14 個別にいこう

 定年が近い幹生は、これまで経験したことのない校務分掌に配属されていた。時間割係だ。懲罰的な人事だった。


 一昨年のことだ。「総合学習」という授業が土曜日に二時限連続で組まれていた。クラス担任が担当するのだが、土曜日は運動部の試合が多く、顧問は出張になる。担任が顧問であればその穴を埋めるのは副担任だ。幹生は副担任だったので、その仕事が廻ってきた。幹生は土曜日に自分の授業を二時限持っていた。それに穴埋めの仕事が加わると、四時限連続授業ということになった。土曜日は四時限で終了する。空き時間がないということだ。食事もできないし、授業以外の仕事もできない。月曜日に必要となる仕事を抱えていれば、半ドンの日なのに、午後、学校に残ってしなければならない。または自宅に持ち帰って、休日をつぶしてするほかはない。どちらもしたくないことだ。それに四時限連続授業はやはり疲れた。実際やってみて幹生はきつかった。四時限目は疲れのために力の抜けた授業になってしまうのだった。四時限連続授業はやはり異常な事だった。生徒にとっても教師にとってもよくないことと幹生には思われた。是正しなければならないことであった。職員会議に提起するという考えが浮かんだ。しかし、職員会議では滅多に発言しない幹生にとって、それは気の進むことではなかった。だが、放っておくこともできないようだった。何よりそれは幹生自身が苦しんでいる事だった。己の苦境を打開するのは己自身であり、他人に頼ってはならない。幹生にはそんなポリシーがあった。


 職員会議が始まっても、まだ幹生は迷っていた。彼を躊躇させる最大のものは、自分の意見に賛同する者は、少なくとも表立っては、誰もいないだろうという予測だった。それは教員の中で自分は孤立しているという幹生の自覚にも関連していたし、幹生が察知する教員の中の主流的な考え方にも関連していた。下手をすれば教員たちの顰蹙を買うことになるかもしれないという危惧をも幹生は抱いていた。


 幹生が発言するとすれば、予定された議題が終了した後の、「その他」の項目にきた時だった。彼は最後の議題が論議されている時もまだ迷っていた。やがてその審議も終わった。議長役の教頭が、「予定された議題は全て終わりましたが、その他に何か、先生方のほうでありましたら」と言って教員たちの方を見た。教頭の目が幹生の目とあった。幹生は手を挙げた。「はい、早瀬先生」と幹生は指名された。

                                                                                                                               

 幹生が挙手したのは、やはり、自分の苦境は先ず自分で打開しなければならないという考えのためだった。愚痴や泣き言を陰で言うよりは、しかるべき場ではっきり堂々と自分の要求を出すべきだという考え。これは「個人原理」に立つ彼が是とする考え方であり、そう生きたいと願う態度だった。彼はその当為から逃れることはできなかった。また、自分がこうして声をあげることが、学校生活の内部にある不条理をなくし、学校の諸活動の改善につながるとも思った。そう思って彼は自分を鼓舞した。更に、自分が先駆けとなり、他の教員たちも学校生活の中で感じる矛盾や不合理に批判の声をあげるようになれば、学校はもっとよくなるだろう。幹生はそんなことまで思った。彼はやはりロマンチストだった。

 

 幹生は口を開いた。

「土曜日の総合学習のことですが、担任が試合などで出張した場合、その補欠を副担に一律にさせることは一考を要することではないでしょうか。副担任が四時限連続授業となる場合はやめるべきだと思います。そんな場合は、自習監督を配置するのと同じように、その日の時間割に余裕のある教員にせめて一時限は分担してもらう、ということが必要ではないでしょうか」


 幹生の発言の途中から、「ほ」「は」と鼻で笑うような声が聞こえた。「そんなことを言うの」という囁きもあった。幹生の発言に反発を覚える者の反応だった。

「先生、そんなことを言ってもらっては困りますよ」

 校長の吉武が突然しゃべり始めた。

「時間割係の先生方の苦労を先生は知っていますか。夜遅くまで学校に残って仕事をしていますよ。そんなことを言うのなら、先生にも時間割係をやってもらいましょうか」


 吉武の口調には興奮が感じられた。その急襲に幹生は戸惑った。吉武はなぜ興奮するのか、なぜ時間割係がここで出てくるのか、なぜ自分が時間割係をしなければならないのか、幹生にはわからなかった。ただ、吉武が自分の発言に対して懲罰的な発言を返したことは分かった。「時間割係をやってもらいましょう」は懲罰的に言われたことだと幹生は受け止めた。自分が何かとんでもないことを言ったというようなその場の雰囲気に幹生は圧迫された。

