11 クー・デタ

 他の教員と殆ど交渉のない幹生には、教員を介して伝わる情報は当然ながら少なかった。突然の校長交代劇についても幹生はつんぼ桟敷に置かれていたが、その事情の一端をもたらしたのは、やはり学校内の出来事に関して幹生の情報源となっている広木だった。


 一昨年度の始業式の日、短い春休みを終え、出勤した幹生は校長が変っているのに驚いた。一週間ほど前、新入生とその保護者に対して学校生活の概要を説明し、教科書など物品購入をさせるために開かれる連絡会のために出勤したときには、朝礼時、大林校長はいつも通り校長席に座っていた。校長交代の気配は全くなかった。何が起きたのか。幹生は狐につままれたような気がした。新しい校長には教頭だった吉武が昇任していた。そして教頭には教務部長だった蜂須賀がこれも昇任していた。吉武は朝礼で挨拶し、前校長は体調不良で辞任したと告げた。そして、不肖ながら校長を命ぜられた自分は全力を尽くして責任を果たしていきたいと、張り切った表情で述べた。そうなのかと幹生は思った。だが、大林には体調がそんなに悪いような様子は見えなかったので、変だなとは思った。だが、それよりも、吉武、蜂須賀が校長・教頭になったということが幹生の気持を重くしていた。それは幹生個人にとっても、学校にとってもよいこととは思えなかった。


 広木がもたらした情報によれば、春休みの間に大林校長の辞任を求める回状が回されたという。少子化の進行で年々受験者数が減少し、昨年度は遂に入学者が定員を下まわるという現状において、学校としてもこれまでとは違った本格的な対策が求められている。ところが現校長には危機に対応しようという積極的な姿勢が見られない。このままでは学校の前途は危うい。もはや猶予する時間はない。今立ち上がって「改革」を始めるべき時である。現校長の下ではそれは不可能であるから辞任を求める。回状の趣意書にはそのようなことが書かれ、吉武・蜂須賀・奈良井ら役職者数名が名を連ねていた。回状は運営委員会のメンバーやクラス担任などにまわされたようだ。広木にも回ってきたという。主流派の教員達には回されたようだが、幹生は蚊帳の外だった。専任教員の過半数の賛同署名が得られたらしい。広木も賛同したようだ。署名簿は同窓会と学校との連絡係をしている頃末から同窓会会長に届けられ、会長は理事長の決済を求めた。理事長はやむなく大林の退任を促すことになった。その結果の辞任劇だった。


 クー・デタにも比すべき出来事だった。やるもんだな、と幹生は思った。学校という場所も陰謀渦巻く生臭い場所だった。数年前、幹生が幹事を務めた職員旅行の際、その時はまだ教頭だった大林がホテルの部屋で、蜂須賀も権力欲の強い奴だと苦い顔で語ったことを幹生は思い起こした。


 大林も確かに良い校長ではなかった。人間に対する好悪が激しく、それがはっきり言動に出てしまう人物だった。そして、すぐ喧嘩腰になった。一口に言えばアクの強い人柄だった。そのアクの強さが周囲に敬遠されている趣があった。生徒部長を二期(六年)務めた。睨みつけるような眼光の鋭さには人を威圧する力があった。大林が教頭になった時、幹生は意外に思った。その狷介な人柄が教頭という役職にはそぐわないように感じた。長く勤めた前任者が、温和で物柔らかな人柄だったせいかも知れなかった。


 大林は校長になっても周囲とよく確執を起こした。生徒の処分をめぐって、職員会議の議論の大勢が退学勧告をすることに傾いた時も、一人、長期の謹慎を主張して譲らなかった。校長はなぜかたくなに退学勧告に反対するのかとある教員がただすと、「私にも意地がある」と答えたものだ。これには幹生も呆れた。教頭の吉武ともよく意見が衝突した。吉武の背後には教務部長の蜂須賀がいた。


 そういえば二月半ばの職員会議で、大林と教頭、進路部長の奈良井とが対立したことを幹生は思い起こした。問題は進路部が計画している「セットアップ」の実施をめぐるものだった。「セットアップ」とは特進クラスに合格が決まった生徒を入学式前に出校させ、担当教員が学習指導をする準備教育だ。数年前から実施されていた。それを大林はやめると言い出した。理由は市内の高校の校長会で批判されたからだった。まだ入学も決まっていない生徒にそのような課業をさせるのは問題だと言われ、大林は反論できなかったのだ。「セットアップ」については中学校側からも反発が出ていた。まだ中学校に籍のある生徒に勝手なことはしないでほしいというものだった。奈良井は、「セットアップ」は今年度当初から年間行事計画に入っており、既に進路部ではそのための教材も作成し、担当者も決めている。今頃になって中止とは納得できないと発言した。吉武も、強制ではなく希望者に対して行っているのだから問題はないのではないか。中学校が反対するのなら、中学校に籍がなくなる四月の初めに「セットアップ」の時期を下げてもいいのではないか、と言って奈良井を援護した。しかし大林は「セットアップ」は中止すると言って譲らなかった。教務部長の蜂須賀が、「校長は生徒確保についてはどのようにお考えなのか。セットアップは特進に合格した優秀な生徒を、他校に逃がさないように引き止めるという狙いもあって始めたことですが」と質問した。「セットアップ」は蜂須賀が進路部長の時に発案して始めたもので、彼の立場はもちろん中止反対だった。大林は、「他校や中学校から批判されるようなことをせんでも、本校には優秀な生徒は来ますよ。私は確信している」と応じた。結局、「セットアップ」は中止になった。中止が決まった職員会議の後、吉武は職員室の正面の白板に自分が書いていた週間行事のスケジュールを全部消して、「俺は今日で教頭をやめる」と息巻いた。そんなパフォーマンスをよくする男だったので、幹生は本当かな、という思いで聞いていた。翌日、吉武はやはり教頭席に座っていた。それはとにかく、そのようなイザコザも今度の校長更迭の背景にはあるようだった。


