちにも学習意欲はあまり感じられない。その生徒たちにも私語はすぐ飛び火する。Kと、Kに連動する四、五人の生徒が火の粉を飛ばす。静かに授業を受けているように見えた彼らだが、話しかけられればすぐにそれに応じる。いつでもスタンバイOKという感じだ。そして話を始めると傍若無人にそのなかに没入してしまう。教師も授業も眼中にないという態度だ。このクラスの生徒たちを眺めていると、心のなかの何かが壊されていると幹生は感じる。なげやりな感じが漂っている。物事に真剣に向き合うという気持の張りが砕かれてしまっているように感じられるのだ。


 こういう生徒には力による圧伏しかないと考えがちだ。教師をナメテいるのだから教師の力を思い知らせてやればいいと。潮見はそのように対してきたはずだ。そしてその結果がこうなのだ。


 内面からの向学心を育むことなく強いられる課業は、学習意欲の源泉を枯らし、勉学への忌避・嫌悪を植えつけてしまう。生徒は出来るだけ手を抜くことを考え、しかも罰は免れようと抵抗する。自分の落度を責められると、あれこれと自己正当化の理屈を並べて抗弁する。さらには教師の裏をかこうとする。教師を観察し、その隙や弱点を突こうとする。教師の言葉を素直に受取らず、その裏を見るようになる。こうして教師と生徒の間に不信の壁が出来てしまう。生徒が素直さ、純真さを失っていくに比例して、物事に真面目に取組む意欲は失われていく。生徒は心のエネルギーを喪失していく。このクラスに漂う無気力でなげやりな雰囲気はそのようにして生まれたのだ。


 教師の抑圧下で心の伸びやかさを失った生徒たちは常に苛立ちと不安のなかにいる。内心の充実感・充足感がないことで欲求不満や情緒不安に陥る。その不満や不安を解消するためには何か面白いことが必要だ。手っ取り早く面白いのは人をからかうことだ。クラスメートの誰かがターゲットになる。やがて幹生はKたちが一人の生徒をマークしていることに気がついた。


 その生徒を幹生が指名して、答を求めた。すると答えられない。それはその生徒に限ったことではない。質問すると大抵の生徒が沈黙する。それで幹生は答を促すために、考え方のヒントや助言を与える。幹生が生徒に話しかけながら机上を見るとノートがない。「お前、ノートがないのか」と問うと、「ありません」と答えた。「何でないんだ。昨日板書した問題に今質問している問題は関係している。ノートをとっておれば、そこを見れば参考になるんだがな」生徒は黙って幹生の顔を見上げている。「ノートを作っておけよ」幹生はそう言って、「いいか」と念を押した。生徒は黙って幹生の顔を見上げたままだ。その時、

「ロード、わかったのか。わかったらちゃんと返事しろよ」

 とKが声をかけた。すると、

「そうだ、ロード、ちゃんとノートを持ってこいよ」

 と、Kと連動してよくしゃべる生徒の一人が言った。幹生は苦笑を浮かべた。もちろん、K達はふざけて言っているのだ。ロードと呼ばれているSは黙ったままだ。すると、

「ロード、シカトか」

 とKが言った。

「シカトはよくないよ」

 と、今度は連動組の別の生徒が分別くさく言った。幹生はまずいな、と思った。

「静かにしろ」

 と幹生はたしなめた。その雰囲気から、SがK達にいじめられているのではないか、と幹生は思った。


 「ロード」という呼びかけを幹生は授業中何度か耳にしていた。それに対してSはいつも黙っているわけではない。笑顔を見せて応じることもある。Sも授業態度がいいわけではない。話をしたり、寝ていることもある。概しておとなしく、目立たない部類の生徒だった。


 その日、幹生の授業の開始に、Sは少し遅れて教室に入ってきた。するとKが、「ロード、はっきりしろ」とSに声をかけた。それを機にKの取り巻きのメンバー、二、三人が、「ロード、本当のこと言えよ」「いつまでもウソをつくな」と声を発した。どうしたんだ、と幹生は思った。

「俺、ぜったい白状さすけな」

 とKが興奮した口調で言った。何かあったな、と幹生は思った。

「おい、どうした。静かにしろ。さぁ、授業に入るぞ」

 幹生は声をかけて静めた。それから十分ほど経った頃、板書していた幹生は背後で鈍い物音を聞いた。区切りまで書き終えて振り向くと、Kが立っていて、自分の席に戻るところだった。授業中にKが席を離れたのは初めてだったので、幹生は少し驚いて、

「お前、何をしているんだ」

 とKに訊ねた。Kは答えず、席に座った。

「授業中に動きまわるな」

 と幹生は注意した。幹生は授業開始時のSに対するKの興奮、そして鈍い物音とKの動線から、KがSの席まで行って、Sを叩いたのではないかと思った。Sを見ると、下を向いていたが、これといって変ったところは見られなかった。これは確かめておいた方がいいと思った幹生は、

「お前、Sを叩いたんじゃないか」

 とKに訊ねた。

「そんなことはしていません」

 とKは答えた。「そうか」と幹生は応じ、それで追及をやめた。それ以上追及しても、ああ言えばこう言うKのことだ。本当のことは言わないだろうという思いがあった。Sに訊かなくてよいか、とも思った。しかし、幹生は躊躇した。何かあったとすれば関わり合わない方がよいという思いが幹生を制した。自分に責めが廻ってくるような事態を懼れる気持が動いていた。それ以後、Sに関しては何事もなかった。幹生は授業を終えた。


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