花に嵐のたとえもあるが―花ノ谷高校女子卓球部―
青井
プロローグ
林美景(正藍寺学園)
藍色の幕が揺れた。視界の端でそれを捉えた
最前列に陣取った観客の一人が席から大きくはみ出し、半ば手すりにもたれかかっていた。乗り出した体が旗を結わえる紐を引っ張ったのだろう。褪せた藍色に白く抜かれた『制覇』の二文字。規則ぎりぎりの大きさで作られた
応援の熱気と外から差し込む陽気で場内はずいぶん暖まっていた。とても過ごしやすいとは言えない温度だが、卓球競技が行われる会場で窓が開けられることは少ない。重量わずか三グラム程度のプラスチックボールはたやすく風の影響を受けてしまうのだ。
競技の性質上仕方のない措置とはいえ当の選手が暑さを感じないわけがなく、チームメイトを応援する美景たちの真下では対戦相手がしきりに赤いユニフォームの首元を引っ張っている。
――ねえ、これやばいんじゃない?
背後でひそひそと囁き交わす後輩の声につい同意を示しそうになり、美景はプリントのにじんだうちわで口元を隠す。段になった座席の向こうで繰り広げられる試合は、思いがけず長引きそうな展開を見せていた。
「一年、試合中だよ」
厳しい口調で咎められた一年生たちが気まずげに頭を下げる。後ろの席で繰り返される謝罪を気に留めることもなく得点板を眺めていた矢部は、やがて険しい顔を保ったまま美景のほうに顔を向けた。
「林先輩もしっかりしてください。全然声出てないですよ」
「そうだね――ごめん」
美景は素直に非を認める。矢部は気の強い後輩だが言っていることはまったく正しい。
これが普段であれば、試合中の私語を慎むようにと後輩を叱るべきはこの場で唯一の最上級生である美景のはずだった。自分でもわかっている。チームのエースである同級生を応援する態度が上の空なのも、心のどこかで番狂わせを期待していることも。
そんなやりとりの間にも試合は続く。鋭くボールが跳ねる音とともに、赤いユニフォームの選手がフォアの強打を打ち込んだ。きっと同じ学校の生徒だろう、ぱらぱらと拍手が巻き起こる。2ゲーム目、5-8――今の得点で5-9。11点先取で1ゲームが終わる卓球というスポーツにおいてこの点差は大きな負担だ。連続ポイントでもない限り、このままいけば相手にゲームポイントを与えることになる。あの
もしかするとわたしは今、すごいものを見ているのかもしれない。太字で校名がプリントされたうちわを握りしめ、美景はそわついた気分で左右の席を見渡した。
あちこちで歓声の上がる応援席にはチームカラーをあしらったジャージの集団がずらりと並ぶ。打球音と靴底が床を擦る音とが響くフロアを挟んで反対側、一際大きな声を張り上げる同級生の姿に、美景は目を奪われた。固まって座った部員が一斉に手を叩き合わせる動きは美景たちとは比べものにならないほど統率がとれている。すごいな、と思う。
心の底から、自分の役目はこれだと信じきってレギュラー組の試合に一喜一憂する彼女たちは、もうすべてを割り切っているように見えた。この学校でレギュラーにはなれないことも、こうして応援席に座ったまま最後の大会を終えることも受け入れて、二階席から身を乗り出すほど必死になれる。自らの立ち位置に折り合いをつけたチームメイトの裏表のない表情はただ眩しい。
美景はまだ、心を無にして応援に徹することができてはいなかった。これが一年や二年ならまだ救いがある。もう三年にもなるくせに、これが中学最後の大会なのに今でもあのフロアに立ちたいと思ってしまっている自分が嫌で、実力が足りない口先だけの自分が嫌だった。
卓球を続ければ続けるほどに自分が憎らしくなるのだったら、もういっそ辞めてしまったほうがいいのかもしれない。わっと喜びを爆発させるチームメイトの一団から視線を外し、美景は少しだけ笑う。今わたしがするべきことは静井さんの応援で、それ以上でも以下でもない、と自分に言い聞かせながら。
