虹の翼
若菜紫
第1話 虹の翼
『虹の翼』
添付ファイルで送られてきた
白く
美しい
蝶の抜け殻
シャワーを浴び
慌ただしく身支度をしている間に
彼が写したものだろう
指と指を絡ませ
膝と膝を擦り寄せた
一組の跡が
いまだに見えるようだ
恥ずかしい
撮られてしまった
時間がなくてつい
物心ついて以来
後片付けを怠らないようにと
厳しく言われてきた
頭の片隅をかすめた
そんな記憶も気がかりも
春の空に吸い込まれて
視線の先に
二匹の蝶が縺れ合う
『夢の中の人』
夜更けに一人
古びたCDに耳を傾けながら
想い起こす日々
恋人から贈られた
薔薇のクッキーをつまみながら
地中海をイメージした
古めかしいムード音楽が収録されている
このCD
寝ぼけ眼をこすりながら
母と祖母に手を引かれ
箱崎発の成田空港行リムジンに乗り込んでいた
あの頃から家にある
このCD
恋の色は何色
デロス等には人喰い蜥蜴がいるらしい
エーゲ海の真珠とは何
漠然と
何者かも知らぬ
恋
そんな
恋
を表象していた曲の数々に
耳を傾け
思いを馳せた
幾夜幾夜
もしも再び
当時と同じ目的地を訪れる日が来ても
出迎えるはずの一人がいない空港と
他人の住む別荘が
私を待ち受ける
そんなことを噛み締めながら
恋人に贈られた
薔薇のクッキーをつまみながら
夢を見ていた
あの頃を想う
恋が遠い憧れだった
あの頃を
曲のイメージに見た
夢の中の人に
自分が今なっていることを
今度恋人に逢う時
彼に夢を見せる人に
なりたいと想っていることを
『光が降る雪灯りが散る』
ちらちらちらちら
光が降る
外からは見えぬ一点を
互いに触れ合わせる二人
身体の奥を震わせながら私は
彼の頬に額に
揺らめく木漏れ日を見る
束の間ダフネの腕となった
私の髪が織りなす影は
その人を愛撫し
髪そのものに
ちらちらちらちら
光が降る
思い出していたの
初めてこうした
あの時のことを
思い出していた
こうなることすら知らなかった
遠い日のことを
散る散る散る散る
雪灯りが散っていた
そんな朝
受験票と参考書を入れた鞄
古いJ-POP
恋人への想いに
切々と歌われる朝焼け
窓の外に目を向け
私も朝焼けの街に
おずおずと足を踏み出す
煌々と冷たい空からの炎
散る散る散る散る
雪灯りが散る
長い道
『一雫』
切り株を模したテーブルの前で
向かい合っていたね
二十年後に
再び訪れ
翌年に
また訪れ
ぽとり
と落ちそうな夕陽を
視界の片隅に留めたまま
いつになく唇を合わせたね
テーブルの素材は
木ではない
気づいてしまったよ
それでも空は
血の一雫を
人知れず
『京鹿の子の時』
頑張ってください
サプライズをありがとう 鞄を
持ってあげよう お弁当を作りました
買った食品は重くない? また来週
コンクールに落ちました 来年頑張りましょう
今度はどこに行きたい? 楽しみにしています
咲き誇る京鹿の子 ちらちらちらちら
朝から花を植えました
咲いたらプレゼントする
写真を送ります
この坂道を歩いた
夏の日を思い出す きらきらきらきら
角の花は何?
