2 断章-3
「社会主義」を掲げる国が次々と崩壊していった。幹生にとって社会主義は資本主義を乗り越える理想だった。幹生の社会的理想は一言で表せば社会主義の実現だった。その社会主義を国是として掲げる国々の体制が一挙に崩壊していった。しかし、幹生は大して衝撃は受けなかった。それらの国々が社会主義の理想を体現しているとはとても思えなかったし、思ってもいなかった。それらはいずれも一党独裁の国であり、人民の諸権利の抑圧の上に成り立っている社会に過ぎなかった。そうした知見を幹生は得ており、批判もしていたので、そのような「社会主義」の崩壊はむしろ歓迎すべきことだった。
幹生が考えこみ、社会主義に対するそれまでの直線的な情熱が冷まされることになったのは、副次的に発生した出来事のためだった。体制が崩壊したために、権力が秘匿していた文書類が明るみに出始めたのだ。それには世界最初の社会主義革命を成功させたと讃えられるレーニンに関するものも含まれていた。公開された文書によれば、レーニンは自国民に対するテロルを指令していた。政権にとって有害と判断される者、反対者や批判者には容赦のない弾圧を指示していた。強制収容所はレーニンの時代に既に各所に作られていた。幹生は既存の「社会主義国」を批判していたが、そのような誤った社会主義を生みだした元凶はスターリンだと考えていた。スターリンはレーニンの死後、政権を掌握し、独裁者となった人物だ。スターリンがレーニンの後継者面をしながら、レーニンの路線をねじ曲げ、歪な「社会主義」を形成していったと考えていた。それで幹生はレーニンの短命を惜しみ、彼がもっと長く政権の座にあれば誤りは防止され、このような社会主義の末路は見ずにすんだのに、と考えていた。ところが事実は違った。スターリンが進めた国民に対する弾圧・粛清路線はレーニンによってその基礎が築かれていたのだ。スターリンはその意味では正しくレーニンの後継者だったのだ。
幹生の内部にあったレーニンについての神話は崩れていった。レーニンがシベリアの荒野に流刑になっていた帝政時代は、政治囚に対する監視、拘束は緩く、家族との面会や集会さえできたという。実際、レーニンはこの時期にクルプスカヤと再会し、結婚している。レーニンは弁護士の資格をもっていたが、その資格を生かして働いたことは生涯に一、二度しかなかった。亡命生活中は共に貴族であった自分と妻の二人の母親の物質的援助によって不自由もなく過ごした。労働者の圧制からの解放を唱えたレーニンは、自身は自らの労働によって生きる糧を得たことはなかったのだ。人民の中で、人民と共に働いたことのないレーニンは、人民には冷淡だった。彼は飢餓に苦しむ農民に何の同情も抱かず、農民から食糧を無慈悲に徴発した。
国家を階級支配の道具と見るマルクス主義の国家観に立って、国家権力とは即ち暴力と割り切ったレーニンは、その行使をためらわなかった。彼は権力奪取の直後から秘密警察を設置して、政敵の弾圧に着手した。
レーニンはマルクス主義を万能の理論として信奉したが、それを真に理解しているのは自分だけであると考えていたようだ。彼のメンシェヴェキ批判の苛烈さはそれを表している。もちろん人民大衆はマルクス主義に対しては無知であるので、マルクス主義を理解しているレーニンら少数の革命家によって指導されなければ、革命を起こすことも、それをやり遂げることもできないと彼は考えた。その革命家の組織が共産党であり、革命を引っ張っていく前衛だった。政党は共産党があれば十分なので、他の政党は全て弾圧した。こうして共産党の独裁が生み出された。レーニンはそれをプロレタリアートの独裁と称したが、労働者階級の意思とは基本的に無縁だった。共産党の独裁を正当化する理論はみなレーニンの神格化に寄与した。
幹生がマルクス主義の理論に初めて触れたのはレーニンの著作に於てであった。その著作の中に「国家の死滅」という言葉があり、幹生の関心を引き付けた。大学受験に失敗し、浪人生活を送っている間に抱いた被抑圧意識は、大学生になった後も残存していた。自分を抑えつけてくるものはいろいろあったが、国家はそのうちの最大のものではないかと幹生は考えた。その国家がなくなるとは何と素晴らしいことだろうと彼は思った。この出会いを機に、幹生はマルクス主義の文献を次々に読むようになった。だからレーニンは幹生を共産主義の思想に導いた人だった。幹生にとってもレーニンは人類最初の社会主義革命を成功させた英雄であり、偉人だった。レーニンは革命の栄光に包まれていた。
