13 改革(2)

 高名な新監督は職員室に顔を出さなかった。彼は以前校長室として使われていた部屋を居室として与えられていたが、そこにも最初の頃、数度立ち入っただけだった。その後は専ら練習グラウンドと住居を行き来するだけで、教職員の前に姿を現さないようになった。


 監督の着任後、歓迎会が開かれたのだが、教職員の欠席が目立った上、前監督の解任を批判する参加者の発言が監督の耳に入り、彼の気持を損ねたのだ。吉武と蜂須賀は全教職員が監督を歓迎していると伝え、監督も感謝の気持を表明してその気でいた。それが実際、教職員に接して、ひどく裏切られた気持がしたのだ。


 二千万の高給と居室を与えられ、しかも職員室に顔を出さなくてもよいという勤務状態は特権者のそれであった。管理職は何も言わなかった。監督は生徒も入室する居室で喫煙をした。職員の駐車が禁止されている場所に駐車をした。教員がそれを見とがめて注意すると、監督は自分に注意する教員がいると、逆に校長に文句を言った。すると吉武はその教員を呼び出して、ものの言い方などを注意する有様だった。監督だけではなかった。野球部はいろいろな面で特別扱いだった。野球部の生徒は毎日四時限で放課になった。練習時間を確保するためだった。試合があると、まだ地区予選の段階なのに、授業をつぶして全校あげての応援が組織された。一般生徒は参加を強制された。


 ところが野球部は弱かった。新体制になった最初の年度は県大会にすら出場できなかった。前監督の突然の解任は二、三年の部員を動揺させていた。新監督の指導に素直に従えない気持の者もいた。二、三年の部員と、新監督を慕ってきた遠来者の多い一年生との間には溝が生まれていた。そうした部内の軋轢が戦績にも表れていた。


 二年目も野球部は振るわなかった。やはり県大会に出場できなかった。前監督の時の方が成績がよかったと思われるほどだった。それどころか不祥事が起きた。野球部の遠来組が寄宿する寮でキャッシュカードの盗難が起きたのだ。被害者は寮生である一年生部員。親からの送金をそのキャッシュカードで引き出していた。生徒はすぐ銀行と警察に盗難届を出した。既に五千円が不正に引き出されていた。盗難発覚から四日経って、その寮生の部屋で無くなったキャッシュカードが見つかった。犯人が返したことは明らかだった。寮生に怪しまれずに寮に出入りできる者、つまり野球部員による犯行の可能性が高くなった。部内の捜査、審問が行われ、犯人が明らかになった。やはり野球部員で、一年生だった。だが、通学生で、寮生ではなかった。彼が用事があって被害者の部屋に行くと、部屋には誰も居らず、ベッドの上に財布が置いてあった。彼は財布を手に取り、中を見た。千円札が二枚と百円玉がいくつか入っていた。彼はカード入れを探り、キャッシュカードを抜き出した。一度、キャッシュカードを使ってみたいという気持があった。また、彼には買いたいものもあった。軽い気持でやったことだが、騒ぎが大きくなり、慌ててカードを返したという。元々返すつもりでいたという。野球部内で捜査が行われる過程で、生徒指導部に事件は通知されていた。加害者が判明すると生徒指導部が調書を取った。生徒指導部が関わったことで、もはや野球部内で処置することはできず、事件は職員会議にかけられることになった。


 幹生はどんな処分が決まるかに関心があった。野球部員の問題行動については処分が軽くなる前例があった。喫煙が発覚した野球部員が、通例なら停学処分になるところを、校長からの厳重注意、その生徒のみ一ヶ月の練習停止で済まされた事例を幹生は記憶していた。重い処分を下すと、大事件が起きたという印象を外部に与え、高野協(高等学校野球協会)に伝わることを懼れるのだ。教員たちもその辺の事情を察して、その不公平な措置を容認する雰囲気があった。新監督を迎えたなかで起きた不祥事にどんな決定を下すか、蜂須賀・吉武の対応に幹生は注目した。普通なら議論の余地無く二週間の停学謹慎、処分歴があれば退学勧告の線も出てくる行為だった。


