5 ビターホーム

 幹生は所属する国語科の中でも孤立していた。原因はやはり幹生の人間に対する好悪ということになるのだろうか。国語科の専任教員達にはいくつかの共通する傾向があり、それがまさに幹生が嫌うものであった。


 一つはタイプとして体育会系であったこと。幹生以外は皆運動部の顧問をしていた。これは頃末以前から続く一種の伝統なのかもしれなかった。国語科の専任教員達は教える教科の内容に反して、文化、文学的なものに関心が薄く、宴席などでもそんな話題が出ることは絶無と言ってよかった。文化的な香りは至って希薄な人々であり、集団だった。


 一つは立身出世志向が強いこと。競争意識が強いと言った方がいいかもしれない。幹生以外は殆ど全員が特進クラス(国公立大学進学を目指すクラス)の担任をしていた。クラス担任をしていて部活の顧問でもあるというのが評価される教員のスタンダードになっていたが、国語科の場合は単なるクラス担任ではなく、特進の担任を目指すのだった。学校では「文武両道」という言葉がよく使われたが、特進クラスの担任で運動部の顧問であることが、「文」(勉強)と「武」(運動部)の両方をしっかり指導できる教師であることの証明となるのだった。そして数年を経て学年主任を目指すというのが標準のコースだった。学校には現在二人の国語科籍の学年主任がいた。三学年あるうち、二つの学年の主任が国語科なのだ。学年主任の先は部長だ。教務、・進路・生徒の三部長のポストがあるが、国語科では、教務、・進路のどちらかの部長になるのが標準コースのようだ。その先が教頭、そしてゴールは校長だ。この出世コースを先頭切って走っていたのが蜂須賀だった。蜂須賀は教頭までなった。彼は特進担任とバレー部の顧問を務め、バレー部を全国大会出場の常連部に育てた。その後、学年主任、進路部長、教務部長と順調に進み、一昨年、校長が突然交代した折に教頭に就任した。国語科の若い教員は蜂須賀を一つの模範としている風があった。


 一つは受験教育一意推進型であること。彼らは受験教育に何の疑いも抱かず、生徒を大学に合格させることこそ教員の仕事であり、授業はそのためのものと固く信じているようだった。生徒の人としての成長や発達、生徒の人生に対する教育の作用などは念頭を過ることもないようだった。もちろんこういう傾向は国語科だけの特徴ではなく、他教科にも見られるものではあったが、国語科では特にその点で一枚岩的に結束している雰囲気があった。


 数年前までは国語科の教師の中にも幹生と肌の合う教師がいた。斉藤というその教師も運動部の顧問をしていて、全国レベルの入賞を何度もしていたが、他の二つの点は異なっていた。斉藤は特進クラスの担任にはならず、私文クラス(私立大学文系学部進学志望クラス)の担任を長く続けた。彼も確かに教務部長にはなったが、三年間務めただけでやめた(部長は最短三年間務めるのが通例)。斉藤には輿望よぼうがあり、教務部長を続けていれば、教頭、そして校長になることは確実だった。彼はむしろそうなることを避けるように教務部長を辞めたのだ。定年前の二年間は、運営委員会のメンバーに入ることになるような役職は全て固辞して過ごした。退職の際は国語科のお別れ会を謝絶し、最後となる通例の飲み会にも欠席した。退職前の斉藤の態度には学校及び国語科に対する忌避の意志が色濃く出ていた。幹生はその態度に共感を覚えていた。教務部長になる前に生徒指導部長を六年間務めたのも国語科としては異色だった。


 斉藤は教え子に慕われ、担任クラスの生徒や部活の生徒が結婚する際、仲人をよく頼まれていた。また行かなならん、とこぼしながら、年に一、二回は教え子の結婚式に出席していた。腰が低く、誰に対しても話しかける時は「すいません」と言ってから用件を言うのが癖だった。酌がうまく、幹生は宴席で斉藤の前に座るといつのまにか酒量が増えていた。国語科の飲み会では幹生がフランクに話せる唯一人の教師だった。


 国語科のリーダー的存在である蜂須賀に、幹生は一度、受験教育への批判をもらしたことがある。まだ幹生がこの学校に職員として入ってきて間もない頃だ。批判といっても論理立ったものではなく、いわば不満を述べた程度で、どの学校でもその程度のことを口にする教員はいるだろうと思われるほどの内容だったが、聞いていた蜂須賀は何のためらいもなく、表情もかえず、「何でここにいるの?」と幹生に問い返した。この学校は受験教育をする所なのに、それを批判する、あるいはそれに不満があるのなら、なぜこの学校にいるのか、という意味だ。幹生は人を食ったその問いに少し驚き、反発を覚えたが、「そりゃ、食べるためですよ」と、彼にとって自明の理を答えた。蜂須賀はそんな答えはあまり耳にしたことがないのか、きょとんとした表情をした。


