花ノ谷高校女子卓球部⑥

「こんなこといつまでやってりゃいいのよ、っ!」


 両膝を軽く曲げた鞠佳まりかの右腕が弧を描く。相手の打球をすくい上げるような、怒声には似合わず優雅なスイングだった。

「引退を待つしかないんじゃ」

「もう四月も終わるのよ? 待ってる間に退部したって文句は言われないと思うわ」

 両足を肩幅に開き、低い姿勢でボールを呼び込むと振り上げた右手を一気に床近くまで振り下ろす。台からやや距離を取り、ステップを踏みながら薫子かおるこの打ったボールを拾い続ける鞠佳の動きにあさひがほうと息をついた。

「鞠佳ちゃん、すごく綺麗なフォームですね。踊ってるみたい」

 選手になる気はないとの言葉通り、旭がラケットを持って練習に参加することはなかった。雑用だけでは嫌ではないかと井浦や鞠佳が声をかけていたが、本人にはまったくそのつもりはないらしい。


 部活が終わるのが六時半、完全下校時間の七時までには三十分の猶予がある。その時間を活用しようと、一台だけを残して早めに片付けを終わらせるのが日課になった。

 ラケットケースを脇に置いて鞠佳と薫子のラリーを見ていた美景みかげは、打球音の合間に旭に耳打ちした。

「あれがカットといいます。鞠佳さんがボールの下を打ってるの、わかりますか?」

 ボールの底をスライスでもするようなフォームを見れば、下回転をかけることを「切る」と表現するのも納得できる。卓球というスポーツにおいてもっとも重要な要素と言えるのが回転とスピードだ。

 球速だけで言えばテニスやバドミントンには劣るが、卓球が最速のスポーツと呼ばれる理由は純粋な球速とは別にある。国際規格で定められた卓球台の長さは二七四センチ。相手との距離はわずか三メートルほどになる。この距離の近さゆえにボールはさほど空気抵抗を受けず、減速が少ないことから体感速度がきわめて速いのだ。

 そのうえトップ選手ともなると打球の回転量は一秒にゆうに百を超える。反応速度の限界ぎりぎりでラリーをしながら、一打ごとにボールの回転を読むことが必須とされるわけだ。有名な例えだが、「百メートル走をしながらチェスをするようなスポーツ」というのもあながち大袈裟ではない。

 相手の反応速度を超えるスピードで打ち抜くことも大事だが、その強打というのも回転を理解せずには始まらない。相手のサーブに対応できなければ攻撃につなげるレシーブを返すこともできないのだ。その回転の説明をするには、カット主戦型である鞠佳のプレーがもっともわかりやすい。


「鞠佳さんの打ったボールは下から浮き上がってくるような軌道に見えますよね。あれは強い下回転がかかっているからなんです。カットへの対応としては、こちらも下回転をかけて返すか――もしくは、その下回転に負けないだけの上回転をかけないといけません」

「薫子ちゃんがやってるみたいに?」

「はい。あれはドライブと言って、ボールに上回転をかける打ち方です。角度を合わせて強く打つこともできますが、普通に当てては回転の影響で真下に落ちてしまうので、どうしてもミスする確率が高くなりますね。だからカットマン相手にはドライブで繋ぐことが必要になってくるんです」


 体重移動も利用してボールを擦り上げるように打つドライブは大振りになりやすいのだが、薫子は手首が柔らかいのかコンパクトなフォームで鞠佳のカットを返している。

 ボールが落ちてきたところを振り抜くペンホルダーラケット特有の打球。だらりと下ろした右腕を鋭く跳ね上げるたび髪がぱらぱらと跳ねた。

 台上で下回転をかけるツッツキやコースを狙い澄ましたドライブを鞠佳がそつなく受け続け、もう何往復目かわからないラリーの最中、カットが少し長くなったところで薫子が大きくテイクバックを取る。

 上体をひねり、ラケットを持つ右腕はほぼ背面に。ワンバウンドしたボールの落ち際を、両足のバネを利かせてスイングする。


「わ、曲がった!」


 旭が身を乗り出した。カーブドライブ――通常のドライブに横回転を加え、ボールを大きく曲げたのだ。これまでクロスが中心だった薫子の返球だが、今回はさらに外に逃げていく変化が加わっている。フォアに振られた鞠佳は飛びつくようにラケットを振り抜いた。