 幹生も大林のアクの強い性格は好きではなかった。突然噛みつかれそうで敬遠された。しかし、単純な、愛すべき面もあった。だが、幹生が大林に親しみを抱いたにしても、それには限度があった。大林は幹生を担任から外した校長だった。そのために幹生なりに努力して育てたクラスを潮見に引き渡すことになった。三年間通して担任をしてみたいという望みも絶ちきられた。自分をそのように処遇した大林には筋としても親しげな態度は示すべきではないと幹生は思っていた。


 生徒部長をしていた頃が大林の最も活気のあった時期だった。職員室の中に彼の笑い声や冗談が響き、彼の周囲にはいつも若い男の教師たちが集っていた。酒、ギャンブル、ゴルフ、麻雀と、遊ぶことを大林は好んだ。「遊ぶために働いているんだ」「遊ばなきゃ、意味がない」というのが彼のモットーだった。そして同僚教師を引き連れてそれを実践した。一方で、「この学校の教員で好きな奴は一人もおらん」と放言したりもするのだった。教頭になってから大林は静かになったようだ。冗談や放言が出なくなり、人々の輪の中に居ないようになった。校長になると、校長室という居場所を与えられることもあるが、彼の姿や声を見聞きすることは更に少なくなった。もちろん校長なのだから存在感が薄れるというようなことはなかったが。どうも大林は管理職には向いてなかったようだ。教員を管理するという難しいばかりで面白みのない仕事に、彼の心は塞ぎがちだったように思われる。


 平教員に降格された大林には定年まで二年の月日が残されていた。大林は退職せず、屈辱の時間に耐える選択をした。彼は職員室の、副担任や講師が座る下座に当たる座席で二年間を過ごした。その席から正面中央の席に座る吉武と蜂須賀を睨んでいた。大林は表立って首脳部を批判することはなかったが、隣席になった本田には怒りをぶちまけていた。本田もそれに同調した。二人にはゴルフを通じて親交があった。職員室の中に反校長・教頭の熱い一角が生まれていた。翌年、大林の最後の年、二人の座席は引き離された。大林は一年から二年に配属学年が上がったが、本田は一年にそのまま留められた。そして幹生がその隣に座る羽目になったのだ。


 二年の副担任の席に座った大林は、自分の机と隣の机とが接する境に段ボール箱の一片を切り取ったものを挿し込み、仕切りにした。高さ十センチほどの仕切りが二つの机の間に立っている様は特異な光景だった。それは直接的には隣席の者に机上の侵犯を許さないという意思表示をしたと思われる行為だったが、大林の隣の五十代の理科の教員は寡黙な大人しい性格の人で、大林と確執を起こすようなタイプではなかった。その仕切りは隣の教員に向けたものというより、職員室の全ての教員に対する大林の拒否の姿勢を示しているような印象を与えた。とにかく大林はその席で、周囲の教員と殆ど話を交わすことなく一年間を過ごした。


 その日、幹生は退勤時、更衣室で偶然大林と一緒になった。着替えながら、「あいつやめんね」と大林は幹生に声をかけてきた。「あいつ、と言うと」と幹生は訊き返した。「頃末」と大林は答えた。「ああ、やめませんね」と幹生は応じた。そして、「やめりゃいいのに」と続けた。「しかし、今年度から非常勤になりましたね」と幹生は言った。「また何かを狙ってるんだろう」と大林は応じた。大林は頃末を嫌っていた。彼らは母校に勤めている先輩・後輩の間柄だったが、反りが合わないようで、大林は頃末を「先輩として恥ずかしい」と言っていた。大林の追い落としには頃末も一枚噛んでいた。「俺、明日から来んけ」と大林は突然言った。「今日が最後の出勤」と続けた。三学期末の終了式にはまだ一週間の間があった。「え、どうして」と幹生は問い返した。「有休取ったよ、一週間」「へえー」「こんなとこには一日も長くいたくない。これで最後と思うと清々するよ」大林はそう言った。そして、「先生にもお世話になったね」と言った。幹生には意外な言葉だった。「いや、こちらこそ。お疲れ様でした」と幹生は応じた。幹生は大林に何か言葉をかけてやりたい気がしたが、その気持を抑えた。大林はやはり幹生の望みを絶ち切った男だった。大林は更衣室を出て行った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る