下野草か京鹿の子か きらきらきらきら
葉っぱの形が違うらしい
次に逢うのは来週 きらきらきらきら
掌いっぱい 散り敷く 京鹿の子
『四半世紀毎と瞬時の坂道』
エリック・サティの《干からびた胎児》
が耳元で流れる
流れる旋律
題名から想像するには
あまりに優雅な旋律が
車の走行音を轟音を
搔き消すには足らず
車の走行音と轟音と
重なり合い
街灯と若葉の影が織り成す模様と
互いを飾り合う
もうじき差し掛かる
四半世紀と瞬時の坂道
遠い日の恋
親しい先輩後輩として
つかず離れず
ひとたび離れ
再びめぐり逢い
新たに燃え始めた恋
人目を忍んで
建物の陰で愛し合い
勝手に名付けたこの道に
相応しい曲を
自然とアプリが選んでくれるわけもなく
私はスマートフォンを操作する
《一世紀毎と瞬時の階段》
慌ただしげに転がるピアノの音色が
買い物に帰宅に
急ぐ人々の足音を掻き消し
人波と
互いに存在を主張し合い
瞬時に静寂が訪れる
『海の見えるテラスで』
海の見えるテラスで詩を書きたい
砂浜へと向かうオープンカーに乗せられ
着いた先で
簡素な白い椅子に腰掛け
簡素な白いテーブルにノートを広げ
愛用のペンを片手に
頬杖をついていたい
若葉の薫りがする
乾いた波に
足をくすぐられるままに
開け放たれた窓に
鉄橋を映し
乗客たちを乗せた
T線
という名のオープンカー
乾いた波が足の裏で騒ぐ
風
という名の波
昔とは似ても似つかぬ
母校の学生食堂
広々とした飲食スペース
窓際の席に座り
並木道と
中庭とを眺め
部室のあるはずの棟を想う
今は鍵の開かぬ部室を想う
サークル名の見当たらぬ部室を想う
在り処を確かめられぬままの部誌を想う
海が見えるテラスで詩が生まれる
触れられぬ日々
という名の海が見える
学生食堂の片隅
やがて潮が満ちてくる
現在
という砂浜に侵入してくる
その輝きはさらに輝かしく
その時に
私は再び海に
触れる
『海を知らぬ』
夏の海を携え
その人は坂を上がってきた
抱えられた大きな紙袋から覗く
白い飛沫
青い波頭
「海を知らぬ」頃
夏のはじめに届けられた
白い飛沫
「両手を広げ」るでもない
両手に抱えられた
その白い飛沫を
人は
白い玉紫陽花
と呼ぶ
海を知った翌年
夏のはじめに届けられた
青い波頭
「両手を広げて」
私を海へと誘った日を想わせる
その青い波頭を
人は
青い玉紫陽花
と呼ぶ
今年も訪れる
海
白い飛沫
青い波頭
『フレスコの空』
溢れるばかりのグラジオラス
フロックス
黄色とオレンジ
白と桃色
赤紫
「グラジオラスの花言葉は〈密会〉。フロックスの花言葉は〈合意〉」
アート誌の並ぶ
無彩色の空間
観葉植物
中古DVD
オペラ歌手名鑑
陳列棚のバウムクーヘンに
今はない焼き菓子店跡に設けられた洋菓子店に
こみ上げる恋の始まり
時計を見
小学校の下校時刻と照らし合わせ
手を取り合って駆け下りる駅の階段
籠に玉ねぎと肉を入れ
家までの坂を上がり
買い物袋を受け取って
抱擁を交わし
芽吹いたばかりの朝顔と
青いレモンをつけた若木に水をやり
自分の手をふと見つめ
風に身を委ねる
夕暮れの風を運び
一日を彩り
蘇らせる
フレスコの空を見上げながら
『花火姫縁起』
隅田川沿いの町家に一人の娘
花火のはじける笑まひから
花火姫よと人は呼ぶ
ある夜願を掛けました
ほおずき市のその夜に
娘は願を掛けました
隅田に上がるその花火
どうか見させてくだされと
恋しい人と見させてと
ひとつ残りしほおずきを
片手に持ちて恋人と
語りつ食みしりんご飴
西洋のおとぎ話に
語られし毒こそなけれ
恋の薬の効き目かや
恋人の口に含みし
乳首のほおずき
夢の間に間に
隅田の花火
『向日葵』
庭で育てた向日葵を持って行きます
メールで告げられ
早一年
素敵な鉢に植え替えたら枯れてしまいました
代わりに向日葵をデザインしたお菓子を持って行きます
大雨でだめになってしまいました
こんなメールを受け取りつつ
一年の間待ち焦がれた私の家の花瓶に
ようやくたどり着いた向日葵が
夏の始まりを咲く
太陽に恋をした向日葵
