life is not all roses⑥
「カットとドライブのことは前に聞いたみたいだけど――じゃあたとえばカットマンがどういうラバーを使うかと言ったら、回転が多くかけられるラバーになる。これはいい?」
「はい。下回転が強ければ強いだけ、相手がそれを返すのは大変なんだよね」
「それなら、『回転がかかるラバー』ってどういうものだかわかる?」
見当もつかない様子の旭を前に、ラケットを持った薫子が実演を始めた。左手をきゅっと握って顔の前に持ち上げ、右腕で軽くスイングする。的となった左拳がラケットに当たり、わずかに横にそれた。
「ボールに回転をかけられるのはラバーに当たるこの瞬間だけ。スイングスピードも大事、あとは手首と体重移動を使って、インパクトの瞬間にどれだけボールを捉えられるか」
薫子は下回転のサーブを出すような構えでゆっくりとラケットを振った。ピンポン球に見立てた左拳の下を赤いラバーが滑るように移動していく。
「極端な話だけど、ラバーとボールが接している時間が長ければ長いほどいい。それだけ回転がかけられるから。だから摩擦力の大きい裏ソフトが使われるの――裏ソフトっていうのはこういう、表面が平らになったラバーのこと」
薫子がラケットの面を旭に向ける。磨いたばかりの滑らかなゴムシートが照明を浴びてつやつやと光った。
「スピン系のラバーにもいろいろあるけど、たとえば回転量を重視する選手の中には粘着性の高いラバーを選ぶ人もいる」
「ラバーにボールがくっつくっていうことですか?」
「簡単に言えばそう。ボールを強く押しつけてみて、逆さにしてもしばらく落ちてこないくらいべたついてる。そういうラバーは手入れが大変」
粘着性、と繰り返した旭はノートにかりかりとメモを書きつけている。薫子の説明はシンプルだが押さえるべきところを押さえており、粘着系ラバーというのも例としてわかりやすい。これならメモを取るのも容易そうだ。
「でも、粘着性が高いってことは裏を返せば飛ばないってことなわけ。カットやドライブにはともかく、速攻なんかにはばっちり向いてるとは言いにくいんですよ」
旭が顔を上げたところで
「菫が使ってるのはハイテンションラバーって言って――あ、テンションっていうのは張力って意味のほうね? よく弾むから当てただけでもボールが飛ぶんだ。だからまあ、非力な人にも合ってるよね。すぐ弾む分回転はそこまでかけられないけど」
ドライブ主戦型の薫子はまず回転量を重視するが、前陣速攻型の菫や
「ええと……裏ソフトは回転がかけやすいラバーで、だけどその中でもスピード重視のものと回転重視のものがあるんだね」
「そうそう。ざっくり言うとスピードと回転はトレードオフなんだよね。あとは打球をコントロールしやすいかどうかっていうのも気にする人はいるけど……基本的には、林ちゃんみたいにバランス型のを使うのが主流」
「そうですね、わたしは両面とも同じラバーを貼っているんですが、これは速さと回転の両立を売りにしたものなんです。同じ裏ソフトでもバリエーションはありますが、やっぱりバランスのいいものが人気だと思います」
話をまとめにかかった美景は自前のラケットに視線を落とす。極端な対比として粘着系とテンション系を例に挙げて説明したわけだが、用具は日々進歩しており、粘着性ラバーの中でも比較的飛ぶものはある。これ以上込み入った話になると旭が混乱しかねないので例外的な部分は伏せておくことにした。
一旦話が止んだところで、ここまで無心にメモを取っていた旭がさっと挙手した。
「あの、ネーミング的に、裏ソフトがあるなら表ソフトもあったりする?」
「正解! その表ソフトっていうのが
そう言って菫が自分のラケットを差し出す。ラバーに手を触れないよう受け取った旭は、黒いラバーにびっしりと並ぶ細い突起をじっと眺めた。
裏ソフトと表ソフト――なぜこんな名称なのかと言うと、その名の通り平らな面と
「粒ってそのままの意味なんですね。ほんとに一面粒々になってる」
「そう、見たまんま。粒をもっと細長くしたバージョンが粒高だから、表ソフトはもうちょっと平たいけど。さっきの話の応用みたいになるけど、表ソフトは回転のかけづらいラバーです。これはなんとなくわかるよね」
平らな裏ソフトは摩擦力が大きく回転がかけやすい。一方表面が凸凹の表ソフトではボールとラバーの接触する面積が少なく、自分から回転をかけることが困難になる。強い回転がかからないのは大きなデメリットだが、それを補う長所もある。
「でもそれは武器でもあって、回転がかけづらいってことは相手の回転をそれほど気にせず打てるってことでもあるのね。たとえばサーブをそのままスマッシュできたり、カットを普通に叩いても入ったりする。攻撃型が使うことが多いかな」
「じゃあ、井浦先輩も攻撃的な戦型なんですか?」
「うーん、攻撃的っていうか……反転ペンって普通裏ソフトと粒高の組み合わせなんだけど、井浦さんは表と粒高にしてるのね。それだけでも珍しいのに、ましてプレーが性格悪いし……」
煮え切らない口調で答えていた菫が不意に振り返って時計を見る。思いのほか長く話し込んでいたらしく、時計の短針はじきに七を指しそうだった。慌てて更衣室に駆け込んだ美景たちは、次はもっと早く来るようにとやんわり釘を刺されつつも七時までに職員室を出ることに成功した。
電気の消された廊下は薄暗く、玄関に向かって歩く美景の足元で靴底のゴムがきゅっきゅっと場違いな音を立てる。
「結局粒高の説明までは間に合いませんでしたね」
「でも、ラケットを反転する意味はなんとなくわかりました。ラバーってそれぞれ違いがあるんだね、用具選びだけでも大変そう」
旭の疑問は解消されたようだが、菫のほうはまだじっと考えこんでいる。話が途中で終わってしまったのが気になるのだろうか。
「表ソフトと粒高をまとめて異質ラバーって言うんだけど、やっぱ異質に関してはちゃんと理解しといたほうがいいと思うんだよね。井浦さんみたいな先輩もいることだし」
いつにしよう、と呟いた菫に、薫子が素っ気なく案を出した。
「大会の日でもいいんじゃない。粒高の話は井浦さんの試合を見ながらにしたら」
「あ、それいいね。石田ちゃん頭いい、そうしよ」
生徒が通り過ぎるのに反応し、背後では廊下の電気がひとつずつ消えていく。高校総体予選にあたる地区大会まであと一週間。三年生にとって最後の大会が始まろうとしていた。
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