 国語科に奈良井という教師がいる。彼はバスケット部の顧問をしていた。蜂須賀より五、六歳下だったが、蜂須賀と親しく、彼に兄事しているように見えた。

これも幹生がこの学校に来てから間もない頃の話だ。入試の採点業務の折のこと。先ず始めに採点する箇所の分担を決めることになった。非常勤講師を含めた採点者の頭数で割ると、一問につき三人の配当が可能だった。希望で、ということになった。第一問の漢字の書取り問題で、書道教師の免許も持つ奈良井が他薦で先ず決まった。これは毎年ほぼ固定した人選だった。奈良井は「そろそろ変えてよ」と不平を言っていたが、彼の能力を買われての人選なので、その不平もポーズの面があった。もう一人は希望によってすぐ決まり、第一問に関しては残りは一人になった。教科主任が幹生に「どうですか」と訊いてきた。幹生は「いや、私は漢字は苦手ですから遠慮します」と答えた。すると奈良井がすかさず隣の教師に「免停や」と言った。それは低い声だったが、周囲が十分聞き取ることのできる大きさだった。国語科の教師の癖に漢字が苦手だというのなら、国語教員の免許は停止だろうと言ったのだった。幹生は辞退の理由付けに漢字が苦手と言ったまでで、聞く者はそこに卑下の気持を感じとって然るべきだと思っていた。しかし書道教師の奈良井は自分を軽んじられたように感じ、「免停」の言葉を返してきたのだ。奈良井が自分を嫌っていることを幹生は知っていたが、その気持が端的に出た言葉だと幹生は奈良井の言葉を受けとめた。幹生も奈良井は好きではなかった。奈良井は幹生への嫌悪をストレートに出してくるところがあった。それが幹生の奈良井に対する憚りを生み、彼への嫌悪を強めていた。幹生とは合わないタイプが揃っている国語科だったが、特に奈良井には幹生は感性的にもピリピリと反発し合うものを感じていた。第一問の担当を断ったのも採点の面倒な箇所ということの他に、奈良井と同じパートにはなりたくないという気持が大きく作用していた。奈良井の反発はそのことも感じていたからなのかもしれなかった。


 幹生は奈良井の言葉を何度か反芻して、彼の言葉にも一理あると思った。確かに漢字の習得は国語科の教授内容の一部であり、そこに弱点があるというのは国語科の教師として望ましくないことだった。幹生の言葉がその公然たる表明であることを聞き逃さず、即座に「免停」という簡潔にして痛烈な言葉を返したところに、幹生は奈良井という男の鋭さを感じた。しかし、国語科の教師に求められるものは漢字の知識・技能だけではない。むしろ文章の読解指導力や鑑賞指導力の方が大切なのではないか。何よりも言葉というものの力を生徒に伝え、日常生活のなかで生徒の成長の糧にしていく指導力が。俺は漢字を教えるために国語の教師をしているのではない、と幹生は内心で奈良井に反論した。


 国語科の飲み会の席で、蜂須賀と幹生と奈良井が並んで座った時があった。幹生と蜂須賀が同年齢であるという話になった時、奈良井が「何月生まれなんですか」と幹生に訊いてきた。幹生が生月を答えると、奈良井は蜂須賀に「先生は」と訊いた。蜂須賀の生月は幹生より二月ふたつき早かった。奈良井はそれを聞いて、「ああ、よかった」と言った。それは聞こえよがしな高い声だった。奈良井が言いたかったのは生まれの早い蜂須賀の方が幹生より目上であるということだった。これで蜂須賀に従い幹生に反発する彼の態度は正当化されたのだ。幹生もまた目上である蜂須賀に従うべきだという意味合いもこもっていた。生まれのわずかな遅早を人間の格付けにそのまま当てて何の疑いもない奈良井の粗雑な思考に幹生は嫌悪を覚えた。


 奈良井は進路部長をしていた。その意味で蜂須賀の後を追っていた。彼は教育を企業経営になぞらえるのが好きだった。企業が優れた商品を開発・販売して利益を得るように、学校も企業の購買意欲をそそるような優秀な生徒を社会に送り出さなければならない。奈良井が言う優秀な生徒とは、国公立大学や有名私大に合格する生徒であり、部活で賞を取る生徒だった。彼は生徒を商品にたとえて平気だったが、問題行動を起すような生徒は不良品だった。その生み出した優良品の数がその教師の実績であり、力量を示すものだった。蜂須賀らの「改革」で塾が重視されるようになると、奈良井の論調も企業礼賛から塾礼賛に変化した。


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