6 ソフィスティケーション

   6 ソフィスティケーション


 一般入試の採点はかっては四日かかった。受験生が四千人を越えていた頃だ。それが受験生が二千名を切るようになると二日で終るようになった。採点そのものは一日で終り、点数のコンピューターへの入力、そして合否判定会議に一日が費やされる。各教科の採点は、その科の全ての専任教員、講師、そしてヘルプとして体育科の教員が動員されて行われる。体育は試験科目にないので、体育科の教員は各教科に一、二名ずつ割り振られ、採点の手伝いをする。採点する場所として各教科に部屋が宛がわれる。国語科はこの数年進路室がその場所となっていた。


 幹生にとって気の合う者のいない国語科の教員達と、一室で何時間も作業しなければならないことは気の重いことだった。先ず、最初のハードルは採点する箇所を決めることだ。各自、希望する箇所を言ってくれと教科主任が声をかける。採点が簡単なのは記号や数字だけの解答が並ぶところだ。幹生もその箇所が望みなのだが、楽な場所だと分かるだけに他人ひとより先に言いにくい。面倒なのは漢字の書取りや、記述式の解答になっている箇所だ。正誤の判断が簡明でないことが多い。採点者によって判断が異ならないように、その箇所を担当する者は協議して採点の基準を取決めなければならない。そうした採点者間の意思疎通が必要なので、それに適した者たちで自然と組を作ることになっていた。それで幹生が面倒な箇所を担当することはあまりなかった。採点箇所は例年通り簡単な箇所だったが、今年は巡り合せが悪く、幹生は頃末と組むことになった。


 十数人が部屋の適当な場所に席を定めて採点を始める。幹生は端の方に居るのが通例だ。彼はしゃべらず、黙々と採点する。しゃべるのは部屋の中央あたりにいる教員。教科主任の室伏がその中心になっている。

「欽ちゃん、ツレスコって店にさ、この前行ってきたよ」

 室伏が迫田に声をかける。

「ツレスコって? ああ、T駅前に出来た店ね」

「うん。あそこでさ、飯食って、ちょっと中を見て廻ったよ」

「どうだった」

「そしたらさ、変装用具を売っているコーナーがあってな」

 室伏は笑い声になりながら言った。

「変装用具って、姿を変えるやつ? 」

「そう、そう。何であんなもの、あんなところで売っているのか、わけわからんのやけど」

「あれはスポーツ用品を売ってる店ですよね、アウトドアの」

 奥平が口を挟んだ。

「そうなんだよね」

 室伏が頷いた。

「そこにさ、秋元が被ったら似合いそうなかつらがあったよ」

 室伏は体育科から応援に来ている教師の姓を言った。

「ドンナ、カツラ、デスカ」

 小学生が一語一語区切って教科書を朗読するときのような語調で、秋元が訊いた。

「決まっとろうが。ハゲの鬘よ」

 室伏が突然ぞんざいな口調になって答えた。

「ボクニハ、ソンナカツラハ、ニアイマセン」

 秋元がまた小学生の朗読調で応じた。周囲の四、五人から笑い声が漏れた。室伏はさっきから秋山をターゲットにしてからかっていた。

「いや、あんたにはばっちり。メガネもついてるし」

「ほんとにそんなコーナーあったの」

 迫田が笑いをうかべながら訊いた。

「あったよ。マジな話。メードのエプロンにさ、あの、オッパイのところが丸く刳りぬかれたやつがあってな。あれはちょっとエロかったな」

「やはりそっちに話がいきますね」

 秋元が半畳を入れた。

「何を言ってるんだよ。お前、来年、親愛会の幹事だろ。あんなの買ってきてさ、忘年会の余興にでも、何かやれよ」

 親愛会は教職員のフォーマルな親睦組織だ。

「そりゃ、先生に先ずご出演願いましょうか」

「俺か、俺はだめだよ。俺がやったらモロ、出しちゃうからな。そんなもん、忘年会、ブチこわしになるぞ」

 室伏の声は途中からひきつったような笑い声になった。

「どうしてそんな所で飯食ったん」

 迫田が訊ねた。

「部活の練習の帰りにね。その日はカミさんが家にいないから、外で食ってくれということでね。どんな所か、行ってみたのさ」

 室伏はバドミントン部の顧問だ。迫田は登山部だった。

「どうでした、中は」

 奥平が訊いた。奥平はラグビー部の顧問だ。ラグビー部は去年の正月、県代表として全国大会に出場していた。採点の応援に来ている秋元はラグビー部の監督だった。体育科の教員は皆運動部の顧問・監督だったから、国語科の教員は部活を通して体育科の教員と接触が多かった。

