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花ノ谷高校女子卓球部①

「いってきます」


 返事はなかった。出発の挨拶が玄関にしんと消えゆく静けさに気勢を削がれて、はやし美景みかげはもう一度、自分の声色を確かめるようにいってきますと呟いた。

 駅までは徒歩数分、列車の出発時刻も以前と変わらない。しかし美景が通う先は三年間通った正藍寺しょうらんじ学園の校舎ではなかった。

 外部受験をしたいと切り出したはいいが、なぜ急にそんな決断をしたのかと聞かれた時には言葉に詰まった。まさか県大会で見た選手に願掛けをした結果ですと素直に答えるわけにもいかず、同級生の頑張りに触発されたのだと無難な理由をこしらえておいた。

 娘が強豪校で出場機会を掴むことを望んでいた両親は最後まで不満顔だったが、正藍寺と同じかそれ以上の学力の高校に行くことを条件に受験の許可を取り付けたのだった。

 成績だけを見ればもう少し上の高校を受験することもできたのだが、担任が美景に熱心に勧めた学校は縦に長い形をした県の南端にあり、家から通うのは困難なようだった。下宿をしてまでそこに行きたいわけでもなかったので、結果として美景はほどほどに自宅から近い花ノ谷かのや高校を選んだ。そして四月、晴れて入学式を迎えたというわけだ。


 通学は毎日列車で一時間。正藍寺にも同等の時間をかけて通っていたので起きる時間も変わらない。違いと言えば制服のデザインと列車の向かう方向くらいのものだ。

 とはいえ初めて袖を通したグレーのセーラーブレザーはなんともよそよそしく感じられ、美景は家から駅までの道のりを神経質にリボンを結び直して歩くことになった。

 学年ごとに色の違うリボン。今年の新入生に割り振られたのは赤で、ジャージや上履きにまで同じ色が使われている。卒業まで赤いジャージを着るのかと思うと気が重くないではないが決まったものは仕方がない。着慣れない制服が体に馴染む間もなく駅に着いてしまった美景は、車通りの少ないロータリーを早足に通り過ぎた。

 新学期を迎えたこの日も、最寄り駅は慣れ親しんだピアノの音に包まれていた。スーツを着た社会人と電車を待つ学生たちがおとなしく座る光景を目にしただけで安堵にも似た懐かしさがこみあげ、美景は自分が思いのほかナーバスになっていることに気付く。

 毎朝同じ時間帯に集まる他校の学生たちとは旧知の間柄というわけでもないが、三年間同じ空間に押し込められていれば自然と全員の顔を覚えるというものだ。それでも制服が変われば印象もずいぶん違う。彼らにならって席に座ろうとした美景は、しばし躊躇した後にくるりと踵を返した。

 急な方向転換についていけなかった鞄が一拍遅れて膝の裏にぶつかる。痛みも気にせず駅舎に併設されたコンビニに飛び込み、そこでようやく一息ついた美景はガラスケースに映る自分の姿を改めて検分した。

 ペットボトルに透けて映る淡いグレーの上下。花ノ谷の制服は、黒と藍色が基調だった正藍寺のものとは似ても似つかない色合いだった。

 美景が彼らを認識しているように、毎朝同じ駅に居合わせる学生たちも美景のことを覚えているだろうし、正藍寺学園が中高一貫であるということもわかっているはずだ。では、そこに通っていたはずの生徒がいきなり違う高校の制服を着ていたらどうだろう。

 違う高校に編入したと、一目で知られてしまうのが恥ずかしかった。美景は、いつしか顔見知りになっていた学生たちの前に新しい制服を着て出て行くのが嫌だったのだ。

 できれば注目を浴びたくない。周りの目を気にしすぎるのが自分の短所だとはわかっていても、美景はどうしても内に閉じこもりがちな性格を直すことができない。

 たかが制服ひとつで身動きが取れなくなる自分をきまり悪く思いながら、ガラスケースに並んだ緑茶を手に取る。もう間もなく電車が来てしまう。会計を済ませた美景は、サブバッグによく冷えたペットボトルを押し込み再び駅舎へと足を踏み入れた。


 磁気定期券を改札に通し、早足にホームに出る。駅を出てすぐの一番ホームにただ突っ立っていたこれまでとは違い、今日から毎日階段を渡らなくてはいけない。渡線橋を駆け抜けた美景は、なるべく周りの顔を見ないようにして横長に形成された乗車待ちの列へと加わった。

 三年間顔を合わせてきた生徒たちはやはり美景の変化に気付いているようで、新たな制服は案の定注目を集めている。ちらちらと浴びせられる視線に遠慮というものはない。列車の到着を心待ちにしていた美景だが、乗車後も状況は似たようなものだった。

 同じ列車に乗り合わせた男子生徒はまだこちらに興味を向けていて、好奇の視線に耐えかねた美景は違う車両に移ることすら考え始めた。制服だけでこちらの事情を勝手に推測されてしまうのだから顔見知りというのは厄介だ。

