15 学校族
吉武は校長を解任されたが、彼の置き土産のように、その後も時間割係という幹生の部署に変更はなかった。
時間割係は一週間の時間割を担当する。十数人のメンバーが二系統で交代するので、月に一回程度の頻度で担当が回ってくる。時間割係は八時までに登校することになっている。担当の間は出勤時間が早くなるので、幹生は一つ早い電車にのる。それでその一週間は、あの「朝の拷問」を免れる。本田や頃末より間違いなく早く学校に着くのだ。しかし、その代りに別種の不安と緊張が心に加わるのだが。
職員室に入り、着替えなどをして、時間割係の机に行く。机上には全教員の授業時間割を曜日毎に一枚の表にしたものがビニールケースに入れられて置いてある。一つの曜日に三枚宛ほど作られているので、その数は二十枚ほどになる。また、日毎の時間割変更用紙が当日の分を上にしてバインダーに綴じられて置いてある。その用紙に誰それが欠勤とか遅刻などという新たな記入がなく、また、そういう旨を記したメモ紙なども周囲に見あたらなければ、幹生は電車の中にいる時から脅かされていた不安と緊張から一先ず解放される。しかし、欠勤や遅刻などの通知があれば、! と心は緊張し、負担感が重くのしかかる。早急にその穴を埋めなければならない。作業の時間は限られている。職員朝礼開始までの二〇分ほどしかない。他の教師の授業と振替えられるものは振替え、どうしようもないものは自習にする。自習にした時間には自習監督の教師を配置しなければならない。
幸い、相棒がいる。月曜から週末まで担当する者と、木曜日から次の週の水曜日まで担当する者の二系統に分かれてローテーションが組まれている。だから、週の前半と後半でペアは変わるが、時間割係としてその日の時間割を担当する者は常に二人いるのだ。これは知恵だ、と幹生は思った。学校の日常業務のやり方に「知恵」を感じさせるものはあまりないが、これは有用なアイデアだと彼は思った。二人いることで心理的にどれだけ支えられることか。二人のうちのどちらかが主になって穴埋め策を考える。作業に習熟した者がそれをやるのが好ましいが、学校に早く着いて、欠勤などの事実を早く知った者が、経験は浅くても、その作業に入るのは当然だし、やむを得ない。中には相棒が来るまで何もしないで待っている者もまれにいる。負担を公平に分けようという意図で。そういう者はペアの相手としては敬遠される存在だ。経験を積み、時間割の操作に習熟している人が相棒である場合は心強い。サッサッと捌いて一件落着となる。
欠勤が三、四人も出て、途方にくれることもある。そんな時、相棒が力の無い人であれば、心理的に追いつめられる。どんなに遅くても朝礼が始まる前までには穴埋め案を作り上げ、教員用と生徒用の二枚の「時間割変更連絡白版」に記入を終えていなければならない。時間はどんどん過ぎ、案がまとまらないとパニックに陥る。責任は全て時間割係にかかってくるのだ。一番簡単な処置は全て自習にしてしまうことだ。しかし、自習はできるだけ少なくするという原則があり、どれだけ自習を減らしたかに時間割係の「腕」のようなものが表れることになるので、安易に自習にはできない。また、自習にすると監督が必要だから、適当な教員を人選して依頼をしなければならない。それも結構大変なのだ。
時間割係に要請されるのは、教員の出張、欠勤、遅刻、早退、外出などによる授業の穴を埋めることだけではない。行事や会議などの都合で時間割を動かすことも求められる。例えば運営委員会を三時限目に開くので、メンバーになっている教師はその時間を空けておくとか、体育大会の学年練習を、一年は三、四時限に行うので、一年所属の体育の教師の授業をその時間帯に集めるとかの指示が「時間割変更依頼」として出される。「依頼」と用紙には書いてあっても、それは必ず応じなければならない指示なのだ。こういう指示は二、三日前までに時間割係に伝えられ、当日には対応を終えているというのが通常だが、時には当日の朝に指示されることもある。そんな場合は怒りと焦燥に
時間割は分離・分割授業によって細分化されている。特進クラスは一つのクラスの中が文系と理系に分けられ、同じ一時限に二つの授業が進行している。また、複数の特進クラスにわたって文系・理系の別、あるいは理科の選択科目の別によって授業が組まれ、同じ一時限に、三人から五人の教師による授業が並行して実施されている。この複雑に入り組んだ時間割を動かすのは容易なことではない。おまけに使用教室にも制限がある。化学・生物・物理などの特別教室、あるいは自習教室などが分離・分割授業の使用教室として割り振られている。時間割を動かしたのはいいが、使用教室が他の授業とぶつかっていたということが起きる。運動場や体育館を使う体育、一つしかない情報教室を使う情報の授業などは殆ど動かせない。こうした難問をクリアしてようやく時間割は動くのだ。焦燥のなかで神経を使うこんな仕事を定年に近づいた俺にさせるのか、と幹生は吐息をつきたくなるが、その余裕もない。
時間割がにっちもさっちも動かなくなると、時間割係のキャップの教師に助けを求める。それは自分の無能を告げるようで、幹生としては避けたいことだったが、時間的に切迫すればやむを得なかった。
キャップになっている森はまだ若かった。彼は長く時間割の仕事をしていて、職員の間では時間割に関することと言えば森が思い浮かぶようになっていた。キャップは時間割担当の年間作業スケジュールや、担当ローテーションを決めた。キャップ自身はローテーションには入らず、全体的な統括や他部署との連絡・調整に当っていた。時間割当事者の作業遂行が困難に陥った時、ヘルプとしてバックアップするのもその仕事だった。
