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life is not all roses①

 修学旅行初日。清々しい気持ちで向かった体育館には美景みかげのほかにはまだ誰もいないようだった。今日の自主練習は女子だけと聞いている。他のクラスはホームルームが長引いているようだったし、担任に捕まっていた菫はまだまだ来ないだろう。来た道を戻る苦労を思いながら、美景は更衣室の畳に荷物をまとめた。


 入部して数週間が経った今、先輩たちがなかなか体育館に来ない訳が美景にもわかり始めた。すべての原因は最初に来た人が鍵を取りに行くというルールだ。

 なにせ第二体育館は遠い。そんな理由で部活開始が遅れているならば馬鹿らしいが、実際職員室と体育館の往復は厄介だ。顧問の机に向かう頃には美景の足取りはずいぶん遅くなっていた。


「失礼します。鍵を取りに来ました」

「ああ、自主練習でしたか。熱心でいいですね」


 細い眼鏡の縁が蛍光灯を浴びてきらりと光った。卓球部顧問の中庭美真よしざねは多くのクラスで数学を教えている。これまでも男子の顧問を務めていたというが、今年から卓球部全体を担当することになったらしい。直接的な指導こそしていないが、さすがに大会本番となると男女両方を見るのは忙しいのではないだろうか。


「僕も一度見に行きます。それと、あまり遅くならないように」

「すみません、気をつけます」


 毎日のように七時近くまで残っているのは把握済みのようだ。美景はぺこぺこと頭を下げながら鍵を受け取り職員室を出た。

 階段を降り、保健室を過ぎたところで出入口をくぐり、外廊下に面した細長い部室棟を通り抜ける。油絵の具や木の匂いは美術部からだろうか。一番奥の新聞部部室を右に折れ、再びまっすぐ伸びた廊下の先にあるのが第二体育館だ。あまりに正面玄関から距離があるため、先日井浦が開けたガラス戸が非常時用に設けられているというわけだ。

 しかしあくまで非常口扱いである。結局はこの長い道のりを真面目に進むしかない。制服を風に煽られ、部室棟に入り浸る生徒とすれ違いながら入口に辿り着いた美景は、嫌がらせのように重い扉を全身の力を使って横に引く。

 そのとき、後ろからすっと手が伸びた。

 美景の喉からひっ、と引きつった声が出た。後ろに誰かがいたなんてまったく気付かなかった――足音もなかった。どこも日に焼けていない細い腕が意外なほどの力で扉を引き、そのまま美景を押しのける。


「邪魔。どいて」


 囁くような声を残して自分を追い越した生徒の横顔を、美景は数秒にわたって注視した。一重の目、ほとんど色のない唇、長い首、ぞろりと切り揃えられた髪。細い毛先が肩のカーブに沿っててんでばらばらに、どうにか外向きと言える具合に跳ねていて、前髪は眉が見えるほど短い。

 美景はこんな髪型を正藍寺で山ほど見た。端的に言えば、ただただ卓球の邪魔にならないことのみ意識したスタイリングだ。美景は本能的にこれが誰かを理解する。

 井浦いうらはまだ来ていなかったが一年生は揃って制服のまま準備をしていた。いつしか更衣室でだらだらと喋るのが恒例になり、鍵を取りに行った一人が帰ってきてから全員揃って着替えるという流れができていたのだ。

 先輩が入ってくるのに気づき、卓球台を並べていたすみれが手を止める。

「あ、平原ひらはらさんだ。おひさしぶりです」

 後輩の言葉に軽い頷きを返し、床に荷物を置いた平原はおもむろにブレザーを脱いだ。制服の下に練習着を着込んでいるらしく、すいすいとグレーの上下を脱ぎ始める先輩に鞠佳まりか薫子かおるこが異様なものでも見るような目を向けている。

 最後に長袖のジャージを羽織って一分とかからず練習着に着替えた平原は、淀みのない動きでリュックの上に丸めた制服を積み重ねた。


「だいたい井浦に聞いたけど、一年生は練習できてないの?」

「まあ、実質的には。四人一台で基礎練だけして、あとはずっと雑用ってかんじですね」

「そう。進藤さんが十分団体メンバーに入れるレベルだけどね、今の三年」


 やはり平原も部員のレベルには物足りなさを感じていたらしい。美景としても十分に同意できる見解だが、なぜか菫はきょとんと目を丸くした。


「珍しい~、平原さんにほめられた」

「今のは褒めたことになるの?」


 平原がいると聞いた日にはあれほど嫌がっていたわりに、菫の態度に媚びるような不自然さはない。それどころか普通に仲がいいように見える。制服と荷物とを体育館の隅に押しやった平原は、ケースからラケットを出しながら尋ねた。


「で、正藍寺から来た子ってどれ」

「どれって。せめて誰でしょ」


 菫の指摘もややずれているような気がする。鞠佳と薫子を知っているなら消去法でわかりそうなものだが、と他人事のように考えていた美景はふと我に返る。

 唐突な平原の出現から長らく扉の前に突っ立っていたが、そろそろ中に入らなければ。というかここで名乗らなければ――鍵の束を握りしめた美景が体育館の床を蹴った時、平原に向かって歩き出したのはあさひだった。


