12 改革(1)

 大林を追い落として始められた吉武と蜂須賀の「改革」とはどんな内容だったか。吉武は今回の〈クー・デタ〉の主謀者の一人には違いなかったが、「改革」の内容の策定者とは言えなかった。落着きがなく、時々子供のようなやんちゃなことを言うこの男は、じっと椅子に座ってあれこれと策を廻らすタイプではなかった。「改革」のプランは主として蜂須賀によって策定された。


 蜂須賀はライバル校を強く意識していた。男子と女子、それぞれを対象に設立されていた二つの高校を統合して、新たに男女共学の普通高校となった私立のJ高校がそのライバル校だった。この新生高校に新たに招かれた校長はワンマンだがやり手という評判だった。難関大学や医学部受験を目指す「ハイパー特進」というクラスを設けた。そして受験指導にけた教員を他校から引き抜いていると噂されていた。J高校は業者が行う全国規模の模擬試験で、二年生が出した成績を塾や中学校に配布して宣伝した。J高はそのチラシのなかで、同じ模試を受けたこの学校の二年生の成績と比較し、自校の優位を強調したのだ。蜂須賀はそのJ高の宣伝を深刻に受けとめた。彼はその宣伝は来年度の生徒募集に大きな影響を及ぼすと考えた。そこで九月に行われる次の模試ではJ高を上回る成績を取らなければならないと考えた。そして期待する結果が得られれば、今度はこちらがそれを印刷物にして塾や中学校に配布しようと企図した。吉武も賛同した。しかし、九月の模試に向けて、担任や教科担当者にハッパをかけるだけでは心許ないと彼らは考えた。何としてもJ高を上回る成績を出さなければならないのだ。そこで、二年生については、模試前の二週間は通常授業をやめ、模試対策の特別授業を行うことにした。運営委員会に諮ると、一部に反対意見が出たが、生徒募集・入学定員確保の重大さを説いて説得した。受験業界に高名な全国模試とは言え、一業者の行う模試のために正規の授業をつぶして対応するという前代未聞の取組みが行われることになった。


 その模試対策の授業が行われている頃、幹生は印刷室で広木と一緒になった。広木は二年の特進クラスの担任で、模試対策のためのプリントを作っていた。幹生はコピー機が空くのを待ちながら、

「大変だね。授業をつぶして。進度が遅れるだろう。中間考査も控えているというのに」

 と広木に声をかけた。広木は言われたくないことを言われたというように苦笑を浮かべた。

「何でJ高、J高って、そんなに気にするんだ。たかが模試の一回の成績が悪かったくらいで」

 幹生がそう言うと、広木は皮肉な笑いを浮かべながら、

「さあ、何でですかね。しかし、やれ、と言われれば僕らはやるしかないんで」

 と応じた。

「本当に受験のためだけの教育だな」

 と幹生は慨嘆した。こんなことを言える相手、あるいは幹生が言う気になる相手は学校には広木など数名しかいなかった。他の教員に言っても、何を言ってるんだ、という反発しか返ってこないはずだった。

「何をやってるのか、わからないですよ」

 と広木は秘めていた嘆きを口に出した。


 授業をつぶして取組んだ模試だったが、所期の結果は出なかったようで、全体に対しては結果について何の発表もなされなかった。


 蜂須賀は中学生が通う学習塾を重視した。中学生が受験校を決める際、その決定に最も大きな影響を与えるのは塾のアドバイスである、と蜂須賀は職員会議で強調した。塾との連携が学校の方針となった。塾を訪ね、本校や他校についての塾の見方をよく聴き、参考にしなければならない。塾に対して謙虚な態度で接し、決して傲慢という印象を与えてはならない。なにしろ塾にはできるだけ多くの中学生に本校受験を勧めてもらわなければならないのだから。会議ではそんなことが強調された。市内、そして市の近隣にある百を越える学習塾がリストアップされた。教員一人が最低三つの塾を訪問することが義務づけられた。教師たちはリストから訪問する塾を選び、自分の名前を付して入試担当の広報部長に提出しなければならなかった。塾訪問の時期は夏休み前と、中学生が進路決定に入る前の十月下旬の二回に設定された。塾を訪問した幹生は、そこのスタッフに名刺を差し出す時、既に卑屈な気持になっている自分を意識せざるを得なかった。


 幹生は模試や塾に対する蜂須賀らの対策を見て、目先の対応をし過ぎるという批判を抱いていた。しかもそれがJ高校が既に行っていることの二番煎じであるというのは頂けなかった。結局、J高校の土俵で、その後手に回る形で戦うことになっているのではないかと思われた。なぜもっと泰然と構えていられないのかと不思議だった。この学校には数十年に渡る進学実績があるはずだった。J高は男女共学になってから進学校の名乗りを上げた新参者に過ぎない。国公立大学の合格者数もまだ二、三十名ほどだ。一方、この学校は十年以上連続して百名を超えていた。蜂須賀などはその受験教育の中核を担ってきたはずだ。自分たちがしてきたことに自信がないのかと幹生は思った。


 蜂須賀たちは入試問題も変えてしまった。形式や内容を公立高校の入試問題に準じたものにしたのだ。その理由は、受験生が公立高校受験の腕試しとしてこの学校の入試を利用できるようにするためだった。そうすることで受験者数の増加を狙ったのだ。それまでの入試問題は私学としての独自性を発揮したものだった。特に国語科の入試問題は八田が中心となり、審議に時間をかけ、特色あるものという評判を得ていた。蜂須賀も主要メンバーとしてその作成に携わってきた。それをあっさり公立高校の入試模試のレベルに下げてしまった。幹生から見ればプライドのない行為であり、受験生の増加を狙うにしても姑息なやり方だった。しかし、蜂須賀らにすればそれは状況に即応した賢明な方策であり、当然の措置であるようだった。状況に即応する変り身の早さを幹生は蜂須賀を特徴づけるものと思った。それは蜂須賀に限ったものではなく、競争志向型の体育会系の教員に共通する特徴であるとも思われた。