 審議の結果、生徒の処分は停学二週間に加えて、一ヶ月の練習停止となった。今後の寮生活の規律維持を考えると、蜂須賀たちも甘い処分はできなかったのだ。高野協に対してはどうするのだろうかと幹生は思った。黙っておくのだろうか。ちょうど春や夏の全国大会で優勝した高校野球部の不祥事が次々と発覚していた時期だった。隠していてもいずれ現れる。痛手は隠していた場合の方が大きい。幹生はそう考えた。吉武たちもそう考えたようで、この件は高野協に通知済みであると、吉武は処分決定後、教員たちに告げた。通知を受けた高野協は野球部を二ヶ月間の対外試合禁止処分にした。


 皮肉なことが起こった。野球部が低迷しているのと対照的にラグビー部が成績を伸ばしていた。そして遂に県大会で優勝して、県代表として全国大会に出場したのだ。高給を払って外部から有名監督を連れてこなくても、足下で全国大会に出場できる部活が育っていたのだ。既成の権威にしか目を向けない蜂須賀たちにはそれは見えていなかった。


 吉武・蜂須賀体制になって実施する二度目の入試も定員割れとなった。志願者は更に減少した。スポーツ推薦による大量入学という前年度の施策が悪影響を及ぼしていた。中学校で成績も素行も悪かった者がスポーツ推薦によって大量に入ったため、あんな奴でも入れるのかという驚きと不安が受験生の学校志望にブレーキをかけていた。あんな奴が先輩にいては苛められるとか、スポーツクラスが多すぎて、とても落着いて勉強できる雰囲気ではないという評判が流されていた。進学校というイメージもかなり低下していた。


 年度末になって吉武は理事長から解任を申し渡された。表向きの理由は野球部の不祥事の引責だったが、二年間の実績への評価が含まれていることは確かだった。次年度も校長を続けるつもりだった吉武は解任通告に困惑と不満を表した。朝礼で吉武は、「校長を今年度でやめろ、と言われましたので」と苦笑を浮かべながら職員に退任を告げた。そして、「来年度はその辺りの席に居るかもしれませんので、よろしく」と、二年の副担任が座っている場所を指して言った。吉武は定年までまだ五、六年あるはずだった。そんな未練なことを言った吉武だったが、さすがに体裁を考えたのか、年度末で退職していった。


 吉武が解任されたとなると蜂須賀はどうなるのか。蜂須賀は吉武の退任の挨拶の後、席を立って、「私は校長と一体だったので、どうしたらいいか、進退伺いを出しています」と述べた。幹生はそれを聞いて、何だ、やめないのか、と思った。去年、彼が涙を流した時のことを思って、まだやめる気にはならないのだなと、蜂須賀の地位への執着の強さを感じた。吉武が解任されるのであれば、蜂須賀も当然やめるべきだと幹生は思っていた。二人は正しく一体だったし、施策のプランは蜂須賀が立てていたのだから、主導権はむしろ蜂須賀にあった。責任を問えば蜂須賀の方が重いと言えた。


 吉武の退任によって、吉武・蜂須賀体制による「改革」は二年間で終った。


 理事長は蜂須賀の留任を認めなかった。蜂須賀の居座りの意図は挫折した。春休みに入って漸く彼は退任を表明した。後任の教頭には生徒指導部長が昇格した。


 学校は確かに衰運に向かっていた。入学者の定員割れが続くと、ボーナスが減額された。公立高校を少し上回っていた支給額が一挙に半減した。そして更に三分の一になった。そんな時期に高給を払って監督を雇い入れ、授業料を払わないスポーツ特待生を掻き集めた蜂須賀らの施策は財政的な困難に拍車をかけるものだった。しかも出血を強いた野球部は県大会にも出場できず、不祥事まで起こすとあっては、責任を取らされるのも仕方がなかった。職員室に顔を出さず、教員との交流に背を向けている監督と、教員たちとの間に溝ができるというおまけまで付いていた。


 大林、吉武と、本来校長の器ではない者が続けて校長になったと幹生は思っていた。特に吉武・蜂須賀のコンビは、沈みかけた船の舳先を更に海中に押し込むようなことをしたように思われた。校長になることを期待されていた斉藤が、そのコースの中途でそっぽを向いたことが、こうした事態に陥った遠因であるように幹生には思われるのだった。


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