7 餅のことども

 幹生は国語科の専任教師の中で蜂須賀と並んで最高齢だった。その蜂須賀は教頭になって以来、科を離脱した形になっており、今年度も戻ってはこなかった。だから国語科に所属する教諭の中で幹生が事実上、最年長ということになった。体育会的気風が支配している国語科では、齢が上であるということは、幹生と蜂須賀を比較した奈良井の言に示されたように、人間関係において上位であることを意味した。従って幹生が建前としてその人に対して謙(へりくだ)らなければならない人間は国語科の中にはいないことになった。それは逆に言えば、幹生を公然と圧迫してくる人間は国語科の中にはいなくなったということを意味した。科の中で孤立している幹生にとってはそれは確かに有利な状況だった。非常勤講師となった頃末がなおも国語科に睨みを利かそうとはしていたけれども。


 国語科の教科主任を長く務めた八田が退職した後、後任に選ばれたのが室伏だった。室伏は幹生より十歳以上も年下であり、奈良井を除けば、他の国語科の教諭は皆その室伏よりも更に年下なのだった。国語科には「和」によって科をまとめる者が必要であり、室伏が主任に選ばれたのはその理由からだった。


 室伏は入試採点の折には、採点する部屋に妻が焼いたというパンを持参して振舞った。それは毎年のことで、恒例となっていた。八田もそんなことをしていた。漁が趣味で、自分の船まで持っていた八田は、飲み会の時に自分が獲った魚を一尾丸ごと持参して、店の調理場に入って自分で刺身に捌いて出したこともあった。入試採点の折には海産物の干し物をつまみに持ってきて振舞った。室伏はそんな八田のやり方に習っているようだった。


 教科の集りに何かを持ってくるのは主任だけではなかった。現在は退職していないが、八田の主任時代に時山という教師がいた。彼は入試の採点の日になるとぼた餅を持ってきて振舞った。大きな風呂敷包みを開けると、生徒用の机の天板くらいの大きさの箱が現れた。箱の中には餡・黄粉・よもぎなどの餅がきちんと並んで入っていた。餅屋に注文したもので、形も整っており、味もよかった。幹生も「いただきます」と言って、一つを口に入れていた。


 八田は按摩の心得もあって、採点中に教員の首や肩、背中を揉んだ。これは別に訴えがなくても、八田がこれは凝っていそうだと目をつけた教員を揉んでやるのだ。「あんた、だいぶ首が凝ってるんじゃない」と言いながら八田は近づく。言われた教員は「そうですか」などと応じながら、首を回したりする。「ちょっと揉んでやろう」と八田は言い、教員の首を掴む。「イタタタ」という声がその教員から発せられる。こうして八田の巡回が始まり、按摩が二、三人に対して施される。


 幹生は八田のそんな奉仕的行為を否定することはできなかった。自分にも他人にもこだわりの強い己にはとてもできない行為だと感心した。パンや餅や魚など、具体的な物を他人に提供するという行為も、人間同士のつながりを形で示す行為として価値あるものと思われた。幹生はこういう行為を目にすると、そんなことを気軽くできない自分を慨嘆する思いに捉われた。己の吝嗇がその原因としてあるように思われて劣等感に捉われるのだった。しかし、八田にしても時山にしても人間としての親しみを幹生に抱かせるような人柄ではなかった。


 彼らの行為は彼らなりの社交術であり、他者とのコミュニケーションを保つ手立てだった。特に八田の按摩サービスは彼一流の洗練されたパフォーマンスだった。八田はそれによって教科の「和」を形として示そうとしていた。按摩をしてもらうという人間関係は、それを商売にしている者との関係を除けば、親密な関係を普通意味している。だからさほど親しくもないのに按摩などをされるとすまなく思ったり、心理的に落着かないものを感じるものだ。だが八田が按摩を始めると教員たちは抵抗もなく体を預けた。そうすべきなのだという暗黙の了解がそこに生れているのを幹生は感じていた。一種の儀式のような受けとめ方であり、幹生はそこに人為的な臭いを嗅いでいた。教科主任の権威が確かにそこには作用していた。八田には教科主任の謙虚さを示す行為と意識されているのかも知れないが、按摩される者は内心で恐縮を強いられるのだ。幹生が抱いている違和感や抵抗感を他よりも強く感じ取ってか、八田は幹生には按摩を施さなかった。


 その当時、時山のもたらすうまい餅を求めて、毎年、国語科の採点部屋に現れていたのが前校長の吉武だった。採点開始から一時間ほどが過ぎた頃、吉武は現れる。「真面目にやってるか」と声をかけて、にぎやかに部屋に入ってくることもあれば、黙って入ってくることもある。黙って入ってきても吉武はすぐ遠慮のない声で誰かに話しかけるので、その出現は知れ渡る。吉武がまず話しかけるのはたいてい若い教師、あるいは応援で来ている体育科の教師だ。

