8 トリックスター

 広木はひと頃、学校の教員の中で幹生が最も親しく付き合っていた教員だった。彼はどういう経緯でそれを知ったのか、幹生が加入している詩の同人誌を知っていた。「先生は詩を書いていらっしゃるんですね」と広木が幹生に話しかけてきたのが二人の出会いだった。「どうしてそれを」と問うと、書店に置いてある同人誌を時々手に取るのだと言う。ペンネームを使っているのになぜ分かったのだろうと訝しく思ったが、それは訊かなかった。


 それから幹生と広木は急速に親しくなった。幹生は広木には心を開いて接することができた。自分が文学をやっていることを知った相手には、隠しておくことはあまりないように幹生には思われたのだ。文学という切り口は幹生にとっては、自己の全身がそこに隠されている秘密の入口だった。そこから入ってきた広木は既に幹生の秘密に触れているのだった。そしてそのことが幹生には少しも不快でも不安でもなく、むしろ自分の存在を認知されたかのような満足感があった。つまり幹生は文学者としてのプライドを擽られたのだ。


 幹生は広木に、日頃考えていることや感じていることを溢れるように語った。それは出口を見つけた奔流が流れ出すようだった。政治・社会・文学・教育、そして学校の現状。話題は多岐に渡った。孤独だった幹生はようやく話し相手を見つけた思いだった。六歳年下の広木は主として聞き役だったが、幹生の話の合間には自分の考えを述べた。二人の考えは大概一致した。真っ向から食い違うというものはなかった。二人は学校帰りにしばしば赤提灯で飲み、語るようになった。幹生が広木と知り合ってから数年間は蜜月時代といってよく、幹生は広木を知己として遇した。独身である広木を結婚させようとして、うまくはいかなかったが、自分の居住地域の適当な娘を紹介し、見合いをさせるという立ち入ったことまで幹生はした。


 広木の存在は学校生活の上でも幹生にとってはありがたいものだった。例えば遠足や体育大会や全校集会など、生徒集団と教師集団の二つの集団が生まれて対峙するような時、幹生は教師集団の中でポツンと一人居ることが多い。幹生自身はそれを自業自得と甘受しているが、生徒達にその様子を見られ、あの先生は孤立している、と思われることはやはり辛かった。そんな時、広木が側にいて、話でも交わしておれば、ヒリヒリするような居たたまれない感覚は随分と緩和されるのだった。


 非常勤講師として学校に入ってきた広木は常勤講師となり、やがて専任教諭になった。そしてクラス担任をするようになった。広木はそつのない仕事ぶりで、特進クラスの担任までするようになった。そうなると幹生との間が少し疎遠になった。幹生は学校の主流となるコースからは外れていたから、広木が主流に接近するにつれて懸隔が生じてくるのだった。広木の地位が上昇していくにつれて、幹生は広木から身を退いていった。広木が自分の話を承るという感じの新参者の地位から頭を上げ、専任という対等の位置に立つと、幹生は彼を自分からいつでも離反可能な存在と見るようになった。すると自分の考えを語り聞かせたいというそれまでの情熱がなくなってしまった。幹生には自分より目下で非力な者に対する偏愛があるのかもしれなかった。


 幹生が広木に距離を置くようになったのには他にも理由があった。幹生が担任をしていたクラスから転校者が出たことがあった。その生徒は喫煙で停学処分になり、その後、いじめの加害者としてまた処分を受けた。そして転校することになった。その生徒が転校してしばらく経ったある日、幹生は仕事を終え、広木と共に学校を出た。広木も電車通勤だった。乗り換えのK駅で電車を降り、エスカレーターに向かおうとした時、幹生はその生徒と出会した。生徒は転校した学校の制服を着ていた。幹生は驚いてその顔をみた。生徒は幹生の顔を睨みつけてきた。何だ、と、幹生はその怒りを訝しく思った。「話がある」と生徒は言った。幹生と生徒は人の流れから少し離れた場所に移った。

「俺は学校をやめたくなかったのに、お前のおかげでやめさせられた。どうしてくれるんだ! 」

 生徒は怒りに燃える目で幹生を睨みながら怒鳴った。幹生は自分より上背のある生徒を見上げて、恐怖を感じた。

「何を言っているんだ。お前が選んだ進路じゃないか。俺はやめろなどとは言ってないぞ」

 と幹生は応じた。転校を申し出てきたのはこの生徒の保護者であり、生徒を交えての話し合いの時には、本人もその選択に納得しているようだった。

「お前の指導が悪いからクラスに居れなくなったんだ。停学になって、家庭訪問に来た時、お前は俺ばかり責めたな。どんなに俺が苦しんでいたか、お前は分かっていたのか」

 幹生の脳裏に、この生徒の家を訪ね、生徒の部屋で向き合って話をした時のことが浮かんだ。幹生の記憶ではこの生徒の今後によかれと思うことを語ったはずだった。生徒もそのときは黙って聞いていたのだ。

「俺はお前にとって大切だと思うことを話したつもりだ」

 と幹生は言った。

「お前は俺を欠点だらけの人間のように言った。俺がどれだけ我慢していたか知っているか」

 と生徒は応じた。あの時の説諭がこの生徒の自尊心を傷つけていたのか、その恨みを言いたいのか、と幹生は思った。しかし、そんなことをこんな場所で話しても仕方がないではないか、と彼は思った。するとこんな状況からは早く脱しなければならないという焦りが彼を捉えた。

