2 一ヶ月分の重さ
「こっ、婚約者?」
美人さんはサラリと流すように言ったが、こりゃまたとんでもない関係だったらしい。彼女とは良くて親戚とかその辺りの関係性だろうとは踏んでいたが、こりゃまた結構進んだ付き合いだったようだ。
「……信じられないかしら?」
「いやぁ驚き半分、嬉しさ半分って感じだな。記憶を失う前の俺は、結構やり手だな。こんな美人さんの婚約者とはなァ……」
美人だと褒めたのが理由か、彼女は頬を赤らめて照れくさそうに袖でその綺麗な顔を隠した。
記憶を失う前の俺は、一体何をどうやって彼女と婚約者なんて関係になったのか。
「そうだ、アンタの名前は何て言うんだ?」
「輝夜《かぐや》。呼び捨てで構わないわ」
なるほど、見た目に違わぬお似合いの名前だ。
「それで輝夜、さん。さっき一ヶ月がどうのこうの言ってたけど、それって俺の記憶喪失と何か関係があるのかい?」
現時点で俺の事を知ってるのは彼女だけ。更に俺の婚約者ともなれば彼女の知っている事は何でも俺の記憶にまつわる事に繋がる筈。そう思って聞いてみたのだが、何故か途端に彼女の顔が曇りだす、というより怒ってるようにも見えた。どうしよう、何か地雷を踏み抜くような事を聞いてしまったのか。
「ど、どうかしたかい輝夜さん?」
「呼び捨てで良いって言ったのに。どうしてそんなよそよそしい呼び方をするの?」
微妙に生気の無い目で詰められる。どうやら『さん』付けがお気に召さなかったらしい。
彼女からすればもう結構な付き合いなんだろうが、俺からすれば記憶喪失のせいで初対面も当然だ。オマケに彼女が美人なせいもあってちょっと近寄りがたい雰囲気もある。故の『さん』付だ。でも彼女はこれが気に入らないと。
「あー、悪いね。何分記憶喪失なもんで。遠慮ってモノが出ちまうんだ」
「しなくていい。してほしくない。そんな事されても寂しいだけ」
寂しい、か。
どうやらよっぽど彼女を待たせてしまったらしい。なんで記憶喪失になんてなっちまったのか俺は。
「なら輝夜。改めて聞くけど一ヶ月がどうのこうの、話してくれないか?」
今度は呼び捨てで聞き返す。すると輝夜の目にはちゃんと生気が宿って、喜びの微笑みで返してくれた。
胸に来るものがある。もちろんいい意味でだ。そして、こんないい顔の出来る彼女に寂しい思いをさせた記憶喪失前の俺、恨むぞ。
「……一ヶ月前、蘭太郎は突然私の前から消えた。消えた理由は分からないわ。そのせいで、事故にあって死んだとも、私を捨ててしまったとも
言われた。とても悲しくて、悔しかったわ」
そして輝夜は絞り出すような声でそう語った。消えた理由そのものは輝夜にも分からないと来たか。どうやらそのせいで周りからは好き放題言われたようだ。死んだ、捨てたの話は確かに酷いな。輝夜が寂しい思いをする訳だ。まぁそれもこれも一ヶ月前の俺が悪いのだが。
「……置き手紙ぐらい残せなかったのか記憶喪失前の俺は?」
「何かしらの用事をすぐに終わらせるつもりだったのかも知れないわ。でも一ヶ月、蘭太郎は消息を断った。そして三日前、蘭太郎は浜辺に傷だらけで打ち上がっていた」
俺が見つかったのは三日前、それも浜辺か。海水浴にでも行ったのか俺は? それも傷だらけ。サメか何かと格闘でもしたのか?
一ヶ月も行方不明、そして見つかった時は浜辺の上。まさか一ヶ月ずっと海の上を漂っていた訳ではあるまい。そんな事をすれば溺死して魚のエサだ。
状況が全く見えて来なかった。船旅にでも出て、足でも滑らせて落っこちた、なんて事も考えたが一ヶ月という期間がネックだ。これならもっと早く見つかるか、或いは見つからずに海の底かのどっちかだろう。
「あぁ、頭が痛くなってきた……」
考えても納得できる理由が見つからず、思い起こそうとすれば俺の名前の時と同様、縄で締め付けられるような痛みに襲われるというダブルパンチだ。二重の痛みを覚えて思わず体がふらつくが、そんな俺の体を彼女が、輝夜が支えてくれた。
「無理しちゃダメ。お医者様は頭のケガが一番酷いと言ってたわ」
「頭のケガ? どんな感じだ?」
「側頭部に何かに抉られたような痕があった。下手をすれば脳に何か影響が出来てもおかしくないって……」
どうやら記憶喪失の原因はそれのようだ。
こんなミイラ男みたいな姿になっている辺りよほど酷い跡に違いない。まるで変形でもしたような見た目になっていたらどうしようかと不安になってくる。
しかしそうなるとますます状況が複雑となってきてしまった。側頭部が抉られるような大怪我などどういうシチュエーションで起こるのか。刃物か何かを受けてしまったのか? なら誰かと争った? 何処で、何が理由で?
「蘭太郎、さっきも言ったけど無理をしちゃダメよ。辛そうな顔をしてる」
輝夜はそう言うと再び俺の身体を抱きしめ、包帯に巻かれた俺の頭を撫でる。まるで赤子をあやすように。
「……一ヶ月も輝夜に寂しい思いをさせちまったんだ。忘れたままでいる訳にはいかない」
「蘭太郎が自分の名前も思い出せない程、記憶を無くしてしまった事は辛いわ。私の事も覚えていない……でも生きて帰ってきただけでも充分だから」
抱き着く輝夜の身体から、とても良い匂いがしてくる。空っぽの頭が蕩けそうなぐらいの。
不思議だ。重く、痛みで軋む身体が楽になってくるような感覚だ。
「一つ聞いて良いか? 俺が居なかった一ヶ月間、輝夜は何をして過ごしてた?」
この甘さに身も心も任せてふと気になった事を聞いてみた。これだけの事をしてくれる輝夜がどんな思いで過ごしていたのか、より気になるようになったから。
「もちろん出来る限りの事をして探した。でも死んでしまったなんて話を聞いた時は、後を追ってやろうとさえ思ったけど」
おいおい、めちゃくちゃ追い込んでしまってるじゃないか。記憶を失う前にどんな関わりをすればこんな風になるのか。つくづく罰当たりな男だ俺は。
いや、罰ならもう当たってるか。
「あ、蘭太郎沈んだ顔をしてる。大丈夫、離れたりしないから」
まるで癇癪を起こした子供を宥めるように、輝夜の体は小さく揺れる。そんな彼女の動きに、俺の身体がどんどん脱力していくのを感じた。
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