9 策士(1)

 

 幹生は五十代に入ってから座席運に恵まれない。二年前は潮見が隣席だった。潮見が隣席となることを知った時、強い不快感と緊張が幹生を捉えた。彼は運命の皮肉な冷笑を感じた。


 潮見は幹生と肌の合わない教員だった。それだけではなかった。潮見が自分を批判していることを潮見と同学年に所属している広木から聞かされていた。幹生は自分が嫌っているのだから、相手も自分をよくは思っていないことは分かっていたが、広木の言うところでは相当のこき下ろし方をしているようで、「ボロクソに言ってますよ」と彼は言った。潮見は幹生が授業中、生徒を好き勝手にさせていると批判しているようだった。幹生はそれを聞いて、潮見に対して以前から抱いている不快と嫌悪の気持が一気に膨らんだ。陰で自分のことを悪し様に言っていることに怒りを覚えた。そんな悪感情に急激に捉えられた幹生には、なぜまたこんな嫌なことを自分に知らせてくるのかと広木の告知を憾む思いも動いた。交際範囲の広い広木は幹生にとって学校内の出来事を知る情報源として有用だったが、こんなことは知らせてくれなくてもよかったなと幹生は思った。「あまりひどいことを言っているので」と広木は言ったから、彼としては警告のつもりなのだろうと幹生は理解するほかはなかった。「言わしておけばいい」と幹生は広木に答えた。〈馬鹿は相手にしない〉と幹生は腹の中で呟いた。〈馬鹿を相手にしてもしかたがない〉と再度呟いた。


 ところが事はそれだけではすまなかった。潮見の幹生批判には目的があったのだ。それは幹生を担任から外して自分が後釜に座ることだった。二年のクラス担任は三年まで持ち上がるのが通例だが、次年度の担任配置が発表されてみると、幹生は担任を外され、幹生が担任たるべきクラスには潮見が担任として納まっていた。潮見は前年に続いて三学年のクラス担任となったのだ。彼は順序から言えば一学年に所属するはずなのだが、幹生が所属する学年に移ってきたのだ。幹生は残念だった。彼は珍しいことに校務分掌希望調査でその年度はクラス担任を希望していたのだ。彼がクラス担任を希望することなど十年来ないことだった。それまで幹生は担任か副担任か、希望する方に○印をつける欄にはなにも書かずに出してきた。校務分掌や部活動の希望を訊く項目もあったが、彼が○印をつけるのは学年配属の項目だけだった。そのためか所属学年は一年、二年、三年と順序通りに動いてきた。幹生は、担任の希望は出していなかったのに、それまでの二年間、一学年、二学年と担任に任ぜられた。それで、一度、一年から三年まで通して担任をやってみようかという気持になったのだ。それは幹生にとってこの学校では初めての経験となるものだった。だが幹生の望みは叶わなかった。もうこれで機会はなくなったと彼は思った。定年まで五、六年しか残ってないし、元々幹生には担任を望む気持はないのだ。


 座席配置が発表されると、幹生をボロクソに言い、幹生の望みを奪った潮見がなんと隣席だった。幹生は最悪だと思ったし、運命の強迫のようなものも感じた。これは本田が隣席になった時もそうだった。運命がそのようにして敵対者と決着をつけることを迫っているように思えるのだ。逃げることはできないという宣告を受けたように感じるのだ。幹生にすれば本田と同様、潮見などとは出来れば接触したくないのだが、運命は潮見を幹生の隣席に据えたのだ。隣席になった二人は一切話を交わさなかった。朝の挨拶もしなかった。これも本田の場合と同じだった。なぜこの男はこの学年に移ってきて、自分の担任の地位を奪ったのかと幹生は考えた。朧げながら、潮見の戦略のようなものが浮かび上がってきた。潮見は前年度、三年のクラス担任として満足のいく進学実績を上げることができなかった。進学実績は教員の力量評価に直結する。このままでは新一学年で特進など自分の望むクラスの担任をするのは難しくなったのだ。それで彼は再度三年のクラス担任になって進学実績を上げ、挽回をはかることにした。潮見は一番突き崩せそうな担任として幹生をターゲットに選んだ。幹生は潮見から見れば隙だらけだった。生徒管理面を突けばいくらでも批判できた。一方で自分の生徒管理力を売り込む。潮見は生徒管理に力があるという評価を得ていた。それで管理職や学年主任を動かしてこの人事を実現した。幹生にはそういう構図が見えてきた。