 もう一つ、吉武・蜂須賀コンビがやったことは野球部監督の更迭だった。蜂須賀は四国に赴き、その地にある私立高校の野球部監督に、自校の野球部監督への就任を請うた。その監督はチームを何度も甲子園に出場させていた。プロ野球で花形投手として活躍する選手を見出し、育てた監督としても有名だった。その選手をエースに擁して臨んだ夏の甲子園では準優勝の実績を残していた。定年による引退が決まっていた監督は、年俸二千万円という呼びかけに、渡りに船と応諾した。代りに解任されたのは二〇数年野球部を率いてきた監督だった。彼は実績のない監督ではなかった。春、夏とチームを二度甲子園出場に導いていた。県大会での準優勝も何度かしていた。県北部の予選大会ではシード校に指定される常連校の地位を維持していたのだ。


 野球部監督の交代は突然だった。予告や事前の説明は無いに等しかった。蜂須賀が職員会議で一度、意味の不分明な話をしただけだった。それは理事長に言われて四国まで行き、その有名監督に会ってきたという話で、現地の風物や監督の人柄などを語ったものだった。特に監督の人柄のよさには力点を置き、本校に対して関心と好意を持ってくれていると語った。幹生は蜂須賀がなぜこんな話をするのか分からなかった。職員会議で旅行の感想など述べてどういうつもりだと思ったくらいだ。その旅行がこの学校の野球部監督への就任を要請するものであったことなど、蜂須賀は一言も言わなかったのだ。


 吉武・蜂須賀らは監督更迭について、彼らが企図したものではないという体裁を取ろうとしていた。理事長の発案によって行われることであるかのようにカムフラージュしていた。解任される監督に同情する教職員の反発が自分たちに向かうのを避けようとしていたのだ。事実は、これも「改革」の一つとして彼らが実施を理事長に求め、承諾を得たことだった。彼らは甲子園に常時出場する野球部を作りたかった。それが校名を高め、受験生の増加に直結すると考えていた。そのための早道は実力の認められた優れた指導者を招いて監督に据えることだった。彼らの発想は単純だった。有名監督が指導すれば甲子園に出場でき、甲子園に出場できれば受験生は増えるのだった。そしてそれを実行した。


 解任された監督は野球部の副顧問にもコーチにもならず、野球部から離れてしまった。彼は体育科の教員だった。退職するのではないかと幹生は一時危ぶんだ。やがて彼は畑違いのバレー部の副顧問に納まった。彼のプライドが傷つけられたのは明らかだった。吉武も蜂須賀も以前は運動部の顧問をしていて、解任された監督とも親交があった。吉武などは監督の姓が竹富であるので、「タケ、タケ」と親しそうに呼んでいた。それがこうしてバッサリ斬ってしまうのだった。


 蜂須賀らは次年度入学生が再び定員割れを起こすような事態は何としても避けねばならなかった。定員以上の入学者を確保することこそ彼らが前校長に取って代った理由であり、「改革」の至上命題だった。定員割れが起きれば彼らの面目はなくなるのだ。彼らは安全弁を推薦入試に求めた。特にスポーツ推薦だ。運動部の顧問が推薦する生徒は無条件で入学できる規定があった。蜂須賀らは顧問たちにいくらでも推薦していいと促した。野球部には新たに就任した有名監督を慕って入学を望む生徒が百名近くいた。その殆どが監督推薦で入学が決まった。彼らの大部分が授業料免除の特待生となる生徒で、遠隔地から来る生徒は付設の寮に入ることになっていた。定員確保のためのなりふり構わぬ取り組みで、推薦入試だけで一三〇名余の生徒を確保した。定員の三割強の数だった。スポーツクラスが三つもできるという未曾有の事態となっていた。


 一般入試の願書受付を終えてみると、その数は前年を下回っていた。蜂須賀たちが行った施策は効果を上げなかった。一方、J高は、少子化によって受験生の数が更に減るなかで、前年より五百名も志願者を増やしていた。入試状況をみる限り、J高との差は一層拡大したのだ。蜂須賀らが設定したJ高との戦いは完敗だった。


 一般入試の合格判定会議が開かれた。入試の主要データがパソコンから転写されているスクリーンの傍らに立って、蜂須賀は説明を始めた。定員割れを今年度でくいとめるため、受験者数が前年を上回ることを教頭になった自分の最大の責務として取り組んできたが、結果はうまくいかなかったと蜂須賀は述べて、感極まったように涙を流した。蜂須賀の涙は幹生には意外だったが、彼の立場を考えればもありなんとも思われた。幹生はその様子を見て、引き続いて教頭辞任を表明するのではないかと思った。しかし、蜂須賀は己の力不足を詫びただけに留まった。


 判定会議では、内申書によって、出席状況や生活態度などに問題があり、指導上重大な困難が予想される数人を除いて、他は全て合格となった。前年に続く「全入」だった。それでも入学手続きをした者は少なく、最終的な入学者の数は推薦入試の合格者と合わせても定員を割ってしまった。


 こうして入学してきた新入生を幹生が所属する学年が担当することになった。普通科の高校でスポーツ設備も整っていないのに、スポーツクラスを三つも抱える学年だった。「全入」という状況で、これまでになく低学力の生徒も入学してきていた。学習や生活指導には多大な困難が予想された。


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