「うん、結構広いよ。一階が海・山関係だったな。二階が各種スポーツ。品揃えは豊富だよ」

「食べるところもあるということですね」

「三階にね。和・洋・中、いろんな店が入ってるよ」

 室伏はそう答えて、

「ああ、そうそう、帰りにあいつに会ったな。四組の室田に。チャリに乗っていた。どこへ行くんだ、と訊いたら、慌てた顔して、塾に行くとか言ってたけど、あれはウソだな。会ったのは八時過ぎだぜ。そんな時間に始まる塾なんかないだろ」

「あるよ、最近は。結構遅くまでやってるから」

 迫田が室伏の認識を正した。そして、

「室田ね。あいつも変なところがあるね。授業中、どこか気が抜けてるな」

と続けた。

「この前、授業中に頭がコックリ、コックリしてるから、注意したら、眠ってないと言うんだ。目をつむって考えごとをしていたと、さも本当のように言うんだ。でも、目が赤いんだ。お前、目が赤いじゃないかというと、言葉に詰まって、考えごとしていたら寝てしまったんです、と威張って言うから、それは普通の居眠りだと言ったんだ」

 迫田が笑いを含んだ声で話すと、周囲の二、三人が笑った。


 この一群のこのような会話がBGMのように採点する室内には常に流れている。その流れのなかに、時折、奈良井や頃末が加わる。蜂須賀が居れば、彼も同じように加わったことだろう。蜂須賀は入試要項や願書を中学校に持参する段階から入試業務には携わっていなかった。昨年度は教頭だった人物が今年は平になって中学校を訪れるというわけにはいかないのだ。今年度の入試業務には全面的にタッチしないということらしく、採点のメンバーにも加わっていなかった。室伏らの会話に加わらず、ほとんどしゃべらず採点するのは数人の女性教師と幹生だけだ。斉藤がいた時は、彼もしゃべらなかった。斉藤は黙々と休まず採点を続けた。一綴じ百名分の採点が終ると、斉藤は一服することなく立ち上がり、次の一綴じを取ってきて、また採点に没頭するのだった。頃末の次に年長の斉藤が黙っていることが、同じく沈黙している幹生の気持を楽にしてくれていた。周囲に気をつかって意味のないことをしゃべる必要はないのだった。


 室伏は主任になる前からこういう場所ではよくしゃべっていた。内容は学校内外の出来事や四方山話だったが、馬鹿話も多かった。馬鹿話には下ネタの話も少なくなかった。アダルトビデオの話も平気で口にした。女性教師も数人いるなかで、幹生には際どく感じられることも何度かあった。確かに室伏たちの話によって国語科の採点部屋は重苦しい沈黙を免れた。表面的には明るく和やかな雰囲気が漂っていた。そのためにこそ室伏たちはしゃべっているように幹生には思われた。幹生も初めの頃は彼らの話のなかに入ろうとしていた。しかし彼は遂に入れなかった。そこには壁があった。例えば室伏のように語るためには「馬鹿」になる必要があった。エロビデオが好きで、暇があればそれを見ている人間だと皆の前で自認するなどのことが必要だった。その前提があって初めて室伏の会話は部屋の中を流通し、受け入れられているのだった。それは幹生にはできないことだし、したいとも思わなかった。会話というものがそんな構えを必要とするものとは思われなかった。何か変だった。室伏の話を何度聞いても、室伏という男への理解が深まることはなかった。室伏は決して本音を語らなかった。彼の話そのものが一種の自己韜晦とうかいだった。例えば幹生には、室伏が下戸なのか飲めるのかさえ分からなかった。室伏は飲めるような話をするのだが、迫田や奥平の受け答えをきいていると、どうもウソのように思われるのだった。これは実際確かめるほかはないと思うのだが、宴席ではそんなことは忘れているか、じっくり観察する余裕などもないのだった。


