第2話
「私……今、高校二年生なんですけど。一年生の時からずっと気になってる人がいて」
少女はどう切り出したものかと逡巡していたが、言葉を選びながら静かに語りだした。
「私が一年生の時、まだ学校の地図をよく覚えてなくて。どこに何があるか、教室に行くにはどの道を通ればいいとか、あんまりわかってなかったんです。それで、移動教室のとき、忘れ物をしちゃったからって友達と別れて、一人でコンピューター室に行くことになったんですけど」
わかんなくなっちゃって。少女はばつが悪そうに語る。
「コンピューター室は追加して建てた別校舎にあったんですよ。でも私、それをわかってなくて。休み時間もうすぐ終わっちゃうし、近くに知り合いもいないしで泣きそうになってたんですけど、そんなときに先輩が声を掛けてくれて」
気付けば二年生の教室フロアをうろうろとしていた少女は、とある男子学生に声を掛けられる。「どうしたの? 誰かに用事?」穏やかな声で聞いてくれた彼に、少女は藁にも縋る思いで早口に事情を説明する。
「コンピューター室がどこだかわからないんですって言ったら、一緒についてきてくれて。移動してる間も一年生の時は俺も迷ったよって話してくれて、私を安心させるためなのかすごく気遣ってくれたんです」
少女は親身な先輩に心の底から感謝した。次の授業まで時間が残されていなかったからそのときは謝辞を述べるにとどまったが、改めてきちんとお礼をしたいと思った。連絡先の交換なんてものは恐れ多くてできないけれど、クラスと名前は覚えておいた。後日教室に会いに行けるように。
「改めて二年生の教室に行ったときはすごく緊張しました。一年生の私は嫌でも目立っちゃうし、知らない先輩に声を掛けて呼び出してもらうのも勇気が出なくて。それでどうしようって廊下で悩んでたら、先輩が来てくれて」
「どうしたの、また迷ったの?」と冗談めかして問いかける男子学生に、少女はどもりながらも感謝の気持ちを精いっぱい伝えた。一人で心細かったこと、移動中に気遣ってくれたこと、それらがすごくありがたく救われた気持ちになったこと。決して上手な言葉選びではなかったかもしれないが、両手を必死に握りしめて少女は話した。男子学生は茶化すこともせず、やはり穏やかな表情で最後まで聴いてくれたという。
「そのとき、『また困ったらいつでも呼んでよ』って言ってくれて……その優しい笑顔が、私、忘れられなくて。……好きに、なったんだと思います」
イレーヌがくすりと微笑む。
「笑顔がこぼれていてよ」
「よほど幸せな出来事だったのでしょう」
「そうなのね。続けて頂戴」
他人に己の恋愛事情を解説されるというのは気恥ずかしいのだが、そういう場なのだから仕方がない。それにお嬢様も執事も退屈はしていないようだ。ならばと少女は語りを続ける。
臆病で一歩をなかなか踏み出せない少女は、連絡先交換などという手段を取ることができなかった。ただ、彼のことを意識するようになり、気が付くと先輩の姿を探すようになっていたという。体育祭や文化祭といった全校行事はありがたかった。人数が多いからなかなか見つけられなかったけど、学年も違う先輩とは接点がほとんどない。部活動はサッカー部だと友人などの伝手で聞いた。マネージャーの募集などはしていなかったから同じ部活に入ることもできず、放課後はグラウンドを目で追うようになった。
「この一年、ずっと先輩のことを見てきました。でも、遠くから見るだけじゃ何も変わらないし、先輩が私のことを見てくれるわけじゃない。最初はそれでもいいかなって思ったんです」
「あら。それは何故?」
「一回助けてもらってお礼を言っただけの後輩が好きだなんて言ったら、先輩に迷惑をかけるかなって思って。きっと先輩は私のこと覚えてないだろうし。だからこの気持ちは伝えないでいるつもりだったんです」
少女はいったん言葉を区切る。口の中の渇きを満たしたくて紅茶に手を伸ばした。口に含むと華やいだ香りが身体中に回っていくかのような心地がした。
「でも……それはやめよう、って」
「心が変わったのね」
「どういったご事情で?」
イレーヌと執事の小気味よい問いかけは、まるで少女の背中を押しているようだ。
「これも友人から聞いたんですけど……先輩が、転校するって聞いて」
まあ、とイレーヌは丸く開けた口を両手で覆い隠した。
「離れ離れになってしまうってこと?」
「そうですね。ご家族の都合で他県に引っ越すことになったらしくて。そのとき私思ったんです。ただずっと見ているだけでよかったのかなって」
少女は自問自答を繰り返す。限られた時間の中であらゆることを考えた。
先輩と同じ学び舎にいられる期間はもうわずかしかない。告白するにせよしないにせよ、先輩が遠くへ行ってしまう事実は変えられないのだ。消極的な少女ではあったが、何も伝えないままいなくなってしまって、後悔は本当にないだろうか。
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