life is not all roses⑤


「基礎練終わり、五分休憩」


 部長の声にぱたぱたと体育館を出て行く三年生の後ろで、手早く水分補給を終えた一年生は用具室に駆け込んでいた。練習メニューに合わせ防球ネットやボールスタンドを用意するのも後輩の仕事だが、狭い用具室から練習器具を出すにも毎度手間取ってしまう。


 インターハイ予選が近づいてきたこの時期は三年生たちも気が立っているようだ。修学旅行を挟んだ分、休みを取り返すように熱心に練習に取り組んでいる。


「はー、一人足りないといちいち大変。瀬尾ちゃんなんで休みなの」


 がらがらとネットを転がしながら菫がこぼした愚痴に、美景みかげは曖昧な笑みで応える。鞠佳まりかは家の用事があるとかで部活を休んでいたが、四人が三人になるというのは重大な問題であった。単純に、台に着いて打つとなると一人が余るのだ。

 急遽人数が奇数になった今日は通常通り二人で一台を使うしかない。余った一人が都度交代していくことに決めたが、なぜか菫はほとんど基礎練習に加わらずに練習を眺めていた。満足に打てる時間が増えるのはありがたいが、一人だけを待たせるのも申し訳ない。


「菫さん、今日はすみませんでした」


 いいのいいの、と鷹揚に笑う菫の横で、球拾い用の網を持った旭がしゅんと肩を落とした。


「ごめんなさい、わたしが打てないから……」


 三年生が修学旅行を満喫する影で女子卓球部は大いに紛糾していたわけだが、井浦の説明に納得したらしい旭はきちんと卓球について勉強したいと以前と変わらず部活に来ていた。無事誤解も解け、平原には個人的に謝りに行ったらしい。岩傘コーチの件もひとまずは落ち着いたと言っていいだろう。


「いや、ほんとにいいって。それより岩傘ちゃん、練習見ててどうだった? なんか気になったこととかあった?」

「あ、はい。ラケットの持ち方なんだけど」


 旭が促されて口にしたのは、ラケットの種類についての疑問だった。


「薫子ちゃんと、あと井浦先輩も、他のみなさんと違うラケットを使っているのはわかりました。ペンホルダーって言うんですよね? 打ち方も全然違うなと思ったんだけど、どうやってバックを打ってるのか聞きたくて」


 卓球のラケットは持ち方がそのまま名前になっている。グリップを包み込むように握り、人差し指をバック面に添えるのがシェイクハンド。そして、ペンを持つように親指と人差し指でグリップを包むのがペンホルダーだ。ペンの場合は残り三本の指でラケットの裏面を支えるので、薫子や井浦の構えがシェイクを使う他の部員と異なるのは当然だった。


「バックの打ち方は――片面しかラバーを貼らない人は、こう」


 薫子がおもむろにラケットを手に取り、ぐっと手首をひねって押し出すようにバックハンドを振る。シェイクは両面のラバーを使って打つことができるが、フォアとバックを同じラバーで打たなければならない片面ペンはどうしてもバックのフォームが窮屈になる。

 薫子はラケットの両面にラバーを貼っているが、もともとは赤いラバーを片面に貼ってプレーするのが伝統的なペンホルダーのスタイルだった。卓球はラケットの両面に赤と黒のラバーを貼ることが定められているため、片面ペンの場合もラケットの裏面は黒か赤で塗り潰されている。もちろん板に色を塗っただけの裏面では打てないため、フォアとバックを片面のみで打球することになるのだ。


「すごいです、手首が痛そう」

「慣れればそこまでは。最近はペンでも両面にラバーを貼って、シェイクみたいに裏面で打つ戦型がポピュラー。わたしも普段はそうしてるけど、時々は今のフォームでバックを打つこともある」


 裏面の根元に人差し指だけを置くシェイクと比べ、三本の指がラバーにかかるペンは裏面が打ちづらい。ボールが指に当たりやすくなるため、指を曲げるなどして対応している選手も多いのだった。


「打ち方もそうですけど、やっぱりペンの選手は器用な印象がありますね」

「井浦さんみたいに反転する人もいるしね」


 薫子が説明する横で残る二人がぽつぽつと補足する。反転という言葉にきょとんとする旭に、菫が自分のラケットを回してみせた。ラケットの面を指で押すようにして回すと、ぎこちないながらも赤と黒のラバーが交互に現れる。


「両面にラバーを貼って、ラケットをくるっと回して打つんだよ。そうやってタイプの違うラバーを使い分けるから反転ペン」

「そんな難しいことしてるんですか? 卓球のラリーってあんなに早いのに」

「はい。もちろんラケットの扱いを練習しないといけないですし、反転させる局面を判断するのも大事ですね」


 その点井浦の技術は尋常ではなかった。反転ペンの中には利き手でないほうの手でラケットを支え両手で反転させる選手もいるが、井浦は勢いよく弾くようにして片手でラケットを回す。

 両面にラバーを貼っている分決して軽くはないのだが、小柄な井浦が自在にラケットを操る姿は曲芸のようで、美景はボールを拾いながらもついつい手元に目をやってしまいがちだった。


「井浦さんってそのへんの駆け引きえげつないよね、反転したと思ったら今度は裏面で打ってきたりするじゃん」

「それで対応が遅れたら攻撃されるし……スマッシュは表だけかと思ったら粒高でも打ってくる」

「あとプッシュとかね。いろんな手を出されてこっちが追い詰められるっていうか」


 主に粒高と裏ソフトの組み合わせが多い反転ペンだが、井浦はフォア面に粒高、バックに表ソフトを張る実に珍しい選手だった。粒高が生み出す微妙な回転のラリーから回転を苦にしない表ソフトで仕掛けてみたり、表ソフト主体の速攻気味なラリーに急に粒高で変化をつけてみたり――極端に激しい緩急の効いたトリッキーなプレースタイルは初見でそう簡単に対応できるものではないだろう。

 美景にも多少の事前知識はあったが、井浦と戦ってきた二人のコメントにはなるべく対戦を避けたいという切なる思いがこもっていた。しばしいかに井浦のプレースタイルが大人げないかとの議論に興じていた菫と薫子だが、やがて旭がそろそろと口を挟む。


「……あの、そもそもなんだけど。ラケットを反転するとどういう効果があるんですか?」


 一瞬、美景たちの間を静寂が通り抜けた。


「そ、そこからか~!」


 菫の盛大な突っ込みに旭がびくりとする。一年うるさい、とすでに戻ってきていた先輩に注意されながらも、美景はどこか途方もない気持ちになっていた。

 そうだった――美景たちはよく忘れがちになるが、旭はまったくの初心者なのだ。そして卓球というのは、初心者が何の解説もなしに見ている分には一切の技術が伝わらないスポーツだ。

 これまで自分が習得してきたことを一個一個思い返して、そのすべてを説明するというのはいかに時間のかかることかが今になってぴんときた美景は、だからこそ責任を感じた。大袈裟かもしれないが、旭に卓球という競技がどんなものかを伝えるのは自分たちの役目だ。

 なぜ反転に意味があるのかと言われればラバーの性質に差異があるからなのだが、そこまでの話をするにはある程度段階を踏まねばならない。いちから話せばどこまでも長くなるので休憩中には流してしまったが、部活が終わった後なら順を踏んで説明できる。


 片付けの後に催された即席のラバー講座は、なぜか薫子を講師役にして始まった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る