「お前のお陰で俺は今、苦労しているんだぞ」

 と生徒は言った。さて、どうしたものかな、と幹生は迷った。

「お前の目は泳いでいる。その程度だよ、お前などは。偉そうなことを言うな。」

 生徒の語気に、幹生は殴られるかもしれないという危惧を覚えた。

「ちょっと待て。暴力を振るうと警察を呼ぶぞ」

 と幹生は言った。内心抵抗はあったが、今の状況では言う必要があると判断した。後で考えればそれはやはり教師としての無力を示す言葉と思われた。

「ここで話すのもよくないから、場所を変えよう」

 と幹生は言い、どこという当てはなかったが、歩き始めた。二、三歩歩いて振り返ると、生徒の姿は消えていた。


 幹生はぼんやりしてその場に立ちつくした。我に返って周囲を見回すと、後ろからついて来ていたはずの広木の姿はなかった。こんな危難の時に自分を見捨てて去ったのか、と幹生は思った。いざという時の広木の薄情さを確認したように思った。この出来事も幹生が気持の上で広木に距離を置く一因となった。


 こんなこともあった。幹生が広木と赤提灯で飲んだある夜、話題が広木が担任をしているクラスの生徒のことに及んだ。その生徒は万引き行為で家庭謹慎になっていた。広木は二日に一回の頻度で家庭訪問を行っていた。その生徒には自傷癖があり、手首にはリストカットの切傷がたくさんあった。何をするか分からないので訪問を頻繁にしなければならないと言う。だが、生徒と向き合っても話すことはない。気分はどうか、とか、調子はどうか、と訊くくらいしかなかった。学校生活に何の意欲も抱いていない生徒だと言う。幹生は広木へのアドバイスのつもりで、その生徒が何をしたいのか探る必要があるのではないかと言った。学校生活に意欲が持てないというのであれば、学校以外の領域でも生きる道はいくらでもあるということを語ってきかせることも必要なのではないかと述べた。そしてその生徒がしたいと思っていることを聞き出し、それを今後の生活の指針に据えてやるのだ。そんな話はしないのか、と広木に訊ねると、広木は学校の教師が学校以外にも進路の選択肢はあると言うのは無責任だと答えた。そして、幹生のように担任になることを避けている人間からあれこれ言われたくないと付け加えた。父子家庭で、父親がリストラされ失業中で、子供と向き合う姿勢がない。そこに真の問題があるようだが、そこまで生徒に関わりたくないと広木は言った。そしてそんな醒めた気持は教職に就く前に勤めていた予備校の非人間的な労務管理が植えつけたものだと述べた。ワンマン理事長が支配するその予備校では就業時間外労働は当り前で、理事長の気に入らない職員は前日告知で解雇されたという。自分には仕事上の人間関係は賃金を得るという枠のなかのものという割り切りがあると広木は言った。生徒もその枠に含まれるのだった。それは仕事で自分を追い込まないための割り切りだが、過剰防衛になっているのかもしれないとも言った。


 幹生には担任を避けている人間から言われたくないという広木の言葉が胸に応えた。確かに幹生は校務分掌の希望調査でも担任を希望しなかった。それは管理主義的傾向の強い学校の生徒指導のやり方に嫌悪と批判を抱いていたからで、そういう方針のもとで生徒に接することに不安を覚えていたからだ。できるだけそんなやり方に縛られたくないと思っていたが、担任は生徒指導では一律に足並みを揃えることを要求される。だから担任を希望しなかった。幹生は管理主義に反対する自分の考えを広木にも語っていたし、その理由で担任を希望しないことも話していた。広木はそんな幹生の姿勢に理解を示しているように思われたのだが、本当のところは批判していたのだなと幹生は思った。すると広木も学校の主流派の教師と同じように、専任のくせに担任にもならず仕事をサボっている怠け者、あるいは担任が勤まらない低能力者と自分を見なしているのかもしれないという懸念が幹生に生れた。そんな思いも幹生の気持を広木から離れさせる要因となった。


 幹生は広木に周囲の教員に対する批判も語っていた。それは主として学校で展開されている管理教育や受験教育への態度に関する批判だった。多くの教員が迎合・推進派であることへの批判だった。幹生がこういう話を広木にするのは彼が文学という入口から幹生に接触してきたからだった。文学を解する者はリベラルであるという思い込みが幹生にはあった。幹生の考えが誤りではないことを示すように、幹生に対して広木は概ね肯定的であり、頷きながら聞いていた。幹生は自分が職場で孤立している状況を周囲への批判によって理由づけた。広木は幹生が周りの教員と口をきかないことについて、それは他の教員も同じだと言った。他の教員たちも自分と合わない者とは話を交わさないというのだ。幹生は自分の状況と他の教員のそれとが同一視されることには不満を覚えた。幹生には自分の孤立は個人原理に基づくものという自負があった。表れは似ているかもしれないが、それは人間への単なる好悪がもたらしたものではなかった。十五年戦争を孕む日本の近代史の検討を通じて育まれた、日本社会と日本人に対する批判を根底におくものだった。他の教員にそのような意識があるとは思えなかった。考えたこともないのではないかと幹生は思っていた。そこには幹生の一種のエリート意識、あるいはヒロイズムが漂っていた。幹生は広木が自分を本当には理解していないと思った。これも広木との間に距離を置く意識を生んだ。


 広木は幹生とつき合いながら、特進の担任として学校の主流派とも接触のある男だった。こだわりのない、幅広い交際範囲を持つ広木にとっては幹生もそのなかの一人に過ぎず、相対化されて見られているようだった。


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