「お前、ちゃんと採点しとるのか。適当にマルつけとったらつまらんのぞ」

「何を言うんですか。ちゃんとやってますよ」

 声をかけられた体育科の教師が唇を突き出して言い返す。

「本当か。こいつ仕事遅いやろ」

 吉武は隣に座っている室伏に訊く。

「遅いです」

 にべもなく室伏は肯定する。

「ほら、室伏もこう言うだろう」

「ちょっと待ってよ。俺、そんなに遅い?」

「遅いよ、お前は。今までに何冊やった。俺はもう六冊目なんよ。お前、まだ三冊目だろうが」

 室伏がここぞというように決め付ける。一冊とは答案が綴じられた一束のことだ。

「そんな。僕は国語科じゃないんだから無理でしょ、先生と同じペースは」

 佐山という体育科の教師は室伏に抗弁する。

「何が無理か。記号に○×をつけるだけやないか」

吉武が答案を覗きこんで言う。

「はい、ちゃんと仕事をしなさいよ。昼飯だけ食っちゃだめだよ」

 吉武は佐山にたしなめるように言う。採点業務の日も学校から豪勢な昼食が出ていた頃だ。

「うるさいな」

と頃末が声を出す。

「急にうるさくなった」

 と近くの教師に言って笑う。

「佐山は声が大きいからうるさいっちゃ」

 と吉武は佐山を責めることで頃末に応じる。


 吉武は当時バドミントン部の顧問だった。バドミントン部はインターハイに毎年出場するような部活で、室伏はその副顧問をしていた。我儘で癖のある吉武に室伏は仕える感じで接していた。吉武は年下の、特に体育科や部活関係の教員は呼び捨てにした。室伏もそれを踏襲するところがあった。国語科が体育会系であるだけでなく、学校全体に体育会系的な秩序意識や考え方が色濃く流れていた。そんな雰囲気の中では教員の呼び捨ても異とするに足らなかった。本田が年下の教員を呼び捨てにする下地にもそれはなっていた。ただ、呼び捨てにする前提には一定の親しさや、部活指導などを通じてできた人間関係があるのだが、本田の場合はそんなものはないのに、ただ自分が上位であることを示すために呼び捨てにしているという不自然さがあった。

「八田先生、ご機嫌いかがですか」

 吉武は主任の八田の側に行って声をかけた。

「ああ、ご機嫌いいよ。どうしたん、餅食いに来たん?」

「また、そんなことを言う。ちょっと気分転換に来たんよ。理科は雰囲気がよくないけ。皆、黙りこんで、息が詰まる。あんなところには長くおれん」

「そう。黙々と採点が進みよるんやろ。どれくらいいった?」

「田上が役に立たんから、そんなに進んでない」

「田上、ちゃんとやってますか」

 さっき吉武にからかわれた佐山が訊ねる。田上は体育科の教員で理科の採点を手伝っていた。佐山と田上は仲がよかった。

「あんたと同じ。役立たず」

 吉武はそう応じて、

「国語科は午前中にどれくらいいくつもり」

 と八田に訊ねる。

「二千を目標にしとる。それくらいいくやろ。理科はどうなん」

「知らん。光本が何かごちゃごちゃ言いよった」

 光本は理科の教科主任だった。

「ちゃんと情報伝えな、餅やらんよ」

「また、そんなこと言う。僕と餅を切り離して考えてもらえんかな」

「そう。それでええの? あんたと餅を切り離していいんなら、あんたにやる餅はなくなるよ」

 八田は吉武をからかう。

「意地が悪いからな、八田先生は」

 吉武は言葉に詰って苦笑いする。

「意地が悪いとか、人聞きのよくないこと言いなさんな。あんたのために餅を残してやっとんのに。そんなこと言うなら、本当に餅はやらんよ」

「はい。すいません。申しわけありません」

 吉武は頭を下げて謝る。

「はよ餅食って帰り。油売ってないで」

「八田先生には敵わんな」


 吉武はそう言って八田の側を離れ、なお二、三の教師に声をかけ、冗談口を叩く。幹生は近づく吉武に、もし彼が自分に声をかけてきたらどうしようかと思う。吉武は幹生と同年齢だ。やはり幹生とは肌が合わず、日頃は話を交わさない。だから彼が自分に話しかけてくることはないと思う。しかし、気分屋の吉武だ。ふとその気を起して、揶揄的な言葉をかけてくるかもしれない。それに対して、こちらも同じように冗談口で返せるかどうか、そこに幹生は不安を覚えて緊張するのだった。しかし、幹生の不安は大概杞憂に終り、吉武が彼に声をかけてくることはなかった。吉武は時山に声をかけて、二、三個の餅を取って出ていく。

「ようやく静かになった」

 と頃末が皮肉な笑いを浮かべて周囲に言う。吉武の出現は彼が教頭になるまで毎年続いた。「そろそろ耕次が来る頃だ」と八田が言い、「餅を隠しとけ」となることもあった。耕次は吉武の名で、吉武姓の教員がもう一人いたので、区別するために名を添えて、「ヨシコ(吉コ)」などと呼ばれていた。教師名の載るプリントなどに「吉武(コ)」と書かれてい

たのを略した言い方だ。現れた吉武は八田から「餅はもうなくなったよ」とからかわれるのだが、そんな時でも結局はいくつかの餅を手にして帰った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る