第9話 虫歯
お盆も終わり、夏休みは終わった。小沢さんは帰省をし、たらふくお土産を買ってグループホームへ帰ってきた。
温泉に行ったようで、温泉まんじゅうやカニのせんべい、チョコレートやハイチュウ。
たくさんのお菓子を他のメンバーに与えず、一人で食べきった(実習に来た女子大生にはちょっとだけあげた)。
ところで小沢さんに限らないが、うちの利用者さんは自己管理が難しい人がいる。髪からフケが出ている。そして虫歯になるということはよくあるというのも、これは一般では自己管理不足としか言えない。
だけど家族がいるだろうなぜ家族が管理しない。こんなことを言われたこともあるが、少し考えて欲しい。親子関係で30歳そこそこの男性がお母さんに歯を磨いてもらえますか? ただそうでない部分もある。でも僕たちがこの事業所で見ている世界は訓練すれば歯を磨けたり、少しお手伝いをしたら食器を洗える人たちだ。
うちの事業所とグループホームは自立の場だ。
自分で靴脱いで仕事して自分で働いて自分で食器を出して自分で食べて自分で食器を片付けて歯を磨いて自分で靴履いて自分で帰りましょう。誰もが出来る基本的なことだが、これがなかなか出来ない人は多い。
しつけのせいだ、親の責任だ。そんな言葉に親御さんをさらしてはいけない。人間は自分が実際そういうことにならないと分からないものだ。
さて、小沢さんもご多分に漏れず、あまり歯を磨かない。
不思議とみなさん歯は磨くのか、それとも口の中に強い殺菌成分が含まれているのか。虫歯の人は水虫の人より少ない。
「深山さんのとこに行くしかないね」
小沢さんは見事、3か月間も虫歯に耐えた。と、本人は思っているが周りは気づいていた。
しかし、小沢さんに虫歯の事を聞くと、「俺は虫歯じゃない、田吾作は気にし過ぎだ」と言いつつも、休日についた女性ヘルパーに歯が痛いですオーラ満開で話をしていることはもう3か月前から職員は把握している。
無理やり病院に連れて行くことは出来た。ただ、小沢さんに病院に行こうと促しても断固として、「俺は虫歯じゃない、深山にも会いたくない」と一点張りだった。
深山さんとは小沢さんの残り1本となった歯を守るために通っていた歯科医院の歯科衛生士さんだ。梅雨頃に不倫旦那と熱いキスしているところをうっかり見てしまって以来、歯を守ることはなくなった。そのせいで歯へのこだわりは薄れてしまった。
「小沢さん、この歯科医院はよくない? ほら受付の人可愛いよ」
とか。
「小沢さん、ここは女医さんだよ? よくない?」
とか。
「ここのお医者さん可愛いって近所じゃ評判だよ。1回行ってみようよ」
とか。
こう言っても小沢さんは断固として誘いに乗らなかった。そもそもなぜ、小沢さんの為に可愛い歯科医師がいる歯科医院を調べ、状況を報告しているか分からなくなってきた。
小沢さんは休日、ヘルパーさんには歯が痛いことをアピールしていた。
「田吾作、この医者なら行ってもいいぞ」
小沢さんは折り込みチラシを持ってきた。
「小沢さん、それどうしたの?」
「光の新聞から抜いてきた」
「ちゃんと栗原さんに確認取った?」
「1枚くらいチラシが減っても困らないだろ」
それも確かにそうだ。栗原さんは大人とは新聞が読めなくてはならないと思っている。
おそらく栗原さんの親御さんが栗原さんの前で新聞を読んでいたからだろう。
ただ栗原さんは文字が読めない。グループホームでは毎朝栗原さんが広げた新聞紙に皆が困っているという話は聞くのだが、栗原さんにとって朝食から新聞の流れはこだわりの1つになっていて、これが抜けると1日調子が悪くなる。
大筋とは関係ない話だが、たまに「こだわりがある人って無いよりいいよね」って人が言っていたと聞いたことはあるが、こだわりの現実は案外誰も気づいていないのかもしれない。
こだわりを達成出来無いと不安定になるなんてことはざらにある。コーヒーのこだわりの味とは全く違うのだ。
で、栗原さんはチラシが1枚無くとも困らない。
大事なのは新聞紙だから。小沢さんが意気揚々と持ってきたチラシには可愛い女性の載ったチラシ。患者様のご来院お待ちしております。という言葉の下には受付時間と診療曜日が記されている。
なんとまぁ、明るいチラシだった。
「田吾作、ここからこの病院は近いか?」
「うん、目の前の通りをまっすぐ突っ切ったら道向かいにあるみたいだね。確かに深山さんのとこよりは近いね」
小沢さんがとても怖い目でこっちを見た。小沢さんはこんな顔を出来るのか。
次の日、小沢さんは件のチラシを事業所に持ってきて、皆に自慢した。
「俺は今日、こんなに可愛い女がいる病院に行くぞ」
そんな自慢をしても誰もへこまないだろう。何やっているんだと思って見ていると、藤堂さんが悔しそうにしていた。
それを見て小沢さんは意気揚々と藤堂さんを見た。