「平原誓さんですよね、はじめまして。岩傘いわがさ旭です」


 旭が深々と腰を折り曲げる。おさげに結った髪の片方が肩から滑り落ちた。旭がゆっくりと体を起こす間、誰一人物も言わなかった。

 美景たちが知る岩傘旭はどちらかといえば弱々しい印象を与える同級生だ。しかし平原を前にした旭に常の内気さはなく、その声には奇妙な迫力がみなぎっていた。


「姉のこと、覚えてますか? 覚えてますよね。だってあなたが辞めさせたんだから」


 爛々と光る旭の目は、電車で初めて会った日を彷彿とさせた。詳しい事情こそわからないが、美景にもひとつだけわかることがあった。旭がどうしても卓球部に入りたい理由とは、おそらくこれだったのだと。


「わたしの姉は卓球をしてました。関東二部リーグの大学で、二年でレギュラーになって。でも上級生からいじめに遭って、部活をやめたんです。大学にも行かなくなりました。家に帰ってきて、あまり外にも出なくなって、わたしも、親も心配していて……花ノ谷のコーチをすることになったって聞いた時は、みんな喜んだんです。本人も卓球ができるのをとっても喜んでた。でも、またすぐ落ち込むようになった。大学の頃みたいに」


 このままじゃ辞めさせられるかもしれない、と言ってました――背丈の違う平原を上目遣いに睨みつけたまま、旭は言葉を続けた。


「姉は花ノ谷に通わなくなりました。聞かなくても何かトラブルがあったのはわかりました。顧問の先生と何度も話をして、最後はほとんど相手にもしてもらえなかったように見えました。そうして姉は、コーチを辞めて……辞めさせられて。わたし、どうしても納得できないんです」


 誰もがしんと聞き入っていた。旭の語り口は次第に熱を帯び、強い感情をにじませる。


「あなたは知らないでしょうけど、姉にもいろいろあったんです。ようやく立ち直ったところだったんです。それなのにあなたが、」

「言いたいことはわかったけど、人のせいにしないでくれる?」


 平原が言い募る旭を遮った。真正面からこれだけの怒りをぶつけられたというのに平原の声には温度がない。何の感情もこもってはいない。美景はなぜか自分が冷や水を浴びせかけられたような気になった。


「西田――去年の顧問に、岩傘コーチをどう思うか聞かれたことはある。外部から呼ぶならもっと上手い人にすれば、とは言ったけど、岩傘コーチとわたしの間にトラブルがあったっていうのはあなたの勝手な想像じゃないの。心当たりがまったくないし」

「嘘。だって、お姉ちゃんは学校との電話でもあなたの名前を出してた。何度も聞いたから覚えてるんです、だから、だからわたしは、ずっとあなたが来るのを待ってたんですよ」


 三年生がいない修学旅行は平原を問い詰めるにはうってつけのシチュエーションだったのかもしれない。うっすらと目に涙を浮かべる旭を鬱陶しそうに見返して、平原は手首にかかる袖口のリブばかり気にしている。


「岩傘さんはわたしが全部答えてくれると思ったの? でも、知らないことは答えようがないから。コーチが辞めた理由はわからないし、これ以上やっても時間の無駄。わたしのせいだと思うならそれでいいんじゃない」


 平原は表情を変えなかった。怒るでも謝るでもなく、まるで興味がないといった調子で旭から視線を外す。何度かジャージの袖を折り返した平原は、入口で立ち尽くす美景につかつかと歩み寄ってぱっと手を差し出した。


「鍵。よこして、これじゃ練習できない」


 言葉少なに用向きを説明し、美景の手からひったくるように鍵を取った平原は一瞥もせず旭の前を通り過ぎた。用具室の鍵穴がかちゃんと鳴る音に、旭が黙って目を閉じる。


「……もう、もういいです」


 震える声で呟くと、旭は足を引きずるように外に出た。用具室から出てきた平原がネットを張るのを誰も手伝おうとはしないまま、長く尾を引いた完全な無言は遅れてやって来た井浦を当惑させたようだった。


「えー、なにこの空気……もしかしてまたセイちゃん?」


 体育館の悲惨な様相に顔をしかめた井浦は原因を探りでもするように目を見開いた。平原は何事もなかったようにネットを張り終え、それを非難がましく見つめる鞠佳と薫子がいて、何か考え込む菫の後ろで美景がおろおろとし、旭だけがどこにもいない。


「……ああ、なるほどですね。わかった、ちょっと待ってて」


 事態を察したらしい井浦はリュックをその場に置いて踵を返した。外廊下を駆けていく足音が響き、やがて何も聞こえなくなる。

 岩傘という名字がそう多いとも思えない。おそらく井浦は、旭が名乗った時にはすでに花ノ谷のコーチだったという旭の姉を思い出していたのだろう。

 自主練習一日目は、期せずして波乱の幕開けとなってしまった。

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