「そうですかね。言ってはいけないことですかね」

 幹生はそう言ったが、気持は既に挫かれていた。

「そうですよ。皆さん、そう思っていますよ」

 吉武が応じた。幹生は沈黙した。学校の状況はこれだけ悪化しているのだ、と幹生は思った。校長の懲罰的な発言に反論する者もいない。それどころか、自分の発言を、皆が苦しんでいる時に自分だけ楽をしようとしていると非難するような雰囲気がある。予期していたこととは言え、幹生は失望を感じていた。もう言うことは何もなかった。

「それでは、早瀬先生、いいですか」

 教頭が訊いてきた。幹生は頷いた。


 時間割係が夜遅くまで学校に残って仕事をしなければならないというのも、学校の業務遂行のシステムのどこかに問題があるからだろう。それも放置していてよいことではなかった。この場合、先ず声を上げるべきはシワ寄せを受けている当の時間割係だ。そこから改善が始まり、それは他の分掌にも波及する。しかし、時間割係は沈黙し、そのことが吉武によって幹生の発言を封じる理由に使われたのだ。こうして、過重な負担を強いられても、仕方がないと諦める雰囲気が醸し出されていく。幹生はそんなことを考えたが、もはや詮無いことのように思われた。


 職員会議の後、幹生は校長室に呼ばれた。呼び出しを受けた時、〈来たな〉と幹生は思った。予感はあった。


 ソファに座って向き合うと、吉武は困ったというように眼鏡の縁の奥の眉根を寄せ、

「皆が力を合せて頑張っている時に、あんな発言は困りますよ」

 と言った。そして、「驚きました」と付け加えた。

 幹生は吉武と日頃話を交わすことはなかった。吉武はその年度に大林に代って校長になったのだが、彼が平教員の時から幹生との接触は殆どなかった。

「そうですかね」

 と幹生は応じた。無力感に既に彼は囚われていたが、自分がそんなに間違ったことをしたとは思えなかった。

「四時限連続授業というのは異常と思いませんか」

 むしろ吉武の気持を訊いてみたくなって幹生は発問した。

「だから、そういうことを言っちゃいけないと言うんですよ。きついのは皆同じなんですよ。先生だけじゃないんだから」

 吉武は押し被せるように言った。彼が口論の際に時折見せる苛立ちを含んだ口調だった。

「しかし、教育的にもよくないでしょう。四時限目なんて疲れていて、まともな授業はできませんよ」

 幹生はここで退いてはいけないと思い、反論した。

「授業はちゃんとやってもらわないと困りますよ。あたり前でしょう」

 吉武は管理職的に言い返した。なるほど、押しが強い男だな、と幹生は思った。


 昔、吉武は同じ教科の羽坂という教師とそりが合わず、職員室でもよく口論をしていた。幹生はその現場を目にしたことがあった。何度か応酬があった後、羽坂が沈黙すると、吉武は羽坂の顔を覗きこむようにして、「ほら、まだ何か言おうと思っとるやろう。あんまりつまらんことを言いよると、またパンチが飛ぶよ」と言った。その態度は全く羽坂を見下したものだった。「またパンチが飛ぶよ」とは吉武が既に一度は羽坂を殴るか叩くかしたことを示していた。幹生は驚くとともに、そんな言葉を平然と口にできる感覚になじめないものを感じた。吉武が暴力的な人間であることを幹生はその時知った。しかし、幹生は吉武のそんな粗暴な面をその前から何となく感じとっていて、接触を避けてきていた。羽坂は吉武より二、三歳年上で、当時教務部長をしていた。彼はその後、希望によるのかどうか、女子部に転出した。羽坂にとってはよかったなと幹生は思ったものだ。