「俺も虫歯になってやる」
「虫歯にならないでくださいね」
長澤さんの目が小沢さんと藤堂さんを貫いた。
「いや田吾作と今日」
「もう2度と虫歯にならないでくださいね」
「はい」
長澤さんの厳しい目は面白がって見ていた僕をも貫いた。
「田吾作くんもちゃんと利用者さんのこと見てくださいね」
「はい」
終業後、先に帰っていた小沢さんをグループホームから連れて歯科医院に向かった。
「田吾作、チラシにはなんて書いてある」
「気になるなら自分で読んでよ」
「はの、みは、、、、に、、をきたします。、、では、、、の、にーず、わせた、、をこころがけています。田吾作これはどういう意味だ?」
歯の痛みは日常生活に支障をきたします。当院では患者様のニーズに合わせた診療を心がけています。
これが小沢さんの読んだ本文だ。小沢さんは漢字が読めない。小学2年生レベルなら読めるがここまで難しい文章は読めない。
「ちゃんと治してくれるって意味だよ」
「それはいい! 優しい方法で治してくれるんだな」
その予想はかなり大外れな気もするが、黙っておこう。
「さぁ着いた。ここだよ」
歯科医院が1階にある雑居ビル。歯科医院だけ新しくてなんだかアンバランスな感じだ。
「きれいだな」
実際、中に入ったら受付の女性はきれいだった。さすが歯科医院恐ろしい。問診票を持ってきた女性もとてもきれいで、美人というより可愛い系だ。ちなみに小沢さんは可愛い系に目が無い。
「今日はどういった要件で」
「要件というか普通に」
「田吾作さん少し静かにしてくれないか」
小沢さんはキメにかかった時に少し口調が面倒になる。自己管理が覚束ないいのは小沢さんにも当てはまる。
髭はもっさり生えているし、タオルで身体を拭かないので夏の終業後は服が汗臭い、爪は伸びきっている。お気に入りのシャツでこだわりのせいもあって、何度も同じシャツを着るから、シャツは黄ばんでいる。
ある程度、身体と洗濯はグループホームの職員が手伝っているのできれいだが、それ以外がダメ、すごくダメ。服を変えないのも爪を切らないのも小沢さんのこだわりだ。理容院で髭を剃る1か月に1回しか触らない。服は同じのを3着持っている。
当然普通の女子ならドン引きでさよならは必須だが、歯科医院の受付はプロなので笑顔で対応。きっと小沢さんは自分に惚れたと思っている。
「小沢さん惚れても何も出ないよ。小沢さんが患者さんだから接してくれているだけだよ」
「田吾作くん、そんなことは分かっているんだ。問題はどうやって遊びに行くかだ」
「やっぱり分かっていない」
「小沢さん第1診察室へどうぞ」
よく通る女性の声が奥からした。
「おい田吾作。そこの女性に車いすを押してもらおう」
女性が手助けをしようとしたが、手で断った。手ぺろりん事件があったので、女性が車いすを押すのは止めるようになっている。ヘルパーさんも車いすを押さず、正面に座ってご飯の番をしてくれる。
小沢さんは手が不器用なので爪楊枝は持てるが、箸を持てない。お弁当を持つことは出来るのだが、食事にはお手伝いが必要だ。
手、ペロリン事件では容器に入ったお団子を爪楊枝で口に入れていたので、介助の必要はなかったわけだ。
男性ヘルパーが対応するが、小沢さんの下心を含んだ目はいつだって平均年齢60歳越えの女性ヘルパーを狙っている。
車いすを押す僕を小沢さんは不服そうに見た。仕方ないこれも業務だ。小沢さんには諦めてもらおう。
「はい小沢さんこんにちは」
奥から来たのは熊の様な男性だった。小沢さんはえっという顔で固まっている。
「担当する白銀達也と申します。衛生士も男性が付きますのでご安心ください」
「何を安心するのですか?」
つい僕が聞いてしまった。
「女性で密室だと患者さまが何もしなくても、誰も証人がいませんし、男性同士なら何かもありませんし」
「分かりました」
小沢さんは何を分かっているんだと僕を見ている。呆然とした小沢さんを車いすから診察台に座らせた。
「おい田吾作、冗談だろ?」
「小沢さんは3か月前から痛さを我慢していまして」
「あー、これはダメですね。神経抜かないとダメだな」
「そこまでひどいですか」
「うんかなり、田吾作さん?」
「はい」
「インプラントは?」
「それについては持って帰ります」
「じゃ、待合室でお待ちください」
「田吾作、話が違うぞ。おい、待て待てー」
診察室の扉はゆっくりと閉まった。しばらく小沢さんの声が聞こえていたが、次第に静かになっていった。
診察室から出てきた小沢さんは意気消沈。
「帰ろうか」
「分かった」
診察代を支払い、歯科医院を出た小沢さんはしょんぼりしていた。明日どうやって藤堂さんに事のあらましを言うのか心配しているに違いない。
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