あの人の想いに相応しい
夏の花
向日葵になって
あの人の庭で
咲いていられたら
貴女が好きです
メールで告げられ
早二十年
恋人はいるのでしょうか
帰りがてら食事でもして行きましょう
これが恋人握り
こんな言葉を聞きつつ
二十年の後
たどり着いたあの人の腕で
私は向日葵になる
『オアシス』
今日だ
間違いない
あの人はいつもの場所にいるはず
たった今終えた予定さえ
昨日までは
間違って覚えていたという
いつにない迂闊さ
もし今も間違って覚えていたなら
今日逢えないかもしれなかった
という心もとなさ
手帳の欄に
三色ボールペンで色分けされ
ぎっしりと書き込まれた
スケジュール
という名の砂漠
ふいに
私の目に映り
私の姿を捉える瞳
蜃気楼のように
遠ざかることなく
「はい、これ」
と
首に掛けられた冷感タオルの
一瞬にして作り出す
木陰と水辺に身を委ね
掌から掌へと伝わる
陽光の温もりを携えたまま
楽園を見る
『ブラックベリー酒の隣に』
ブラックベリー酒の隣には
いつも
グラジオラスが咲いている
黄色いグラジオラスが咲いている
夕焼け色の花芯仄めく
黄色いグラジオラスが咲いている
待ち合わせをした
公園に近いテラス席
あら
こんなにもお洒落なカフェバーが出現
恋人はマジシャン
密会の時刻を報せる
この花の数に心焦らされ
ブラックベリー酒を
一緒に飲める日はいつか
と
待ち焦がれた恋の始まり
私の飲み頃を報せる
ブラックベリー酒の隣には
いつも
グラジオラスが咲いている
黄色いグラジオラスが咲いている
夕焼け色の花芯仄めく
黄色いグラジオラスが咲いている
今度いつ逢えるの
と尋ねる
あの人のために
『爪』
昨夜と今朝方の記憶を
掌に握りしめ
彼に送られながら
帰り道を電車に乗っているとき
ふと
落としたくなるのです
爪に塗られた
派手派手しい真夏の青を
別れ難い想いを
はじめての日には
とても口にできなかった
際どい言葉の数々に
紛れさせているとき
ふと
胸を過ぎるのです
細かくおずおずと
爪に煌めいていたラメと
気づいてくれた彼の眼差しを
マニキュアの色に
隠れてしまった爪のように
冗談に紛れて
言えずにしまったお礼を
彼に手渡したい
そのために私は
爪を綺麗に塗るのです
『光に寄せて』
《虹の栄光》という詩を書きたい
祝勝会ムード冷めやらぬ
母校のキャンパス
優勝の瞬間に
虹が架かったというその場所を
二人で歩きながら
詩作に耽ろうと思っていたが
その夜明けに起こった
予期せぬ出来事に
虹が消えゆくのを眺めているばかり
「この日は逢えないかもしれない。
また連絡します」
メールを送り
スマートフォンを閉じ
イヤホンとユーチューブをセットして
家事を再開する
《ルサルカ》のオペラが始まり
月に寄せた恋の歌が流れる
言葉が足りないということは
やはりこうなるのか
枯れずに一輪咲き残る向日葵は
ひび割れた夏のかけら
「あなただけを見つめて」いる
あの人の想いを託されて
消えた虹と
月に向かって歌われたきり
伝えられずにしまった恋と
今もこちらを見つめている
真夏の太陽のかけら
掴み取れぬもどかしさに抗い
今は詩を書こう
輝いては消え
想いを預かったままに佇み
恋を伝えようと燃え残る
光に寄せて
『ひび割れた夏』
枯れずに一輪咲き残る向日葵
ひび割れた夏のかけらは
パエトンの車と相打ちになり
ここに落ちてきた
力の限り
日輪に近づこうという
そんな願いを認め受け継いだまま
「あなただけを見つめて」いる
あの人の想いを託されて
『クリームソーダ』
爪に貼られたシール
に
描かれた
クリームソーダ
愛し合いながら
二人で
飲み干してしまった
「恋の雨」
ギリシャへの憧れを胸に
我は去なむとす
かのアフロディーテは
アレスを残して
クピドの元へ行くことをせざりき
なれど
我は死すべき身の
市井の女なり
巨人の足音のごとき雷(いかづち)に抗い
雨を
更に
ダナエに振りたる黄金の雨を振り切りて
我は去なむとす
ああ
宴に赤き実の菓子ありき
あの実は
パリスの林檎なりしか
ゼウスの雨を迎へんとする