 幹生は自分が担任を外された理由について考えた。次年度の人事を管理職が考える二月に、彼は校長から二回注意を受けた。一つは入試の準備作業における、幹生の担任クラスの教室の清掃の不備だった。教室は試験場として使われるので、そのための清掃だった。幹生としては生徒に指示するだけでなく、自らも雑巾を持つなどして精一杯きれいにしたつもりだったが、校長の点検の結果、床の汚れが落ちていないとやり直しを命ぜられた。生徒指導部の美化・清掃を担当している教員の批判によるものだろうと幹生は思った。生徒指導部の教師は体育科が多く、幹生との人間関係は円滑でない者が多かった。床の上に土足に付いていた砂が落ちているという指摘だったが、どこがそんなに汚れているのか幹生の目にはよく分からなかった。幹生は内心反発を覚えながら、不得要領のまま再度床の清掃をさせた。その結果もよくなかったのか、結局彼の教室は試験場から外されてしまった。もう一つの注意は四泊五日の修学旅行の翌日、八名の欠席者が出たことに対するものだった。欠席届は全て出ており、殆どが発熱や体調不良だった。スキー研修の疲れが出たのだろうと幹生は思い、さして気に留めなかった。修学旅行が無事に終った安堵感の中で、指示によく従って動いてくれた生徒達には、疲れたのならゆっくり休め、と労る気持の方が幹生には大きかった。修学旅行から帰着した翌日は代休となるのが通例だったが、その年度は帰着の翌日は土曜日で、授業があるというスケジュールになっていた。しかも「総合学習」の授業が組まれていて、生徒達は文系・理系に分かれて、地域にある二つの大学に受講に出向かなければならなかった。大学から生徒の引率を終えて学校に戻ってきた幹生は職員室に入ったところで校長の大林と会った。大林は「八名も欠席が出たらしいが、どういうことか」と訊いてきた。幹生は情報がもう大林に伝わっているのに驚いたが、欠席の理由を伝え、欠席届は全て出ていると答えた。大林は「生徒に気の弛みがあるのではないか。しっかり指導してください」と幹生に注文を付けた。学年所属の教師が校長にいち早く情報を伝えたのだと幹生は思った。いわゆるチクリというやつだ。幹生は点呼をとっていた現場にいたその教師の顔を思い浮かべた。


 こういうことがあったから、次年度は担任を外されるのではないかという予感が幹生の胸を掠めることはあった。しかし注意されたことはどちらも彼にとっては取るに足りないことであり、さして気にかけてはいなかった。こんなことで担任を外すような校長は教師を見る目のないくだらない存在だと思っていた。だがこれらの事と潮見の画策が結びつくと、幹生を担任から外す十分な理由になるようだった。


 潮見は職員室に生徒をよく呼びつけて叱った。そしてかなり大きな声を出した。その日、幹生が授業を終えて戻ってくると、潮見が席に座ったまま、側に立っている生徒を叱っていた。その潮見の怒声が耳に入ると、不快感が幹生の身内を突き上げた。授業中、生徒の態度で不愉快なことがあり、それを怺えて戻ってきていた。職員室に戻ればまた嫌な奴が隣に居るんだと思いながら。椅子に座って少し寛ぐこともできないのかと幹生は思った。彼は机の上に教科書類を置くと、湯のみを掴んで席を離れた。お茶を汲んでくる時間がつかの間の休息だった。しかしそれは二分に満たない時間だった。席に戻ると、潮見はまだ生徒を叱っていた。