時間割係になるまで幹生は森とは疎遠だった。所属学年もずっと異なっていて、接触も殆どなかった。幹生は森を離れた位置から眺めていたのだが、好い印象は抱いていなかった。
森は学校に居る時間の長い教師だった。毎日十時ぐらいまで学校に居た。在校時間の長さでは彼がトップかもしれなかった。幹生などは勤務時間が終ればできるだけ早く学校を去りたく思うのだが、森は学校に留まることが少しも苦ではなさそうだった。それどころか、それが彼の望みのようだった。だから、時間割係の教師が毎日遅くまで仕事をしているというのも、強いられたものとばかりは言えなかった。こういう教師は他にもいた。退勤時間が過ぎてもずっと学校にいる。勤務時間などは眼中にないようなのだ。そんな教師は休日も学校に出てくる。―運動部の顧問をしているから練習を見る必要がある。なるほど。しかし、定期考査前で部活動が休止になっていても出てくるのだ。幹生はこういう教師を「学校族」と秘かに名づけて嫌っていた。学校を離れては日の過ごしようがないのだ。自分の時間などはいらないのだ。学校の業務以外にしたいことはないのか。幹生には理解ができなかった。人生に追求すべき独自の目標がないのだと軽蔑していた。頃末も潮見もこのタイプだった。国語科はもちろん、学校の主流派に属する教師の大部分がそうだった。
学校に居残ることが苦にならない森は生徒にもそれを課した。遅刻一回につき一時間の居残り。遅刻だけではない。提出物の遅れや不良、日直や掃除など義務の怠り、その他、生徒の仕出かす様々な不都合にそれは適用された。森の特徴はその精密さだった。彼は生徒の過失を克明にカウントし、相応の居残り時間を算出した。そしてその消化を厳格にチェックした。声を荒げて叱ったり、叩いたりするタイプではなかったが、その処罰の厳格さは生徒に恐れられていた。彼はそれによって生徒を支配していた。居残りの生徒には種々の教科のノルマが課せられた。ノルマが果されなければ居残り時間は延長された。居残りには懲罰の他にもう一つ効用があった。椅子に座り続ける耐久力を生徒につけさせることだ。主流派の教師のなかではそれは受験勉強に必須だと思量されていた。
幹生は森に人間味を感じなかった。生徒を管理し、知識を詰め込み、その遂行に何の疑問も抱いていない、一種のロボット。学校以外の世界は何も知らず、関心もない。森は数学科の教師だったが、高校時代、歴史の授業などは受けなかったという。大学受験に不必要ということで理科系のカリキュラムには入ってなかったのだ。この学校と同じだ。こうして育ってきた世代が教師となり、生徒を教育するようになっているのだ。視野の狭さはどうしようもないのではないか。幹生は溜息が出そうになる。
森に批判を抱き、距離を置いてきた幹生だった。森もそれを感じているはずだった。しかし、時間割係になって、窮地に陥れば、幹生はそんな関係にある森に助けを請うほかはなかった。森は確かに時間割の操作に習熟していた。頭を捻る幹生の傍らで、森は時間割表を睨み、すぐにペンを執って時間割を動かし始め、二、三分で解決してしまうこともあった。はい、と操作を終えた時間割表を示された幹生は、屈辱を覚えながらも、ほう、と感心するほかはなかった。とにかく窮地を脱したのだ。感謝の気持も起きてくるのだった。幹生は平静な状態に戻った時、時間割の操作の巧拙など人間の能力の評価には意味もないことだと考え、屈辱感を払拭しなければならなかった。
自習になった授業には監督の教員を配置しなければならない。教員にとって自習監督は授業の他の余計な負担だ。負担増は誰でも嫌がる。負担を大きくしないため、その日の授業時数の少ない教員から監督の候補者を選ぶことになる。また、監督は該当クラスと同じ学年に属する教員が望ましい。授業などにも行って、そのクラスの事情を知っているからだ。この二条件を満たす教員、しかも断られることが殆どない教員ということになると、大体、若い講師に白羽の矢が立つことになる。特に非常勤講師にとっては監督はストレートに収入の増加となる。しかし、自習がたくさん出た場合には彼らだけでは間に合わない。専任の教員に頼まなければならない。これが幹生には苦手だ。日頃他の教員とあまり交流のない彼には気軽く頼める相手がいない。相棒が交渉に当ってくれれば一番いいのだが、幹生も担うべき仕事であれば、全てを任すことはできない。専任の教員のなかには幹生と単に疎遠であるというだけではなく、なんとなく馬が合わない、いけ好かないという人間がいる。これは大体においてお互いがそう思っている。そういう教員に幹生が自習監督を頼まなければならない羽目になることもある。相棒がその時不在だったり、他の仕事をしていたり、あるいは彼は既に分担を果し、その依頼は幹生がなすべき仕事となっている場合などだ。幹生は、これは自分より相棒が言う方が成功するのだがなあ、と思いながら目標の教員に近づき、遠慮がちに、「自習監督、お願いできますか」と声をかける。すると案の定、もっともらしい理由をつけて断られる。時には突慳貪に、にべもなく断られることもある。幹生は不快感を抱きながら時間割係の席に戻り、次の候補を探さなければならない。監督不在の自習は許されない。それは時間割担当者のミスとして責められる。場合によっては時間割担当者自身が罰を被って自習監督になることもある。時間割係という仕事はこうして幹生に、職場における自らの人間関係の貧困を突きつけることにもなった。
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