すべての女を助く
果実なりしか
ギリシャへの憧れを胸に
我は去なむとす
『幸福』
彼が怒った
町中でいなくなった
泣くこともできなかった
目覚めたら
腕枕をしてもらっていた
彼に尋ねた
「何も言っていないよ」
私は笑った
ベッドで抱きついた
離れることができなかった
『かくれんぼ』
けやき並木を見下ろせば
ぴくり
と震える手
スマートフォンの振動
悄然と帰路に着くであろう
去年の私
そこに佇んでいる
去年の私に
そっと
身を隠してみる
けれど
「お待たせ。どうぞ。」
シャワールームから聞こえた彼の声
私は
私自身に
見つけられてしまい
カーテンの陰から滑り出る
『恋がはためく』
ひらり
舞い落ちたひとひらの紙
白いコートの女性が
男性と組んでいない方の
肘にかけた鞄から
ひらり
旧岩崎邸庭園
と書かれた小さな紙
「落としましたよ」
「あっ、ありがとうございます」
恋の地から
持ち帰ってきた小さな旗
頬に寄せるかのように抱きしめ
鞄に仕舞う
新国立劇場「アイーダ」
六義園
世田谷文学館
箱や引き出しに佇み
無数に重なる恋の旗
そのうちの一枚を
読みかけの本のページにしのばせ
明日の朝
私は彼の元へと急ぐだろうか
彼を待つだろうか
数え切れないほどの
瞬間が宿る恋の栞
飛び去っていかないよう
そっと手で抑えて
小さくはためかせて
『呼応』
非運の女性が変身した薔薇
その薔薇に嵌め込まれた
自らの細胞に応えて
怪獣王は芦ノ湖に現れる
幸運な女性に
贈られそびれた薔薇
分身である恋人の想いに応えて
夜の校庭に薄紅色の灯りとなる
『既視感(デジャヴ)』
喧騒が止み
風のざわめきが鼓膜を揺さぶる
色とりどりのクリスマスツリーを求めて
行き交う人々の足取りは緩み
人波やビルのガラス窓を借りて
躍動していた光は
一瞬点描となり
足早に時を遡る
今はもう
古びてしまった建物や
消えてしまった建物
その間を
ほろ酔い加減で
連れ立って歩く
若者たちの一部だった
二十余年前の二人
こんな詩を書く日が訪れるとは
予想もしないまま
彼の隣で
今と変わらず
笑っていた
あの日を蘇らせ
風が
光が
天翔ってゆく
『風のゴンドラ』
駅前のカフェで恋人を待つ
テーブルが向こうに傾き
また
こちらに傾く
記憶と期待の中にある
ゴンドラの揺れ
波のルフラン
初雪を見た二日後の外気は
紅茶の熱を奪い
指先の感覚を奪う
奪われた紅茶の熱と共に
大気中に解き放たれる
日常
そんな日常が
いつもの私を残して
今朝の私を
風のゴンドラへといざなう
『「駅前のカフェで恋人を待つ」』
「ごめんねー、待った?」
私が到着した時
すでに
駅前のカフェにあるテラス席に座っていた彼
「もう少し待っていたかった」
後になって
メールで送られてきた詩に記された言葉
そんなにも素敵な時間なのであれば
私も試してみたい
恋人を待ちながら
古書のページをめくるように
ゆっくりと
コーヒーを味わうように
じっくりと
マニキュアを
待ち合わせの前夜に塗り終え
三十分ほど早く起きれば
きっとできるはず
ある朝
チャンスは訪れた
「駅前のカフェで恋人を待つ」
そんな書き出しで始まる詩を
彼が到着するまでの時間を使い
書き上げることができたのだ
しかし
推敲を重ねるうち
余計な部分が
彼の目についたらしい
「駅前のカフェで恋人を待つ」
の後に続けた
「そんないつもの時間を
首尾よく彼から盗み出した朝」
という部分が
「素敵な詩なので
作者に逢いに行こうと思ったけど
どうもイマイチなので
次の機会にします」
これでは
待ち時間に詩を書くこともできないではないか
余計だと彼の言った一節を
消そう
ついでに
いつもの時間を
彼に返そう
そして
家事で剥がれたマニキュアを
デート中気にしないですむよう
朝の時間を返してもらおう
綺麗な指で
彼と手を繋ぐために
待ち時間を使い
今度は彼に
素敵な詩を書いてもらうために
虹の翼 若菜紫 @violettarei
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