「ちょっと、悪いけど、あの端の方ででもやってくれないだろうか」

 と、幹生は不快感が突き上げるままに言っていた。

「今、生徒を指導しているんだから、余計なことは言わないでください」

 潮見は憤然とした表情をして言い返した。

「いや、だから止めろと言ってるんじゃない。向うでやってくれと言ってるんだ。ちょっと静かにしてくれないか」

 潮見は幹生より二十歳近く年下だった。

「職員室で生徒を叱ってはいけないと言うんですか。大事な教育活動をしているんですよ、私は」

 潮見の顔色が白っぽくなった。

「だから、叱るなと言ってるんじゃないでしょ。ただ職員室は教材研究をしたり、いろいろな仕事をする場所なんだから、静かさが必要でしょう」

「それはわかってますよ。しかし、叱らなけりゃならん時があるんですよ。それは教員なら理解すべきことでしょう」

「誰が理解していないか。そんなことは分かってるよ。ただ周囲のことも考えるべきだ、と言ってるんだ」

 幹生は少し気色ばんだ。

「生徒の前で言い合うのはやめてもらえませんか」

 と一人の教師が声をかけた。潮見はその声を聞くと、生徒の方を向き、

「よし、お前は帰っていい。俺が言ったことをよく考えておけよ」

 と言った。生徒は頷いて職員室を出て行った。さて、この後、潮見が何を言ってくるか、幹生は身構える気持になっていた。負けてはならないと思っていた。

「僕も気は遣っているんですよ。大きな声をださないようにしたり。しかし、どうしても大声が出てしまう時もあります。その時は申し訳ないですが、我慢してください」

 潮見はさきほどとはトーンダウンした調子で言った。それは幹生に対してというより周囲に配慮したためのようだった。肩透かしを食って幹生の体から力が抜けた。

「それは、いいけどね」

 幹生も声の調子を落して応じた。そして椅子に腰をおろした。何か言おうと思ったが、幹生にはもう言葉が出てこなかった。彼はすでに潮見を許す気持になっていた。潮見がそんな幹生の隙を突くように口を開いた。

「周囲のことも考えろ、ということですが、私も先生に言いたいことがあるんですが、言っていいですか」

「なんですか」

 一件が落着した気分になっている幹生はゆったりした声で応じた。

「隣で歯クソを取るのはやめてもらえませんか。先生、よくやってるでしょう。口の中に爪楊枝か何か入れて、あれ、不愉快なんですよ。」

幹生は苦笑した。何を言うのかと思ったらそんなことか。一矢報いようとしているが、潮見の負け惜しみのように思われた。

「いいですよ」

 幹生はギブ・アンド・テークのような思いで諾った。


 幹生は毎食後、歯間ブラシで食べ滓を取り、歯磨きをするのを日課にしていた。潮見はそのことに文句をつけたのだ。鷹揚に潮見の要求を諾った幹生だったが、こんなことまで言ってくるのか、と内心では驚く思いもあった。そして、反撃しようとしてそんな要求まで口にした潮見の不遜さが次第に不快に思われてきた。食事の後、歯の清掃をするのは責められるような行為なのかと幹生は考えてみた。社会生活上、容認されている行為ではないのか。だから飲食店の卓上には爪楊枝が置いてあるのだ。歯を健全に保つことは健康のためにも大切なことだ。遠慮しなければならないようなことではない。口中を露わにせず、手で隠すような配慮をしさえすれば、他人に責められる筋合いはないのだ。そう考えていくと幹生は、潮見の要求を簡単に諾った自分の迂闊さ、人の好さが腹立たしく思われ、悔やまれた。応諾を撤回しようかと幹生は思った。食後の歯の処置まで他人に遠慮しなければならない境遇が惨めに感じられ、不愉快でならなかった。よし、歯の清掃はこれまで通りやってやろうと幹生は思った。潮見が文句を言ってきたら、そのときこそそちらの要求に道理がないことを言い返してやろうと腹を決めた。ギブ・アンド・テークのつもりで諾ったのだが、潮見が今後職員室では生徒を叱らないと約束したわけでもなかったのだ。


 食事を終え、潮見が隣に居る時に歯間ブラシを取り出して使うのは、やはり緊張を覚える行為だった。幹生はそれを何度か敢行した。しかし、潮見は文句を言ってこなかった。彼にも自分の要求の理不尽さが分かっているのかと幹生は思った。文句は言ってこなくても、潮見の隣で歯間ブラシを使う際の緊張や窮屈さはその後も無くなることはなかった。

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