life is not all roses②

 重みのある低音とともに鞠佳まりかのエナメルバッグが床に落ちる。毎度どすんと放り出されるオレンジの鞄の底はすっかり擦り切れていた。

 卓球の戦型は本人の性格を反映するとはよく言うが、運動部おなじみのエナメルもまた持ち主の特徴を表している。キーホルダーが山とつけられた鞠佳のエナメルは傷が多く、美景みかげのものは無難なデザインだが端々に汚れが残っている。

 薫子かおるこはまめに手入れしながら小さめのエナメルを使っているようで、すみれは傷と思しき部分にステッカーを貼り付けている。美景が人の持ち物を観察している間にもまたオレンジの塊がびたんと床に叩きつけられ、薫子が辟易したように天井を見た。


「瀬尾さんはさっきから何に対して怒ってるの。練習が滅茶苦茶になったこと? 岩傘さんが言うだけ言って出て行ったこと? それとも――」

「二年によ。井浦いうらがこんな時に真っ先に逃げるほど無責任だとは思わなかったわ。それでもあいつよりはよっぽどマシだけど」


 付き合いが長いだけになおさら先輩の対応が気に障ったのか、鞠佳は更衣室のロッカーに荷物を投げつけてからというもの一時も休まず怒り続けていた。ひとしきり言いたいことをぶちまけたあさひが第二体育館を飛び出し、井浦がそれに続き――後を追ったのかもしれないが――旭の主張をぶちまけられた側である平原は黙々と練習に勤しんでいる。

 信っじらんない、と吐き捨てた鞠佳は勢いよく鞄に制服を詰め込んだ。美景にも気持ちはわかる。平原が何をするかと思えば、ボールスタンドにざらざらとピンポン球を詰め込んでサーブを打ち出したのだ。この状況で練習を始めるなんて。呆然と先輩を眺めている美景たちを追い越し、菫が暢気に号令をかけた。


「じゃ、こっちも準備しよっか。待ってても仕方ないし」


 更衣室に向かう菫を見送り、残された三人は自然と顔を見合わせた。


「……八倶坂やくさかってこういうとこある」

「本当よね。あたしも今はっきり思い出したわ」


 なにやら深くわかり合っている鞠佳と薫子の間で、美景も自分なりに八倶坂中についての見識を深めた。そうして着替え始めたわけだが、一番に更衣室に入ったはずの菫は制服のブラウスを着たまま段ボールに腰掛けている。菫の支度が遅いのはいつものことだが、今回に至ってはもはや着替えに取りかかる様子がない。

 どうしました、と美景に尋ねられ、ところどころ剥がれた壁紙を引っ張っていた菫は大儀そうに足を組み替えた。


「平原さんさ、中学の時から全然部活来ないんだよね。昔から通ってる教室があって、そこに練習に行ってるみたいで。さすがに大会前は毎日来るけど、普段は週一で顔出すかどうか。高校でもそうみたいだけど」

「よくそれでコーチに文句なんか言えたわね……」

「ね。菫もそう思う」


 予期せぬ賛同が飛んできて、鞠佳がうっと言葉に詰まる。先輩を庇うかと思われた菫の態度が唐突に反転したことに驚きを禁じ得なかったのだろう。


「あんた平原の弁護に回るんじゃなかったの?」

「弁護って。いつのまに裁判になったの」


 大仰な言葉に苦笑いして、菫が小さく肩をすくめた。


「そんな大袈裟なもんじゃないけど……あの人、自分がコーチを辞めさせたとは認めてなかったでしょ。もっと上手い人をコーチにしたらって前の顧問に言ったらしいけど、それってただの本音だと思うんだよね。コーチと揉めてたから辞めさせようとしたとか、そういうことではないと思う」

「それにしたって辞めた理由を知らないはないでしょ。あんなのただの言い訳よ」

「そうかな。あれだけずばずば言う人が言い訳も何もってかんじだけど」


 そう言われるともっともな気もする。美景は旭のことも平原のことも、ましてや旭の姉のこともよく知らないが、先ほどの話の中で平原が嘘をついていたとは思えなかった。むしろ平原は、容赦なく自分の意見だけを突きつけていたのではないだろうか。