「鞠佳ちゃん今、普通に……」

「はい。打って返しましたね」


 ドライブはスマッシュに比べればスピードで劣る。まして台から離れて構えるカットマンにしてみれば、コースを突かれてもいくらか追いつく余裕があるというわけだ。

 これまでのカットとは速度も軌道もまるで違うカウンター気味のドライブに、タイミングを崩された薫子は反応できない。鞠佳の手が小さくガッツポーズをかたちづくった。


瀬尾せおちゃんナイスボール~」


 一人離れたところに座ったすみれが気の抜けた拍手を送る。たしかに今のラリーは質の高いものだった。


「相手のボールを拾い続けて、回転の量や打球の長さを調整して、相手のミスを誘ったりチャンスを見て攻撃したり……とにかく、粘り強く戦うのがカットマンです」


 美景のコメントに旭が大きく頷いた。長いラリーをこなす体力、相手に打ち抜かれても諦めない精神力、前後左右をカバーするフットワーク。長期戦が予期される守備的な戦型のカットマンに求められるものは数多い。

 その点鞠佳は、中学から卓球を始めたとは思えないほどまとまった技術を持つ選手だった。時に攻撃的な手段も用いる正統派のカットマンだ。


 床にピンポン球を弾ませた鞠佳は、左手を体の正面でまっすぐに伸ばした。律儀なほどの静止からボールを高く投げ上げ、ほぼ直角に曲げた右腕で勢いよく切り下ろす。

 カットマン特有のバックサーブを薫子が丁寧なツッツキで返球した瞬間、冷たい空気がごうと流れ込んだ。今開いたのは部室棟につながる扉ではなく、直接校庭に出られる小さな出入口だ。吹き込んできた風にラリーを止めた二人は、身をすくませて埃の舞う引き戸のほうを見た。


「あ、教師だと思った? 萌ちゃんでした~」


 普段は使われない出入口から顔を出したのは制服姿の井浦いうらだった。脅かさないでよ、と胸をなで下ろした鞠佳につられ、美景も時計の文字盤に目をやった。

 六時五十五分。第二体育館が目立たない位置にあるとはいえ、注意されても仕方がない時間だ。ふわりと広がった癖毛を指でいじりながら、井浦は冷静に話し出した。


「自主練はいいことだけど、教師が来るのも時間の問題だよね。そしたら一年が勝手に居残り練習してたって話は顧問に行って、それから部長に行くわけ。考えたらわかるだろうけど、先輩ますます厳しくなると思うよ。台で打たせてもらえないかも」

「じゃあこのままおとなしく待てって言うの?」


 食ってかかる鞠佳に、井浦はまったく動じず顔の前で人差し指を振った。


「そうは言ってない。要は、三年がいない日に思う存分練習しちゃえばいいわけ。花ノ谷って一応進学校だし」


 井浦曰く五月からは模試や補講が頻繁に入ってくるらしく、三年生は土日も学校に来るのだそうだ。三年生の都合に合わせて部活も休みになるというが、教室棟から離れた第二体育館で声を出したところで校舎に聞こえるわけもない。


「つまり、ここで練習してもばれないってこと。わたくしきちんと先生からそのへんの許可は取っておきました」


 おお、と拍手が沸き起こる。井浦の手際のよさに、そして後輩の都合を考えてくれていたことに感嘆する美景の横で、鞠佳がしかつめらしく頷いた。


「井浦さんって意外とやることはしっかりやるわよね、ふざけてるけど」

「お褒めにあずかり光栄で~す。でもチャンスは土日だけじゃないよ、月末には修学旅行があるからね」


 なるほど年度行事表にもそのようなことが書かれていた。入学式で配られた冊子の中身を思い出そうとする美景だが、先んじて井浦の補足が入る。


「修学旅行は二年で行くのが普通らしいけど、花ノ谷は私立だし、カリキュラムの都合で三年の春になってる。おかげさまで五日くらいは自由にできるってわけ。来月は地区大会もあるし、さすがにセイちゃんもそのあたりには来るでしょ」


 とうとう平原ひらはらせいにお目にかかれる。美景の気持ちは少なからず浮き足立った。一ヶ月近く練習を見た限り、三年生の中に飛び抜けてうまい選手はいなかった。

 井浦は実力こそあるのだろうが三年相手の練習では明らかに流している様子である。中学時代ほどの水準を期待していたわけではなかったが、参考になるプレーは盗もうと思っていただけに先輩たちの実力に気落ちしなかったと言えば嘘になる。改めて正藍寺のレベルは高かったのだと思い知らされ、美景はもはや平原にずいぶんな期待をかけていた。

 聞くところ付き合いづらい人物のようだが、平原のプレーから少しでも学びたい。そんな思いで日々の部活を耐え抜き、とうとう修学旅行を間近に迎えた美景は、旭がどんな表情で平原の名前を聞いていたかをすっかり見落としていたのだった。

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