 つまり国語科の集りで流れている会話はやはりBGMなのだ。それは気詰りな沈黙を解消するためのものなのだ。室伏という男は最も果敢にその役目を買って出た男だった。各人が気位が高く、自己防衛的で、それ故反目が生れやすい教員間の重苦しい雰囲気を打破するためにはプライドを捨てた「馬鹿」が必要だった。室伏の「エロい」話はもっとも効果的だった。面白おかしく虚の鼓を打つ室伏に、その意を承けた教員たちが、これも面白おかしく虚を打ち返しているのだった。それは意思を疎通するという素朴な意味での会話ではなく、聴衆を意識しての一種のパフォーマンスだった。だから聴衆は彼らの会話になんらかの形で賞賛アプローズを表する必要があった。場の雰囲気を良好にしようと努める彼らの営為に、その場にいる者として応える義務があるように感じさせられるのだった。室伏たちの会話はこうして国語科内に彼らの結束の力を示すことにもなっていた。だからそんな会話の数時間が過ぎた後に漂っているのは空虚な疲労感だった。馬鹿話をしたのに疲れているのだった。会話する者も聞かされる者も、それが「和」を保つための一種の儀式としての会話であることを暗黙のうちに知り、それが破綻しないように上手に対応してきた、そのための疲れだった。そんな会話の人為性のようなものが幹生には壁となった。確かにその人為性は隠然としており、表面的には自然な会話が展開されているようであった。だからそこにはそういう意味で洗練ソフィスティケーションがあった。室伏の「エロい」話は漂う人為性を払拭するうえでも効果があった。しかし、幹生は彼らの会話についていけない空しさを感じて、加わることをやめたのだ。気まずい雰囲気が流れたとしても、それは仕方がないではないか。それを中身のない会話で糊塗することはないではないか。重苦しい沈黙が訪れたとしても、その後に、やがて生れてくる自然な会話を待てばよい。幹生はそう思うのだった。室伏たちの会話は、形を優先する彼らの体育会系の思考によって、会話をしているという形を先ず作ることで「和」を示そうとしているように思われるのだった。


 頃末が採点のピッチを上げている。採点を終えた答案の束を持って立ち上がり、それを正面の長机の上に置き、同じ長机の上の束の山から未採点の一束を持って戻ってくる。そのテンポに注意すればそれは分かる。幹生と頃末が組になって担当しているのは、大問二番の小説問題の前半、問一から問四までだった。採点作業は、採点→点検→点数記入→各問の点数の合計→検算という手順で行われる。第三段階までがそれぞれの組が行う作業だ。頃末が採点した分は幹生が点検し、そのパートの点数まで記入する。幹生が採点した分は頃末がそうするのだ。頃末がピッチを上げて彼が採点した束の方が多くなっているようだ。幹生は焦りを感じた。頃末はピッチを上げることで幹生にプレッシャーをかけていた。このまま差が広がるようだと頃末が噛みついてくるかもしれない。黙っている男ではないし、むしろそれが意図するところかもしれなかった。そう考えた幹生は採点方法を切替えた。答と配点を暗記し、答案だけを見て採点していくことにした。それまではちらちらと模範解答に目をやり、答と配点を確認していたのだ。これでペースは上がった。もっと早くからこうすべきだったと幹生は悔いた。こんなところに実務における自分の甘さがあると彼は思った。頃末は最初からこの方法で採点していたはずだった。


 昼食になった。以前は食堂に教員のための昼食が用意されていた。ゼザートまで含めて五品ほどの副食物がつく豪勢なものだった。コーヒーやジュースも用意されていた。入試当日から判定会議まで、入試業務が終るまで昼食の供与は続いた。入試当日は折詰の弁当が出された。尾頭付きがはいっているような折詰だった。受験生が三千人を割り込み始めてから昼食の供与がカットされるようになった。食事が供されるのは入試当日のみとなった。それも折詰の豪気なものではなく、プラスチック容器入りの幕の内弁当に変った。入試だけではなかった。卒業式にも入学式にも昼食は出なくなった。


 各自、自前の昼食を終え、採点が再開された。しばらくして、頃末が座っている席から幹生に、「早瀬先生、点検に回ってください」と声をかけてきた。眼鏡の奥の目を冷たく光らせながら強い口調で言ったのだ。自分の方が採点の進度が速く、採点済みの束もたくさん溜っているので、早く点検しろと言うのだった。それは幹生の採点が遅いことを暗に批判するものだった。頃末の声は周囲に聞こえるもので、自分の側に立つことが明らかな国語科の教員たちをバックにして、頃末が圧力をかけてきたように幹生は感じた。幹生は採点方法を変えてからかなりピッチを上げたと思っていた。頃末にだいぶ追いついたように思っていた。それにまだ手付かずの束もいくつもあるのだった。誰が採点しようとその点検は組の別の者がしなければならないのだから、採点が遅い者は点検の量が増えるわけで、組になっている二人の仕事量は等しかった。また採点と点検に二人の仕事を分けて進める方法と、未採点の束を先ず無くす方向で作業を進める方法とで、仕事の捗りに差が出るとも思われなかった。それで幹生は、「僕が採点した分は先生が点検し、先生が採点した分は僕が点検するんだから、進み具合は結局同じなんじゃないですか」と応じた。何か言い返してくるかと思ったが、頃末は眼鏡の奥の目で幹生を睨んだだけで、何も言わなかった。

  

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