卓球はそれぞれ二本ずつサーブを行い、双方の得点を合計して偶数になったことろでサーブ権が移る。次にサーブを打つ静井へぽんとボールを打ち上げた対戦相手のゼッケンには筆文字で進藤と書かれていた。
規則通りの高さにボールを投げ上げ短いサーブを出した静井は、相手に打たせないことを意識した丁寧な返球を続けて甘いボールを待つ。浮いたところをバックハンドで叩き、お決まりのパターンでラリーを制したのは静井だった。
静井は決して守備的な選手ではないが、いつもこうして速攻の選手を完封する。だからこそ奇妙なのだ。他校からも『速攻キラー』と認識されている静井が、まさにその速攻相手にリードを許しているのだから。
続け様にサービスエースを決めると、静井の右手が小さくガッツポーズを作った。これで点差は縮まり7-9。もう一点取れば同点に持ち込む可能性も見えてくるが、相手に得点されればゲームポイントを握られる局面だ。
渡されたボールをぱしりと掴み、進藤はひとつ間を置いた。何度か台上にボールを弾ませて姿勢を低め、ゆっくりとサーブの構えに入る。
高く垂直なトス。これまで何度も出したサーブと同じ、下回転を打つようなフォーム――。
「あ、」
これは違う。唐突にそう直感した美景は座席から腰を浮かせていた。半ば立ち上がった美景の視線の先、進藤の手元で弾んだボールが勢いよく飛んでいく。
台上に短く落とす下回転とは似つかない速度で放たれたのは上回転系のロングサーブだった。進藤はボールがラケットに当たる瞬間くるりと手首を返し、速く足の長いサーブを打ち込んだのだ。
ここまで使っていたサーブと同じ構えから繰り出された奇襲的なロングサーブ。待ちを外された静井の反応が一瞬遅れ、当てるだけの返球になる。それでも静井のレシーブは低い軌道で相手コートへと向かっていった。
出したサーブがそのままの速度で返ってくる。これが速いサーブのリスクで、相手を崩すどころか自分がミスをすることもあるのだ。
けれど美景にはわかる。これまでがむしゃらに打ってきた経験が、感覚が、一歩も退かず静井に立ち向かっていく知らない選手の思考を読み取る。速攻には――速攻ならば、これで十分だ。
卓球台の中央、ちょうどセンターライン上にボールが弾んだときにはすべての準備が済んでいる。高く結った髪が翻る。素早く回り込んだ進藤が、わずかにテイクバックを取った右腕をためらわず振り抜いた。
うわ、と小さな呟きが聞こえた。後輩の口から思わずこぼれ出たのであろう驚嘆を、矢部はもう叱らなかった。
ロングサーブからの三球目攻撃。セオリーのひとつではあるが、説得力のある完璧なプレーだった。
静井が隣の台まで転がったボールを駆け足で取りに行く。一時試合が止まり、再び座席に背を預けた美景はこわごわと自分の足に触れた。それは不思議な体感だった。ただ座って見ているだけの自分が今のプレーの間だけ、まるで進藤とシンクロしたような気持ちになったのだ。
上体を回転させ、フォアハンドでボールを捉えながら左足を思い切り踏み込む。床を踏みしめる感覚がまだ足に残っているようにさえ思えた。
コースを狙ったロングサーブは打ち返す分には容易く、普通に出しては意味がない。あくまで不意を突くため要所で使う技をこの場面で見事に決めてくるとは。
格上相手に攻めていく、自分のプレースタイルを貫く姿勢。それは今の美景には到底持ち得ない強さであり、幼い頃の美景が当たり前に持っていたかもしれないものだった。
これで7-10。ゲームポイントを迎えた進藤は手首を振って肩にかかる髪を払う。静井が台に戻るのを待つ間、進藤は終始落ち着いた様子で体を動かしていた。
むしろ緊張しているのは応援席に座る自分たちのほうかもしれない。予想外のエースの苦戦に矢部までもが不安そうに視線を送ってくるのに気付きながらも、美景はじっとフロアを見つめていた。