 吉武が暴力的な人間であるという記憶はこの場面で、彼が校長であるという意識とともに、幹生には威圧として作用した。喧嘩になるかもしれないという思いが幹生の胸を過った。しかし、幹生は吉武と歳が同じだった。その意識が幹生の頭を下げさせなかった。

「だから、いい授業を望むなら、その条件をつくらないと」

 幹生は言い返した。

「それはわかりますよ。しかし、現状が求めているんだから、対応していくしかないんですよ」

 と吉武は応じた。この校長に何を言っても無駄なんだろうな、という気持が幹生に起きた。

「時間割係も苦労しているんですよ。」


 吉武は職員会議で言った言葉を繰り返した。その意味が幹生にはもう一つ分からなかった。担任が欠けた穴を機械的に副担任が埋める現在のやり方は、時間割係があれこれ考えずにすむので、その苦労を軽減すると言いたいのか、と幹生は吉武の気持を忖度した。今はこんなことを言う吉武だが、管理職になる前は、時間割係の穴埋め操作に文句をつける急先鋒だったことを幹生は覚えていた。時間割係を呼びつけて、強圧的に自分の授業時限の変更を拒否するのだ。

「総合学習と言っても、実態は自習と同じなんですよ。きちんと計画が組まれているわけじゃない。だから副担任が担当しなければならない理由はない。もっと合理的に考えていいんじゃないか、というのが僕の考えなんですが」

 幹生は主張を繰り返した。

「そうですか。あくまで言うんですね、先生は」

 吉武はそう言って、

「わかりました。先生がきついと言うのなら、それは考えましょう」

 と続けた。幹生は、おや、と思った。吉武が自分の要求を受け入れようとしているのだ。この男も意外に気の弱いところがあるのかもしれない。そうであればこれ以上、くどくどと言う必要はない。

「考えていただけるんですね。是非お願いします」

 と幹生は言って頭を下げた。


 目的は達したようだが、職員会議の席で懲罰的な発言をされたことの屈辱感が幹生の胸に蟠っていた。本田ならこの場でその撤回を求めて大声を上げているかもしれないと思った。校長室から幹生の怒声が聞こえてくるような展開を期待している教員も職員室にはいるのではないかとも思った。しかし、教員をどの部署に配置するかは校長の権限であり、平教員がその撤回を求めるのもおかしなことに思われた。ただ、自分の発言は、自分が楽になりたいために言ったというより、学校の状況を改善したいという思いの方がより強かったということは言っておかなければならないと幹生は思った。なぜ自分の発言が学校の状況の改善につながるのかということも言う必要があるかとも思ったが、それは吉武に言っても理解されまいと思われた。それを理解しないのは吉武の不明なので、放っておこうと考えた。

「私の発言は、私がきついからというより、私のような状況を一つでもなくしていくことが、学校全体の状態の改善につながると思って言いました」

 と幹生は言った。吉武は、よくわからない、というように頭を捻って、

「今後、何か不都合なことがあったら、私に直接言ってください」

 と応じた。職員会議という公的な場での議論より、個室での個別の交渉の方が吉武には好ましいようだった。幹生は頷いて席を立った。


 翌日、幹生は吉武との話合いの不十分性に思い当った。吉武は幹生の要望について「考えましょう」と言った。それはどういうことだろうか。幹生の要望に応ずるということなのか。あの場で幹生はそう受取ったのだが。これは確認する必要があるのではないか。そう思うと、幹生の気持は重くなった。吉武に再び会って確認することは気の重いことだった。今度は衝突するかもしれぬという懸念があった。できるなら放っておきたかった。しかし、土曜日はこれからも何度も廻ってくる。担任の出張と重なると、今まで通りのやり方ならば、また四時間連続授業という事態になるのだ。問題は終っていないのだ。吉武が自分の要望に添うようなことを言ったのであれば、それを明確に確認しなければ、職員会議で吉武に懲罰的な物言いをされてまで発言した甲斐がないと思われた。二、三十代の若い教員ではない、五十代も半ばを過ぎた男なのだ、言い出した以上はきちんと決着をつけなければならない、周囲の目もあるのだ、と幹生は考えた。