 加速する列車に急かされるように踏み出したところで、美景は誰かがあっと声を上げるのを聞いた。待ちかねていたプレゼントを渡された時のような、久々に友人と再会した時のような、喜びと親しさを感じさせる声だ。

 周囲の視線を辿ってみると、ドア付近の席に座っていたのは中途半端な長さの髪を耳の下で二つにくくった女の子だった。それは学生にはありふれた髪型で、小柄な体をもう一回り縮こめるようにして座る彼女は立ち止まった美景にぱっと口元をほころばせる。


「同じ制服」


 ライトグレーのセーラーブレザーは、そう言って笑う彼女には少し大きく見えた。胸元の赤いリボンは彼女が同級生であることを示していて、美景はつり革の前で足を止める。中高一貫の学校から受験を選んだ美景には高校での知り合いが一人もいない。登校初日に話し相手を見つけられたのは思ってもみない幸運だった。


 いくつか前の駅から来たらしい彼女は名前を岩傘いわがさあさひといい、正藍寺と同じ中央地区の白船中出身らしい。自己紹介を済ませた二人はうっすらと暖房の利いた車内でとりとめもなく話し始めた。

 中学はどんなところだったのか、家はどのあたりにあるのか。とうとう話題が部活へと差し掛かったところで、美景は素直に正藍寺での経緯を打ち明けた。

 強豪校に入部したものの控えに甘んじていたこと。新しい場所で挑戦しようと花ノ谷を受験したこと。後ろにいる男子にも聞こえていたらいいと思った。あれこれと邪推されるより、どうせなら包み隠さず話してしまったほうが楽かもしれない。

 とはいえ人の挫折した過去など聞いて楽しい話題ではない。初対面の相手を昔話に付き合わせる申し訳なさを感じて、旭の表情をうかがった美景ははっと息を飲んだ。うんうんと首を振りながら聞いていた旭は、なぜか話の途中から顔を輝かせていたのだ。


「……あの、ごめんなさい、長々と」

「ううん、全然! 卓球部だったんだね。高校ではどうするんですか?」


 口調こそところどころ敬語が入り混じってはいるが、矢継ぎ早に尋ねてくる旭の勢いに押されて美景が口ごもる。続けるつもりだと答えると、旭は満面の笑みを浮かべた。


「よかった! わたしも入りたかったんです、卓球部。知り合いがいなくて不安だったの」

「そうだったんですか」


 吊り革を握り直した美景は内心で首をひねる。白船中は何度も大会で見かけたが、その中に旭がいただろうか。卓球というのはでかでかと名字が書かれたゼッケンを背中につけて試合をする競技だ。岩傘という珍しい名字くらいは記憶にあってもよさそうなものだが。


「あの、旭さんは中学校でも卓球をされてたんですか」

「……実は初心者なんです、わたし。やっぱり経験者の人ばっかりだよね、高校って。それはわかってます。わかってるし、試合に出るとかレギュラーになるとか、そういう気持ちは全然ないんです。運動も苦手だし」

「それなら、どうして?」


 単純な疑問が自然と口をついて出た。選手として試合に出るために花ノ谷に来た美景には、自分の出番が来ないと理解したうえで入部を志す旭の動機が見えてこない。サブバッグに置いた手を握りしめ、旭が顔を上げた。


「でもわたし、どうしても卓球部に入らなくちゃいけないから」


 旭は決して笑みを絶やすことなく、しかしどこか悲壮な表情で言い切った。一音一音を刻み込むような切実さで。

 これ以上聞いてはいけない、と直感した美景は、ただ無言で頷くことしかできなかった。その後の話の内容はほとんど覚えていない。駅が進むにつれ車内には着々と花ノ谷の生徒が乗り込んできて、駅を出れば学校へ向かう生徒が列を成していた。


 学校まで並んで歩いた二人は、正面玄関にできた人だかりの前で足を止めた。掲示されたクラス分けのプリントを見に新入生が集まっているのだ。

 十年前ほど前まで女子高だったという花ノ谷は共学になった今でも圧倒的に女子生徒が多く、自分や友人の名前を見つけてはしゃぐ声がそこかしこで響いている。


「花ノ谷高校って成績順でクラスが決まるんだって。友達に聞きました」


 まったく知らなかった。へえ、と呟いた美景は旭より頭ひとつ背が高い。自然と先にプリントの文字を見ることになった美景は、A組の欄に自分の名前を見つけた。


「わたし、C組でした。美景ちゃんは?」

「A組でした」


 すごおい、と驚く旭の隣で、美景はぱちぱちと目をしばたかせる。やはり知り合いはいなかった。けれど、見覚えのある名前を見つけたのだ。

 ――一年A組、進藤しんどうすみれ

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