県下最強とうたわれる正藍寺学園にそれなりの自信と期待とを抱いて入学した。その甘さが打ち砕かれるまでに半年もかからなかった。ほかでもない静井都との試合で、美景はあっけなく限界というものを突きつけられた。
一度目の対戦後には左利きが苦手だからと言い訳して、二度目の負けで相性が悪いからだと考え出して――要するに、前陣速攻というスタイルに責任を押しつけたのだ。静井さんは速攻が得意だから分が悪いんだ、と。
部内リーグ戦で上から順に選ばれるレギュラーの顔ぶれはほぼ変わらず、時折補欠が入れ替わることがあるくらいで、美景は常にレギュラー組の試合を眺めるだけの立場だった。それがフロアか応援席かという違いはあれど、メンバー登録されたところで試合には出られないのだから最初から応援席に座るほうがまだましだ。団体戦の審判役を務めながらそんなことを思うくらいには、美景の諦めは深かった。
控え組のスタンスは二つに分かれる。レギュラー組との差を潔く認め、早々に選手としての自分を見限る部員と、圧倒的な差を自覚してなお努力を続ける部員だ。
矢部は明らかに後者だった。美景はと言えば、二極化する控え組の中でどちらに与するわけでもなかった。別に意図があって中途半端な振る舞いをしているのではない。ただ単に、どうすればいいかわからなかったのだ。
控え組の中では一二を争う実力者でありながらも、美景には自分がレギュラー組を打ち破る光景など想像もできなかった。1ゲームすら奪えない分際で勝つことを思い描くなんてあまりにも滑稽だと思った。それなのにプラスチックの椅子に腰かける美景は、食い入るように静井の試合を見つめている。どうかこのまま、競った試合をしてほしいと思ってしまっている。
正藍寺のエース相手に食い下がる無名の選手に自らを重ねたわけではない。それはさすがに惨めすぎるから。けれど、この選手に――進藤菫のプレーになにひとつ託してはいないと言ったら嘘になる。
美景は自分の未来を賭けたのだ。今日名前を知ったばかりの選手に、身勝手にもきわめて個人的な決断を委ねた。高等部でも不完全燃焼のまま控えでい続けるか、思い切って辞めてしまうか。それとも新たな場所で再び競技に向き合うのか。
勝手に託された進藤にはいい迷惑だろうが、しょせん願掛けじみたものだ。組んだ両手に顔を乗せ、美景は前のめりに正面の台を見つめる。
「静井さんファイトです」
「ここ一本です!」
矢部の声かけに一年生が追随する。コートに戻る静井に向けられた声色は切実だった。最終学年になって以来県チャンピオンの座を守っている静井は間違いなく強者であり、部員たちの最上位に君臨している存在でもある。そんな選手が追い詰められる姿を見て、後輩たちまでもが揺らいでしまっていた。越えられない存在に強くあってほしいという無意識下での願いが彼女たちを不安にさせるのだろう。
静井がボールを渡してよこす。受け取った進藤はぺこりと小さく頭を下げて、白いピンポン球を何度かラケットの上でバウンドさせた。自分のテンポを崩さない選手だ、と美景は思う。自分もそうなりたかったな、とも。
この試合の、第2ゲームのゆくすえに進路を託してみようと考えたのはなぜだろうか。進藤が同じ戦型の選手だからか、彼女が美景にとっての大きな壁である静井を追い詰めているからなのか。
理由はどうあれ、美景は進藤のプレーが好きだ。相性の悪い相手に臆さず立ち向かう積極性も、自分を貫こうとする気の強さも。もしかしたらその勇気に影響されただけなのかもしれなかった。結局美景は流される。だからこうしてどこまでも他力本願な思いを抱えながら、応援もそこそこにチームメイトの試合を見物しているのだ。
進藤が上体を伏せた姿勢で静止する。隣で両手を握りしめる後輩を横目に見ながら、美景は知らず鼓動が早まるのを感じている。赤いユニフォームをまとった進藤は、手の平に乗せた小さなボールをまっすぐに投げ上げた。
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