 やむを得ないと意を決した幹生は校長室のドアをノックした。「何か不都合なことがあったら直接言ってきてくれ」という吉武自身の言葉も、多少、幹生の背中を押していた。

「どうぞ」

 の声に、幹生はドアを開けた。吉武は幹生の顔を見て、少し怪訝な表情を見せた。〈何だ、また〉という表情が一瞬浮かんで消えた。

「昨日の件ですが」

 と幹生は切り出した。吉武は校長席から立ち上がり、「どうぞ」とソファの方を手で示した。幹生は頷いてソファに腰を下ろした。吉武はテーブルを挟んで幹生の前の椅子に座った。前日と同じ構図となった。

「ちょっと確認をしたいのですが、校長は昨日、私の要望に対して、考えてみるとおっしゃいましたが、それは私の要望を受け入れるという意味と受け取っていいですか」

 まだ、そんなことを言うのか、という表情を吉武は浮かべたが、

「本当はそんな要望は受け入れたくないんですが、勤務が過重だと言うのなら、対応しようということです」

 と答えた。

「それはありがとうございます。これからも続くことなので、念のために伺いました」

 幹生は安堵して、思わず笑顔を浮かべ、声も弾んだ。

「うん。まぁ、そんなことを気にするよりは、もっと学校のために前向きなことをお互い考えましょう」

 吉武は少し苛立たしげな口調で言った。その言葉を聞いて、幹生はやはり言っておかなければならないと思った。

「いや、僕としては、昨日も言いましたが、学校の状況の改善につながるという気持なんですよ」

「まぁ、それはいいでしょう」

 吉武は面倒臭そうに応じた。

「じゃ、先生の方から係にそのように指示をお願いします」


 幹生は最後の念押しのつもりで言った。これが実は幹生が最も気にかけていたことだった。時間割を実際に動かすのは時間割係なのだから、時間割係に指示が届いて初めて幹生の要望は実現するのだった。吉武は苦い顔のまま頷いた。幹生は本当は指示の中身まで確認したかった。幹生の要望通りであればそれは、〈担任不在で総合学習の時間に欠が出た場合は、機械的に副担任を補欠にせず、副担任が四時限連続授業になるような場合は、その日の授業時間の少ない他の教員を当てる〉という内容になるはずだった。しかし、その確認までは幹生にはできなかった。彼には吉武が自分の要望を受け入れたのかどうかのチェックまでで精一杯だった。


 土曜日は第二と第四が休みとなる。休みでない土曜日に総合学習の時間が組まれていた。その日に担任が出張になった日が、吉武との交渉後、三度ほどあった。幹生はその度に吉武の言葉が実行されるか気を揉んだが、四時限連続という事態になることはなかった。幹生は時間割係の教師に、担任出張の場合の総合学習の時間の補欠について、方針変更の指示があったかどうか訊ねてみた。その教師はそんな指示はきいていないと首を捻った。どうやら幹生に限った対応になっているようだった。とすると、他の副担任の救済にはつながらず、結局、幹生一人のわがままが通ったという形になっているらしかった。そのために時間割係には余計な負担がかかるという状況になっているのかもしれなかった。幹生にとっては不本意な結果だった。自分だけは救済できた幹生は、ほろ苦い気分を味わった。


 翌年度、吉武は宣言通り、幹生を時間割係に配属した。そして皮肉なことに、その年度の幹生の土曜日の授業時間割は四時限連続になっていた。時間割作成の担当教員が腹癒せにやったのかもしれなかった。しかし幹生はそれを受け入れる気持になっていた。他人の授業の穴埋めで、不意に四時限連続になるよりも、あるいは、そうなるかもしれないという不安の裡に土曜日を迎えるよりも、初めから自分の授業で四時限が埋められている方が気が楽のように思われたのだ。四時限連続授業を異常と思えばこそ幹生は声を上げたのに、それが今や正規の授業時間割に組まれるようになっているのだった。実際、土曜日に四時限連続の授業をするのは幹生だけではなかった。幹生自身も土曜日の四時限連続授業を通常のことのように受け取り始めていた。四時限連続授業は常態化されつつあった。学校の状況はそれだけ悪くなっているのだった。




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