その仮面が次第に剥がれていった。表れてきた素顔は、自己絶対化と権力への欲望を漲らせた醜い相貌だった。
レーニンの亡命生活は長かった。彼は母親や妻など、彼に優しい心遣いを示す女性達とともに不自由のない亡命生活を送った。彼の社会生活の内実は図書館に通って資料を読み、マルクス主義に立脚する論文を書くこと、それによってロシア社会民主労働党の一方のリーダーとして、メンシェヴィキや、その他の党派を批判し、党のヘゲモニーを握ろうと努めることだった。彼の社会生活の範囲は狭かった。亡命者の閉鎖的な生活の中で、マルクス主義の革命理論の研鑽に努めることが彼の仕事だった。マルクス主義だけが真理であり、それを真に理解しているのは自分だけであるという意識を孤独な亡命者は培っていった。真理を知っている者は、その見地から周囲の人間を批判し、切り捨てる。彼の目から見れば、周囲の人間は皆真実を知らない愚か者に見える。彼は無意識的であれ、意識的であれ、周囲の人間を見下し、自己との間に一線を引く。権力が転がりこんできた時、レーニンを捉えた意識は、自己の絶対化と、自己=真理を理解しない他者の抑圧・排除だった。自己と権力さえあれば革命には十分だったのだ。
幹生に印象深かったのはレーニンに観取されるエリート意識だった。幹生にもマルクス主義だけが真理であり、それを真に理解しているのは自分を含めた少数の人間に過ぎないという意識を抱いて生きていた時期があった。それは短期間ではなかった。真理を知っている者に蔑視され、無視された周囲は、その人間を逆に批判するか、無視し返す。しかし、彼が絶大な権力を握った場合は、彼を崇め讃える他はなくなる。それがレーニンの場合だ。彼の人生が平凡のままに推移した場合は、彼は周囲からの批判や蔑視や無視の中に置かれたままになるだろう。自業自得だ。これが自分の場合ではなかろうか、と幹生は思う。だから幹生の人生の現在の孤独や孤立の淵源の一つはマルクス主義なのだった。
エリート意識は、いつの日か偉人たらんという志向とつながっている。自分を常人とは違うと考えている人間は、それをいつか実証しなければならない。でないと、惨めさのなかで死んでいかなければならなくなる。幹生は自分はそれを文学的な著作によって果そうとしているのではないかと思うことがあった。
マルクス主義が奇妙なエリート意識を醸す理由はいろいろと考えられる。一つは何と言ってもその真理性の主張。アダム・スミス、リカードら、古典派経済学者が発見し得なかった剰余価値を発見し、資本主義の秘密を暴露したこと。その不滅の功績。さらに唯物史観の創見によって、人類の解放という崇高な理想の実現に現実的なプロセスを提示したこと。また、大部の著作『資本論』を読破し、理解することの困難性。これらのことによってマルクス主義を理解し、その立場に立つということは、知的な面でも、人類的な道義性の面でも、その人にエリート意識を抱かせることになるのではないか。そしてマルクス主義に加えられる弾圧。権力によって加えられる種々の抑圧・弾圧はそのエリート意識を内向きの、閉鎖的なものにする。
マルクスは近代民主主義をブルジョア民主主義と批判した。それが主張する自由権の源はブルジョアジーの搾取の自由への欲求であり、私有財産の絶対視であると、その限界を主張した。選挙や代議制度についても、ブルジョアジーの階級支配の本質を覆い隠すものという批判を行った。しかし、市民革命を経て獲得されたこれらの諸権利は人類解放のプロセスにおいて巨大な意義を有するものだ。人間解放の経済的側面に重きを置くあまり、マルクスには近代民主主義の意義を過小評価する
こうして、長く幹生を牽引してきた星の一つも、今やその輝きを曇らせてしまったのだ。
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