第103回 空間表現は内容を変えるか、否か?

 本稿の書籍化する作品、書籍化しない作品の要旨は空間表現の有無あるいは上手さが書籍化するという最低限のボーダーラインなのではないかというものです。まえにコメントで「それは内容に関わるもの」と言われたので、その辺を詳しく考えてみたいのが今日のページです。


 たとえば昔話といった作品は空間表現がそれほど上手く機能しているとは思えないです。トマス・ブルフィンチの「シャルルマーニュ伝説」といった著作をざっと読んでも(著作権があるはずなので例示はできませんが)、空間表現が立体的かと言われるとそうでもないです。どちらかと言えば絵巻物えまきものみたいに平面的な語りな気がします。それは叙述じょじゅつのモードが説明だからと言えると思います。説明は物語をどんどん早く進める方法で、神話などを含め、物語を伝える最も古い方法です。

 こうして見たとき、説明という叙述モードだけで書かれたものが書籍化されるような作品ではないらしいということが分かります。説明では、「描写」という叙述モードがないためです。事物の物と物の関係は描写しなければならないということは誰でも言われてみれば分かるはずです。

 さらにここに「場面」という叙述モードが加わったらどうでしょうか。場面は台詞と台詞の掛け合いで表現されますよね。多くの作品のなかで小説のメインとなるのは場面なのですが、ここでも場面のみの作品は書籍化には向かないという点が露わになりますよね。

 

「説明」「場面」「描写」これらがバランス良く備わった作品が書籍化に向くというのはお分かりいただけたかと思います。なので内容はそれに合わせた表現手法を考えるべきということに収束しゅうそくします。


 脱線しますがどうして描写において狂った視点を持っているとダメなのかという点も考えてみたいです。描写とは物語の特定の部分を書くと言います。特定の部分が例えば今座っていてタイプしている部屋を考えてみます。手前にキーボードがあり、奥にモニターがある、たったこれだけで自然だと思います。SFではモニタのなかにキーボードがあるとか、いろいろあると思います。右にマウスがあり、左にはKindleが置いてあります。こうしてみたとき、マウスが右にあるのが普通だからというと左利きの人に怒られるかも知れませんが、(ちなみに左利きマウスというものもあるというのは初めて知りました)マウスというものが基本的に右利きの人向けに作られていると考えられますね。


 例えば朝になって空がだんだんと明るくなってきます。それで左側がだんだん明るくなってきたとしましょう。右側のドアが開いて、朝の光とともに恋人がコーヒーを持ってきたとしたらどうでしょうか。朝の光が差す東の空は左側なのですから、恋人が朝の光とともに右側から現れるというのは、一般的な範疇はんちゅうの話ではおかしいですよね。このようにここはどこなのか、いまはいつなのかをはっきりとさせるのが描写による表現なのですから、ここがきちんと書けるだけでも伝わる文章になるのは明白です。私の結論は伝わる文章とはそういうもの、という結論です。逆を言えば伝わらない文章はダメだということでしょう。


参考文献:物語は作れたがどんな文章で小説にしていいか分からない人のための覚書 ( https://readingmonkey.blog.fc2.com/blog-entry-712.html )

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