「でも結局同じことじゃない。実力のある生徒が顧問にそんな話しておいて、辞めさせろって要求したわけではないんです、なんて言っても通じないわよ」

「わたしもそう思うけど。誰が見てもエースは平原さんだし、発言権がないわけない」


 鞠佳の横で薫子もひっそりとその意見に同意する。口には出さずにいるが、内心を言えば美景も同感だった。二対一になっても菫に立場を翻す様子はない。


「だからあ、それが誤解なんだって。じゃあもう一回言うけど、あの人はほとんど部活に来ないの。来たとしても一人で黙々と練習するだけで――ああそう、今みたいに。八倶坂だと顧問の先生と打ったりもしてたけど、先生がいない日はサーブ練習とか、相手がいなくてもできるような練習だけ。それは菫たちが練習相手にならないからだし、そんなレベルの後輩と打っても意味ないからじゃん。最初っから相手になんかしてないの」

「それが何なの? 平原せいの態度が悪いってことしかわかんないけど」


 鞠佳が憤然として言い返すと、菫は不思議そうな顔で首を傾げた。


「瀬尾ちゃんってもしかして、理解力が低い?」

「は? 喧嘩売ってんの?」

「さっきから言ってるじゃん、コーチが下手でも上手でも平原さんには全然関係ないんだって。部活に練習相手がいないのはあの人的にはいつものことなの。想定内なの。周りのレベルが低いから部活に出ないし、出たとしても一人で練習するんだってば。ずっとそうしてきたんだから、今更どんなコーチが来ても同じでしょ。文句言う必要がなくない?」


 たしかに、と思った。危うく口に出しそうになった美景だが、鞠佳たちの手前ここで素直に菫の言い分を受け入れるわけにもいかず懸命に無言を貫いた。

 反対意見がしばらく出ないところを見れば、鞠佳や薫子も少なからず菫の説を認めてはいるのだろう。ようやく理解を得たのを見て取った菫は、くたびれた顔でブレザーを脱ぐ。しぶしぶ引き下がる鞠佳と薫子を交互に見比べながら、美景は気付けば声を上げていた。


「あ、あの。じゃあ本人の不満っていう線はないとして、平原先輩がコーチを変えろって言ったの、もしかしてチームのことを考えたんじゃないですか? もっとレベルの高いコーチが来ればみんながレベルアップできると思った、とか……」

「それはないわ。だってあいつ、団体戦にまったくこだわってないもの」


 美景の思いつきは鞠佳によってすぐさま否定される。そうでしょ、と話を振られた菫はもっともらしく頷いた。


「チームのために進言とか、平原さんに限ってそんな先輩みたいなことするわけない」


 ひどい言いようだ。散々な口ぶりではあるけれど、ともかく菫は平原にかかった疑いをあらかた晴らすことには成功していた。

 しかし美景はまだどこか納得できずにいる。旭は自分の姉を辞めさせた張本人が平原だと信じていた。そう信じて、姉を傷つけた相手を糾弾したい一心で花ノ谷に入学し卓球部に乗り込んできたのなら、誤解でしたと言われてはいそうですかと引き下がれるものだろうか。

 たとえ菫の言う通り平原が直接の原因ではなかったとしても、コーチが花ノ谷を去ることになった真相はわからないままだ。


 去年から抱き続けてきた思いを平原にぶつけた旭は、これで卓球部を辞めてしまうのだろうか。たとえ平原が原因だというのが誤解だったとして、旭にそのことを伝えなくていいとは思えない。けれどもし旭にも今のような説明をするとして、そうしたら旭はきっと真相を知りたがるのではないか。


 このまま終わっていいんでしょうか――言おうとしてもすぐには声が出てこない。居心地の悪さを感じながらジャージに腕を通したところで、美景は古ぼけたスピーカーがじじ、と音を立てるのを聞いた。

 錆び付いた呼び出し音。その音量に全員がびくりとする。


『一年C組、岩傘旭さん。至急職員室まで来てください。繰り返します、一年C組――』


 入口付近のスピーカーから響くノイズ混じりの音声は聞き間違えようもなく井浦によるものだった。声だけを聞けば耳慣れた印象を受けるが、感情的な抑揚を排した平坦なトーンは普段のおちゃらけた語り口とはかけ離れている。


「……なんであいつ職員室にいるのよ」

「岩傘ちゃんに出て来てもらうためじゃない? 更衣室に荷物みんな置いてってるもん、まだ学校は出てないでしょ」


 花ノ谷高校には放送室がなく、放送委員も存在しない。呼び出し時に使うマイクは職員室に備え付けられている。ならば井浦は、飛び出した旭を追いかけることなく直接職員室に向かったのだろうか。

 なんのために? 思案してみても見当がつかず、美景はラケットケースを抱えて更衣室を出た。

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